淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「馬場派プロレス宣言」

2004年11月30日 | Weblog
 昔むかし、日本のプロレス界では、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の二大巨頭が覇権争いを繰り広げていた。片や「全日本プロレス」。そしてもうひとつの団体が「新日本プロレス」。
 猪木は雄弁で、派手で、華麗で、過激だった。人々は猪木のプロレスに熱狂し、それに「私、プロレスの味方です!」という直木賞作家の本が話題を呼び、アントニオ猪木の試合は思想的なアプローチで書き込まれ、文化人や芸術家もそれに参加した。猪木の試合は、文学的な文脈で語り始められたのである。
 僕は、ジャイアント馬場が大好きだった。馬場のプロレスは、いつも土曜日の夜、ひっそりと放送された。そこにあるのは、熱狂や緊迫感や高揚さとは全く異質のものだった。僕は、吹雪の日も雨の日も、そして月曜日も日曜日も、駅まで「東京スポーツ」や「週間ファイト」を買うために通った。周りの友達も、そのすべてが猪木派で、馬場派の僕はいつも笑われ馬鹿にされた。
 でも僕は、ジャイアント馬場が大好きだったのだ。あの人は悲しさを秘めていた。あの人の放つ16文キックは、切なくて頼りなかった。試合に勝つと、いつも照れ笑いを浮かべ、ふっと淋しそうな表情を浮かべていた。僕はたった一人の馬場派だった。
 僕は「週間ゴング」や「週間プロレス」を読みながら、今もふと考える。馬場さんは偉大だったのだと。今、ある意味、プロレス界は、あの人の育てた人たちがその最前線で活躍している。馬場さん、あなたは勝ったんです。そして。そして、あの人は、唯一、クリスマス・イヴの夜の悲しみを知っていた。いま僕は、心からそう思うのである。 淳一

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クリスマス・イヴなんて大っ嫌いに決まってるでしょう!

2004年11月29日 | Weblog
 何が嫌いかって、一年365日のうちでクリスマス・イヴほど嫌いなものはないね。何か、みんな幸せそうな顔しちゃってさあ。独りで淋しく聖夜を過ごしている人たちをどう思ってるわけ? って言うか、マジで、辛くなるんだよね。自分だけが世界から取り残されてしまったようで。
 特にクリスマス・ソングを聴くと、苦しくて気が狂いそうになっちゃうよね。
 ワムの「ラストクリスマス」に、山下達郎の「クリスマスイヴ」に、杏里の「スノーフレイクの街角」に、ユーミンの「ロッジで待つクリスマス」に、辛島美登里の「サイレントイヴ」に、角松敏生の「サンタが泣いた日」に、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」に、サザンオールスターズの「クリスマスラヴ 涙のあとには白い雪が降る」に、坂本龍一の「メリークリスマス ミスターローレンス」に、Bzの「いつかのメリークリスマス」に、浜田省吾の「ミッドナイト・フライト ひとりぼっちのクリスマス」に、ドリカムの「スノーダンス」に、槇原敬之の「涙のクリスマス」に!!!!
 そして最後。クレイジーケン・バンドの「クリスマスなんて大嫌い!」 淳一

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11月29日(月) 白いもの

2004年11月29日 | Weblog
淳一さんへ

 今頃、あなたが唇を噛み、うらめしそうに窓の外を見遣っている姿が容易に想像できます。ふわふわと降ってくる、白いもの。そう。冬です。冬の到来!
 さて、週末のあいかわらずのゲーム三昧。うらやましい限りですね。何しろ、TVゲームというものが一切だめな私ですから、あなたのその熱い「鼻息」に答えることができないことを、どうぞお許し下さい。
 そういえばもうすぐ12月。・・・といえば、クリスマス。そういうお題を投げかけると、「俺は、誰もが幸せそうにしているクリスマスなんか大キライだ~!!!」と、この日記のタイトルみたいな「オチ」になりそうで怖いですが、敢えて聞きます。

 あなたにとって、クリスマスとは?

禎子

P.S.そういえば余談ですが、BAND AIDの『Do they know it's christmas?』が編成も新しく再リリースされましたね。ジャケットのバンビが、とってもラヴリーです。

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ついに発売!「ドラゴンクエストⅧ」!!

