本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

チャリングクロス街84番地 

2019-07-13 | ノンフィクション

 私が古書の中でも特に好きなのは、前に持っていた方が一番愛読なさったページのところが自然にパラっと開くような本なのです。

 

 へレーン・ハンフ 編著 江藤淳 訳

 副題、”書物を愛する人のための本”  です。

 

 この本に出てくる、イギリス文学はひとつも読んだ事の無い私ですが、とても楽しく読むことが出来ました。

 

 ニューヨーク在住の脚本家ヘレーン・ハンフ女史と、ロンドンのチャリングクロス街の古書店で働くフランク・ドエル氏の間に1949年から20年にわたってやり取りされた手紙が集められているのです。

 

 まずイギリス文学に造詣が深いアメリカ人の著者は、ニューヨークで彼女の望む本が見つからないため、雑誌の広告で見たロンドンのマークス社から本を買い始めます。

 彼女のマニアックな希望をきちんと叶えてくれるフランクとの間には、手紙を通じて、友情が芽生えていきます。そして、ロンドンでは1949年当時食料が配給制だったようで、そのことを知った、ヘレーンが何かにつけて、店に食料を送るようになります。

 そして、マークス社の他の従業員やフランクの妻とも手紙のやりとりが始まります。

 何が面白いの?と言われたら、よくわからないのですが、もう、ただ読んでいるだけでワクワクするのです。この気持ちをどうしても書き留めたくて、放置しているこのブログに記事をアップしてしまいます。

 

 読みながら、本の装丁や、紙の手触り、そして古書店独特の匂いが感じられるようでした。

 

 読後、映画も見ました。

 

 本を読んで映画をみると、だいたいがっかりするのですが、この作品は、本の世界をそのまま映像にしたような感じで、世界観を損ねるどころか、見終わった時の幸福感をどうやって伝えればよいのかしら・・・。

 

 そして、江藤淳氏による解説が、また読んでいて楽しい。

 

 「チャリングクロス街84番地」を読む人々は、書物と言うものの本来あるべき姿を思い、真に書物を愛する人々がどのような人々であるかを思い、そういう人々の心が奏でた善意の音楽を聴くであろう。世の中が荒れ果て、悪意と敵意に占領され、人と人とのあいだの信頼が軽んじられるような風潮がさかんな現代にあってこそ、このようなささやかな本の存在意義は大きいように思われる。

  1972年3月 江藤 淳

 

 もう、この時の”現代”ですら、半世紀近く前になるのです。

 

 ロンドンに観光に行くなら、あらかじめ計画を立てて行けば、見たいと思うものが必ずみられるのですって。私、イギリス文学のイギリスが見てみたいと言いましたら、彼、「だったら、必ず見られる」って言ってましたわ。(1950年4月)

 

 ヘレーンがフランクの秘書のセシリーに送った手紙の中の一文ですが、今のロンドンもまだそうなのでしょうか。

 

 ロンドンに行ってみたくなりました。(でもちょっと怖い)

 

追記:

 実はこの本は旦那(豪州人)から教えてもらったのです。(旦那は本ではなく映画を見ただけなんですが、)

 

 さほど本好きでもない彼にとって、この映画のどこがよかったのかと思い、聞いてみたところ、”昔のイギリス映画にある、古風な趣(quaintness)”がよかったらしいのです。

 

 それってどういう意味??と考えて、思い出したのがスティングの「イングリッシュマン イン ニューヨーク

I'm an alien I'm a legal alien 

I'm an Englishman in New York

 

 というフレーズ♪は、聞けば、皆さん聞いたことある~って思うはずの名曲ですよね。

 alien(エーリアン)には単純に外国人と言う意味もありますが、やはり異分子というか、宇宙人につながるようなベクトルをもった言葉なんでしょうね。

 

 確かに、フランクがニューヨークを歩けば、まさにそんな気持ちになるかもしれません。

 

  フランクの博識なのに、それを見せびらかさず、控えめで、律儀な人柄。そしてヘレーンは自分でもガサツと言っているこれぞアメリカ人ぽい女性。

 

 けれども、文学と文通を通じてこの二人の間に友情が生まれたというところが、アメリカ人、イギリス人共に受けたのかもしれません。

 

 長年好きだった、スティングの名曲もより深く理解できた気がして、益々読書って楽しいと思えました。

 


お父さんフランス外人部隊に入隊します。 駒村吉重

2013-01-01 | ノンフィクション

お父さん、フランス外人部隊に入隊します。

契約は五年間です。

申し訳ありません。どうしても言えませんでした。

お父さん、フランス外人部隊に入隊します。 (廣済堂文庫)
駒村 吉重

廣済堂出版

森本雄一郎という青年は、卒業旅行にアメリカに行くと家族に告げて、

そのままフランス外人部隊に入隊してしまいます。

卒業式が近づいても、帰ってこない息子を心配して、あちこち尋ね回った父のもとに

当の息子からの文頭の手紙が届きます。

父は、息子のこの行動が全く理解できず苦しみながらも、

なんとか自分なりに折り合いをつけて、自分と息子の人生を受け入れていく過程が

父子の間に交わされた手紙などを中心に描かれています。

 

