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名前が教えてくれること

2023年05月12日 | 日本
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親が子供に唯一残せるのは名前だけ、と言われます。自分の子供が生まれることがわかると、そこからずっとどういう名前をつけようかという悩みが始まります。男の子だったらこうしよう、女の子だったらこうしよう、私もそうでした。やはり、生きている間その名前で呼ばれ続けるわけですから、考えに考えぬくのは当たり前です。

しかし、一つの名前が生涯使われるようになったのも最近のことであるなら、生きている間の名前は、時代によってその付けられ方も大きく変化しています。現在は、氏と名の組み合わせですが、例えば、日本で一番愛される武将である織田信長は、織田弾正忠平朝臣信長(おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが)が正式な名称です。信長が生きている当時、現在のように「織田信長」と呼ばれることは皆無に近かったのです。

織田弾正忠平朝臣信長のうち、織田は家の名前、弾正忠が通称であり律令で規定されている官職名です。平朝臣が氏名であり、信長が実名になります。現在でも、鈴木部長と呼んだりすることが一般的なように、当時も織田弾正忠という呼ばれ方が一般的であったようです。

「信長を倒せ」などと檄を飛ばす大名は存在しなかったのです。非常に誤った歴史認識の上にドラマが作られているものですから、教科書まで織田信長などと記載するようになってしまっています。例えば、江戸時代の忠臣蔵は有名ですが、私達が知っている名前は大石内蔵助(おおいしくらのすけ)であって、大石良雄(おおいしよしたか)ではありません。内蔵助が通称で、良雄が実名です。大石良雄の名前を知っている人は、割と少ないのではないでしょうか。

それが時代とともに変わり、現在では、家名を氏と呼ぶようになり、通常の呼ばれ方であった「部長」や「弾正忠」の仮名を字(あざな)と言い、氏であったものが姓(せい)であって、実名が諱(いみな)となりました。

私達は、彼は物部氏だから、藤原氏だからという言い方をよくしますが、そういう言い方で呼ぶとするなら、織田信長は平氏なのです。ここで驚かれる人が多い場合は、この話を続けても良いのですが、そんなことは常識だというお叱りも受けそうですので、この探求レポートでは別の点に着目したいと思います。

今、説明してきた内容は生前の名前です。これに対して、私達は死後の名前というのを持つのが普通です。「戒名(かいみょう)」と言われるものです。戒(いまし)めの名前ということですから、恐ろしい名前のように感じるのですが、戒名の「戒」は「戒律」の「戒」なのです。戒律とは、仏教で信者が守るべき内容です。従って、戒名とは、本来人々が仏教の信者となり戒律を授かった時にもらうべき名前なのです。

もう少し掘り起こすなら、戒律の戒と律はどちらも守るべき決まり事なのですが、戒の方は自分で定める誓いであって本来は人が決めるものではないのです。逆に律の方は、一般的に守らなければならないルールのことを言います。

しかし、時代とともに出家をしているわけではない私達、在家信者は、一般的に五つの戒を守ることが求められるように変わってきました。自分で戒を掲げるのは難しいですから、お手本が戒に取って代わったのです。

お手本の戒とは、どのようなものであったか今一度復習したいと思います。もちろん、皆さん、知っている内容なのです。なぜなら、これが日本の道徳の基本だからです。

まずは、生き物を故意に殺さないという不殺生戒。お坊さんは、よく「殺生はいけません。」と説いておられます。私の通った小学校の校長は、家がお寺のお坊さんでしたが手に蚊が止まった時、叩いて殺すのではなく吹いてそれを払ったのを強く覚えています。子供心に、仏の道に入るということは、そういうことなんだなあと感じたのを覚えています。

そして、二つ目が他人のものを故意に盗んではいけないという不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。三つ目は、最近マスコミを賑わす不倫を禁じた、不道徳な性行為を行ってはいけないという不邪婬戒(ふじゃいんかい)。四つ目が嘘をついてはいけないという不妄語戒(ふもうごかい)、最後に、酒などを飲んではいけないという不飲酒戒(ふおんじゅかい)というのが守るべき五戒です。