2004年11月28日 | Weblog
 出ました、「ドラゴンクエストⅧ」! プレイステーション2でしかも3Dになったということで、少し心配したけれど、最初にゲームをプレイした限りにおいては、それも杞憂に。あの昔のままのドラクエ的テイストは健在。
 まずは、あの懐かしいテーマミュージックに乗ってタイトルログ。主人公の名前を「じゅん」にして、ついに冒険へのプロローグ。ゲームが始まった直後に、突然スライムが登場してバトルが展開される。そうきたか! でも戦闘そのものは、慣らし程度の簡単なバトルでした。なんせ、初めての3D画面なので、ちょっと操作に戸惑ったが、まあこの程度なら、「バイオハザード」とかで慣れてるもんね。って言うか、マジで、シューティングやアクションゲームって苦手なんだよね。
 でも、主人公が、街の何処彼処に置いてある樽や布袋を開ける時の動作は、前のドラクエシリーズをクリアしてきた者としては、感涙ものでした。どちらかといえば、陽の「ドラクエ」よりもは陰の「ファイナル・ファンタジー」派のわたくしなのでありますが、ゲームにはまる度合いは全く同じ。今の所、まだ序盤なので、全員を仲間にしているわけではないけれど、早く、ギガスラッシュとか、ばくれつけんを覚えたいーっ! しっかし、こんなに鈍くて、一体ゲームクリアまであと何時間かかるんだろうね。また睡眠不足の日々が始まります!     淳一でした。

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11月27日(土) 嵐の後に。

2004年11月27日 | Weblog
淳一さんへ

あまり悲観しないでください。そんなつもりでこのような話題をふったのではないのです。
生きていく痛みは、大なり小なり、すべての人にあるものなのだから。

私が痛みの中で思うことは、その痛みを感じている自分ではなく、「なぜ、その人が自分を傷つけようとするのか」ということです。自分を可哀想だと思うよりも、相手が何を考え、そうした言動をとろうとするのか、ということを考えます。ディフェンスでもあるしオフェンスでもあるその行為。振り子のように行ったり来たり。その行為にいたる要因は、こちらにもあるのだということを自覚しなければならないのです。それらのことを心静かに受け止め、振り子を向こう側に緩やかに返してあげればいいのだけれど、時々その返す力が強すぎて、むしろ相手に対してもっと大きな傷を与えもします。 許したり、許されたり。力を抜く加減。振り上げた拳をゆっくりと下ろす勇気、が欲しいと、心から思います。

そうした、こうしたで、まだまだ大人にはなれそうもありません。

さて、この「しっとり」口調にも少々飽きてきました。何か淳一さんを「しゅーっ!」と興奮させるネタはないものでしょうか。

禎子

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金曜日、土砂降り、夜の深さ。

2004年11月26日 | Weblog
 禎子さんへ
 雨が降っています。時折、硝子窓を雨粒が襲い、遠くで聞こえる列車の音と交じり合いながら夜の闇の中に溶けていきます。菊池成孔の「デキュスタシオン・ア・ジャズ」というアルバムを聴きながら、独り、パソコンに向かってこの日記を打ち込んでいます。
 人を愛し、他者を背負うリスク。そして、無関心であることによって、束縛されない自由。そのどちらもある意味、辛くて切ないのかもしれませんね。僕は、ある時は、それらを振り払い、そしてまたある時は、束縛されない自由に対して後ろめたさとやるせなさを感じながら、ありふれた時間の流れの中で生きています。濡れた車道が信号の赤い色に震えています。雨もやみました。
 芸術を創った者のみが創造行為を成し得るのか?それは違う。観ることも創る事だ。そう言った芸術家がいましたね。作品と対話し、味わうことで創造に参加し、新しい自分を発見することこそまたひとつの創造であると。
 時々、生きてゆくことに酷く疲れます。悲しさが心を満たし耐えられなくなる事さえも。でも、全てを受け入れ、あるがままに、この身を任せるしかないような気がします。とりあえず・・・今は。      淳一
 

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11月26日  骨

2004年11月26日 | Weblog
淳一さんへ

 体を動かしているとき、「骨」を感じますか?それとも「筋肉」を感じますか?私の場合、「骨」です。脳から筋肉に指令がいって、骨を動かしていることは理解していても、私にとっては「骨」なのです。

 今年の夏に、視覚と触覚について考えるきっかけとなる彫刻展の運営に携わる機会がありました。それは、視覚障害を持った方には手で触れて、またそれ以外の方には通常の展覧会をみるように目で見る展覧会でした。そのとき、多くの方が「なぜ、自分たちには触れさせてもらえないのか。」と疑問を持たれたようです。もともと物に触れて知覚するということは、人間にとって重要な感覚であることは間違いありません。例えば幼児期に、ストーブにいたずらをして火傷する、あるいはそれと同じぐらいの刺激を受けた時にはじめて「これは危険なものだ」と理解するように。しからば、絵画などの平面作品ではなく、さまざまな形や素材で作られている彫刻やオブジェなどの立体作品は「触れて」知覚するということは、とても正しい行為なのかもしれません。しかし、展覧会という限られた場所、期間、そしてことさら出品した作品が、さまざまな方の所有物をご好意によりお借りしてきたものであるために、破損や劣化を避けるために「手を触れないように」ご理解いただくしかありませんでした。ここにひとつのジレンマが生まれました。それはこの展覧会にご来場いただいた「触れたいけれども、じっと我慢。」して下さった、観客の方々同様に。

 芸術を鑑賞するときの、「触れる」というリスクと、「見る」という自由。ここに、ただ単に「芸術鑑賞」のあり方という問題ではなく、人と人との関係性そのものが見えてくる気がします。人を愛し、他者を背負うことのリスク。無関心であることによって、そこから束縛されないことの自由。

あなたは、どちらを選びますか?

