gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

賭けた

2018-06-30 17:34:28 | 日記
勝負というのは、文字どおり勝ち負け事である。勝つか負けるかだから、或る場面では賭けることが必要になって来る。賭けには危険が伴う場合があることは当然である。ハズれたらオワリである。それがギャンブルというものだ。

茨城の中学生時代、私はラムネ(ビー玉)の名手だった。指先のこともあるが、視力が抜群(2.0)だったことが大きかった。同学年にやはりラムネの巧いのがいた。名前は遠藤四郎で、みんなからはシローと呼ばれていた。ヤボ(私の呼び名)とシローの決戦には何人もの仲間が観に来た。ラムネを50個ずつ賭けるという大勝負もあった。ラムネ1個は店で買えば4円だったから、約200円分の賭けになる。焼きそば1皿30円の時代である。私がシローの玉を狙う。距離は4メートルほどで、もし外れれば私の玉は転がることは少なく、シローの手の届くところに留まってしまう。私は指先の玉を確かめ、左眼を閉じてシローの玉を狙った。

サッカーワールドカップにおける対ポーランド戦で、日本の西野監督は最後の12分間にボールまわしで0対1の負けを選んだ。別の場所で行われているゲームでセネガルが敗れることが、ベスト16入りの条件であり、そのことに賭けた。この時間稼ぎ策には賛否両論があることは当然である。西野策に賛成は56、反対は36とスポーツ紙にある。私は賛否よりも西野氏の賭けを最初に思った。西野氏は大きな賭けをしたと思う。外れたらオワリの賭けをしたのだと思う。賛否より先にそのことを想った。

介護

2018-06-30 13:58:28 | 日記
「介護とは、排泄物の処理」と、曽野綾子さんの著書の紹介文の1行にあった。その通りだと思った。曽野さんは、ご主人の三浦朱門さんを自宅で看ておられたようだ。私も入院時の経験から、看護婦さんの仕事を多少は知っているが、やはり排泄に関することは大変な業務だと思う。そのことは1つの特技だと言えるとも思う。私の祖母が最後に寝たきりになったとき、近所のおばさんを頼んで、その人が以前に看護助手であって、病人の下の世話に馴れていたことで、どれだけ助かったことか。

5,6人の患者さんがテーブルを囲んでいて、2人の看護婦さんがその間に座ってテーブルの上の食べ物を患者さんの口元に代わる代わるスプーンで運んでいる場面を見たことがある。自分でスプーンを扱えないのはなぜなのかがよくわからなかった。皆さん、腕は不自由そうには見えなかった。認知症を患って食事を忘れるということなのだろうか。一度見ただけだったが、ずっと頭に残っているシーンである。

デイケアサロンに行く。歩行器を押して玄関に入る。スタッフの女性が付き添ってくれる。用意された椅子に腰かけて、自分で靴を脱ぐ。そこまでは自分でできる。スリッパを出してくれる。これは手伝ってもらわないと履けない。歩行器でサロンの奥の麻雀卓に行く。椅子をひいてくれる。雀卓の上に手をついて、ヨイショと腰を落とす。「もう少し前の方がいいですよ」、2,3度立ち上がって定位置に着く。次々に、他の3人の麻雀メンバーがやって来る。みなさん、スタスタと歩く。金曜日午後の全メンバー約20人中、歩行器は私だけである。つまり、介護されているのは私だけではないかと思えて来る。このサロンに来る人達はすべて要介護認定者であるはずなのだが。そのことをケアマネさんに話すと、「認知症の方もいらっしゃいますよ」と答えた。

手先、指先

2018-06-30 13:39:49 | 日記
家人が食卓に大きめの皿を運んで来て、その上に白いペーパーを広げ始めた。ペーパーは春巻きの皮であって、中に包むタケノコ、豚肉、椎茸の炒めたものは別の器に入っている。私は1杯目の水割りウィスキーを呑んでいる。家人が四角い皮の中にスプーンですくい取った具をのせて包みこんでいく。指先が器用に動く。うまいものだと感心する。

