すべての男は消耗品である。
確かにそう思う。男は誰もが消耗品に過ぎない。その通りだろう。
我々男性は、約30億年前の生命誕生以来、単なる遺伝子の伝達人でしかなかったからだ。
男は誰も皆、女性に精子を運び込み、子孫として未来永劫生き残るための道具としてのみ存在する、そんな哀しい動物なのである。
なので女性にしてみれば、自らのお腹を痛め、優秀な遺伝子を未来に引き継いでゆくという高邁な使命を持っているわけで、劣性遺伝子を子孫に残してゆくわけには絶対いかない。なんとしても、頭脳明晰で、体力に優れ、財力があり、統制力とサバイバルを生き抜くちからとスキルに秀で、優しく、美しい顔を持つ優秀な遺伝子のある男性と結びつかなくてはならない。
なので、常に綺麗にみせる技術を修め、少しでも優秀な男性と結ばれたいと切に心の底から願うのだ。
村上龍は作家である。
彼が、デビュー作である「限りなく透明に近いブルー」の小説を書いて彗星の如く文壇に登場した時のことは、今でも鮮烈な印象として記憶の中に残っている。この小説で彼はいきなり芥川賞を獲ってしまった。
映画化された「限りなく透明に近いブルー」もすぐに観に行った(ただ、彼が監督した何本かの映画だけは、どれもあまり面白いという印象がない)。
衝撃的な「コインロッカー・ベイビーズ」も途轍もない完成度を誇っていたし、「愛と幻想のファシズム」も、「テニスボーイの憂鬱」も「五分後の世界」も「ピアッシング」も「インザ・ミソスープ」も「トパーズ」もすこぶる面白かった。
村上春樹との対談集「ウォーク・ドント・ラン」なんてのもあったなぁ。
最近は「テレビ東京」で、毎週「カンブリア宮殿」という経済番組で司会をしていて、この番組もほぼ欠かさず観るようにしている。つまり、僕は村上龍の小説やエッセイが大好きなのだ。
そんな村上龍だけれど、芥川賞の選考委員を辞めちゃったし、最近は小説もほとんど発表していない。テレビ「カンブリア宮殿」だけは律儀に出演してますが・・・。
小説以外に発表している村上龍のエッセイも大好きなのでマメに読んでいて、なかでも「すべての男は消耗品である」シリーズが特に面白い。
そのエッセイ集「すべての男は消耗品である」の「最終巻」を、最近になってやっと読むことが出きた。
そうかぁ、このシリーズも終わらせちゃうんだ、村上龍は。いったい、どうしちゃったんだろう?
もう67歳だしね・・・。
実は、タイトルの「すべての男は消耗品である」(このタイトルも素晴らしい!)には、そのあとに続く言葉がある。最初はその句も付けてタイトル名にするはずだったらしい。
さてなんでしょう?
今回の「最終巻」の「あとがき」でも、村上龍はその句が存在することを仄めかしている(「ここでは書かない」と、あえて種明かしをしていないけど)。
ただ、「最終巻」を読んだら、少し悲しくなってしまった。文字サイズが大きいのもそうだけど、内容的にどことなく空虚感が漂っていて、熱が籠っていないというか、投げやりというか・・・。
まったく文章そのものに、ちからが入っていないのだ。大好きなサッカーやワインや映画や音楽のことを語っているというのに、詰まんなそうで、楽しくなさそうに思える。
書くことに対して疲れたんだろうか?
よく比較されてきた、もう一方の村上春樹は、未だ衰えを知らぬ分量をコンスタントに書きまくっていますが・・・。
なんかなぁ。寂しいなぁ。
で、ちなみに、「すべての男は消耗品である」の下の句ですが・・・。
「だから自由だ」だそうな。
うーむ。
確かにそう思う。男は誰もが消耗品に過ぎない。その通りだろう。
我々男性は、約30億年前の生命誕生以来、単なる遺伝子の伝達人でしかなかったからだ。
男は誰も皆、女性に精子を運び込み、子孫として未来永劫生き残るための道具としてのみ存在する、そんな哀しい動物なのである。
なので女性にしてみれば、自らのお腹を痛め、優秀な遺伝子を未来に引き継いでゆくという高邁な使命を持っているわけで、劣性遺伝子を子孫に残してゆくわけには絶対いかない。なんとしても、頭脳明晰で、体力に優れ、財力があり、統制力とサバイバルを生き抜くちからとスキルに秀で、優しく、美しい顔を持つ優秀な遺伝子のある男性と結びつかなくてはならない。
なので、常に綺麗にみせる技術を修め、少しでも優秀な男性と結ばれたいと切に心の底から願うのだ。
村上龍は作家である。
彼が、デビュー作である「限りなく透明に近いブルー」の小説を書いて彗星の如く文壇に登場した時のことは、今でも鮮烈な印象として記憶の中に残っている。この小説で彼はいきなり芥川賞を獲ってしまった。
映画化された「限りなく透明に近いブルー」もすぐに観に行った(ただ、彼が監督した何本かの映画だけは、どれもあまり面白いという印象がない)。
衝撃的な「コインロッカー・ベイビーズ」も途轍もない完成度を誇っていたし、「愛と幻想のファシズム」も、「テニスボーイの憂鬱」も「五分後の世界」も「ピアッシング」も「インザ・ミソスープ」も「トパーズ」もすこぶる面白かった。
村上春樹との対談集「ウォーク・ドント・ラン」なんてのもあったなぁ。
最近は「テレビ東京」で、毎週「カンブリア宮殿」という経済番組で司会をしていて、この番組もほぼ欠かさず観るようにしている。つまり、僕は村上龍の小説やエッセイが大好きなのだ。
そんな村上龍だけれど、芥川賞の選考委員を辞めちゃったし、最近は小説もほとんど発表していない。テレビ「カンブリア宮殿」だけは律儀に出演してますが・・・。
小説以外に発表している村上龍のエッセイも大好きなのでマメに読んでいて、なかでも「すべての男は消耗品である」シリーズが特に面白い。
そのエッセイ集「すべての男は消耗品である」の「最終巻」を、最近になってやっと読むことが出きた。
そうかぁ、このシリーズも終わらせちゃうんだ、村上龍は。いったい、どうしちゃったんだろう?
もう67歳だしね・・・。
実は、タイトルの「すべての男は消耗品である」(このタイトルも素晴らしい!)には、そのあとに続く言葉がある。最初はその句も付けてタイトル名にするはずだったらしい。
さてなんでしょう?
今回の「最終巻」の「あとがき」でも、村上龍はその句が存在することを仄めかしている(「ここでは書かない」と、あえて種明かしをしていないけど)。
ただ、「最終巻」を読んだら、少し悲しくなってしまった。文字サイズが大きいのもそうだけど、内容的にどことなく空虚感が漂っていて、熱が籠っていないというか、投げやりというか・・・。
まったく文章そのものに、ちからが入っていないのだ。大好きなサッカーやワインや映画や音楽のことを語っているというのに、詰まんなそうで、楽しくなさそうに思える。
書くことに対して疲れたんだろうか?
よく比較されてきた、もう一方の村上春樹は、未だ衰えを知らぬ分量をコンスタントに書きまくっていますが・・・。
なんかなぁ。寂しいなぁ。
で、ちなみに、「すべての男は消耗品である」の下の句ですが・・・。
「だから自由だ」だそうな。
うーむ。