かなり衝撃的なタイトルですが、読み終わったときの感想は、

・ ・ ・ 

いろいろドラマチックに盛り上げようとしているわりに、

この家族は、結局のところごく普通の家族で、

その中で、なぜ、勉強もできて素直に親の言うことを聞いていた長男が、

ある日突然、外国人部隊に入ったのかということが、本人が生きているにも関わらず

結局聞き出せないまま終わっており、父と子の関係に帰結させようとしていながらも

中途半端。

 

また、子供たちに厳格に接してきた父親が、息子を外国人部隊から取り戻そうと

必死になるところの落差も、もう一つ共感を覚えるほどには描きこまれていません。

息子である雄一郎も、父から手酷い拒否反応に合うかと思っていたのに、

思いがけず、自分を心配する父の手紙に、ほっとしたのはわかりますが、

慣れてくれば、日本の新聞などを送るように依頼するなど、理解に苦しみます。

へぇ、こんな人もいるのね。

でも、フランス語が話せて、外国人部隊の経験というユニークな履歴があっても、

その後の人生は、楽じゃないのねぇ・・・。

という以外に何とも言えない一冊でした。

 暫く、休んでしまいましたが、ボチボチ再開させていただきます。
人気ブログランキングへ      本年もよろしくお願いいたします。


ノモンハンの夏 半藤一利

2012-06-03 | ノンフィクション

 これを第二十三師団にかぎっていえば、師団軍医部の調査によると事件の全期間をとおして、出動人員1万5975人中の損耗(戦死傷病)は1万2230人、実に76パーセントに達したという、実質の損耗率はもっと大きいともいわれる。ちなみに日露戦争の遼陽会戦の師匠率が17パーセント、太平洋戦争中もっとも悲惨といわれるガダルカナル会戦の死傷率が34パーセント。この草原での戦闘の過酷さがこれによってもよく偲ばれる。

ノモンハンの夏 (文春文庫)
半藤 一利
文藝春秋

 以前、自分では注文した(記録はあるが)記憶がないのに、Amazonから届いた一冊で、間違って押しちゃったかなぁとそのまま放置して忘れていたました。先月、図書館通いがちょっと途切れてしまい読む本がなくなったときに、本棚をゴソゴソ探していて見つけて読みました。

 半藤一利氏の「昭和史」は以前読みましたが、記憶力の悪い私には、はっきりいって「ノモンハン」ってなんだっけ???というレベル。

 とりあえず、ノモンハン事件とは、(Wikipediaから抜粋です)

1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。

 私が内容を知らないのも当然、と胸を張れる訳ではないのですが、土門修周平の解説によると、戦中から戦後にかけて、きちんと研究されたものは少ないとのこと。

 司馬遼太郎氏が書こうとされていたものの、急逝により果たせず、当時文芸春秋の編集者であった半藤氏が一緒に調査されたという経緯もあって、引き継いだということのようです。

 本書中、陸軍は参謀本部も、関東軍もまぁボロクソに書かれております。

 当時は、天津事件のあと国民の対英感情は悪化の一途、ドイツとの同盟に向けて陸軍は賛成、海軍は反対の立場で、政治家は決断できずおろおろするばかり。しびれをきらしたドイツはソ連と不可侵条約を成立させたため、スターリンは極東に力を入れ始める。

 というような世界の情勢があるにもかかわらず、現地の関東軍は、そういった情報に驚くほど無頓着で、目の前の何もない草原にあるようなないような国境線をめぐって暴走を始める。東京の参謀本部では紛争を起こすな、拡げるなと指示は出すものの、結局は止められず、起こってしまったことを、追認するような格好で、ずるずると日本軍だけでも一万人近い戦死者をだしてしまったのです。

 軍人はだれしも、将兵が血を流した地をむざむざ敵には渡せない、という論理の前にはひたすら頭を下げざるを得ない。理非曲直は抜きで、その言葉は直截に彼らの精神にせまってくるからである。これに反対することはできない。

 ということなんですね。

 しかし、著者があまりにもボロクソに書くもので、もしかしてかなり偏ってる???と心配になりますが、上記の通り自分には知識がありませんのでなんとも言えません。

 ただ、本書を読みながら感じたのは、日本人って実はちっとも変っていないんだなってこと。

 首相は調整役でしかなく、政治家は何も決められない・・・。

 国民はメディアがつくる世論の一翼を担わされるだけ。

 自分たちが国を背負って立っているんだという軍人の危機感が、良い方に働けばいいんでしょうが、真のリーダが不在で、暴走したら止められない。

 そして、”情報戦”に弱い。

 軍人を官僚に置き換えれば、または、ある種の”経済人”に置き換えて見れば現代と何も変わらないような。

 本書の中で、本当に興味深い一節がありました。

日露戦争後、参謀本部で戦死が編纂されることになったとき、高級指揮官の少なからぬものがあるまじき指摘をしたという。

「日本兵は戦争においてあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、このことを戦死に書き残すことは弊害がある。ゆえに戦史はきれい事のみを書きしるし、精神力の強かった面を強調し、その事を将来軍隊教育にあって強く要求することが肝心である。」

