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5月27日

2018-05-28 21:32:24 | 日記
朝の目覚めは5時。8時間の眠りは82歳では上等の方だろう。朝食のレーズンパンが旨い。半分のバナナも365日の習慣。昼食は冷やし中華。麺を少し減らしてもらってたい焼きを食べる。たい焼きは午前中に買い物に行った家人と娘がの土産であって、普段は1個138円だが今日はサービスデーで99円だったそうだ。これも旨い。よく言われる、しっぽの先までアンコが入っている。

日本ダービーは穴になると見て、10番を中心に馬連であちこちへ100円玉数個ずつ流したが、直線入口で伸びず10着。結果はやはり大穴で3連単は285万円の払い戻し。

日大アメフト部の危険タックル問題が尾を引いている。米朝会談もやるのかやらないのか、はっきりしない。加計学園のことも長い、永い。好いニュースは秋田犬のマサルがロシアのフィギュアスケートの若い娘さんに贈られたことぐらいか。でも、あの犬は従順そうでかわいいねぇ。

今は4時半で大相撲の結果(結びの一番で白鵬が勝って、鶴竜・栃ノ心の優勝決定戦になるのかどうか)はわかっていないが、ま、そうはならないだろうという予感。

テレビゲームの将棋をやる。初心者、初級、中級、上級、最強とランクがあるが、しばらく指していないので中級を選ぶ。そこそこ勝てるが考慮時間を長く使う。明らかに棋力は落ちている。これではデイケアサロンの92歳Kさんとは指せぬ。Kさんは町の道場で2段をもらった腕前である。サロンではやはり麻雀がいいようだ。

デイケアサロンでは麻雀の最中に血圧を測りに来る。なんでそんなときに来るのかわからないが、必ずその時間におばちゃんが計器を持ってやって来る。今朝、自分で測った血圧は138-77。

女雀士

2018-05-27 09:14:50 | 日記
20代の頃によく行っていた世田谷・三軒茶屋の雀荘に何人かの女雀士がいた。商店の女主人がいて、美容院のおばあちゃんがいた。中に一人、ヤクザの幹部の愛人という噂のあるA女がいた。もちろん、みんな男達相手に堂々と打っていた。ある日、私は相手待ちの状態になって、その間のヒマツブシに背後から他人が打つのを眺めていた。ちょうど目の前にA女がいた。彼女はヤクザ幹部に任されているのか、小さなバーを経営していた。私もそこで呑んだことがあった。若くて元気なホステスが3人いた。明るい店だった。途中でA女に電話がかかって来た。電話が終わるとA女は私を振り向いて「ちょっと、これ打っておいて。すぐ戻るから」と言った。引き受けるしかなかった。場面は南の2局ぐらいで、A女はトップだった。つまり、私は逃げ切り役を務めることになる。結果として、私はトップのまま終局し、たしか1,500円近く勝って、やがて戻って来たA女にその金を渡した。A女はその中から千円札を差し出し、「ありがとう」と私に行った。「とんでもない」と断っても、「いいのよ、あなた上手いのね」と言った。それもありがたく受け取るしかなかった。気風がいいという言葉があるが、A女の雰囲気にはそういうものがあった。私はA女と同じ卓で打ったことはなかったが、雀風も気持ちの好いものだったと思う。中級の美人だった。40歳に近い年齢だった。

デイケアサロンでは老男3人に老女1人の組み合わせで雀卓を囲むことが多い。男達は私同様に学生・サラリーマン時代に磨いた腕であろうと想像がつくが、おばあちゃん達、あるいはサロンの従業員のお姉さんは、どうやって雀技を覚えたのだろうか。何週間か前に、ちょっと上手い老女がいたので訊いてみると、「アタシ、姉が雀荘をやっていたことがあるんです」と答えた。「そこを手伝っているうちに」という意味だろう。なるほど上手いわけだと納得した。「上手ですねぇ」と褒めると、シワの多い頬で嬉しそうに笑った。

キザ

2018-05-25 10:14:18 | 日記
A Youngman named willhelm inn in the city 、教師が黒板に書く。優等生を指名して( )以外の文を訳させる。「うーんと、ウィルヘルムという若い男、それと市内の旅館」、優等生が答える。教師は満足そうにうなずき、「さて、その若い男が宿に泊まっていたとするには、カッコ内に何を入れればよいか?」と問う。優等生が「うーんと、泊まるはステイだから…」「そうだ、だから?」、優等生が口ごもる。私は周囲の数人に聞こえる程度の小声で「ウォズ ステイング」と言う。優等生の頭の中には、イズとステイが浮かんだのだろう。これは約70年前の田舎の中学校の英語の授業の一場面である。いまなら、「そんなの小学生だって楽勝だよ」となるのだろう。しかし、そのとき正答出来たのは50人学級で私一人だけだった。私は家で祖父に英語を習っていた。祖父は大学を出て専売局に入り、そこから英国に派遣され、ロンドンに2年間駐在していたから、英語はホンモノだった。中学時代に限ってのことだが、私は英語に関してだけは教科書に先行していた。前述の例だけでなく、この答えは俺しかできないぞと思うことがよくあった。

