伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

社会科嫌い…吉田松陰先生編4(岐阜県大垣市)

2016-05-19 23:05:08 | グーグルフォト

岐阜県大垣市は、ゆきたんくの母の実家があるところだ。

この大垣の大垣城の城代である小原鉄心は山鹿流という兵学を山鹿素水から学んだ。

この山鹿流の祖である山鹿素行の女系・津軽山鹿氏の末裔で、始祖から6代目の子孫が山鹿素水である。

当時長州藩だった吉田松陰先生が入門して学んだという。

結局、小原鉄心に伝授した後は京都の綾部藩に招かれた。

吉田松陰先生はその時に入門したので、大垣とのつながりは無いと言って良いだろう。

まあ、元々綾部藩主の九鬼隆都に教えを授けていたので綾部に戻ることになったのだろうが、大垣での活躍が綾部藩に戻るきっかけではなかっただろうか。



大垣城(大垣市のホームベージから借りました。)


 

少しでも関連があることに喜びを感じているゆきたんくである。

 

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安堵感?

2016-05-18 23:29:23 | 

海外の旅はいつも不安が伴う。

母国の日本と違ってランドマークが頭の中にないからだろう。

次の写真はアーヘンからデュッセルドルフへ戻る時の車窓からの景色である。

ヨーロッパの軌道の辺りはだいたいこんな景色が多い。


 


緑が多い。軌道の脇には木が植えられている。


視界が開けると、牧草地や風力発電の風車が目に入る。


 これはこれで楽しい。

時々トッピングとして牧草ロールが転がっていたり、牛が草を食んだりしていれば上等である。

同じ景色の繰り返しなのだが飽きがこない。

綺麗な青空に、白い雲がぽっかりと浮かんでいても良い。 


 
今回超安心のケルン駅。ドイツの駅で一番最初に降りた駅だからだ。

 
そして、ケルンでの第一目的だった大聖堂。 この近くに宿を取った。


 ドイツ語では大聖堂のことをドムという。

ドイツでの初めての1泊をアパーテル・アム・ドムという所でとった。

自分にとって数少ないランドマークである。

ケルン中央駅を過ぎる時に安心度が高まったが、通り過ぎるとまた不安になった。

小さい子供が、これで良いのだろうかと不安になる気持ちに似ている。

これを50過ぎて味わうというのもなかなか良いものである。

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慣れが必要か・・・

2016-05-17 23:33:33 | 

旅が好きになったゆきたんく。

海外旅行も数を重ねたが苦手なものはある。

まぁ、一つに語学が堪能でないことが原因だな。

ヨーロッパ鉄道駅の券売機で切符を買う。

慣れている人にとっては何でもないことなんだと思う。

券売機の操作が様々なこと。

きっと外国人が日本の券売機を見たら同じように感じるのだろう。

勉強が解決してくれると信じて、少し努力する。

そして慣れないのが、「中央駅」という表現ね。

「Hauptbahnhof」 ハーフトゥ バン ホーフと読む。それで中央駅。

ヨーロッパはあちこちに中央駅がある。

おまけに駅名の最初に固有名詞がついていない。

下の写真にも「Hauptbahnhof」だけ。



アーヘン中央駅だ。ドイツ鉄道のDBはついているが、「アーヘン」はついていない。


 もっとも地元の方々は間違えることはないだろう。

年のせいか、文化の違いのせいか、横文字のせいか、勉強不足のせいか、

全部なんだろうけれど、まだ頭の中になじんでいないのが実情だね。

まだ、セントラル・ステーションならねぇ。


 


