伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

縦の会

2016-07-31 23:47:23 | 東京都立秋川高等学校

今日は縦の会。

旧東京都立秋川高等学校の同窓会だ。

会場は東京都大田区蒲田の甘納豆やさん。

沢山写真を撮って、紹介したいものもあるのだが・・・

FBのように閉じられた空間ではなく、この「伝えたんく」に載せるので写真は1枚にする。



甘納豆職人の中さん


 ここにいかつい男子が集合する。

そう秋川高等学校は全寮制の男子高だったのである。

平成10年に閉校になり、母校を失った寂しさを味わっていたゆきたんくである。

FB(フェースブック)により仲間がどんどん発見され、ネットワークができた。

その1つが縦の会である。

今回で第3回目を数える。

そしてこの会場の主「中さん」の還暦誕生日も、一層会を盛り上げることとなった。

その内容は、ここに書ける類のものではない。

最後に中さんのお店の宣伝をして〆る。


 

東京大田区 蒲田 谷口商店


 

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地図から消えた島10

2016-07-30 23:38:49 | 戦争遺跡

大久野島発電所後編である(笑)

新しくできた部分は3階建てだ。

増築された訳は毒ガス製造が本格的になって、たくさんの電力を必要としたからだ。

ところが戦争の激化のため、ディーゼルエンジンの燃料の重油が供給しにくく広島本土から海底ケーブルも用いた電力供給になったという。


 


コンクリートの構造物が気になる。


1枚目写真の左側


1枚目写真の真ん中辺り


1枚目写真の右側


発電所の機械類が当時設置されていた場所はこの写真が頼りだ。



全部で8基あったというディーゼルエンジンの発電機


発電機のある写真と、現在残されているものとの違いがみられる。

戦後は発電機が撤去され、朝鮮戦争時(1950年~1953年)に米軍の弾薬庫として使われたこともあったという。

発電所の先にあるトンネルを抜けると「MAG2」とペイントされているのが見える。



「MAG2」のMagは弾薬(マガジン)のことである。


 小さい方を第一発電所、大きい方を第二発電所と呼ぶそうである。

 第二発電所にあるコンクリートの構造物は発電所として稼働していた頃の写真とは違って見える。

 弾薬庫として使われていた時のものなのか。

 現在調べていても、その情報にぶつからない。

 なお、保存を求める署名により取り壊しはなくなった。

 ここを管理している環境省によれば、修復はせず自然に朽ち果てるのを待つばかりだそうだ。

 同じ県内には世界遺産に登録された「原爆ドーム」がある。

 このような建物も歴史の証人として残したらと思うゆきたんくである。

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地図から消えた島9

2016-07-29 23:09:10 | 戦争遺跡

いよいよ見学も終わりに近づいてきた。

途中に火薬庫があったがスルー。

理由はゆきたんくの体調である。



発電所跡前に立つゆきたんく。 → Map


 この時のゆきたんくは現在より体重が10kg以上重く、バテていたのだった。

先行する見学者に追いつくべく、火薬庫は泣く泣くスルーしたのであった。

また、前に述べた「長浦毒ガス貯蔵庫」にしても、この「発電所」にしても原則は立ち入り禁止である。

今回は団体として特別な形で中の見学を許されたのだ。

よって、遅れていると見学時間が短くなるのである。

さて、大久野島発電所については「小」と「大」に分けて書いていく。

小とは、下写真の北西部分になる。



大久野島発電所


 最初は小さ目の発電所で電力を賄えるということだったが、途中から増築して現在残されている大きさになったと聞いた。

小さい方は2階建てである。



北西部2階建て部分。


2階建て部分内部


 この建物の中に入ってみて、不思議な造りになっているなと思った所があった。

その時にはそれが当たり前だと思っているから「変なの」くらいにしか思わなかった。

帰宅して調べて納得する。

2階部分の方からから3階部分を見ると


 
左側に飛び出ている建物がある。


3階建ての方から見る。


出っ張った部分1階部分内部


 見学当時は、「なんでわざわざ建物の中に出っ張った部分を造るのだろうか。」と思っていた。

なんのことはない。

2階部分はこの出っ張った部分も含んだ建物だったのである。

それを覆うように3階建て部分が造られたということだ。

この出っ張った部分にはまだ階段がついていて2階に上がれそうだった。

自分の体重を考えて断念した。

というよりも、この中に入れていただいているだけで充分なのである。

では、大きい方へ続く。

 