 なんということか。日露戦史には、こうして真実は記載されなかった。つまり戦争をなんとか勝利で終えたとき、日本人は不思議なくらいリアリズムをうしなってしまったのである。そして夢想した。それからはいらざる精神主義の謳歌と強要となる。

 私はこれを読んで、やっぱりフクシマのことを思い出してしまいました。(連日で申し訳ありません。)

 フクシマは、これまでの原子力ムラの、そしてそれを信じてついてきた日本国民の敗戦だったのではなかったのでしょうか。戦後、それまで信じていた軍隊への信頼を失った日本国民は、技術や科学に希望と信頼を寄せるようになった。確かにそれらは日本に平和と経済的繁栄をもたらした。

 けれど、70年後その戦にも負けたのでは・・・。緒戦かもしれませんが、象徴的であったと、将来振り返ることになるような気がします。

 だからこそ、ここから学ばないといけないのに、”原子力ムラ”のエリートたちは、自分たちの価値観を変えず、これまでに得た地をむざむざと敵(って誰?)に明け渡せないと必死になっているように見えるのです。

 フクシマを敗戦ととらえると、国民には、二度と戦争をしないため軍隊を持たないという選択肢もある一方、反省の上に立って、もう一度一から立て直すという選択肢ももちろんあります。

 でも、真実から目を背けて、反省という視点に立たず、過去の勝利の栄光を忘れられずに(安全という)神話を信じ続けて、敵(?)の変容から目を背けているとしか思えない状況・・・。

 とにかく、歴史から、そして目の前で繰り広げられている歴史から学ばないと、手遅れになる・・・そんなことを思った一冊でした。


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朽ちていった命 NHK「東海村臨界事故」取材班

2012-02-17 | ノンフィクション

1999年12月21日午後11時21分

大内久、死亡。享年35だった。

朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
NHK「東海村臨界事故」取材班

新潮社

 1999年9月に起きた茨城県東海村での臨界事故で、大量の放射線を浴びた大内久さんの闘いの記録です。

 2001年にNHKスペシャルで放送された内容が本になったもので、当時その番組をみて、大きなショックを受けたのでよく覚えています。

 核燃料加工施設「JCO」で、ウラン燃料の加工作業中に「臨界」が起き、3名の作業員が被ばくしました。

 大内さんの浴びた放射線量は、20シーベルトと言われています。当時、この単位の意味は全く分かりませんでしたが、今はよくわかります。

 これだけの放射線を浴びて、大内さんの染色体はボロボロになりました。

 被爆3日目に東大病院に転院した時は、彼の右腕が少し赤くなっている程度で、意識もしっかりしており、看護師の人たちからは、「明るい大内さん」と呼ばれていたそうです。

 それが、10日を過ぎたころから、医療用に肌に貼ったテープをはがすと、肌が一緒にえぐれてしまうようになり、細胞分裂ができないため皮膚は再生せず激痛にみまわれるようになります。

 1か月後には、全身が包帯とガーゼに包まれたフランケンシュタインのような状態になります。

 写真を見ると、まさにヒロシマやナガサキの被爆者の写真で見たことのある、焼け焦げたようなケロイド状態です。

 2か月目に入ると、意識も殆どなくなり、助けられるという望みが殆ど持てない状況になりながら、医師たちは、さまざまな治療を施します。

 大量の中性子を浴びた患者がここまで生存したことはなく、医師たちにとっても、手探りの治療で、しかも、国中、いや世界中が注目しているとあって、後には引けない状態だったと思います。

 そういった状況を、医師や看護師などへのインタビューなどを通じて再現しているのですが、読みながらも、もう止めてと叫びそうになるほどでした。

 この本は、放射線事故というものに立ち向かった大内さんの記録と先に書きましたが、実際には家族、そして医師、看護師の闘いの記録でもあります。

 負けるとわかっている闘いを大内さんに強いた、医療者たちの苦悩が痛いほど伝わってきます。

 原子力安全神話という虚構のなかで、医療対策はかえりみられることもなく、臨界事故が起きた。

 事故が起きないのだから、その事故で被爆した人への治療の研究や制度作りをする必要がなかった。そして、福島の後でも、その点については、あまり変わっていないのではないでしょうか。

