19世紀の世界統一の秩序は、イギリスにあった。これを「パックス・ブリタニカ」という。次の20世紀は文句なくアメリカの世紀「パックス・アメリカーナ」であった。さて、次の21世紀は日本の世紀「パックス・ジャポニカ」になるか否か。それは日本人の自覚と努力にかかっている。
先の英米の世紀は、軍事力という力で統御し、勝ちとった秩序であった。これから迎えるパックス・ジャポニカは、力ではなく文化、文明、規律(道義)でなしとげるものだ。
21世紀の日本が、力でなく道義や文明でパックス・ジャポニカを達成することができたら、これは人類史上の奇跡といわねばならない。これを早くも指摘したのは、アメリカのハーマン・カーンの『二十一世紀は日本の世紀』であった。
国内では、思想家・内村鑑三氏は「私は日本のために、日本は世界のために、すべては神のために」生きると宣言した。戦後著名な未来学者の坂本二郎氏は「己の心に日本を、日本の中に世界を見る」と叫んだ。この二人の先覚者とも、真の国際人になるための条件は、真に母国を愛する日本人になることが前提だと教えている。それは、日本を愛せる者のみが世界を愛せるからである。
東日本大震災のときに、世界の人々は日本の被災者が救援物質を貰うにもきちんと順番を守っている光景に驚かされた。他の国なら、暴動が起こっても不思議ではないところです。しかし、それだけではありません。自衛隊員や消防隊員のみならず、宅急便のドライバーや、スーパーの店員さんも、それぞれの人々がそれぞれの務めを立派に果たして復旧、復興を支えてくれたのです。
当時の産経新聞からの転載です。
〔見出し・・・家がこんな状態なのに行くのですか〕
宮城県の沿岸の都市、ある酒屋が大地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。片づけに忙しい店の若者。老いた母親が見守る。そこに制服の自衛官が来て、一枚の紙を示した。「招集令状」である。若者は元自衛官であり、万が一のときに召集に応ずる即応予備自衛官だったのです。
若者は令状を示す自衛官に直立して「了解しました」と招集に応じる意思を示した。横からテレビのレポーターが「家がこんな状態なのに行くのですか」と聞いた。
「そのために何年も訓練してきたんです。いま行かなければ、十年、二十年と後悔しますから」
そばにいた母が「人のためだから、行きなさい。うちのことは何とかするから」と声をかけた。
元自衛官で、万が一の際、自衛隊に復帰して現役並みの活動を期待されているのが、即応予備自衛官である。現在、約5600人いるなかで、今回の震災では、4月中旬時点で、1300人が招集されました。(転載終わり)
明治の教育勅語に、理想の国民像として「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」(もし、危急の事態が生じたら、義心と勇気を持って、公のために奉仕し)との一節があるが、まさにそれを絵に描いたような一場面であった。
東京電力福島第一原発の危機は沈静化したが、それも多くの人々の「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」のお陰である。
これも当時の様子を伝える新聞報道から、一例を紹介したい。
〔見出し・・・仲間のために自分は行く〕
東電の下請け業務を行う協力会社のベテラン社員、Nさん(47才)は震災発生当日、第一原電の事務所三階にいた。東電の要請に応え、同僚十数人とそのまま原発に残って、復旧作業に入った。
「原発の危険性があることは分かっていたが、復旧作業には原発で18年働いてきた俺たちのような者が役に立つ。そう覚悟を決めた」
第一原発では連日、東電社員と協力会社社員、合計で300~500人が残って、復旧作業に当たった。1日の食事は非常食2食、毛布にくるまっての雑魚寝という状態で作業を続ける。
3日後の14日午前11時1分、Nさんが2号機で電源復旧作業に当たっていた時に3号機が水素爆発を起こした。
驚いて外に出てみると3号機の原子炉建屋の屋根が吹き飛んで、灰色の煙が立ち上っていた。
Nさんは放射線から逃れるために、防護服のまま瓦礫の上を走り、乗ってきた車のところまでたどり着いた。しかし、車は爆風にやられて使えなかったため、そこからさらに、作業基地となっていた免振重要棟まで約1キロを走った。
