夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

舟木一夫の『高校三年生』の歌が、街に流れていた頃の私の想いで・・。

2009-11-25 23:29:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、NHKテレビのニュースで、
『高校三年生』、『高原列車は行く』として名高い作詞家の丘灯至夫(おか・としお)氏が亡くなわれたことを知った。

今朝、いつものように読売新聞の『編集手帳』を読み、
良き時代の毎日新聞に勤められながら、心に残る名曲の数々を作詞された人にご冥福を祈ったりした。

この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。


新聞記者はときに、押しが強くないとやっていけない。
取材で気後れしないよう、無理してデカイ顔をする時もある。
押しと顔(オシトカオ)を逆さまにして丘灯至夫(オカトシオ)、筆名の由来という。

作詞家の丘さん、本名・西山安吉さんが毎日新聞に入ったのは戦時下、
世相が暗く険しいころである。

その人が戦後に書いた詞は「高校三年生」「高原列車は行く」「東京のバスガール」…どの歌も弾むように明るい。

無粋な「押しと顔」を、丘に立つ洋館の窓に灯がともるような美しい筆名に変えた人は、
暗い記憶から光まばゆい風景を紡ぐ手品師でもあったろう。
丘さんが92歳で死去した。

「高校三年生」は二番の歌詞

 ♪ぼくら/フォークダンスの手をとれば
  甘く匂(におうよ黒髪が

のくだりが最初に浮かんだという。

ある高校の学園祭で目にしたフォークダンスに、
男女が手をつなぐことなど夢にもあり得なかった自分の青春を顧みてショックを受け、歌になったとか。

戦後の昭和にキラキラと、光の粉をまいた人である。
訃報(ふほう)が流れたきのう、懐かしいメロディーに乗せ、何人があの詞を口ずさんだだろう。

(2009年11月25日01時09分 読売新聞)

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20091124-OYT1T01445.htm


この記事を2度ばかり読んだ後、ぼんやりとあの頃の私を思いだしたりしたのである。

1963(昭和38)年の3月、私は都内にある私立高校を卒業し、
二流の私立大学に4月から入学となった。

この間の春休みの時、友人の親戚の高校3年となる女の子と交遊していたが、
内面は大学受験校のことで、わだかまりと後悔を心の片隅にあった。

この前年の進学相談の時、
この当時の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の個人面接で話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。

結果として、浪人して大学進学の勉学の生活に自信なく、
安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、1963(昭和38)年4月であった。
入学してまもなく私はクラブとして、体育系のワンダー・フォーゲル部に入部し、
先輩の指導の下で、毎月のように群馬、山梨、長野県の山歩きをしたりした。
もとより山小屋に宿泊することなく、原則としてテントを張り、眠り、
ある時は駅の待合室のはずれで仮眠をしたりした。

そして夏季合宿は、本州としては縦長で一番長いとされる
名古屋港から能登半島の千里浜まで縦断する企画が立案され、
北方面は白山のふもとから千里浜まで北上し、
一方は名古屋港から北の白山のふもとまで、お互いに徒歩で歩き切ることとなった。
私たちのグループは名古屋港から歩きはじめ、
四年、三年生は五名、二年生と私達の一年生は11名の男性ばかりのパーティとなり、
12泊13日で出来る限る直線をたどり歩いたのである。

この間は、国道もあれば、村道もあり、里山の路もあり、
そして峠道は明治の頃は道であった処は藪が背丈ほどの中を、
トップの方が鉈(ナタ)で切り開く急勾配の通ったりしたのである。
この間、川沿い川原で一日休暇をし、洗濯をしたりし、
のんびり川の流れに身をまかせ身体を洗ったりしたのである。

その後、白山のふもとに到着した後は、公共の交通機関で千里浜に行き、
北グループと合流した後、交流のあった石川県の各大学同じクラブの方たちの歓迎を受けて、
盛大なキャンプ・ファイヤーの一夜を過ごしたのである。

この後、解散となったので、私はザックを背負いながら、登山靴、短パン、Tシャツ、麦藁帽子で、
団体生活から開放されたような面持ちで、京都から山陰地方を独り旅としたのである。
京都で観光めぐりをした後、天橋立の日本旅館に宿泊し、15日ぶりの風呂につかり、布団に寝られたのである。

その後、鳥取砂丘により駅の待合室で一夜を過ごしたり、
宍道湖の湖畔の公共の『青年の家』に2泊した後、
海が観たくて偶然に下り立ったのは、江津という浜辺の街であった。

私は海水浴場の賑わう浜辺で、海を眺めたりして、腰を下ろしたのである。
まもなく風変わりな私の容姿に興味をもったのか、
小学五年生ぐらいの少年が近づいてきて、何気なし話し合ったりした。
一時間ぐらい過ぎると、この少年の姉が私達の処にきて、
お父さんたち、その海の家をしてるの、だから私はお手伝い、
このようなことを中学三年生ぐらい姉が私に云ったりした。

こうした時、海の家のラジオから、

♪赤い夕陽が 校舎をそめて
 ニレの木陰に 弾む声
 ああ 高校三年生 ぼくら

【『高校三年生』 歌詞・丘 灯至夫、作曲・遠藤 実、唄・舟木一夫 】

私は知らない曲だね、と何気なしに云ったら、
『お兄さん・・本当に知らないの・・最近、盛んにながれている舟木一夫の『高校三年生』だょ』
と少年は私に教えてくれ、姉は微笑んでいた。

そして夕暮れ、この姉から誘われ、浜辺で私たちは、
漠然としたこれからの進路のことを、お互いに話し合ったりした。

そして、この夜、この両親の経営している海の家の板張りと茣蓙敷きで、
よろしかったら、と母親から誘われて、宿泊したのであった。

そして、翌日、私は駅に向かうと、姉が駅まで送ると云いながら、
私と共に歩いたのである。

そして私は京都駅に向かう列車を待っていると、小さな商店街から、
『高校三年生』の歌が微風にのり、聴こえてきたのである。

♪道はそれぞれ 別れても
 越えて歌おう この歌を

【『高校三年生』 歌詞・丘 灯至夫、作曲・遠藤 実、唄・舟木一夫 】


私は舟木一夫の『高校三年生』の歌は、このようなささやかな思いでがあり、
この後の一年を過ぎた東京オリンピックが開催される直前、
大学を中退し、映画青年の真似事をはじめたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=DA_W24hIRb0
☆【『高校三年生』 歌詞・丘 灯至夫、作曲・遠藤 実、唄・舟木一夫 】☆

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