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地図から消えた島8

2016-07-28 23:03:26 | 戦争遺跡

北部砲台発電機関舎跡のあった位置からさらに200m進むと北部砲台跡がある。



説明版 → Map


砲台を留めたボルトの跡が円形に残る。


道からスロープを通って砲台跡へ。


道の高さから見た砲台部分跡。


 実際にどのくらい活躍したのだろうか。

資料を読んでいくとこの地図にない島へ偵察機が飛来したのは1度(1945年7月)とのこと。

この島の存在がバレるとまずいということで高射砲隊は弾を撃たなかったそうだ。

砲台はここの他に、中部と南部がある。

どの砲台から偵察機を見たのかは不明である。



砲台スロープ脇にあった小部屋。入り口の高さが低い。


こちらは大き目。


歩いている方と比べて下さい。


 軍の機密事項でもあった島のことだ。

守りは十分に、そして待避所として設けられたのだと想像するしかない。

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地図から消えた島7

2016-07-27 23:23:39 | 戦争遺跡

北部砲台に向かう。

100mほど進むと、砲台の一歩手前に北部砲台発電機関舎跡がある。

どの建物に発電機関があったのだろう。

進行方向右手に立派な建築物があった。


 


如何にも弾薬庫の造りである。


中から外を臨む。太陽光の眩しいこと。 


ここは島内を張り巡らしている通路の1つにより2か所に分かれている。

もう一か所を覗くと、随分と低い所に倉庫が設けられている。

この低い所は両者にあって、最初に見た方は床が冠水していた。



最初に紹介した倉庫は、人が歩いている所の高さにある。

 