ホームではアーヘンが入っている。 Hbfがハーフトゥ バン ホーフで中央駅だ。


 また、このホームで待っていた電車が参った。

前に書いたことがあるが、思い出したのでもう一度。

デュッセルドルフへ行くのに、時刻表を見てホームを確かめて電車を待った。

4両編成の電車が来た。

発車するまでに5分あった。

よーく見ると、前2両と後ろ2両の行先表示が同じものではない。

前2両の位置で待っていたのだが、これに乗ってはデュッセルドルフへはいけなかったのである。

後ろ2両に乗りかえて事無くデュッセルドルフへ着いた。

安心していたら、デュッセルドルフ中央駅からホテルまでの400mで徒歩5分の間に、服とカバンにペンキをかけられたのだった。

徒歩、徒歩、トホホ・・・

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阿蘇山

2016-05-16 23:33:34 | 言いたんく

先日、熊本地震についての投稿をした。

霊巌洞は大丈夫なようだった。

さて2012年8月10日に、ゆきたんくは阿蘇山にいた。

火口をできるだけ覗いてみたかったのだ。

ただ、すぐに火口からの煙量が増え火口から離れるように勧告された。

車に乗って、来た道を引き返したのだが、山のことであんなに怖い思いをしたことは初めてであった。



放送が避難を勧告する。


煙の勢いが凄い。 駐車場まで遠いと思った時にシェルターが目に入った。


駐車場よりシェルターの方が近い。しかし、ここに逃げ込んだら煙を吸ってしまう。


 今回、熊本地震の震源に近い阿蘇山で、小規模な噴火が起きたという。

火山の専門家は9万年ぶりの「破局噴火」への警戒を呼び掛ける。

日本では7000年〜1万年に1回の頻度で破局噴火が起きているという。 

ここ7300年日本では破局噴火は起きていない

阿蘇山は約9万年前に起きた最大級の「破局噴火」により、山体が崩壊した。小学校で習った「外輪山」という奇妙な姿を残したのは、その影響を受けていると考えられる。



グーグルアースから切り取った、阿蘇山の姿。


 このような噴火が起きる確率は、今後100年間の間に1%だという。

ただ、この山の下に巨大なマグマ溜りがあればの話である。

現在の日本の科学でもそのことは分からないそうだ。

どうか、活断層が阿蘇山を刺激しないことを祈るばかりだ。

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旅の楽しみ286…生月島・長崎県

2016-05-15 23:53:31 | 

ややっ、ニアミスで残念。

何の話でしょう。

今日、FB友達の投稿で知ったニアミスである。

3年前の投稿で、生月島が自動車のコマーシャルに使われていたことを知ったのである。

その写真を、「地元民ならば分かるよね」というのにゆきたんくが突っ込んだのである。

「うーん。」

分からない旨を伝えたら、親切に教えてくれたのだ。

「ここは生月島の西海岸、通称サンセットウェイの鷹ノ巣トンネルの北側です。」

レクサス、X-TRAIL、ホンダFITに続いて、アウディの宣伝に生月島が使われていたのである。



福岡空港店で借りたレンタカー。


生月島の名所「塩俵断崖」


柱状節理の欠片、五〜七角形の岩が転がる。


説明。


この道の先に「サンセットウェイ」の始まり(終り)がある。


左上に「塩俵断崖」がある。県道42号線を少し南に下ると「サンセットウェイ」に入る道(星印)がある。


 そのカッコいい投稿がこれ → アウディのコマーシャル

また生月島に行った時には絶対にここを走るぞ。

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霊巌洞

2016-05-14 23:34:04 | 言いたんく

熊本県の震災から一か月が過ぎた。

現在の避難されている方々の生活のニュースを聞くたびの胸が痛む。

ゆきたんくにできることを少しだけであるがしてみた。

早く普段の生活に戻られることを心から願う次第である。

さて、熊本の思い出として「霊巌洞」に行ったことがある。

熊本市中心部からは大分と反対方向に5厠イ譴討い襦

地震の被害はなかったのだろうか。



大丈夫でしたか?