ただ、そうなるとほとんどの人がこの五戒を守っていないのかもしれません。最後の不飲酒戒に至っては、僧侶さへも守っていないのではないかと思われるかもしれません。実際、寺ではお酒のことを般若湯と呼んで飲んでいます。酒ではなく般若湯であるから許されるのだということかもしれません。五戒とは決して犯してはならない掟であるのではなく、普段は慎みを持って五戒で自分を律しなさいという程度のものなのだということかと理解します。

民俗学の調査レポートを見ると、昔の人々の里の生活の中では、祭りの日だけはこの五戒から解き放たれるという考え方も多くの地域で存在していたようです。祭りの日だけは動物の肉を食べることも、酒を飲むことも許されたのです。

地域差はあったようですが、皆がどこかの寺の檀家でなければならなかったわけですから、五戒は人々の道徳として教え伝えられ、それを守っていたわけです。つまり、全ての人が、戒名をもらうことのできる存在であったのですが、生前に戒名をもらうことはできなかったのです。

同じような考え方に基づいて、実践されているのがキリスト教です。キリスト教のカトリックでは、入信し洗礼を受けた時クリスチャンネームを授かります。井上ひさしさんは、確かマリア・ヨゼフという名前をもらっておられました。ただし、同じキリスト教でもプロテスタントでは洗礼名をもらわないことが普通のようです。

カトリックのように洗礼を受けた時、洗礼名としてもらうというのならわかりやすいのですが、日本の場合、仏教信者になったからといって戒名をもらえるわけではないのです。戒名は死して後に使われる名前として定着しています。生前はすでに付けられた名前があり、それで呼ばれている以上、追加で名前をつける必要はないということなのかもしれません。これに対して、死して仏様になるのであれば、その時こそ仏の世界で通じる名前が必要だという考え方なのかもしれません。

現在、戒名料は30万円から100万円というのが相場なのだそうです。とんでもない話です。だったら自分で付けたいぐらいです。戒名料とは言わないそうで、あくまでお布施であるということのようです。名前をもらうための費用ではないのだそうです。

考えてみれば、生前の名前は、まだその人がどのような人生を送るかどうかも決まっていないうちに勝手に付けられる名前ですから、現実離れしたものになることも多々あります。「名前負け」などと言って、揶揄されたりします。

それに対して、戒名は生前に何をやってきたかということに基づいて名前をつけるわけですから、戒名の方がその人がどのような人であったのかを想像しやすいことは確かです。

忠臣蔵の大石内蔵助は忠誠院刃空浄剣居士、文豪の夏目漱石は文献院古道漱石居士、総理大臣であった田中角栄氏は政覚院殿越山徳栄大居士です。生前にどのような活躍されたかがわかる文字が象徴的に使われて名前が付けられています。生前に世相を強く風刺して亡くなった立川談志さんは、生前に自分で決めた戒名を持っておられました。立川雲黒斎家元勝手居士、死んでも風刺を忘れないその姿は流石だと感服します。

古代の天皇は、生前の事績評価に基づく名前として戒名ではなく諡(おくりな)が付けられました。この諡(おくりな)には2種類あり、一つが原則漢字二文字で表される漢風諡号(かんふうしごう)、そしてもう一つが、長い名前の和風諡号です。どちらも、生前にどのような実績をあげ、どのように見られていたかがよく反映された名前となっています。それだけに、名前に引きづられて実態を見誤ることがありますから、気をつけなければなりません。

我々がよく知り、通常それぞれの天皇を示すのに使っているのが漢風諡号(かんふうしごう)です。初代の「神武」に始まるこの名前は、天平宝字六年(762年)に淡海三船により神武天皇から元明天皇までが一括撰進されました。