後ろはこのように崩れている。


このような狭くて高低差のある通路を使って重い物の移動ができたのであろうか。

ドラム缶にしても、陶製容器にしても運搬自体が危険と感じるのは自分だけだろうか。



下に降りて撮影した。


このL字のものは、重たい物の運搬(上げ下げ)に使われていたかもしれない気がする。

 2005年11月13日に実施した千葉県北西部の戦争遺跡調査で立ち寄った、柏市西部消防署根戸分署の建物(旧陸軍馬糧庫)に同様のものがあった。




荷物を引き上げるのに使っていた支柱が残る。 → Map


形状がよく似ている。

北部砲台発電機関舎でも、この支柱を使って荷物の上げ下げをしていたのだろうか。

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地図から消えた島6

2016-07-26 23:58:25 | 戦争遺跡

大久野島の北部には煙道がある。

毒ガス貯蔵庫のあまりの規模に圧倒されてあまり印象に残っていなかったが、写真は撮ってあった。

この島で毒ガスが製造されていた時、毒ガスの不合格品、防護服、ゴミなどを焼却したという。

焼却炉ができるまでは、北部の海岸で燃やされていたが、毒ガスの原料が硫黄性のため燃えにくかったようだ。

まして、高い煙突を設けて煙の通り道を作るのは発見される危険性があったと考えたのだろう。

そのため、北部の海岸にあった焼却場から煙道口まで、煙突管を山の斜面をはわせるように設置したそうだ。

実際には山の上に短い煙突があったというが現在はない。



三つ並ぶ煙道口 → Map


危険防止のため金網が張ってある。落ちたら海岸の方まで運ばれてしまうのだろう。


穴の中から草が生えている。実際にはだいぶ土で埋まっていると考えて良いだろう。


資料によると、海岸の砂の上で焼却をしていたのは1937~1938の1年間。

ゴミ焼却に従事した方の証言には、

 「焼却場では、黄色い煙、黒い煙、赤い煙と日によって煙の色が違っていた。」

というのがある。

そのことからも、かなり危険な仕事だったことがわかる。

戦後は毒ガスの後遺症で、早く亡くなった人が多いたそうだ。

そう、ここで造られた毒ガスは大東亜戦争(第二次世界大戦中)に中国に遺棄されたとされている。

訓練や日中戦争の実践で消費されたされる。

そして大部分は使用されないまま終戦を迎えたという。

中国には、日本側推定30万-40万発の日本軍の化学砲弾などが埋設されているとされるハルバ嶺地区がある。



ハルバ嶺(ハルバレイ)地区は赤丸の所。


日本は 2022年を遺棄化学兵器処理の終了の年として事業を進めている。

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地図から消えた島5

2016-07-25 23:12:44 | 戦争遺跡

さて、今日は長浦毒ガス貯蔵庫跡だ。

島内のガス貯蔵庫で最大のものである。

周囲からは見つからないように山を削って作ったと思われる。



説明。 → Map


山を削ってというのは、この写真の様子からよく分かる。


 ここでは作られた毒ガスを貯蔵するという役目があった。

100tタンクが6基並んでいた訳だ。

毒ガス工場から運ばれてきた電気発動機の付いた電動車で毒ガスの原液を運んできたそうだ。

それを倉庫入り口両脇にある小部屋の真空ポンプによってタンクを真空にすることによって原液を吸い込ませたようだ。



小部屋の内部。 吸い込み側か、払い出し側かは分からない。


 この島では「常に3000トンの製品の確保」の指示があったという。

 戦争中から島の各所に小希望の貯蔵庫を造ったが、最初から計画の中ではっきりとしていたのが「長浦の貯蔵庫」で今でもどのようなものであったが検証できる。



100tタンクの台座。人が立っているので大きさが想像できると思う。


毒ガス処理の時に毒性を消すために火炎放射器で焼いた壁である。


倉庫から海側を臨む。正面に小久野島が見える。


 考えられない量の毒ガスが製造されていたこと、そしてその処理は実際にどうだったのか。

日本の歴史の中で検証が必要なことの一つだと思われる。

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地図から消えた島4

2016-07-24 23:25:29 | 戦争遺跡

大久野島西岸に沿って歩を進める。

途中進行方向右側の、休暇村本館の裏辺りに入る。

そこには「野ざらしの貯蔵庫」があった。

全部で32基分の土台があった。



古い階段を見つけた。


先行する案内人の先に見えるのは・・・


物言わぬ毒ガスタンクの土台たちである。 → Map


 最初に見た三軒家毒ガス貯蔵庫跡はしっかりとコンクリート製の倉庫になっていた。

そしてチューブで毒ガスの充填ができるようになっていた。

そこで充填したタンクはどうしたのだろう。

ここまで運んだのだろうか。

それとも、かつてここにあったタンクは長いチューブによってこの場所で充填されたのだろうか。

あらためて考えると、様々な疑問が出てくる。

この場で案内人に質問をぶつければ良かったと後悔しているゆきたんくである。

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地図から消えた島3

2016-07-23 23:08:00 | 戦争遺跡

さて、最初に見学したのは、びらん性毒ガス「イベリット」の貯蔵場所だ。

休暇村本館から20mのところにある。


  
三軒家毒ガス貯蔵庫跡 タンクが2つ入る。 → Map


台座の上にはタンクが置かれ、チューブによって毒ガスが注入されていた。


 猛毒のイベリット。

一般的にはマスタードガスと呼ばれる化学兵器だ。

皮膚についただけで爛れ(糜爛…びらん)を起こすタチの悪い毒ガスである。

毒ガスに汚染されてから4~6時間後に発症する。

1917年にドイツ軍の毒ガス弾がイープルに落とされたことから、その地名につなんでイペリットと呼ばれた。

それゆえ、タンクの内部は鉛を張りつけてあったそうだ。


 
内部は綺麗だが、崩落の危険があるという。 


 

