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ハゲ

2017-06-24 15:55:28 | 日記
「ハゲーーーー!バカヤロー!!!何やってんだーーーー!」汚い言葉で罵倒する声がテレビを通して日本中の茶の間に響いた。声の主は自民党の豊田真由子代議士である。相手は自分の政策秘書兼運転手である。何回も繰り返し聞いているうちに、私は、女代議士に哀れさを思った。かわいそうになってきた。テレビが拾った街の声で、中年の女性が「普通は、言えないわ」と言ったが、その通りであって、女代議士は普通ではないのである。頭の中に虫がいるのである。虫の名を自己虫(ジコチュウ)と言う。彼女は桜蔭高校を経て東大法科を出ている。母親は教育ママだっただろう。教育ママは、自己中心思考の権化である。頭の中は、自己虫でいっぱいだ。それが娘に伝染しないはずがない。自己中心人間は友達ができにくい。遊びにも誘ってもらえない。だから、自己虫は増殖する。普通でなくなってしまう。それが、「ハゲーーーー!」につながっている。友人がいない哀しさにつながっている。

禿頭をトクトウと読むのとハゲアタマと読むのとでは大きな差がある。前者には中身のある頭の印象がある。たとえば将棋の大山康晴さんである。大山さんのツルツル頭は、いかにも中身がありそうだった。聡明に見えた。事実その通りだった。話も上手だった。勝負師と紳士を足し合わせたような人物だった。

私は、トクトウではなく単なるハゲ老人である。もし我が家に幼い子がいたら、ハゲドンとかハルマゲドンといった呼び名を、私のために考え出したであろう。家には幼児の代わりに可愛い猫がいる。ViViちゃんがいる。ViViも時々私の顔を覗きに来る。無毛の頭を眺める。しかし、「ハゲ!」とは言わない。ViViは礼儀正しい。血統も一流である。ハゲ老人に敬老の精神で接してくれている。

勝負運

2017-06-24 15:45:54 | 日記
1点リードされた9回裏、2アウトでランナーが2塁と3塁にいる。一打逆転と張り切った打者が力が入り過ぎて、セカンド正面のゴロ。万事休す、TheEndと誰もが思った瞬間、打球が2塁手の前で不規則バウンドして高く舞い上がり、ライト前に転がった。もちろん2者生還してサヨナラ勝ち。といったことはプロ野球でも草野球でも度々ある。イレギュラーバウンドは上のグラウンドの、たとえばランナーのスパイクシューズの跡などから起こる。それが勝敗を分ける。運として言いようがない。

昨年の都知事選の時、後出し有利のセオリーを無視して真っ先に手を挙げた小池百合子さん。私は、この勝負カンは当たるだろうと、このブログに書いた。運ではなく勘である。すると、運もついて来た。自民党の桜井パパや反自民の石田純一氏がウロウロした。ゴタゴタした。最後に増田寛也氏と鳥越俊太郎氏が出て来たが、すでに時遅しであった。小池氏の勘が運を呼んだ。呼び寄せた。

将棋にも運がある。ギリギリの局面で2つの手があって、どちらを選ぶかで悩む。時間が迫って来る。直感プラス経験で片方の手を択る。これをユビ運と言う。藤井聡太四段が28連勝したとき、相手の澤田新吾六段はユビ運の差で負けた。藤井君に勝ち運があった。

麻雀は将棋とは異なる。A,B,C,Dの4人で打ったとして、Aだけにツキが回ることがある。4人の中で、最も下手糞であるが、運だけで勝てることがある。いわゆる馬鹿ツキという奴だ。これだけはどうにもならない。BもCもDも、Aのツキが落ちるのを待つしかない。そういうことは将棋にはない。そこが駒と牌の差異である。つまり麻雀で勝つのは、今夜はダメだが1カ月をトータルすれば…ということになる。月末の精算時にプラスになっていればいいのである。それで呑み代が出る。麻雀必勝法の1つに、勝ち運は必ず来る、それを待つ というのがあると思う。

人口減少

2017-06-24 12:03:24 | 日記
文藝春秋6月号が「人口減少は怖くない」という特集を組んでいる。それを読む前に私が思ったのは、トボットと富の分配ということだった。人間が少なくなった分をロボットが補う、果実の分け前が多くなるといったことが、怖くないの意味だと思った。そういうことを専門家が書いているのだろうと想像した、だが残念ながらソレは無かった。

昨年は二度もダビンチの世話になったという年賀状をMさんから受け取った。2年前のことである。ダビンチとは何かと首を傾げる私に、娘が、手術用ロボットだと教えてくれた。Mさんは消化器系のガンだった。そのオペをロボットがやったわけで、これには驚いた。消化器だから胃や腸のことだろう。もちろん人間のドクターがついているのだろうが、ロボットの器械の手が人間の手と同じように働くことが想像できる。

自動運転の車が出来る。電車もバスも同じようになる。掃除、洗濯、炊事もロボットに頼る。そんなことは簡単だろう。なんといっても、人体のオペが出来るのである。では、人間にしか出来なことは何だろうかと考えると、情緒的なものしか思いつかない。たとえば恋愛がそうだ。ロボットに恋して、ロボットと結婚する人はいないだろう。つまり、ロボットには情緒がないから、おもしろみはない。ロボット製のカレーラースは、女房の作る味には及ばない。しかし便利であることは絶対である。人口減少の救い手になることは確かだと思う。

祖父母と両親、兄弟が3人の家庭があったとする。収入が一定である。やがて祖父母が他界し、3人の子供のうち2人が独立したとすると、残るのは3人である。収入は不変である。その場合、単純に計算すると、以前の2倍も生活はラクになる。ここでは人口減少は怖くないどころか、むしろありがたいというう状況である。

以上の論はむちゃくちゃかもしれない。しかし、その方向の解釈をする専門家はなぜいないのだろうか。文春では、それが物足りなかった。