人から人へと心をつなぐ和菓子を500年作り続けてきた虎屋が見た日本の歴史。
(「歴史が違うわ、虎屋さん」)
創業500年の老舗和菓子屋「虎屋」の赤坂本店が建て替え(2018年10月1日にリニューアルオープン)のため一時休業することを告知した17代・黒川光博社長のメッセージに、ネット上で賛嘆の声があがっている。こんな一節がある。
(「歴史が違うわ、虎屋さん」)
創業500年の老舗和菓子屋「虎屋」の赤坂本店が建て替え(2018年10月1日にリニューアルオープン)のため一時休業することを告知した17代・黒川光博社長のメッセージに、ネット上で賛嘆の声があがっている。こんな一節がある。
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3日と空けずにご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、お母さまがこっそり隠れて見守っていらっしゃったということもありました。
車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。入院生活に入られてからはご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。
このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。
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「深みのある文章。これぞブランド」「歴史が違うわ、虎屋さん」などという声がネット上で渦巻いている。
虎屋の『掟書(おきてがき)』は、天正年間(1593~92)にまとめられたものを、文化2年(1805)年に9代目光利が書き改めたものだが、そこには「御用のお客様でも、町方のお客様でも丁寧に接すること」なる一節がある。
御用、すなわち宮中に代々、和菓子を納めていたことが、虎屋の誇りであったが、それに奢(おご)らず「町方」の普通のお客様も大事にせよ、というのである。これを今も忠実に実践しているからこそ、このような味わい深いメッセージが書けるのだろう。
3日と空けずにご来店くださり、きまってお汁粉を召し上がる男性のお客様。毎朝お母さまとご一緒に小形羊羹を1つお買い求めくださっていた、当時幼稚園生でいらしたお客様。ある時おひとりでお見えになったので、心配になった店員が外へ出てみると、お母さまがこっそり隠れて見守っていらっしゃったということもありました。
車椅子でご来店くださっていた、100歳になられる女性のお客様。入院生活に入られてからはご家族が生菓子や干菓子をお買い求めくださいました。お食事ができなくなられてからも、弊社の干菓子をくずしながらお召し上がりになったと伺っています。
このようにお客様とともに過ごさせて頂いた時間をここに書き尽くすことは到底できませんが、おひとりおひとりのお姿は、強く私たちの心に焼き付いています。
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「深みのある文章。これぞブランド」「歴史が違うわ、虎屋さん」などという声がネット上で渦巻いている。
虎屋の『掟書(おきてがき)』は、天正年間(1593~92)にまとめられたものを、文化2年(1805)年に9代目光利が書き改めたものだが、そこには「御用のお客様でも、町方のお客様でも丁寧に接すること」なる一節がある。
御用、すなわち宮中に代々、和菓子を納めていたことが、虎屋の誇りであったが、それに奢(おご)らず「町方」の普通のお客様も大事にせよ、というのである。これを今も忠実に実践しているからこそ、このような味わい深いメッセージが書けるのだろう。
(父娘で楽しまれた和菓子)
虎屋の「お客様とともに過ごさせて頂いた時間」は500年にも渡る。最古の販売記録の一つとして残っているのが、寛永12(1635)年9月、女帝・明正天皇が父君・後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)の御所に行幸(ぎょうこう)された時に、虎屋が納めたものである。
徳川幕府の草創期で、幕府は「禁中(きんちゅう)並(ならびに)公家諸法度(くげしょはっと)」を定めるなど、朝廷への介入を強めていた。後水尾天皇はこれに反発して、寛永6(1629)年、幕府に諮(はか)ることなく、突然、第二皇女(明正天皇)に譲位して、以後、半世紀、天皇4代にわたって院政を敷かれた。
一方、当時は文芸復興の気運に満ちた時代で、朝廷や公家ばかりでなく、武家や町人まで含めて、清新な寛永文化が生まれた。後水尾上皇は和歌、連歌、茶道、華道にも長じ、文化サロンの中心的人物であった。さらに朝廷で廃絶していた年中行事の復興にも努めた。
行幸は5日間に及び、多くの公家がお供をし、天皇と上皇は舞楽や猿楽をたっぷり楽しまれたという。