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地図から消えた島2

2016-07-22 23:21:19 | 戦争遺跡

さて、大久野島に着いた。

現在は休暇村の本館でレクチャーを受けることとなった。

実際に見て周る前に予習をするのだ。



「毒ガス資料館」だけが異質に見える。 まずは目指すは本館。


毒ガス資料館である。中は撮影禁止だ。


国民休暇村としての大久野島は1963年から


 別名うさぎの島と呼ばれている大久野島だが、この時点でうさぎの姿は見えない。

キョロキョロしながら歩いているうちに本館に着いた。



本館はとても綺麗な建物である。


本館の中の会議室。大久野島の歴史を学ぶ


 個人的雑感だが、大久野島の歴史や毒ガス島についてというよりも、隣国の中国に迷惑をかけたとか旧陸軍の悪行について日本人は反省しなくてはという話が割合的に多かったと思う。

次はいよいよ見学である。

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地図から消えた島1

2016-07-21 23:52:37 | 戦争遺跡

戦時中に地図から消えた地域というのはいくつかある。

ゆきたんくの住んでいる千葉県では、富津岬が消えていた時期があった。

そこに軍事施設があったからだ。

今回紹介するのは、かつて毒ガスが作られていた「毒ガス島」と呼ばれた島である。

ネットで探せばいろいろと情報が出てくるのだから、詳しいことはそちらを見ていただくと良いと思う。

ゆきたんくは、その島に行った感想を中心に書くのだから。

島の名前は大久野島だ。

2009年8月5日。

ゆきたんくは広島市内から瀬戸内海の忠海(ただのうみ)に向かっていた。

忠海の南2.5㎞に浮かぶ大久野島に行くためである。

かつて毒ガスを作っていたその場所を見たかったのである。



このフェリーに乗って大久野島へ行く。


正面に見えるのが大久野島である。


 島にある様々な施設の中で、よく写真にしたのが、発電所である。

島に着く前に、発電所が見えた時には興奮したゆきたんくである。



コンクリートの建築物が発電所跡。


大久野島到着。


 さて、どんなわくわくが待っているのだろうか。

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もう一度食べたい。

2016-07-20 23:44:32 | マイグルメ

さて、先日は周記肉粥店のお粥について少し触れた。

あの日はお粥の梯子をしたのである。

もう一店舗は、



老艋舺咸粥店 50年老店とある。 → Map


提灯には60年歴史とある。こちらが正しいだろう。 


 こちらのお粥は白いお粥。

白湯スープのお粥に見える。

味はあっさり、塩を入れて丁度良い。



何か肉のようなものもおまけで入っていた。やはり優しい味。

少し足りなかったので、S氏のお勧めで「ミェン」をいただく。

 