この世には器用な人がいる。手先、指先の使い方が器用な人がいる。そういう人達は、私のような不器用人間とは脳の構造も違う気がする。たとえば、正方形の箱があって、別の所に丸いものや三角形、六角形のものがバラバラにあるとして、それらを正方形の箱におさめる必要があったとする。私ならどうするか? すぐにあきらめる。誰かに依頼する。しかし器用な人は違う。どうすれば収納できるかを考える。やがて、策が浮かぶ。最善でなくても、次善であってもとにかく答えを出して指が動く。そして、多少の時間をかけてでも、なんとか収納してしまう。楽器の演奏だって、器用人間の世界だと思う。もちろんピアノの演奏と、品物の片づけでは感覚は違うが、指先の器用さは共通する気がする。

市販の春巻きの皮は10枚が1パックになっているそうだ。家人の手で作られた巻物は形が整っている。中華料理店のものよりは大きめだ。具はすでに炒めあがっているから、あとは揚げるだけで、数分で出来上がる。2杯目の水割りのツマミは出来立てのスプリングロールになる。

認知症

2018-06-30 13:32:52 | 日記
「こちらは鎌倉警察署です。今日午後2時頃…」というアナウンスが聞こえる。認知症の老人が行方不明になったのだ。いわゆる、徘徊である。大変だなぁと思う。ご家族の方々はさぞかし・・・と思ってしまう。私の祖父も最後の半年間は頭が老いた。身体が弱っていたので外出は不可能だったが、話すことが変になった。私を呼ぶ。私の名はわかっている。身体が浮いている、と言う。寝ている布団から身体が離れて空中を浮遊していると感じているらしい。「大丈夫、大丈夫ですよ」と言って、両肩をおさえる。手を離して、また押してと数回繰り返すと、安心の表情になる。そういうことが何度かあった。その頃は認知症なる語はなかった。呆けも痴呆症もなかった。あったのは、耄碌という言葉だけだった。

ボケ防止、認知症予防というのは、よく耳にする。それについて、私は人それぞれだと思っている。たとえば私自身は欲を持つこと、楽しみを持つことが第一だと思っている。欲は人によって違う。私は金銭欲がある。株を買い、馬券を買う。それが当たって金をが手に入ったら、何を買うかといった目的はない。つまり、当たる楽しみまで目的ということになるだろうか。

このブログ筆記はボケ防止によいと娘にすすめられて始めたものだ。ブログは昔話ばかりになる。それでも、何十年か前のことを思い出しながらというのは頭の体操にはなるだろうし、ボールペンを握って動かすのも何かの役には立つのだろう。

2018-06-30 13:23:18 | 日記
「私はヴランダが好きだ。明るい陽が射し込む。涼やかな風が通る。いまヴランダで花を育てている」、或る女性が同人誌に書いた文の1節である。その女性はヴと記したヴェの音になると錯覚したのだ。たぶん彼女はベランダとするよりヴの文字を用いる方がカッコイイとでも思ったのではないかというのが、私の想像だった。これに似たことはいくつかある。ヴィクトリー、ヴァイオリンなどがそうだ。日本ではRとLの音を区別して発声することは少ない。BとVもそれに似ている。私は日本語発音のようにベランダと書きビクトリーと書く。ただし、固有名詞だけは別だが。

かつて横浜大洋ホエールズで大魔神と称された佐々木主浩さんはいま馬主になっていて、自分の持ち馬にヴの字をつけるのを好んでいるようだ。ヴィルシーナも強い馬だったし、宝塚記念ではヴィブロスが4着に入っている。なぜヴが好きなのかは知らないが。


我が家の美女猫の名は、正確にはヴィヴィである。名付け親は娘で、ヴィヴィアン・リーからとったらしい。私は歯の具合が悪いので、ヴ音を発することは不可能であり、だからネコちゃんと呼んでいる。家人は正しい名を呼んでいるようだが、私の耳にはビリちゃんと聞こえる。ただし、猫は犬と違って、名を呼んでもすぐに反応するわけではない。走り寄って来ることはない。ネコちゃんが自分の名を知っているのかどうかもわからない。しかし、それでいいのである。人間が勝手に名をつけ、勝手に呼んでいるのに知らんぷりをするのは、猫のいいところだと思う。繰り返し書くようだが、猫の魅力は、何を考えているのかわからないところにあるのだ。ついでに書くと、ネコちゃんはヴィヴィという名は似合っている。文字にするときは、私はヴィビと書く。ビリではない。