500羅漢様たち。


霊巌洞


 FBに霊巌洞のページがあった。

4/18、5/2の書き込みがあったので、「霊巌洞」は無事だったようだ。

よって近くで管理をして下さっている、禅寺の方々はご無事だったと思える。

ただ、高速道路関係については、適正に使用されたいたかどうかは定かではない。

その辺りが少し気になるところだ。

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友ヶ島の砲台

2016-05-13 23:35:13 | 戦争遺跡

ゆきたんくの夏の旅。

仲良し3人組での旅。

何度か載せたことがあるが、3人の名前の頭文字をとって「ココフカ」の旅という。

メンバーは、ゆきたんく、じまさん、お父さんである。

時は2013年、ココフカのフカであるメンバーのお父さんのリクエストで和歌山をチョイスした。

そこは抜け目のないゆきたんく。

お父さんの一番行きたい、高野山金剛峰寺をしっかりと設定した。

最終日には、島に行きましょうと、「友ヶ島」を設定。

「友ヶ島」は立派な戦争遺跡なのである。



国立公園友ヶ島。 旅館もある。


かつてここは要塞だった。砲弾のお出迎え。大きいや。


 島を左回りにあることにした。

この島は明治自体に旧日本軍により、外国艦隊の大阪湾への侵入を防ぐ目的で砲台が作られていた。



破壊された第二砲台


戦争遺跡としてはメインの第三砲台


 帰りの船の時間を見誤り、第三砲台の取材が少ししかできなかったのでリベンジの機会をねらっている。

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戦災の木

2016-05-12 23:23:19 | 戦争遺跡

それは偶然見つけた。

上野東照宮の黄金色に輝く唐門の取材をしに行った時である。

その東照宮の参道というのだろうか、道沿いにこげた木を見つけた。

近くに寄ってみると、解説板があった。

「戦災の証言者」とあった。

ゆきたんくが感想を述べるのはやめる。

解説板を読んでいただきたい。


 


「戦災の木を保存する会」の解説板。


終戦から46年後に、西日暮里1丁目で新しくビルを建てる時に掘削により発見された。


戦火で焼け爛(ただ)れている。


 この記事を書くにあたって、グーグルマップで場所の再確認をした。

グーグルマップのストリートビューの中に、「この戦災の木」は映っていなかった。

移設されたのだろうか。

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支那囲壁砲台

2016-05-11 23:19:05 | 戦争遺跡

さて、この日(2006.12.12)は仕事の憂さ晴らし。

以前訪問した習志野市の「支那囲壁砲台」に行くことにした。

現在、支那囲壁砲台は私宅の土地に建っている。

掲載の写真は持ち主の許可を取って撮影したものである。

よって、Mapの掲載はしない。


 

 

 


支那囲壁砲台の外観


「一望千里」と呼ばれた習志野原に、中国の家屋を模して作られた演習用砲台の小ぶりなやつである。

銃眼が開いていてリアルだ。

2002年に国の登録有形文化財になっている。

正式名称は旧陸軍演習場内圍壁という。

現在は東習志野にあり、2006年現在(取材時)も民家として用されている。

住まわれている方は、大東亜戦争終了後に開拓で入って、国から一町歩ほどの土地をもらって住み着いたという話だ。

習志野原では多くの部隊による演習が行われた。

予想される様々な状況を想定し、それに対応ができるように訓練の一つとして「支那囲壁砲台」による訓練が考えられた。

中国での戦闘を前提に砲台に肉薄し攻撃したり、あるいはその砲台を銃弾の標的にしたりする訓練が行われたようだ。

住まわれている方は、その訓練のおかげで地面が固く踏みしめられており、土地を耕すのが大変だったと言われていた。

ここで訓練を受けた兵隊は、日清・日露両戦役に従軍、関東大震災の復興にはあたった部隊だ。

その方たちは、フィリピンのレイテ島で、米軍との激しい戦闘を迎える。

師団主力とセブ島へ脱出し、終戦を迎える。

レイテに残った兵は、殆ど全滅に近かったという。 


 
砲台部の内部 階段に上って高い部分の撮影をさせていただいた。

 


壁に沿って物置が併設された。

 


