1999年12月21日午後11時21分
大内久、死亡。享年35だった。
朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫) | |
NHK「東海村臨界事故」取材班 | |
新潮社 |
1999年9月に起きた茨城県東海村での臨界事故で、大量の放射線を浴びた大内久さんの闘いの記録です。
2001年にNHKスペシャルで放送された内容が本になったもので、当時その番組をみて、大きなショックを受けたのでよく覚えています。
核燃料加工施設「JCO」で、ウラン燃料の加工作業中に「臨界」が起き、3名の作業員が被ばくしました。
大内さんの浴びた放射線量は、20シーベルトと言われています。当時、この単位の意味は全く分かりませんでしたが、今はよくわかります。
これだけの放射線を浴びて、大内さんの染色体はボロボロになりました。
被爆3日目に東大病院に転院した時は、彼の右腕が少し赤くなっている程度で、意識もしっかりしており、看護師の人たちからは、「明るい大内さん」と呼ばれていたそうです。
それが、10日を過ぎたころから、医療用に肌に貼ったテープをはがすと、肌が一緒にえぐれてしまうようになり、細胞分裂ができないため皮膚は再生せず激痛にみまわれるようになります。
1か月後には、全身が包帯とガーゼに包まれたフランケンシュタインのような状態になります。
写真を見ると、まさにヒロシマやナガサキの被爆者の写真で見たことのある、焼け焦げたようなケロイド状態です。
2か月目に入ると、意識も殆どなくなり、助けられるという望みが殆ど持てない状況になりながら、医師たちは、さまざまな治療を施します。
大量の中性子を浴びた患者がここまで生存したことはなく、医師たちにとっても、手探りの治療で、しかも、国中、いや世界中が注目しているとあって、後には引けない状態だったと思います。
そういった状況を、医師や看護師などへのインタビューなどを通じて再現しているのですが、読みながらも、もう止めてと叫びそうになるほどでした。
この本は、放射線事故というものに立ち向かった大内さんの記録と先に書きましたが、実際には家族、そして医師、看護師の闘いの記録でもあります。
負けるとわかっている闘いを大内さんに強いた、医療者たちの苦悩が痛いほど伝わってきます。
原子力安全神話という虚構のなかで、医療対策はかえりみられることもなく、臨界事故が起きた。
事故が起きないのだから、その事故で被爆した人への治療の研究や制度作りをする必要がなかった。そして、福島の後でも、その点については、あまり変わっていないのではないでしょうか。
だって、実際に事故は殆ど起きないので臨床記録を集めることもできないし、ましてや人体実験などができるわけもないし・・・。
だからこそ、恐いんですよね。
福島の状況と、この臨界事故は放射線のレベルで言えば雲泥の差です。
同じレベルで怖がるのはナンセンスでしょう。
でも、延長線上にあるという事だけは忘れてはいけないと思います。
そして、事故に対する対策はある程度とられたかもしれないけれど、
もし被爆者を出してしまったら、医療は相変わらず何もできない状態であるということも。
医師や看護師の努力で、どうなるものでもないのです。
それほどの力が放射能にはあるのだということは、忘れてはいけないのだと思います。
余裕がなくて、1か月近く更新を怠りました・・・
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