その際に、虎屋から多種大量の和菓子が取り寄せられた。大饅頭(まんじゅう)(2500個)、薄皮饅頭(1475個)、羊羹(ようかん、538棹、さお)等々、20種以上もの商品が並ぶ。なかには、かすていら(66斤)などポルトガルから伝わった南蛮菓子もある。現在の貨幣価値では250万円ほどの代金となるそうだ。
天皇と上皇は楽曲の合間に様々な和菓子、南蛮菓子を楽しまれたのだろう。数からして随伴した多くの公家や演者にも振る舞われたに違いない。上皇は幕府との対立の心労を、愛娘との水入らずの一時で癒やされたのではないか。人びとの華やかな、楽しげな様が思い浮かぶ。
(名君の息抜き)
第8代将軍、徳川吉宗は享保の改革で、破綻しかけていた幕府の財政を立て直した名君で、自身も1日2食、一汁三菜の質素な生活をしていたが、実は甘い物が大の好物だったという。
虎屋の台帳によると、寛保2(1742)年2月8日に「水の葉」「吉野川」など様々な干菓子3重の桐箱に入れられて江戸に進上された。朝廷からの贈答であろう。また、洲浜(すはま、大豆の粉を飴で練り固めた菓子)20棹(さお)が毎年、吉宗に贈られていたという。
名君の誉れ高く、自らの生活も謹厳に節制していた吉宗が、京の名菓に舌鼓(したつづみ)を打って、一時の息抜きをしている様を想像すると微笑ましい。
(和宮が病床の夫に贈った和菓子)
江戸の世も幕末になると急に慌ただしくなる。第14代将軍・徳川家茂(いえもち)は孝明天皇の妹・和宮との婚姻により、朝廷の権威を借りて、幕府の権力を回復しようとする。
文久3(1863)年3月、家茂は孝明天皇と対面するため京都に入った。将軍の上洛(じょうらく)は3代家光以来229年ぶりのことだった。家茂が二条城に入ってすぐ、虎屋12代店主・黒川光正は賄(まかな)い方から呼び出されて、大枚の前払いを受け、将軍在京中の御用を命じられた。
3日後に参内した家茂には宮中から「長月」(市松模様入りの羊羹)、「遅桜」(紅白の桜模様の羊羹)等々、5種類の菓子が贈られた。家茂も、扇面形の三重の箱に「夜の梅」(小倉羊羹)、「新八重錦」(紅葉模様の羊羹)など何種類もの和菓子を入れて宮中に献上した。朝廷と幕府の外交は、互いに虎屋の和菓子を競うように贈り合うことから始まったのである。
慶應2(1866)年、第2次幕府・長州戦争中に、家茂は大阪城で病に臥(ふ)せっていた。江戸の和宮からは見舞いとして「吉野山落雁」「カステラ」などが、また先代の御台所・天璋院(てんしょういん)からも練羊羹(ねりようかん)が届けられた。
翌日、天璋院からの煉羊羹は家臣に下げ渡した、と記録にあるが、和宮からの和菓子については何の記述もない。家茂と和宮は仲睦まじかった。その妻の愛情を受けとめながら、和菓子を食べたのではないか。しかし和宮の思いも虚(むな)しく、21歳の家茂はそのまま大阪城で病没する。
(天皇と民衆をつないだ菊の御紋の饅頭)
明治の世となって、明治天皇は遷都の下準備として、明治元(1868)年9月20日に京都を出発され、東京に行幸された。これに12代黒川光正の庶兄・黒川光保(みつやす)も同行して、各地の菓子屋と共同で、天皇が召し上がったり、民衆に配られる和菓子を作った。
たとえば9月27日、天皇は熱田神宮を参拝後、稲の収穫をご覧になり、刈り取りをした農民一同に和菓子を配ってねぎらわれた。この時は熱田(名古屋市)の和菓子屋「つくは祢(ね)屋」が黒川光保の立ち会いのもと、製造にあたった。下賜(かし)用の和菓子は菊の御紋の焼き印が押された直径三寸(約9センチ)の饅頭で、合計3千個も作られたという。
菊の御紋の入った饅頭をいただいた農民たちは、皇室の民への愛情を感じただろう。
明治政府は欧風化政策を進め、明治天皇も公式の行事では洋服や軍服を召されるなど、欧米の生活スタイルをとられていたが、これはあくまでも表向きであって、奥での日常生活では畳の部屋で和服を着用され、食事も和食を好まれたという。
甘い物もお好きで、菓子は皇居内の大膳職(だいぜんしき)が作る以外に、赤坂に進出した虎屋にもご用命があった。時々、女官を通じて、新しいお菓子を作るようご内命があり、お気に入りのお菓子には「月影」「三河の沢」など陛下自らが命名された。
虎屋の製造所では13歳の頃から50年間も務めてきた職工が製造し、主人みずからが監督したという。
虎屋の「お客様とともに過ごさせて頂いた時間」は500年にも渡る。最古の販売記録の一つとして残っているのが、寛永12(1635)年9月、女帝・明正天皇が父君・後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)の御所に行幸(ぎょうこう)された時に、虎屋が納めたものである。
徳川幕府の草創期で、幕府は「禁中(きんちゅう)並(ならびに)公家諸法度(くげしょはっと)」を定めるなど、朝廷への介入を強めていた。後水尾天皇はこれに反発して、寛永6(1629)年、幕府に諮(はか)ることなく、突然、第二皇女(明正天皇)に譲位して、以後、半世紀、天皇4代にわたって院政を敷かれた。