 だって、実際に事故は殆ど起きないので臨床記録を集めることもできないし、ましてや人体実験などができるわけもないし・・・。

 だからこそ、恐いんですよね。

 福島の状況と、この臨界事故は放射線のレベルで言えば雲泥の差です。

 同じレベルで怖がるのはナンセンスでしょう。

 でも、延長線上にあるという事だけは忘れてはいけないと思います。

 そして、事故に対する対策はある程度とられたかもしれないけれど、

 もし被爆者を出してしまったら、医療は相変わらず何もできない状態であるということも。

 医師や看護師の努力で、どうなるものでもないのです。

 それほどの力が放射能にはあるのだということは、忘れてはいけないのだと思います。 

 余裕がなくて、1か月近く更新を怠りました・・・
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困っているひと 大野更紗

2011-12-11 | ノンフィクション

 昨今、巷で大流行している「絶望」というのは、身体的苦痛のみがもたらすものでは、決してない。

 私と言う存在を取り巻くすべて、自分の体、家族、友人、居住、カネ、仕事、学校、愛情、行政、国家。「社会」との壮絶な蟻地獄、泥沼劇、アメイジングが、「絶望」「希望」を表裏一体でつくりだす。

困ってるひと
大野更紗 著
ポプラ社

 著者は、大学で、ミャンマー難民に興味を持ち、タイやビルマを何度も訪れ、難民キャンプなどで人々実態調査を行っていたが、大学院へ進んで間もなく、免疫性の難病を発症します。掛け値なしの「壮絶」闘病記・・・というか生の記録です。

 全体を通して、これほど悲惨な状況を、ここまで軽いトーンで書けるのは、自分自身の事だからで、人の事ならとても、冗談にはできないことも、笑いにしています。

 彼女は、発症から1年、病院を転々とし、体中に炎症が広がり38度以上の熱にうなされ続けても原因がわからないため、入院さえさせてもらえず医療難民のまま「ムーミン谷」と本人が呼ぶ福島の自宅で「石化」する。

 その後、免疫疾患であろうということで、なんとか某大学病院、通称「オアシス」にたどりつき、入院、ステロイド治療を続けるが、劇的にはよくならない。9カ月の入院生活で、彼女のみならず、家族、友人、そして医者も疲れ果ててしまい、難病を抱えたまま、「オアシス」を出て自活するまでが書かれています。

 帯にある感想に、「笑える」という評もあったけれど、私には、笑えませんでした。「可笑しい」けど・・・。

 彼女に起こったことは、誰にでも起こりうることでありながらも、やはり自分に起こってみないと、本当の意味では理解なんてできない。

 毎日彼女の苦しみを見ていて、本当に献身的に診てくれている医者や看護師の人たちでさえ、やはり彼女自身の苦しみを、彼らの立場で理解しているだけなのだ。

 ましてや、「友人」、「知り合い」という人たちに、いつ終わるともしれない彼女の苦しみに寄り添ってもらうことを期待することはできない。

 そして、行政に至っては・・・。

 彼女は「障害者」に認定されたわけですが、そういう弱者であると社会に認めてもらうだけでも、どれほど大変か・・・。気が遠くなります。

 そんなことが、冒頭に引用したような表現になるのだと思います。

 みなそれぞれの立場でしか、相手を理解できないから、「困っている人」はいつか困っていない人にとっては重荷になっていく。

 ほんとうに彼女が、「もういい」とあきらめてしまえば、彼女の命は今なかったかもしれないのだけれど、それほどの病気と向き合いながらも、様々なことを学び、這いずり回りながらも、泣きながらも、前を見て、そして、「困っている人」の実情を伝えようとするところはほんと凄いです。

 とにかく、医療関係者と行政、福祉関係の人は必読と思いますが、難病とは縁のない私のような、「特に困っていない人」も一度読んで損はない本です。

 たとえ、自分が本当に「困った人」になるまで、本当の意味で理解することはできないとしても。

 先ほど笑えなかったとは書きましたが、しかし本書は「笑い」力をユニークな形で示した本だともいえます。

 彼女の文章に笑いがあるから、多くの人はこの本を手に取るんですよね。

 (しかしこれだけ大変な彼女の本を図書館で借りて読んだことに、罪悪感・・・。できれば1冊買って誰かにプレゼントしようと思います。)

 

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ハチはなぜ大量死したのか ローワン・ジェイコブセン

2011-12-03 | ノンフィクション

 

だが、もうこれ以上何かを足すのはやめる時期にきているのかもしれない。

ハチはなぜ大量死したのか
クリエーター情報なし
文藝春秋

 少し前から、ミツバチの数が減っているということについて話題になっていて、本書についても読んでみたいと思ってはいたのですが、何となく時間がたって忘れていのですが、図書館で見つけた時はうれしかった。

 2006年、アメリカのある養蜂家が自分の飛び回っているハチの数が異様に少ないことに気付いたところから始まる本書は、「ハチはなぜ大量死したのか」という日本語タイトルもあって、ミステリー仕立てのように見えるのですが、小説と違って、読者が納得できるような明快な犯人はわからずじまいです。