まとめられた日本書紀を読み、漢字二文字でその天皇を示したのだと考えられます。日本書紀が完成したのは、720年のことですので、淡海三船自体が編者の一人であるということはあり得ないのですが、あるべきとされた歴史の姿への想いは、まだまだ正確に語り継がれ、資料も多く残っていた時期であると思います。

「神」という文字を三人の天皇に入れたのは、やはり時代を創出したという暗示であったのでしょうし、仲哀という感情を入れた名前をつけたのにも、仁徳という最高の名前をつけたのにも、継体というただただ機能を示した名前をつけたのにも、そして「天」の文字を使った2人の天皇にも、淡海三船が知り得た裏の意味が込められているのだと思います。惑わされることなく、彼がそう名付けた理由を正確に紐解くことこそが求められているのです。

和風諡号の方は、持統天皇に始まるものだとされています。先の天皇が崩御された殯(もがり)の行事として定着しました。先の天皇の生前の姿を織り込み、死後の世界に送る名前とするとともに、死後の名前を送ることにより現世においては次の天皇の継承を宣言するという意味を持ったものです。続日本紀によると大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)とい名が贈られました。名前の中に、倭国の根源を作った女性であることが示されているのです。

持統天皇が最初であるとするなら、日本書紀に書かれている他の天皇の諡号は、何であったのかということになります。例えば、初代の神武天皇は「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)とされています。「日本」の言葉が使われたのは、天武天皇以降のことですから、この名前が作られたのも、日本書紀編纂用であったでしょうし、その時のことだと思います。(古事記には、神倭伊波礼毘古命で倭の字が使われヤマトと読ませています。)

本当に語り継がれた名前は、たぶん磐余彦、つまり磐余の地の男という意味であったのだと思います。彼が本当に九州から東征してきたのだろうかと、首を傾げたくなる名前です。大和に来てからは磐余の地に住んでいたということかもしれません。

雄略天皇は、大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)で、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘から獲加多支鹵(ワカタケル)と呼ばれたことがわかっています。このことから、大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)とは、大泊瀬にいたワカタケルであったことがわかりますから、和風諡号と言われていますが、これは実名、すなわち諱(いみな)であったことがわかります。

同様に諱ではないかと言われているのが、応神天皇の誉田別(ほむたわけ)から、継体天皇の男大迹王(をほどのおおきみ)までの天皇です。大王の名前が記されて残されていたということかと思います。

次の安閑天皇は、広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)となり、とてもそのように呼ばれていたとは思えませんので、後追いで創作された名前だと思います。次の宣化天皇は安閑天皇と同じような名前がつけられており実在さへも疑われていますが、その次の欽明天皇になると天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)となります。きっと庭の広い屋敷に住んでいたことを伺わせる名前が付いています。

推古天皇になると諡(おくりな)は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)であり、諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と記録されています。諡は後追いで創作されたものかもしれませんが、同時代の聖徳太子が厩戸(うまやど)であったことから、推古天皇は実際に炊屋(かしきや)と呼ばれていたのかもしれないとも考えるのです。聖徳太子は厩で生まれたという説もありますが、厩も炊屋も、彼らの遊び場だったのかもしれません。

同時に、伊勢神宮の内宮に祀られているのは天照大御神であり、外宮に祀られているのは豊受大御神で、天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)だとされています。私は推古天皇の名のような気がしてしょうがないのです。

このように、諱(いみな)が教えてくれるのは非常に限られたことであり、育った場所程度のものしかわからないのですが、諡(おくりな)には非常に多くのヒントが盛り込まれているように思うのです。その点は私達の戒名と非常によく似ています。死して残す名前は、実際は本人は一度も聞くことのないもので、後世の人達だけのためのものになります。そう考えると、良い名前をもらうことはかなり重要なことなのかもしれません。

それをお金で買うというのもいただけませんが、生きた証は証として置いておきたいとも思うのです。考えてみれば、死後の名前は、子供が親に残せるたった一つのことなのかもしれないのです。

---owari---
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