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10月28日

2018-10-28 20:58:06 | 日記
目覚め直前の夢がおもしろかった。雀卓が10台以上ある大広間で麻雀を打っている。相手の一人が伝説のプロ雀士・小島武夫さんである。小島さんが4組の牌をポンしていて、単騎待ちなのだが、手元に牌が2枚ある。麻雀ではアガるときの手持ちがⅠ・4・7・10・13の数でなければならない。つまり、小島さんはアガれない。どうするのか?1枚をどこかに隠すのか?と、その辺で夢が終わった。

NHK杯将棋の谷川浩司九段は稲葉八段は谷川さんの巧い攻めが光った。飛車角3枚が敵側にある中でのアタックをつないだ。テレビゲームのコンピュータ相手では細かい将棋になると必敗なので、なるべく大きく指そうとしているが、初段級となると難しい。

昼寝を終えたベッドでNHKドキュメント「江夏の21球」を観た。午後2時からだから、再放送モノだと思うがおもしろかった。このゲーム(広島対近鉄)は昭和54年に行われた日本シリーズの最終戦(3勝3敗同士)であって、しかもその9回裏の1イニングだけのドラマなのだが、野球というものの奥深さをギュウギュウ爪にしたと言える気がする。

今週の水曜日は次女の手術がある。股関節のオペというものがどんなものなのか、たとえば何か金属を用いるのか、それでも内臓のオペではないので、どこか安心感もある。私が経験した胸部大動脈瘤破裂の時のそれと比べれば大丈夫の文字が浮かぶ。

次女がいないので散髪が出来ない。家人にタイガーカットになってもいいからと言っても、バリカンは使えずハサミでチョコチョコと切るだけで、すっきりしない。といって歩行器を押して床屋へ行っても、あの鏡の前の椅子に座るのはシンドいしなぁ。今朝の血圧は139-82。

ドラフト会議

2018-10-28 20:49:22 | 日記
ドラフト会議と聞いただけで、あの江川騒動を思い出す。1年目はたしか阪急が江川君を当て、それを断った江川君は浪人した。2年目は阪神が引き当てたが、これにも江川君は首を横に振り、遂にはコミッショナーが出て来て、巨人の小林繁投手を阪神に出し、阪神がこれを了承した。小林君には巨人から5千万円の慰労金が支払われたそうだ。また、それ以前に空白の1日事件もあった。結局、ジャイアンスの江川は実現したわけだが、巨人ファン以外の人々はシラケた気分になった。後年の江川君に監督の声がかからないのは、あのときのことがあるからではないだろうか。

今年のドラフトの目玉は大阪桐蔭の根尾君だった。彼のご両親は岐阜県の小さな町で、それぞれ小さな診療所を開いておられるそうだ。いわゆる、僻地医療であって、そういうご両親のもとで育った根尾君には(少なくとも大病院の院長家のお坊ちゃんより)好感が持てる。

吉田投手は日本ハムに決まった。これも、いいところへ行った感じがする。もう一人挙げておきたいのが、ソフトバンクに入った早実の野村君だ。清宮君が早実で3番を打っていた時の4番バッターである。ソフトバンクの3位指名だが、アタリだという気がする。なおこのことは、前の中日の監督の谷繁さんもおなじようなことを話していた。私が野村君に注目していたのは、指圧治療の重田名人に付き添って来るIさんから教わったからである。何度も書くが、私のプロ野球への興味は薄い。しかし、今年のドラフトは夏の甲子園の延長線上にあったのでおもしろかった。

主婦

2018-10-27 12:24:21 | 日記
「あら、いらっしゃい。やっとテスト終わったのね。皆さん、好いお点がとれましたか?」、Y君のお母さんが笑顔で迎えてくれた。お点は、東京・山の手言葉である。Y君の家は杉並の成宗というところにあった。高校時代の話である。普段は学校近くの雀荘で打っていたが、学期末のテストの最終日はY君の家で徹夜麻雀になるのがキマリだった。彼の家が広いということもあったが、何といっても、お母さんが好かった。明るく、気さくな人柄だった。終戦直後に大ヒットした『リンゴの歌』を唄った並木路子さんに似た顔だった。

サラリーマン時代も、上司であるOさんの家で、忘年麻雀、新年麻すずめ、夏休み麻雀があった。O夫人もY君のお母さんと同じタイプの女性だった。O家は広くない(3DKほどの平屋建て)だったから、徹夜麻雀の音は夫人と息子さんには迷惑だったかもしれないのだが、夫人は私達を大いに歓迎してくれた。むしろ、来客を喜ぶという感じがあった。