Nさんは翌15日から東電の緊急退避命令により、しばらく避難生活を送ったが、また志願して、第一原発に戻ったという。
「同僚たちは今も原発で働いている。少ない人数で頑張っている、むろん、行かなくても誰も責めないだろうが、自分がよしとはできない。仲間のために自分は行く」と語った。(転載終わり)
行かなくては「自分がよしとはできない」とする心が「義」であり、危険を承知で現地に赴くのが「勇」である。
〔見出し・・・任務ですから〕
原発には、東京消防庁のハイパーレスキュー隊、自衛隊、警視庁なども放水活動のために駆けつけた。
大阪市消防局からは53人が、20日夜から90時間、東京消防庁の活動を支援した。参加した隊員たちには、本人の意思を確認した上で、職務命令が出された。指揮を執った片山雅義・警防担当課長代理は(46才)は、こう語っている。
「東京消防庁が孤軍奮闘、国民のために命がけで戦っているのを、同じ消防職員として見過ごすわけにはいかない思いだった」
「私の息子は24才だが、ほぼ同じ年齢の東京の隊員が体を震わせながら『任務ですから』とだけ言い残して出動していった」
原発から約20キロ地点の前進基地から、800メートル地点の指揮所までサイレンを鳴らし移動中、自分たちに向ってお年寄りら6人ほどの住民がおじぎをした。
片山さんは「腰を90度まで曲げて、深々とおじぎをされた。その姿を見て、これは絶対に何かお役に立って帰らねばと思った」と話した。(転載終わり)
仙台市ガス局では供給する7市町村で35万世帯の都市ガス供給がストップ。この危機に全国の都市ガス業者が立ち上がり、全国から3000人の都市ガス局員が集まったのです。
同僚が命がけで戦っているのを「見過ごすわけにはいかな」という「義勇」の心は、民間事業者も同じであった。
物流でも「義勇」の心は同じだった。宅配業者・ヤマト運輸は岩手、宮城、福島の125店舗を震災後10日で再開させた(阪神大震災では15~25日だったので、大幅に縮めている)。
ヤマト社員たちの心意気を示す逸話がある。ヤマト運輸のドライバーたちは、避難所間の供給物質の格差に気がついた。ある避難所にはたくさん救援物資が届いているのに、届いていない避難所があった。
日頃の配送作業で各担当エリアをよく知っているヤマトのドライバーたちは、救援物資が届いていない避難所に自発的に送り届けたのである。他の運送会社と共同で、救援物資の配送を行ったケースもあったという。
こうしたドライバーたちの自発的な動きを知ったヤマト運輸本社では、その活動を支援するため「救援物資輸送協力隊」を組織し、グループ挙げての活動に乗り出したのでした。
教育勅語は古いと、偏っていると、ただ単に切り捨ててはならない。その真髄が東日本大震災のときに日本を救ったのです。世界の人々が日本は素晴らしいと絶賛したのです。私たちの精神が、私たちのDNAが見事に露呈した瞬間だったのです。眠っていた精神が呼び戻された瞬間でもあったのだと思います。
「公に奉ずる」の「公」とは、「おおやけ」、すなわち「大きな家」という意味でもあります。国全体を一つの「大きな家」だと見なし、その家族一人ひとりがそれぞれの働きを通じて、「大きな家」を支えることが、「公に奉ずる」ということです。
ここで紹介した「即応予備自衛官」「原発作業員」「消防隊員」は言うに及ばず、ガス工事のおじさん、宅配便のドライバー、スーパーの店員さんたちも、一人ひとりがそれぞれの仕事を通じて立派な「奉公」をしていたのです。
そういう生き方を理想とするのが、日本の国柄であり、明治日本の急速な隆盛も、戦後の奇跡的な復興も、多くの国民がそれぞれの場で奉公に勤しんだ事が大きな原動力となっていたのです。
日本社会の最大の強みは、世界一の「一般人」がいるということなのです。日本には優れた一般人が大勢いて、いつだって一生懸命なのです。だから、世界から見て日本は健全な社会だと認められているのです。
震災時に活躍したそれぞれの人々の生き様に感ずるところがあったなら、あなたの心のなかにも、このDNAが脈々と受け継がれているのです。
大震災を契機に、国民一人ひとりのなかで、「義勇公に奉ず」の心が目覚めたとすれば、多くの犠牲者の御霊も慰められるのではないでしょうか。
---owari---