 けれど、最後まで読めば、著者が犯人像としてぼんやりと浮かび上がらせたそのシルエットが指し示すのが、読者である自分自身のライフスタイルにあることに気づき、とてもショックを受けました。

 受粉媒介者としてのミツバチは、いつしかある種の農業にとっては無くてはならない、「家畜」になっていた。その効率の良さのために、より多くのミツバチが求められ、養蜂家は、さまざまな技術を開発して、ミツバチの大量生産を実現し、それを農家に「レンタル」するのが一般的になっていたのです。

 一方、農場では、害虫を駆除するために多くの抗生物質がばらまく。

 けれど、より多くの収穫を得るためにミツバチなどの特定の益虫だけは残しておきたい。

 だけど、それがいかに都合の良いことを言っているか明らかです。

 とはいえ、それであきらめてしまうのでは、現代社会で生き残ることはできないから、様々な工夫をして、短期的には影響がないように見えていたのですが、人間とは違ってミツバチの世代交代が速いため、直接その個体への影響がなかったように見えたとしても、生態としてはあきらかに影響を受けていたのです。

 農薬は、害虫をその場で殺し、死ななかったミツバチの体にとりついた残留農薬は何かしらの役目を果たし、ハチの行動をおかしくする。そして、効率的に設計された大量の仲間で込み合う養蜂用の巣で生活するハチに取りついたウィルスやダニなどを殺すこともできず、瞬く間に蔓延する。

 著者が書いているように、

 問題は、農場が現代的な経済システムに吸収されてしまったことにある。

 ということだと思います。

 その結果、農業経営者は今、会社経営者のように物事を考え行動するように迫られている。農業経営者がビジネスに聡くなるのは何も悪いことではないが、農場(少なくとも環境に気遣う農場)は、ほかの事業の様に運営することはできない。事業は無限に成長することを前提としている。

 けれども、生物システムの世界では、癌を除けば、無限の成長を続けるものなど存在しない。健康的な農場は自然のサイクルの中にある。つまり、順調な成長と順調な腐朽という、うまく維持されたバランスがとれているのだ。

 と、本書はミツバチの減少という現象を通じた、現代社会の矛盾と、危うさに対する警告書でもあります。

 

 「集団としての知性」と名付けられた章で、紹介されていたミツバチの習性は、本当に魅力的。

 女王蜂、育児蜂、内勤蜂(貯蜜蜂)、外勤蜂(採餌蜂)といった役割分担も、エサを見つけて巣に持ち帰った後、ダンスを踊って、その場所を仲間に知らせる方法など・・・・、これらはまさしく「知性」そのものです。

 集団にこれほどまでに美しいと感じさせる知性があるとしたら、私たち人間だって社会を作って生きる種なのだから、「集団としての知性」を持っていたはず。「個」を尊重することは、なんら間違いではないけれど、けれど、集団を軽視することで、失う「知性」があったということをじっくり考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 誤解を恐れずに言うと、本書を読みながら「生まれてくる子供たちが、みんな寿命をまっとうする社会」が理想の社会なんだろうかと、ずっと問い続けていました。

 私たちは本当はもっと、「病気」や「死」を受け入れるべきものなのではないのでしょうか。

 そんな風に考えては見るものの、インフルエンザにかかりたくないから、毎年受ける予防接種をやめることさえできない私・・・。

 つい先日70億を突破したという地球上の人口、これだけの爆発が「順調な成長」であったとすれば、それは「順調な腐朽」がどこかで来るに違いない・・・。

 それは、たぶん多くの人が認識していながら、明日の事でないからなかなか、「経済性を無視」してまで、現状を変えることはできない・・・。

 ミツバチの世界を見ながら、現代社会の行く末を考えさせられました。

 読み終わって2日、まだまだ自分の中で考えがまとめられないで沸々としているところです。

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会社人間だった父と偽装請負だった僕 さようならニッポン株式会社

2011-11-16 | ノンフィクション

赤澤の個人的体験と心情をベースに置いたこの本は、だからこそ格差の問題や政治の問題など表層の諸問題を浮き彫りにするだけでなく、人の営みと哀しさを、とても普遍的に書き出す。

だから最後に言明しよう。これは赤澤の体験であると同時に僕の体験でもある。赤澤の心情であると同時に僕の心情でもある。そして何よりもあなた自身の体験であり、心情であるはずだ。 

 映画監督、作家 森達也

会社人間だった父と偽装請負だった僕―さようならニッポン株式会社
赤澤 竜也
ダイヤモンド社

 「本書によせて」として、冒頭にある、映画監督の森達也氏の文章を引用したが、まさにその通りの感想をもった。

 著者の赤澤氏は、1964年生まれ。大手都市銀行の役員だった父親は、バブル崩壊寸前に脳内出血で命を落とす。著者は、敷かれたレールの上を歩くことを拒否し、高校生の彼女の妊娠を機に駆け落ちし、建設現場などで働くようになったが、親の説得に応じて、なんとか大学に戻り卒業する。銀行員として実績も上げるが、バブル崩壊後、父親が勤めていた銀行の巨額損失事件などを機に、裏社会に身を落とす。その後、偽装請負トラック運転手なども経験し、現在に到るまでの人生を父親の人生とパラレルに書いた自叙伝。

 ほぼ同年代生まれで、サラリーマン家庭に育ったの私にとって、氏の子供時代の体験は、森氏の言葉通り、自分の体験であった。

 日曜日は、「時事放談」から始まり、「兼高かおる世界の旅」、夢路いとしこいしの「がっちり買いましょう」とテレビが続くというところなど、まさに、そうそう~!と声を出しそうになった。団地の間から見える給水塔、父親の会社の運動会・・・まさに私の子供時代にみた風景だ。

 私は女でもあり、両親の期待も大きくはなかったため、自分の前に、「人生のレールが敷かれている」と感じたことはなかったが、気が付けば、そんな言葉が死語になりつつあるほど、社会は流動化し、不安定化している。

 トラックドライバーとして、格差社会の底辺を生きた著者の体験がやはり一番迫力があった。

 貧困層の苦難をひたすら大げさに報ずるルポにみられるひと昔前の左翼ちっくなノリにも僕はついていけない。仕事仲間は雀の涙ほどの給料にもかかわらずパチンコで三万、五万とすっても平然としている連中ばかり。いい意味でも悪い意味でも「のんき」だなと思うことが多かった。問題は賃金にあるのではなく、安全やモラルの方にあるのではないか。

 という文章に、考えさせられた。

 ジョージオーウェル作の「1984年」にあった、社会の最下層「プロール」・・・党員ではない彼らは、人間以下の存在だが、党員たちより自由に生きていた・・・の様子が鮮やかによみがえってきたりして。

 小泉改革の頃、競争がよりよい社会をもたらすのではと、思ったこともあったが、競争の結果、危機にさらされたのは、「安全やモラル」だったのか・・・。

 文章は、やや硬く、洗練された感じではなく、同じ内容ならもっと面白い本にできたかもしれないなぁと思われるところもあったので、同時代性に訴えることができなくなった30年後まで残る本とは思えないが、今をあらわす良い本だと思いました。

 

人気ブログランキングへ そろそろ、ストーブだそうかなぁ


ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由  ジョシュア フォア

2011-11-01 | ノンフィクション

 私たちは、記憶によって形成された習慣の集合体にすぎない。そして記憶は、生活の中で、習慣を徐々に変えていくことによって作られる。言ってみれば、私たちの実態は、記憶のネットワークなのである。どんなジョークも、発明も、洞察も、少なくとも今の時点では、外部記憶によって作られたものではない。面白いことを見つける、複数の概念を結びつける、新しいアイデアを生み出す、文化を伝える-そういった行為の基盤には、必ず記憶の力がある。特に現代社会では、記憶の役割がかつてないペースで衰退している。

ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由
ジョシュア フォア著  梶浦真美訳
エクスナレッジ

 こういうタイトルは、あざといかもしれないと一抹の不安を覚えながらも、最近、記憶力の低下に悩む私にとっては抗いがたい魅力があり、つい購入してしまいました・・・。

 そして・・・良い意味で期待外れ!

 安易なノウハウ本ではなく、まじめな”ノンフィクション”でした。

 シャッフルした1組のトランプの並びやランダムに並んだ数字を5分で覚えられる人は、脳の性質を活用した覚え方をしているに過ぎない。

 それは数字も言葉も、人の顔と名前も、イメージに変換して覚えるということのようですが、ただし、これは並大抵の努力で手に入れられる技術ではないのです。

 だから、”ミルミルできるようになる”とか、”誰でも一日10分で”とかいうような魔法を期待していた怠け者の私には、ちょっとがっかりだったのですが、決して記憶法のノウハウをこと細かく説明する類の本ではなく、冒頭に引用したように、”記憶”というものと真摯に向き合った著者の渾身の作で、なかなか読みごたえがありました。

 「本」は一種の外部記憶装置だったのだと気づかされてショックを受けましたが、その延長線上に、インターネットがあり、そこにある情報へのアクセス方法は、他人が(ビジネス=金儲け目的で)作ったプログラムでしかないという状況にある自分たちの内部記憶装置である脳のことを考えると、危機感すら感じます。

 コンピュータも電子望遠鏡もなかった時代の人々がどれほど天文学に詳しかったかなど常々不思議に思っていたけれど、当時の人々の脳以外の外部記憶を持っていなかったため、「様々な人のアイデア」を知る機会が少なく、自分の頭を使ってとことん考えていたのだろうし、得られた少ない情報は徹底的に頭に叩き込んでいたのですよね。