麻雀の例ばかり挙げたが、私は家庭というものについて、いくつかの考えを持っている。その1つが、来客の多い家は好い家であるということだ。そして、その来客の多い家には、必ず素敵な主婦がいることである。家庭の中心は亭主ではない。昔から亭主は丈夫で留守が好いと言われているが、亭主なんか二の次の存在である。家庭の中心は主婦なのだ。

私は病人である。老病人である。しかし、そのことによって家が暗くなるということはない。これがもし、私が元気で家人が病気だったらどうなるか。もちろん家事が滞る。だから、家政婦に来てもらって炊事、掃除、洗濯、買い物などをやってもらうことになる。だが、どんなに優秀なハウスキーパーに当たったとしても、家人が病気になれば、家の中は明るくならない。家の真ん中には主婦がいないと、ダメなのだ。我が家の猫だって、そのことを知っている気がする。

ボケる

2018-10-27 12:09:46 | 日記
「Aさん、散歩に行く?」、デイケアサロンの女性スタッフが訊く。「行かない!」とAさんは大声で答える。「じゃあ、麻雀は?」「出来ない!」「歌は好きかしら?」「嫌いだ!」と続く。私はAさんがその日からサロンへ来るようになったのだとわかる。声が大きいのは、自身の耳が遠いからであるのだろう。


「大変だわねぇ」と雀卓のトイメンにいるNさんが言う。Aさんの大声は私達の麻雀卓にも丸聞こえである。Nさんの言う「大変」とは、スタッフの苦労のこともあるが、Aさんが認知症であることが、その語気でわかるからだ。

ボケという言い方があった。それが老人性痴呆症となり、次いで認知症になった。本当は不認知症と言うのが正しいのだろうが、それだと不妊症と似てしまうので、不を除いたのだろう。私はボケで好いと思う。私自身もボケ老人である。私はヒザがさび付かないように毎日ペダル踏み運動を500回から800回行っている。カウンターがついていないから自分で歩数を数える。前進ステップを100、後退ステップを100と、その辺まではいいが、途中からカウントが怪しくなる。100歩ずつ区切っているから、間違えるはずもないのだが、それが狂う。もちろんボケの1つである。テレビゲームの将棋で、考えられないようなミスを犯す。これもボケである。ボケの証明は他にいくつもあるのだろうが、それを今すぐに思い出せないのも、ボケにちがいない。


サロンにいたAさんのご家族も大変だろう。私も家人や娘に面倒をかけている。迷惑をかけている。家人だって友達から「お宅も大変ね」と同情されているだろう。それに加えて私には腰痛がある。それもまた家族にとっては、大変なのだ。私自身より大変なのだと思う。

テニス   

2018-10-27 11:57:18 | 日記
25,6歳の頃だったと思う。渋谷から東京駅へ向かうバスの中で、加茂公成さんを見かけた。加茂さんは戦後の日本テニス界の№1プレーヤーだった。早稲田大学に進んだが、大学のテニス部の練習などには参加しないという噂があった。自宅にテニスコートがあって、父親のコーチを受けていたそうだ。名前の公成はフランスの名テニス選手コーシェからとったものだった。弟の礼仁選手の名もレーニンからの採用だった。姉の幸子さんも女子テニス界で活躍した。バスの中で見た公成さんは肩幅の広いガッチリした体格で威圧感のようなものがあった。

以前にも書いたが、私の伯母(母の姉)は西郷隆盛の弟の孫と結婚した。その夫婦の子供(つまり、私のイトコにあたる)の一人のR子については前にも書いた。もう一人の男子は成蹊大学テニス部の頃に全日本ランキングの五指に入っていた。その影響があったかどうかはわからぬが、私の妹も、学生時代からラケットを握っていた。

「サッカーと比べると、野球はのんびりしているなぁ」というのがウチの娘の感想である。「サッカーはずっと走りどおしだから」と言う。たしかに、サッカーも走るがテニスも走る。球を追う。どんなサーヴが来るか。ラリーが続く。ドロップショットを拾う。走る、走る。妹は痩身である。この体で何十分間かのゲームに堪えられるかと思うほどにスリムである。

デイケアサロンで「若い頃、何のスポーツを?」とスタッフの女性に訊かれる。「草野球とゴルフだけ」と答える。「体が大きいからホームランバッター?」と問われると、「その通り」と頷く。本当のことだから自慢してもいいだろう。ついでに、「よくレフトオーバーを打ったけど、2塁打まで。3塁までは走るのがイヤだった」と言う。これも本当である。私は走るのが得意ではないし、好きでもない。テニスなんて、とんでもない。