「結婚愛と家庭愛」は、みなさんにとって、極めて手近な愛ではあります。しかし、手近であるがゆえに、身近であるがゆえに、この愛が、なかなか成就しないという悩みを持っている人も多いのではないでしょうか。
そういうみなさんのために、あえて、いま、「結婚愛」「家庭愛」という、ごくありふれた愛のあり方を、根本から問い直してみたいと思うのです。
まず、結婚愛から話を始めましょう。
結婚愛――それは、男女がお互いに結びつけられるときに生ずる愛です。「恋愛感情から始まり、結婚式に至り、新婚生活を始める」、このときの愛が結婚愛と呼ばれるものです。
結婚愛は、その基礎に情熱を秘めています。未知なるものへの情熱、美しきものへの情熱、力強きものへの情熱、優しきものへの情熱、理想的と思えるものへの情熱――。すべて、その奥に、魂自身の激しい情熱があるかのように思えます。それは、大きな情熱なのです。
結婚式の、華やかで晴れがましい宴の席では、誰もが幸福そのものの笑顔を浮かべています。このときには、すべての人に祝福され、自分も自分自身を祝福し、また、選んだ相手をも祝福し、仏神に喜びを伝えるだけの、心の余裕があります。
それは、実際、素晴らしいものです。人間がこの世で送る数十年の人生のなかでも、最も晴れやかで、最も素晴らしく、誰が見ても文句のつけようのない出来事だと思います。
しかし、結婚愛の背後には大きな問題が控えています。仏神に祝福された聖なるものではあっても、その奥に、極めて人間的な利害が表れてくるのも、この結婚愛です。相手の、この世的な条件、身内の意見など、さまざまな利害得失を考慮し、その結果、結婚へと辿りついていく過程において、それなりの精神的な煩悶を経ていくものです。
それは、ちょうど、人生に一度の大きな契約を結ぶときにも似ています。契約に漕ぎつけるまでは、大変な心労を伴うものです。しかし、いったん契約を結ぶや否や、有頂天となり、手放しで喜び、「最高に素晴らしい相手だ」と祝福し合うのが常です。
そのように、「理性が情熱によって打ち負かされる過程、知性に基づく利害計算が、聖なるエネルギー、真実なるエネルギーによって打ち砕かれ、乗り越えられる過程が、結婚愛が成長していく過程である」と言ってもよいでしょう。
このときに、心に何の疑いも迷いもなく相手と結婚できる人は、まれです。たいていの人は、右にするか、左にするか、さまざまな可能性を考え、ある一線を超えたときに心を決めるということになります。
ここで、私は特に言っておきたいことがあります。それは、「結婚の際にいちばん大切なことは、過去がどうであったかではない」ということです。
「過去、相手がどのように生きてきたか、また、過去、自分がどのように生きてきたか」ということは、相手や自分がどういう人間であるかを示す履歴書にはなるでしょうし、「その人の過去は、その人そのものである」と思えるかもしれません。
しかし、私は言っておきたいのです。「結婚とは、相手の過去と結ばれる行為ではない。過去の相手と結婚するのではない。結婚の相手は、現在から未来に向かって生きていく人間であり、結婚愛における情熱は、未来への情熱である」ということを、決して忘れてはなりません。
自分も百パーセントの人間ではないように、相手も百パーセントの人間ではありません。常に百パーセントを求めれば、相手から得ることも、みずから与えることもできないでしょう。
過去を振り返ったとき、人間には百パーセントということはありません。しかし、未来にかける情熱においては、百パーセントということがありうるのです。
自分一人ならば、不完全な人生を生きるかもしれませんが、その自分が、結婚相手と巡り合うことによって、互いに力を合わせ、欠点を補い合い、長所を伸ばし合って、素晴らしい社会人として世に尽くしていくことは、可能なはずです。いや、可能でなければならないのです。
ゆえに、これから結婚する人にも、すでに結婚している人にも、少し考えていただきたいことがあります。
それは、「相手の過去と結婚する(した)のではなく、相手の未来と結婚する(した)のである。その未来は、仏以外の何ものも知ることはできないのであり、それをかたちづくっていくのは自分と相手の二人である」ということです。
たとえ両親が何と評価を下そうとも、たとえ世間がどのように言おうとも、いったん二人で門出したならば、二人の未来をかたちづくる行為の責任は二人にあります。そして、その責任は、同時に、自由を創造していく喜びでもあるのです。
---owari---
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