私は、自分だけが知っている答えを挙手して発表するのではなく、自席でボソッとつぶやくのが常だった。それが好きだった。手を挙げるよりカッコイイと思っていた。ただ、知っているのに黙っているのはモッタイナイ気がした。だから、5,6人の男女に聞こえるように声を出した。教師がやがて正答を告げ、説明を始める。すると周囲から、「ヤボ、凄えなぁ」と声があがり、私は嬉しくなる。得意になる。

以上のことがキザであることに気づいたのは20歳ぐらいになってからだったと思う。キザは気障と書く。見る人が見れば、気に障るイヤラシイ行為である。私はイヤラシイ中学生だった。キザな14歳だった。

不自由

2018-05-25 10:04:17 | 日記
デイケアサロンで麻雀を打つ。雀卓の青布の上に黒いラインが引いてある。各自が17枚✖2の山を積むように棒線で示してある。もちろん私もそれを目安に牌を揃える。17枚が2列に並ぶ。ところが、これをすっと持ち上げることができない。小指に力が入らない。仕方がないから上の17枚を3回か4回に分けて積む。それがまた上手くいかない。ポロポロと牌が落ちる。先に積み終えた3人が私の指先を見ている。おぼえたての子供のようなヨチヨチ動作を見ている。小指が麻痺しているのではない。感覚はある。しかし力が入らない。医師も重田名人も、その原因はわからないと言う。脳梗塞の後遺症の1つなのだろうか。

将棋の駒が上手く指せない。テレビ将棋をご覧にんっている方はおわかりかと思うが、プロの棋士は駒を美しく動かす。パチリと音を立てて指す。捌くという感じになる。誰もがそれを真似る。私も真似て、それが出来るようになった。もちろんプロ棋士のようにはいかないが、7割程度は近づいていた。だが、それが出来なくなった。人差し指と中指で駒を挟むことはできるのだが、パチリとはならない。これまた仕方なく子供の形でやる。親指と一刺し指で歩兵を1枚つまみ上げて、敵陣へ運んだりする。恰好が悪い。サマにならない。我が家には家人の弟からもらった厚手の上等な将棋盤があるのだが、それに申し訳ない気分になる。

箸はモテる。煮豆を1粒つまみ上げることもできる。だがハイボールを作るための炭酸水の壜のフタが開けられない。10本指の全体というか、総合力が弱い。文字を書くのも時間がかかる。汚い字だ。このブログの文字だって、読み取れるのは娘だけかもしれない。

お辞儀

2018-05-22 21:59:23 | 日記
豊真将(現在の立田川親方)という力士が好きだった。相撲の勝負がつくと、両力士は東西の元の位置に立ち、まず勝者が一礼して土俵を降りる。勝者はそのあとで勝ち名乗りを受ける。豊真将が負ける。背筋を伸ばし、上半身を深々と追ってお辞儀をする。いかにも、「ありがとうございます。私の負けです。また稽古に励んで参ります」という感じがした。潔さがあった。すがすがしい後味を残した。

「今日はAさんのお宅に行きます。おばさまにきちんとご挨拶をするのよ」、Aさんは祖母の知り合いだった。祖母は趣味の多い人であって、書も筆も茶にも親しんでいたが、Aさんは書の方の友達だった。5歳の私が祖母のお供で行くのはA家にいるお兄さんと遊びたかったからだった。お兄さんは小学校の4,5年生ではなかったか。庭にある砂場でいろんな形を作ってくれた。それが上手だった。A家に着くといつも応接間に通された。私は祖母の教えどおりに気を付けの姿勢を作って、「こんにちは」と大声で言った。女中さんがカステラをのせた皿を運んで来た。祖母が私の顔を見る。「急いで食べてはいけませんよ」という目をしている。いいや、カステラなんかどうでもいいや、それよりもお兄さんが早く呼びに来ないかなと、私は思った。ゆっくり食べてもカステラはポロポロとこぼれた。

営業部のY子が私たちの部屋に入って来る。Y子は南国系の美人である。スタイルも好く、ライトグレーのミニスカートからのぞくヒザ小僧がセクシーである。部屋には製造部、購買部、品質管理部などが同居している。Y子は入室してすぐに、中空に向かってお辞儀する。それがサマになっている。それから幼児のある部課の方に歩き出す。1分間か2分間か、若い男子社員の手が止まって、Y子を見る。会社のOB・OG会で50歳になった彼女に会ったときも、きれいなお辞儀だった。