ビーフンのような感じである。これも塩味を足していただいた。


 強烈な印象は残らないのだが、また食べたいと思っているゆきたんくである。

きっと毎日食べても飽きない味になっているのだと思う。 

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旅の楽しみ289…台北

2016-07-19 23:29:26 | 

かつて日本人が統治した台湾。

と言いながら、台湾の方々は日本人が好きな人が多いようだ。

日本人と台湾人の関係は良好だったのだろう。

現在の台湾は昭和期の日本に似ているという話もある。

その台湾の中でゆきたんくが気にいっている場所が剥皮寮である。

清代からあるという建物と皮を剥ぐというイメージからどんな場所なのだろうと想像してしまった。

当時この地域で輸入した木材を切削して加工し販売する様子が見られたことからその名前がついたとか。

「剥皮寮歴史地区」として貴重な歴史の遺産でもあるこの場所がお気に入り。

予習不十分で台北に渡ったゆきたんく。

建物の雰囲気、煉瓦造りの建物を見て感じただけでお気に入り。



台北市郷土教育センターとして使われている。小学校が隣接している。 → Map


その昔、雨に濡れずに買い物ができたアーケード状の造りになっている。


この建物中で特に興味を引いたのが、再現された昔の教室である。

狭いながらも教壇があり、昭和30年代生まれの人間には懐かしい2人用の机。

取れてしまっただろう蓋の部分には、透明なボードが取り付けられて机の中の様子もよく分かる。

椅子も今では見ることのできない木製のもの。

全てが当時の再現ではないだろうが雰囲気はよく伝わってくる。

椅子を見て思い出した。

ゆきたんくは中学生の時に、椅子の釘でズボンの尻部分に穴をあけ、女子に笑われたのを。



こじんまりとした教室である。


教室の正面には中国の古典「礼記」の一節がある。

「天下為公」

「天下は権力者の私物ではなく、公(そこに暮らす全ての人々)の為のものである」

とても良い教育が行われていたのだと察することができる。

そして食のお気に入りだ。

友人のS氏もお気に入りのお粥だ。

2店行った。

剥皮寮前にある「周記肉粥店」が初体験の店。



この字を見ただけで、緊張と期待が。 → Map


店の入り口。


 さて、店に入ってメニューを見る。

はっきり言ってお手上げであった。

読めないのである。

どれを頼もうか・・・



壁を見て途方に暮れるゆきたんく・・・


 S氏は少し余裕がある。

お店のおばあちゃんがやってきて、

おばあちゃん「にほんじん?」

ゆきたんく「はい。」

おばあちゃん「なんにする?」

台湾でもお年寄りは日本語ができるのである。

台湾が初めてでないS氏は知っていたのだろう。

それにしても良かった。



コクはないが、コクはある。なんのこっちゃ・・・


 S氏曰く、店によって味付けが違う。

ここのは「味付けは濃くはないがコクがある。」といった感じである。

如何にも胃に優しい一品だ。

剥皮寮とお粥はゆきたんくのストライクゾーンとなった。

 

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不思議に思っていた。

2016-07-18 23:28:27 | 音楽

こんなことを書くこと自体、自分が歳を取ったことの証明なのかなと思う。

今の子供たちの流行りが分からない。

まぁ、こういうことも勉強が必要なのだな。

AKBは誰がいるか分からないし、似ているグループは掃いて捨てるほど(失礼。親父のかつての言葉)いる。

小さい子は小さい子らしく、小学生は小学生らしく、中学生は中学生らしく・・・

最近、久しぶりにすてきだなと思う曲が流れていた。

「誰(が歌っているの)だろう。」

「今の高校生の流行りのアーティストかな。」

と思っていたら、小学校低学年の子らが数人でそれを歌っていた。

「えっ! 」

ショックを受けた。

世の中というのは、こんなに変わってしまったのだと。

流れていたのは秦基博氏の「ひまわりの約束」だった。

それを小学校の低学年児童が歌っている。

とても不思議な光景だった。

後にその謎が解けることとなる。

2014年の映画「STAND BY MEドラえもん」の主題歌だったのだ。


 


ドラえもん のび太 秦基博氏 〜映画ドラえもん STAND BY ME〜公式サイトから

 


 小学校の低学年でも、状況のリンクの仕方でこのような歌を歌うのだなと感心するとともに、如何に当たり前にある情報に触れていないかを自覚することとなった。

 現在、秦基博氏の「ひまわりの約束」の楽譜を手に入れ、練習中のゆきたんくである。

 ささやかなアンチ・エイジングである。


 


 

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なかなか2。

2016-07-17 23:15:57 | マイグルメ

今日もお仕事大好きゆきたんくである。

昨日はセブンイレブンの「豚の生姜焼き」をいただいた。

今日も同じでは面白くない。

豚シリーズで何かないか・・・

今日は「三元豚のポークソテー」だ。

電子レンジであたためていただく。



誰も見ていないので、このトレーからいただく。


 正味は「豚の生姜焼き」と同じ140g。

肉は厚く、適度な歯ごたえがある。

よく噛んで味わっていただきましたよ。

さすが肉。

力が湧いてきましたよ。

お値段は300円台。

忙しい時は、これがいいかな。

時間も節約、お値段お手頃。 

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