一方、当時は文芸復興の気運に満ちた時代で、朝廷や公家ばかりでなく、武家や町人まで含めて、清新な寛永文化が生まれた。後水尾上皇は和歌、連歌、茶道、華道にも長じ、文化サロンの中心的人物であった。さらに朝廷で廃絶していた年中行事の復興にも努めた。
行幸は5日間に及び、多くの公家がお供をし、天皇と上皇は舞楽や猿楽をたっぷり楽しまれたという。
その際に、虎屋から多種大量の和菓子が取り寄せられた。大饅頭(まんじゅう)(2500個)、薄皮饅頭(1475個)、羊羹(ようかん、538棹、さお)等々、20種以上もの商品が並ぶ。なかには、かすていら(66斤)などポルトガルから伝わった南蛮菓子もある。現在の貨幣価値では250万円ほどの代金となるそうだ。
天皇と上皇は楽曲の合間に様々な和菓子、南蛮菓子を楽しまれたのだろう。数からして随伴した多くの公家や演者にも振る舞われたに違いない。上皇は幕府との対立の心労を、愛娘との水入らずの一時で癒やされたのではないか。人びとの華やかな、楽しげな様が思い浮かぶ。
(名君の息抜き)
第8代将軍、徳川吉宗は享保の改革で、破綻しかけていた幕府の財政を立て直した名君で、自身も1日2食、一汁三菜の質素な生活をしていたが、実は甘い物が大の好物だったという。
虎屋の台帳によると、寛保2(1742)年2月8日に「水の葉」「吉野川」など様々な干菓子3重の桐箱に入れられて江戸に進上された。朝廷からの贈答であろう。また、洲浜(すはま、大豆の粉を飴で練り固めた菓子)20棹(さお)が毎年、吉宗に贈られていたという。
名君の誉れ高く、自らの生活も謹厳に節制していた吉宗が、京の名菓に舌鼓(したつづみ)を打って、一時の息抜きをしている様を想像すると微笑ましい。
(和宮が病床の夫に贈った和菓子)
江戸の世も幕末になると急に慌ただしくなる。第14代将軍・徳川家茂(いえもち)は孝明天皇の妹・和宮との婚姻により、朝廷の権威を借りて、幕府の権力を回復しようとする。
文久3(1863)年3月、家茂は孝明天皇と対面するため京都に入った。将軍の上洛(じょうらく)は3代家光以来229年ぶりのことだった。家茂が二条城に入ってすぐ、虎屋12代店主・黒川光正は賄(まかな)い方から呼び出されて、大枚の前払いを受け、将軍在京中の御用を命じられた。
3日後に参内した家茂には宮中から「長月」(市松模様入りの羊羹)、「遅桜」(紅白の桜模様の羊羹)等々、5種類の菓子が贈られた。家茂も、扇面形の三重の箱に「夜の梅」(小倉羊羹)、「新八重錦」(紅葉模様の羊羹)など何種類もの和菓子を入れて宮中に献上した。朝廷と幕府の外交は、互いに虎屋の和菓子を競うように贈り合うことから始まったのである。
慶應2(1866)年、第2次幕府・長州戦争中に、家茂は大阪城で病に臥(ふ)せっていた。江戸の和宮からは見舞いとして「吉野山落雁」「カステラ」などが、また先代の御台所・天璋院(てんしょういん)からも練羊羹(ねりようかん)が届けられた。
翌日、天璋院からの煉羊羹は家臣に下げ渡した、と記録にあるが、和宮からの和菓子については何の記述もない。家茂と和宮は仲睦まじかった。その妻の愛情を受けとめながら、和菓子を食べたのではないか。しかし和宮の思いも虚(むな)しく、21歳の家茂はそのまま大阪城で病没する。
(天皇と民衆をつないだ菊の御紋の饅頭)
明治の世となって、明治天皇は遷都の下準備として、明治元(1868)年9月20日に京都を出発され、東京に行幸された。これに12代黒川光正の庶兄・黒川光保(みつやす)も同行して、各地の菓子屋と共同で、天皇が召し上がったり、民衆に配られる和菓子を作った。
たとえば9月27日、天皇は熱田神宮を参拝後、稲の収穫をご覧になり、刈り取りをした農民一同に和菓子を配ってねぎらわれた。この時は熱田(名古屋市)の和菓子屋「つくは祢(ね)屋」が黒川光保の立ち会いのもと、製造にあたった。下賜(かし)用の和菓子は菊の御紋の焼き印が押された直径三寸(約9センチ)の饅頭で、合計3千個も作られたという。
菊の御紋の入った饅頭をいただいた農民たちは、皇室の民への愛情を感じただろう。
明治政府は欧風化政策を進め、明治天皇も公式の行事では洋服や軍服を召されるなど、欧米の生活スタイルをとられていたが、これはあくまでも表向きであって、奥での日常生活では畳の部屋で和服を着用され、食事も和食を好まれたという。
甘い物もお好きで、菓子は皇居内の大膳職(だいぜんしき)が作る以外に、赤坂に進出した虎屋にもご用命があった。時々、女官を通じて、新しいお菓子を作るようご内命があり、お気に入りのお菓子には「月影」「三河の沢」など陛下自らが命名された。
虎屋の製造所では13歳の頃から50年間も務めてきた職工が製造し、主人みずからが監督したという。
---owari---
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