⑰今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
――――――――――――――――――――――――
しかし、なぜこういう変質を、徳川家康が強力に求めたのかといえば、家康のそれまでの歴史へのかかわり方に最も大きな原因がある。それは、信長が担当した破壊作業、秀吉が担当した建設作業、のいずれにも、徳川家康はその最初からかなり深くかかわりあってきたからである。家康の人生観は、幼少の頃から他家の人質になっていたことにもよるのだろうが、
「人の人生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
という有名なことばに言い尽くされている。
この考え方は、実をいえば、徳川時代に生きたすべての日本人の生き方の根本にあったといっていい。徳川幕府が次々とつくり出した諸制度は、徳川家康の、この人生訓をそのまま実現したものだといっても過言ではあるまい。
信長に協力し、秀吉の事業を支持してきた家康は、当然、自分の部下も、これらの事業に参加させた。したがって、家康の臣下は、初めは信長の破壊作業に、そしてその後は秀吉の建設作業にそれぞれ協力した。ということは、トップとしての家康はもちろん、家康の部下も、破壊期には破壊型のビジネスマンであり、また建設期には建設型のビジネスマンであったのである。そういうやり方をそれぞれの事業が求めたからである。
俗謡(ぞくよう:民謡、流行歌、俗曲などといった通俗的な歌の総称)では、
「織田がつき、豊臣がこねし天下餅 骨も折らずに食らう徳川」
などといわれているが、家康はけっして前二者のやることを傍観しつつ、棚から落ちてくるボタ餅を食ったのではないことは明らかな事実である。
当初から信長に協力して杵をふるい、また秀吉とともに餅をこねている。この辺は、経営者としての家康をみるときに、けっして見落としてはならない点である。ただ、時世の流れを見て、「おれの出番だ」との見極めがつくまでじっと我慢していただけで、水面下では家鴨(あひる)のように激しく水をかいていたのである。
しかし、その出番がきて、両雄が実現した体制変革を定着させ、長期に維持管理していかはならぬという段になると、家康がいままで保ってきた組織部下の意識では、とうていその目的は達成できない。
家康は、もともと平和志向者である。秀吉の朝鮮侵略戦争には初めから反対だったし、家康自身出兵しなかった。
「新しくいただいた関東地方が、よく治まっておりませんので、そちらの方に専念させてくさい」
と、巧妙に戦争参加からすり抜けてしまった。そして、秀吉が死んだ後の朝鮮からの日本軍引きあげには、先頭に立ってこれを行っている。
それは、家康が何よりも当時の空気に敏感だったということを示している。時代の空気に敏感だったというのは、信長や秀吉のところで書いた、戦国民衆のニーズの最大のものが、「平和日本の実現」にあったとみていたからである。
二百六十余年間も、その実態がどうあれ、完全な平和国家を維持し得たということは、世界にもその例がない。しかし、それだけに、この、「日本の平和経営」には、特別の工夫がされなければならなかった。家康は、その工夫をどのようにしたのだろうか。
大久保彦左衛門が『三河物語』を書いたのは、寛永年間(1624~44)のことである。この時代になって、いわゆる「徳川幕藩体制」は、ほぼ整った。しかし、それは、ひとことでいえば、
「日本中を檻(おり)にし、日本人をその檻の中に押し込める」
という制度であった。すなわち、支配者が日本の国を一望のもとに眺(なが)められるようにすることであり、しかも眺めやすいように、こと細かくいろいろな制約を加えることであった。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます