本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

脳のからくり

2008-07-27 | その他
脳のからくり (新潮文庫)
竹内 薫,茂木 健一郎
新潮社

このアイテムの詳細を見る

 

 竹内薫氏と言えば、『99%は仮説』で、理系オンチの私を本当に面白いと思わせてくれた作家ですから、脳の本好きの私にすれば、この本は見つけてしまった限り、買わないわけにはいかなかったのです。

 

 

 本書は脳に関する”超”入門というコンセプトでまとめられており、素人が途中で挫折してしまわないため、各章を短めにまとめ、あまり専門的な話に踏み込まないように苦労されているのがよくわかりました。ですから、わかりやすい反面、”そこから先がおもしろそう”というところで、ぷちっと話が切れてしまい、物足りない~感も否めませんでした。

 

 ちなみに、茂木健一郎との共著となってはいますが、実質は竹内氏の著作で、茂木氏は監修という立場で、最後の1章だけ寄稿されているのみです。 

 

 

 脳の話が、科学に弱い私にとっても、面白いのは、それが人間の”意識”を作っているところだからです。たとえば、胃が食物を消化する仕組みを科学的に説明されても、感心こそすれおもしろいとまではは思いませんが、人の”気持”の発生がそれと同列(といってはあまりに大雑把ですが)に説明されるなんて・・・。

 

 

 科学は、”気持ち”を排したところにある、もっとも非情で無機質なイメージだったのに、脳の機能を媒介としてどんどん近づいてきている。

 

 

 また、芸術も脳のなせる業ですから、脳の視点からの分析もありなんですね。本書で引用していた岩田誠という人の研究が、面白かったです。

 

 

 人がものを視る時、網膜に映った像を脳は、”色彩”、”形態”、”空間”、”運動”の4つのモジュールに分けて認識し、それらを再度組み合わせてイメージを作り上げている。印象派以降の画家の中には、そのモジュールを意識的にコントロールしたイメージを描いているというのだ。たとえば、ピカソは、空間視モジュールを意図的に弱めており、モネは色彩モジュール以外を弱めているなど・・・。

 

 

 うちもダーリンが画家のため、”視る”ということは、”記憶”とは切り離せないという認識をいつも聞かされていました。あー、プロの画家っていうのは、やっぱり視るということを客観的に捉えているんだなぁと感心しておりまいたが、こうやって脳の機能と絵画を結びつけて説明されると、またダーリンに対する尊敬の念が増すとともに、わけのわからない現代絵画も少し、こういう観点で見てみようかなという気持ちになりました。(多分それでも、私には説明されないとわからないでしょうが・・・)

 

 ちなみに、本書内で、著者が別名で書かれている小説が引用されていましたが、こちらの方は、もうひとつ・・・ですね。


車輪の下

2008-07-22 | 小説
車輪の下 (新潮文庫)
ヘッセ,高橋 健二
新潮社

このアイテムの詳細を見る

 

 読書に目覚めたのが、30代後半くらいからなので、こういう”若い頃に読んでおくべき本”の多くを読まないで来てしまいました。だから、自分の教養のなさに対するコンプレックスはどうしようもないのですが、この頃特にそういうことが気になって、古本屋で安く売られている名作を見つけたら、なんとなく買ってしまうのです。けれど、まず手に入れたことに満足して、ついつい後回しにしてしまうんです。

 

 この度、めでたく、本書を、そんな本が並ぶ”いつか読もうと思う本の棚”から、”読んだ本の棚”に移動させることができました。

 

  学生の頃の私は、これを読みきることはなかったかもしれないなぁと、ややこの物語を退屈に思う今の私がいます。けれどその一方で、現実感を持って思い出すことができなくなっている、青春時代のなんともいえない不安や、不満を抱えていた十代の私なら、本書の主人公に感情移入してしまうのかもしれないという、過去の自分に対するちょっとした”期待”もあります。

 

 

 自然の美しさにめざめ、人々の正直な日々の営みから多くのことを学ぶ準備ができ始めた少年ハンスは、すこしばかり人より聡明であったばかりに、周囲からの絶大な期待を受けて、神学校をめざすため、勉強漬けの日々を送ることになる。めでたく神学校の入学試験に受かり寄宿舎生活を始めるが、大人の価値感に縛られない友人との出会いが、彼に決定的な影響を与える。しかし、小さな田舎町で育った彼にとって別の価値観を混乱無しに受け止めることは不可能で、結局は神経衰弱に陥り、学校を去ることになってしまう。しかし、故郷に戻っても、学校をドロップアウトした少年を自由にさせてくれるはずもなかった。

 

 

 あとがきによると、著者のヘッセの若い日の自伝の一部なのだそうです。それで、最後のシーン -故郷の川を流れていくハンスの姿- は、きっと当時のヘッセが何度も何度も思い描かずに居られなかった自分自身の姿なんだとはっきりわかりました。多分、そのイメージをありありと思い描くことができたからこそ、彼は生きることができたんだと思います。

 

 

 読みながら、最近の若者による短絡的な殺人や傷害事件をふっと思いました。

 

 

 そう、あの時期、”自殺”することで、大人を見返してやれるのではないかという暗い想像を何度もしたという人は決して少なくないだろう。それが一種の快感であったことは私自身の記憶から消えてはいない。実際にそこから一歩踏み込んでしまった人は、自分の周囲にもいたし、そのような心が描かれている文学作品を探すのはさほど難しくないはずです。

 

 

 けれど、もしそこで、自分ではなく”人”を殺すというような文学作品があったとしたら、その必然性はどのような描写になるんでしょうか。例えば、”罪と罰”から、連合赤軍などの世界への補助線は比較的容易に引けるけれど、私を含む殆どの大人には、自分の心の闇と昨今の無差別殺人を結ぶ線を想像することはとても難しい。どこかで"短絡(ショート)”したとしか思えないんですね。

 

  

 太陽はもう山の後ろに沈んでいた。山の黒い輪郭は毛髪のように細い、モミの先端の線で、緑色がかった青い色の水々しく澄んだ夕空をくぎっていた。灰色の長く伸びた雲が黄色く褐色を帯びた夕焼けを映しながら、希薄な黄金色の大気を縫って、家路をたどる船のようにゆっくりと快げに谷の上手へ漂っていった。

 

 

 この描写だけで、その風景が思い浮かび、その美しさに息の詰まるような気持ちになれるだけの記憶が刷り込まれている心は、なかなか短絡しないのでは・・・なんて考えてしまいました。(これが短絡的?)

 

 


本は10冊同時に読め

2008-07-20 | 評論
本は10冊同時に読め!―生き方に差がつく「超並列」読書術 本を読まない人はサルである! (知的生きかた文庫 な 36-1)
成毛 眞
三笠書房

このアイテムの詳細を見る

 

 本好きの人が書いた本で、こんなにいやな気持ちになったのは初めてでした。

 

 カバーにある著者紹介文によると、1991年から2000年までマイクロソフトの社長、その後、投資コンサルティング会社を設立して現在に至っているとのこと。いわゆる「勝ち組」ですね。

 

 ・本を読まない人間はあらゆる意味で成功できない

 ・本は1冊づつ読まずに、10冊並行で読み、面白くない本は最後まで読むな

 

 といことだけで、同じことを、自分がいかに成功したかという自慢を絡めて繰り返しているだけ。

 

 

 そして、「成功本」は読むなという立派な主張をされているわりに、本書のカバーには、

 

生き方に差がつく「超並列」読書術

 

 

 というキャッチコピーが・・・・。

 

 そして、本を買うときに装丁やしおりや紙の質までこだわる著者は

 

 ここまでこだわる私の本なのだから、本書は読者に胸を張ってすすめられるかっこいい本になっている(はずである)。

 

 と書いておられるが、残念賞。典型的な成功本の装丁。(成功本嫌いの私がうっかりかってしまったように”成功”という言葉はかろうじて入っていないが)

 

 

 超並列読書術のどこがいいかというと、それは、多くの情報が効率よく得られるし、集中力も養われるからだそうだ。

 

 

 確かに、そういう考え方もあるだろう。しかし、ご自身の長年の読書の成果をもって”人生、勝ち組”になったとしても、

 

 ”どんなに偉い人でも、本を読まない人を尊敬する必要は無い” 

 

 

 というこの、傲慢さはどうだろうか。

 

 自分の娘の自慢を2度も書いているところなど、全くの俗物である。

 

 その辺りにごろごろいる、自慢親父の飲み屋での、ヨタ話と同じではないか。沢山本を読んでいるので、バラエティはあるが、結局は、本に書いてあった誰かのアイデアをいただいて説教をしているだけである。

 

 

 成功とは、こういう人たちの仲間入りをして、5万の料理を食べて、2万円の料理の味気なさを共感を持って話せるようになるというということなんだろうか・・・。

 

 とにかく、本が好きな人なら読む必要はないです。あまり読まない、活字慣れしていないかたには、ま、文章は読みやすいし、難しいことは書いていないから、読めるでしょうが、あまり面白いものでもないです。


科学の扉をノックする

2008-07-16 | エッセイ
科学の扉をノックする
小川 洋子
集英社

このアイテムの詳細を見る

 

 小川洋子さんは、博士の愛した数式で数学に目覚め、今度は科学に手を伸ばしたのかな・・・・って思いました。

 

この本は、私の個人的な好奇心を満たすためだけに書かれたものなのです

 

 と、あとがきにご本人が書かれていますが、誠にその通りで、もう少し科学的な内容・・・といっても、入門程度ですが・・・を期待していた私にとってはやや肩透かしだったかなぁ・・・。

 

 

 ただ、逆に科学者の方々の、自然に対する畏敬の気持ちを、著者の文学的な感性がすごくうまく溶け合って、独特な雰囲気がでていました。


ハードワーク 低賃金で働くということ

2008-07-13 | 小説
ハードワーク~低賃金で働くということ
ポリー・トインビー
東洋経済新報社

このアイテムの詳細を見る

 

 

 単純作業は安い労働力でまかなうことが本当に合理化なんだろうか・・・。それが競争力をつけることになるんだろうか・・・。

 

 ということを、問いかけられた一冊だった。

 

 本書は、英国の「ガーディアン」の女性記者が、最低賃金の仕事をいくつか体験したルポルタージュ。

 

 日本でもワーキングプアという言葉を昨年ごろからよく耳にするようになったけれどイギリスは、一歩先を行っている。

 

 格差社会

 

 働いても生活が楽になることは無い。給料は上がらず、食べるだけで精一杯。子供に十分な教育を受けさせることもできないから、階級が固定化されてしまう。

 

 サッチャーが残したものだ。でももちろん、国としての経済力はそれ以前に比べてずっと強くなっている。”あちらを立てればこちらが立たず”。

 

 

 日本でも小泉政権下、さまざまな組織が民営化、規制緩和された。だからサービスを受ける私たちの負担は確かに軽くなった。今まで公務員だから給料払い過ぎていたんだと単純に喜んでいたが、民営化によりこれらの仕事が”最低賃金”で働く人により支えられることになったということに気がついていなかった。

 

 イギリスの場合社会の最下層でこれらの仕事を担っているのは主に移民と女性のようだ。

 

 

 たとえどんな職業でもそれが社会にとって必要な仕事なのであれば、その仕事をフルタイムですることで得られる収入が、生活していけない額というのは歪んだ社会だ。

 

 

 だけど民間企業が行う事業である限り、競争力が必要で、比較的誰にでもできる仕事であれば、仕事を求める人が豊富にいるので賃金は下がっていくのが、市場原理・・・。

 

 また、企業にもっとお金を儲けてもらい、沢山税金を払ってもらうためには、あまり高い税率はかけられない。海外に逃げられたら元も子もないから。

 

 こうやって富めるものは上へ、上へ。持たざるものは下へ下へ・・・。

 

 格差社会は、果たして一億総中流より素晴らしいんだろうか・・・・。

 

 あーーー、わからない 


神無し月十番目の夜

2008-07-08 | 小説
神無き月十番目の夜 (小学館文庫)
飯嶋 和一
小学館

このアイテムの詳細を見る

 

 どんな話か予備知識を入れずに読み始めたため、読み始めはかなり戸惑った。

 

 ミステリアスな始まりは、フィクションかと思わせるが、実際には時代小説だ。ただ、支配者の歴史ではなく、支配される側の歴史だったのがとても新鮮だった。

 

 関が原から2年、小生瀬という、陸奥と常陸の国境の村で事件は起こった。この地は、古来より私領の荘園にはならず、保内衆とよばれる土豪による自治が行われていた地域で、各村は軍役を課されていたため、年貢は比較的緩く、山奥ではあるが比較的豊かな生活を営んできた。しかし、徳川の世となり、戦がなくなったことから、このような村の存在意義はなくなり、ただ米を作り年貢を納める村への変換を強いられることとなった。しかし、誇り高い村人にとってはそれは耐え難いことだったのだ。

 

 年貢は現代の感覚でいう税金とは違う。なんとか死なずに、働けるだけの最低限の食料だけを残してあとは、全部お上に吸い上げられる。それは単に誇りを捨てるだけではなく、生き地獄への転落を意味していた。だが、戦場の地獄を知る大人たちは、同じ地獄なら生きていくことを選ぼうとし、戦を知らない若衆は、蜂起を選んだ。そして結局は一村亡所という村人皆殺しという結果になってしまったのだ。

 

 この経緯を、掘り起こして小説にされた著者には敬服する。ストーリーもとても重厚で、中世から近世への価値観の変化の描き方がとてもリアルで、胸に迫るものがありました。

 

 

 水戸周辺の佐竹直轄の蔵入れ地であった所の民は、代官に支配されることに慣れ、すべて他人任せで数算すらろくにできない。物事を考えるにあたって、基になる読み書きや算術の能は、支配に慣れきった場ではかえって悩みの種を生じ、生きるうえでの障害となるばかりだった。民のほうからすすんで物事を考える術を放棄し、佐竹の代官とその手先でしかない肝煎から一方的に割り当てられた年貢をただひたすら完納することを目指すものばかりになってしまった。抗う意思どころか誰かに指図されなくてはもはや生きる術さえ見失っている。

 

 

 戦争と平和について、かなり考えさせられる文章だ。戦の時代は、自分で物事を考える人々が必要とされる。平和の時代は、自分で考える民は不要なのだ・・・。

 

 そして、戦いの悲惨さを知らない誇り高い若者はテロに走る。

 

 うーーーーーん。今の日本への警鐘だなぁ・・・。

 

 と、本書は読者にいろいろ考えさせてくれる良書だった。登場人物である何人かの検地役人は一人一人の事情と心情とそれに基づく行動がとても丁寧に書かれており、単なる武将の英雄譚ではない。が、最後まで読んでもよくわからないことがあった。水戸の家老が乗り出して平定したはずの農民蜂起なのに、なぜそれを後日検めに来た人にはそこでおこったことが伝わっていなかったのか?私の読み方が甘いのかもしれないと少し読み返して見たが、よくわからない。

 

 あえて、そのあたりまでは描かないで、読者の想像力に任せてくれているのかもしれないのだが、ちょっとすっきりしないのが残念だ。