夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私の定年退職時の記念樹、ぐうだらな年金生活を過ごす中、成長して・・。

2013-04-18 14:37:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
初夏のような20度近いの快晴の中、最寄りのスーパーで責務を終えて帰宅した後、
やがて下駄を履いて主庭のテラスに下り立った。

そしてモミジの日増しに枝葉を伸ばしているのに圧倒されながらも、眺めたりした。
              
その後、庭の片隅に植えている一本の樹を眺めて、長らく見つめながら微苦笑したりした・・。
                   

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年秋に定年退職し、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私が眺めていた樹は、つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹である。

記念樹といっても園芸店、或いは植木の即売店などで買い求めた樹ではなく、
小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま小鳥が飛び立つときに、小鳥からのささやかな贈り物のひとつであった。
                                   

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
この新しいレコード専門会社に情報畑、管理畑、営業畑など35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。

このようにサラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され後、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し栄達された世にいわれているエリートとは、
遥かに遠い平凡な道を歩いたりしてきた。

その上、たまたま私が勤めてきた音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998(平成10)年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
                    

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
               

こうした中で、定年を半年後となった2004(平成16)年の春、
私は右腕が肩より上に上げたりすると何かと重く、痛みを感じたので五十肩かしらと思い、
毎週土曜の休日になると、自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。
こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、
と苦笑したりした。

そして5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。
そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、夜通し看護する身となった。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している大学病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々であった。
                    
こうした我が家として危機のような状況もあり、やむなく私は有給休暇を利用して、
実質定年退職時より早めの8月の月末で通勤を断念して、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず五十肩を気にしながら玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。
主庭の草ぼうぼうの中で、草取りをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
取るのをやめて放置した・・。
              

この後、家内の父は10月初旬に死去し、葬儀を終えてまもなく、
私の定年退職時の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
慌ただしい日々を過ごしたりした。

翌年の初め、五十肩を消え去り、私は60歳の年金生活であったので、
天上の神々は、何時までも50代ではない、と采配して下さったと思いながら微笑んだりした。

そして入梅前に私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたりした・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。

この間、めざましく伸長したので、やむなく剪定を繰り返して、
樹高は5メートルまでとしたりした。
                    


こうして歳月は過ぎ去り、ぐうだらな年金生活を丸8年半を過ごしてきたが、
恥ずかしながら、この樹・・何の樹・・と思いながら、過ごしている。

一昨年の10月の終わりの頃、剪定していたらイチゴを小さくした赤い実がたくさん成っていたので、
ヤマボウシかしら、と思ったりしている。

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