 私がこうやって自分の読んだ本のことをブログに書いているのも、読んだ本のことをどこかに書き残しておかないと、情けないほど忘れてしまうからなのですが、本当は、読み終わった後、印象に残ったことを自分の中で「記憶」し、「消化」する努力をしておくのが、正しい本の読み方なのだと、改めて強く思いました。

 とはいえ、そんな努力をするには怠け者すぎる私なのでいくつか、印象に残った部分を書き留めておきたいと思います。

 プラトンの『ファエドルス』からの引用

 「これは一つの学問です・・・国民の記憶力を向上させることができるでしょう・・・私の発見した方法なら、記憶力も知恵も育てることができます」と、(文字を発明した)テウトがエジプト王タモスに告げたところ、タモスはその贈り物をなかなか受け取ろうとしなかった。「それを知ってしまったら、魂の中に『忘れてもいいという考え』が埋め込まれるでしょう。自分の記憶力を働かせるのをやめて忘れやすくなってしまいます。書かれたものに頼り、自分の内部からではなく、外部の目印を手段として物事を思い出すようになるでしょう。あなたが発見したのは」記憶力を身に着ける方法ではなく、想起する方法です。あなたが使徒に授けているのは真の叡智ではなく、それに似た偽物です。話を聞かせるだけで、何も教えていない。一見、彼らは豊富な知識を身に着けたように見えるでしょう。ですが、聞いたことのほとんどはわかっていない。人間は英知ではなく、英知をもっているといううぬぼれで満たされ、同胞の荷物になってしまいます。」

 紀元前の英知のある王の危惧は、現代に至っていよいよ現実のものとなってきていますよね。著者は、「記憶の終焉」という章の中で、こう述べています。

 次に目指すのは、ブレイン・コンピュータ-・インターフェイスを利用して、脳がデジタルのメモリーバンクと直接やり取りできるようにすることだ。すでに、何人かの研究者がこのプロジェクトに取りかかっている。今後10年以内には、主要な研究分野になるに違いない。

 

 オー・・・いよいよマトリックスの世界か。

 本書を読んで、自分の記憶力の衰えの原因ははっきりわかったけれど、安くて大容量の外部記憶装置を前に、自分の記憶力を鍛えるために、私は努力できるのだろうかと考えた時に、答えは限りなく悲観的。何か、このままでは地球がダメになってしまうとわかっていても便利な生活を捨てられない人間の業と相通じるものがあるなと、感じてしまいました。

 読み終わって、10日以上たってこのブログを書いているのだけれど、これを機会に、もう一度消化する努力をしてみよう!

 

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知事抹殺 つくられた福島県汚職事件 佐藤栄佐久

2011-07-09 | ノンフィクション
知事抹殺 つくられた福島県汚職事件
佐藤栄佐久(前福島県知事) 著
平凡社

 著者の佐藤栄佐久氏は前福島県知事。

 5期目の任期途中、2006年9月、汚職疑惑が持ち上がり辞職、その後、逮捕され、2008年8月1審で有罪判決を受けました。

 2009年出版の本書は、もちろん今回の福島第一原発の事故を批判したものではなく、前半は知事としての自伝的な内容で、後半は汚職事件で逮捕され有罪判決を受けるに至る経緯で何があったかということをご自身で書かれたものです。

 佐藤氏の実弟が経営する会社の土地の売買をめぐっての事件で逮捕されたのち、やってもいない収賄を認めた裏にあった検察特捜の取り調べについての記述は、読んでいるこちらが苦しくなるような迫力です。

 もちろん、この本を読んだだけで、司法は有罪と認めたものを、冤罪であると言い切れるものではありませんし、実弟については、経営する会社の資金繰りが厳しいとはいえ、何故、このような事件に巻き込まれてしまったのかがはっきりとは書かれていませんし、どちらにしても脇が甘かったという点では落ち度があったのだと思います。

 とはいえ、特捜といえば、昨年無罪になった厚労省の村木厚子氏の事件があり、そのやり方のあざとさがいろいろ報道されていましたから、本書の佐藤氏の記述も、より真実味があります。

 そして、今回の福島第一原発の事故。

 佐藤氏は、福島県の原発の安全性を巡って、国とはかなり対立してこられた知事だったようです。

 国と保安院、そして事業者である東電がいかに信用できないかを身をもって経験されており、確かに、今読むからこそ、非常に説得力があります。

 今、様々に報道されている問題点と、何も違いません。

 少し違うのは、東電の姿勢はある程度(全面的ではないです)評価されている点で、真の問題は国にあると考えておられる点くらいです。

 やはりこの本は、今回の事故が無ければ、それほど話題にならなかったかもしれません。

 少なくとも、政治に興味のない私が、手にすることはなかったでしょう。

 しかし、特捜のでっちあげにしても、原発事故にしても、大きな話題になった時に初めておこったものではなく、おこるべくしておこっている。

 そして、どちらも国という権力をバックにするが故に、メジャーなマスコミはきっちりと批判せずにきたのだということがわかります。

 もちろん、著者の表現をかりれば、私たち国民が、「自分にかかわり合いがでてきて、はじめて関心をもつひとたち」だったことが、マスコミの姿勢にも現れているだけなのかもしれません。

