「私は、妻から、あなたとの結婚はボランティアだと言われている」と、細川護熙元総理が文藝春秋5月号での有働由美子さんとの対談の中で言っている。そもそも、ボランティアとは何だろうか。和訳すれば、善意の奉仕(手助け)だろうか。
戦前、戦中に、勤労奉仕という言葉があって、たとえば男子中学生が農家の仕事を手伝ったり、女学生が縫製工場でミシンを踏んだりしていた。それは善意からではなく、強制だった。奉仕だから無報酬である。悪い言葉にすれば、ただ働きである。戦争がそれを強制したことになる。
家人もボランティアに参加している。コーラスグループの一員として、老人ホームを慰問している。そして家においては、細川夫人同様、私へのボランティアがある。私は一切の家事ができない。15年ぐらい前までは、ちょっとした料理ができた。八宝菜、海老チリなんかが作れた。現在はやかんに湯を沸かすことすら不可能である。私ができるのは、家人が作る食事を食べ、家人が氷を入れてくれたグラスで水割りウィスキーを呑むことだけである。それに対して報酬を払うべく、株のマネーゲームで稼ごうと努力しているが、なかなか思うようにはならない。
結婚はボランティアと思っている女房(あるいは亭主)は少なくないのではないかと私は想像している。特に、高齢夫婦の間では、そういう偏りが出来てしまうのではないかと勝手に思っている。
戦前、戦中に、勤労奉仕という言葉があって、たとえば男子中学生が農家の仕事を手伝ったり、女学生が縫製工場でミシンを踏んだりしていた。それは善意からではなく、強制だった。奉仕だから無報酬である。悪い言葉にすれば、ただ働きである。戦争がそれを強制したことになる。
家人もボランティアに参加している。コーラスグループの一員として、老人ホームを慰問している。そして家においては、細川夫人同様、私へのボランティアがある。私は一切の家事ができない。15年ぐらい前までは、ちょっとした料理ができた。八宝菜、海老チリなんかが作れた。現在はやかんに湯を沸かすことすら不可能である。私ができるのは、家人が作る食事を食べ、家人が氷を入れてくれたグラスで水割りウィスキーを呑むことだけである。それに対して報酬を払うべく、株のマネーゲームで稼ごうと努力しているが、なかなか思うようにはならない。
結婚はボランティアと思っている女房(あるいは亭主)は少なくないのではないかと私は想像している。特に、高齢夫婦の間では、そういう偏りが出来てしまうのではないかと勝手に思っている。