内側部分への入り口。


壁の内側には階段が設けられている。


「圍壁」の文字が残されている。


ここのも銃眼と階段が・・・


砲台の左は住居


砲台の中。以前訪問した時には、ここにガチョウが飼われていた。


周囲は普通の住宅が囲んでいる。

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東金飛行場

2016-05-10 23:16:10 | 戦争遺跡

大東亜戦争末期に陸軍の東金飛行場があった。

その飛行場の格納庫の痕跡と見られる柱が残されている。


名もない公園にある「平和を呼ぶふるさとの碑」の裏側にある碑文


 さて、そこからどのように行ったのであろうか。

東金(豊成)飛行場の格納庫の礎石がある場所には行けたのである。

そしてその場所の確認をしたら・・・

なかなか見つからないのである。

そこで、全国戦争遺跡研究会の隊長であるナウスラ氏に電話をして教えていただいた。

さすが、わが隊長。

調査済みの場所は覚えていらっしゃる。



下武射田の農地の中に残る格納庫の礎石 2007.06.23 → Map


ここは歩きで来るしかない。 右奥に旧ゆきたんく号(イプサム)が停まっている。


 ともかく、日本を米軍から守るために建設された飛行場であり、格納庫跡である。

この貴重な資料を東金市で史跡にしていただけるとありがたいのだが。

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上田中坑道陣地

2016-05-09 23:13:42 | 戦争遺跡

発作的だった。

戦争遺跡に興味を持ち始めた時が10年前。

非常に遅いデビューだった。

少しでも多く見ておきたい。

現在住んでいる千葉県だけでも、多く見ておきたいという衝動に駆られた。

最後の戦争が終わって71年が過ぎた。

当時の様子をリアルタイムで記憶している人も減ってきている。

今回紹介するのは、東金市の戦争遺跡だ。

簡単に説明すると、昭和20年の8月に2つの原子爆弾が投下された後に日本が戦争を継続したらどうなったか。

米軍は、コロネット作戦で東京を火の海にする作戦を立てていたのである。

その際、九十九里浜から上陸した米軍が東金街道を北上するのを阻止するために造られた陣地のが上田中坑道陣地だ。

→ Map


 


外側から見た陣地。ただ土を掘っただけのものだということが分かる。

 


このお寺の敷地内に入り口があるのだ。


少し奥に進むと、二股に分かれている。この時懐中電灯を持っていなかった。


上写真の位置から入り口を見る。

人が立っているのが見える。これは、ここに入る前にお寺の方に断ってから入ったのである。

いつ崩れてもおかしくないので見ていてくれたのだ。


二股に分かれた方に進む。フラッシュを焚いて撮影した。


 1発直撃を受けたら、すぐに崩れてしまう感じだ。

当時の人たちはどんな思いでここを守ったのだろうか。

2007.06.23

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旅の楽しみ285…築地・東京

2016-05-07 23:49:05 | 

築地の場内市場が豊洲に移転するという。

しかし、築地場外にある400店舗、そして場内市場の仲卸約60店舗も引き続き築地で商いを続けるという話を聞いて少しホッとしている。

築地に初めて行ったのは、まだ小学校の2年か3年の頃。

親父が正月の来客へのもてなしとして、いつも良い刺身を探していたからだ。

その時の思い出は「怖い」だった。

市場の中を車が駆け抜ける。

「アブネー、ドケェー」と言うような声が聞こえると同時に親父に手を引っ張られた覚えがある。

まあ、築地市場は気の荒いお兄ちゃんがたくさんいるよな。

小さな子供がウロウロしていたら危なくてしょうがない。

自分も親父に、「ここにいろ。」と言われたはずだが、そんなことは忘れてウロウロしていたと思う。



また会えるよね、築地のお地蔵さん。2005.11.14撮影


 

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旅の楽しみ284…浅草・東京

2016-05-06 23:31:14 | 

結構数は行っているのに、寄らないところってあると思う。

以前土曜日が一日中空いていた時、浅草に出かけることが多かった。

仲見世は好きだねぇ。

浅草寺の参道を兼ねているような仲見世の通りは、胸がワクワクする。

仲見世の終わりの方にある、「あげまんじゅう」の店も魅力的だ。

さて、その辺りまで行くと、道の両側にあった店舗も片側だけになる。

伝法院通りを過ぎてからだ。

その交差点を左折し、少し行くと「御狸様」がある。

鎮護堂だ。



何気なく右を見たらあった、鎮護堂の門。


水子地蔵尊


手水


解説版

時は2005年1月2日。参拝客で賑わっていた浅草寺に比べると人は少ない。 


 この時から10年が過ぎたが再訪していない。

浅草寺には何度か足を運んではいるのにだ。

今度は寄らねば。

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またやってきた。

2016-05-05 23:59:25 | 音楽

今日は岡崎律子氏の命日である。

亡くなって12年。

ゆきたんくは、岡崎氏が亡くなってから10年後にファンになった。

 

その人の死後にファンになる場合は多々ある。

ベートーベンやモーツァルト、バッハなんて良い例だろう。

岡氏の場合は亡くなった時の年齢が、ゆきたんくの母の享年と同じだった。

それで気になって楽曲を聴いたらファンになったのである。

早かったよね、岡崎さん。

安らかに。


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お買い物。

2016-05-04 23:31:05 | 家族

のりたん(奥方)と買い物をした。

まぁ、買い物はいつも一緒である。

ベルクス、マルエツ、マミーマートといったところだろうか。

その中のどこかへ行く。

今日はベルクスだった。

一通り見てから買い物かごに獲物を捕らえる。

いつもは素通りするお菓子コーナーでのりたんが立ち止まった。

「ん?」

「結果にコミットする・・・」

ライザップ監修の低糖質スイーツが出ていたのである。

本日の食後のデザートになった。

甘くて、コッテリしていておいしいケーキだった。



旨かったよ。

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