 この本のカテゴリーを私はノンフィクションとしましたが、別の言い方をすれば政治家の自伝ですので、やはりどれだけのことをやってきたかということをアピールしたいという自己顕示欲を感じないこともありません。

 ですから、著者が巻き込まれた収賄容疑に関わっているのが、小沢一郎氏の疑惑でも名前のあがった水谷建設ということもありますし、できればこの話は、誰かジャーナリストがきちんと取材して書いてほしいと思いました。

 そして、関西在住者としてちょっと、気になったのは、

 「安全軽視は関西電力の企業文化」のようだ。

 という言葉、これ、怖い。

 九電のやらせメール事件もあり、日本の電力会社はいったいどうなっているのでしょうか。

 競争がないからこと、安全性などに十分お金をかけられるということではないんでしょうか・・・。

 それから、

 「安心は科学ではない。事業者と県民の信頼によって作られるものだ」

 原発は巨大技術であり、その細部までわれわれはうかがい知ることはできない。ならば、原発の何を信用すればよいのか。外部から見れば「原発を動かす人、組織、そして仕組」が信頼に足ると思われるものであることが必要なのだ。

 という言葉。

 原発を動かしたいと思っている人たちは、このことをもう一度考え直してほしいと思います。

 脱原発に国民の気持ちがながれていることを、推進派の人は、わかっていない素人が何をいっているんだという目線で見ているようですが、

 失ったのは信頼。

 それは、科学や技術では修復できない。

 この人が知事を続けていればどうなっていたか・・・などと考えても意味のないことですが、私たちがこの国の将来を考えるとき、もう少し地方の発する声に、真摯に慎重に耳を傾ける必要があるのだとつくづく思いました。

 

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東京電力 帝国の暗闇 恩田勝亘

2011-04-10 | ノンフィクション
東京電力・帝国の暗黒
恩田 勝亘
七つ森書館

 

 本屋さんでもいろいろ原発関連の本の特集コーナーができていて、ついつい立ち読みしていまいますが、その中でも、ちょっと毛色の違うこの本を買ってしまいました。

 本書の出版は、2007年11月。

 著者は1971年から週刊現代の記者をされており、原発についてもこつこつと取材をされていたようですが、2007年7月に、新潟県中越沖地震が起き、東京電力の柏崎刈谷原発で、3号炉のタービン建屋の外にある変圧器の火災があったことを受け、急きょ本書をまとめられたようです。

 そういえば、そんな事があったけれど、すっかり忘れていました。

 人の姿が動いている様子の無い原子力発電所から黒い煙が上がっているのに、消火活動が行われていない様子に、違和感は感じたものの、”ということは大したことじゃないのかな”などと思ってしまったことを思い出しました。 

 当時は、原子力発電所で、放射能漏れ事故を起こし、酷いことになるなんて、可能性としてはあるが、まあないんだろうという、”安全神話”の信者でしたからねぇ。

 いろいろ事故を隠ぺいしてたこともニュースにはなっていたようですが、全くといっていいほど興味を持っていませんでした。

 そういう、隠ぺい体質の浦に何があるかというようなことを丁寧に取材されています。

 ただ、残念なのは、多分週刊現代に掲載されたと思われる記事が、ぽろぽろ間に挟まれていて、それらはやはり週刊誌的なあざとい手法・・・たとえば、チェルノブイリの2mのニワトリとか、福島の原発周辺の町では、奇形児が生まれているというような話が、十分な根拠を示さずに書かれているため、本書全体の信ぴょう性が落ちてしまうのですよね。

 だから、本書が出版されてもさほど話題にならなかったことも仕方がないのですが。しつこいようですが、それが残念です。

  本当に、問題意識を持って書くなら、そういうところをきちんと押さえてほしかった。ただ結局のところノンフィクションだとどうしても地味なので、話題になりにくいから、できれば山崎豊子さんとコラボして、東電版 ”沈まぬ太陽” を書いてもらえばよかったのに・・・・。

  JALは、御巣鷹山の事故で、多くの人の命を奪いました。福島第一原発の事故は、今のところ人の命が失われたという公式な報道はないようですが、社会的なダメージは大きい。

 この本を読んでしまうと、東電に対する批判も、まだまだ押さえ気味に感じますが、現在は事故が進行中なので仕方がないとして、今後、少し落ち着くにつれこういう話がいろいろ出てくることを期待します。

 その時、私たちは、もちろん東電の体質に厳しい目を向ける必要があると思いますが、同時に、国民が無関心であったことが、この事故を生んだのだという視点も忘れてはならないと思いました。

 (ただ、首都圏では東電社員に対する嫌がらせなどがあると聞きます。本書でも基本的に東電の一般社員にたいする非難はありません。)

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