禎子

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11月25日(木) 言葉に傷つき、行為に癒される

2004年11月25日 | Weblog
淳一さんへ

私と貴方との交換日記も、なかなか順調に進んでいますね。 それはともかく、毎週、毎週、映画を観に行くことのできる貴方が本当にうらやましく思います。

今年の浪岡映画祭も終わりましたね。「今年こそ絶対に行く!どんなことがあったって!」と思っていたのですが、さまざまな事情が重なり、そんなささやかな個人的な愉しみさえも実現できなかった悔しさだけが残りました。「絶対」という自分の言葉に、裏切られてもいます。
今日、近頃、私が弄されているさまざまな出来事をめぐる「言葉」というものに、駄目押しをされるように深く傷つき、心の底から疲れを感じました。その原因が自分の中に大きくあったとしても、です。
そんな時、映画祭を主催するMさんより「お出でになれなかった記念に」と、映画祭の通しチケットと、それはそれは美しい公式カタログが送られてきました。カタログの表紙には、淡雪を肩に受ける美しい女優がいました。ヴァーチャルではありますが、私はすでに暗い映画館のスクリーンの前に座っていました。私はMさんの、そのさりげない思いやりに触れ、とても癒されたのです。

言葉=文字ではなく、体温のある、それがどんなにささやかな行為だとしても、人は人を支えることができるのですね。大人になるということは、そういうことなのかもしれません。

禎子

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デュオ「日給8000円」は歌謡曲の復権を予感する!

2004年11月25日 | Weblog
 フジテレビ系水曜日22時から放映している「水10!」の「ココリコミラクルタイプ」のエンディング・テーマ曲、「未来がなくても抱きしめて」。これが凄い!歌っているのは、森三中の村上知子と、加藤夏希の即席デュオ「日給8000円」。最初、聞いた時はぶっ飛んだ!懐かしいメロディラインとお決まりのワンパターン的サビ展開の往年歌謡曲。同時期に聞いた、ダウンタウンの松本人志が作詩した槇原敬之の「チキンライス」も凄かったが、これはこれでまた別の「胸きゅん」もの。
 1980年代に評論家、平岡正明が書いた日本歌謡曲論の名著、「歌謡曲見えたっ」。平岡は言い切った。「気合が入らないものをニューミュージックという!」と。そしてまた「歌謡曲にこそ批評が必要である!」と。しかし、「歌謡曲」という言葉は淘汰され、駆逐され、ニューミュージックという名の妖怪も今はここにない。歌謡曲は復権されなければならないのだ。この混沌とした現代という世界においては。
 「未来がなくても抱きしめて」は売れないと思う。たぶん。ヒットチャートの中で埋没して、そのうち跡形もなく消え去っていくだろう。たぶん。しかし、一世を風靡(ふうび)した女性デュオ「ウインク」をパロったCDジャケットとといい、歌詞のキッチュさを表層化しながらも、内に秘めた切なさを醸し出す、その確信犯的姿勢といい、2004年の日本音楽シーンを完結させるべく生まれた、これは素晴らしい歌謡曲の「仇花(あだばな)」なのである。  淳一

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話題作「スカイキャプテン」を観る。

2004年11月24日 | Weblog
 ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウ、アンジェリーナ・ジョリーの「スカイ・キャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」を観た。ケリー・コンランはこれが第一作監督作品。スタイリッシュで、霞(かすみ)のかかったようなセピアっぽいスクリーンは確かに斬新。舞台設定も1939年のアメリカということでレトロなティスト。
 確かに、前半部、ニューヨーク摩天楼での大空中戦はひとつの見所だし、それなりには見せる。それなりには見せるのだけれど、靴底から足を掻く如くの物足りなさが残る。折角、俳優と小道具以外、全てフルCGで創ったのだから、ここは完全に居直って、もっとイケイケでゴリ押ししてほしかった。それに、ジュード・ロウとグウィネス・パルトロウという美男美女を主役に据えたのなら、もう少し粋で洗練された会話も見せてほしかった。
 全米では、初登場第一位という、鳴り物入りで躍り出たものの、すぐに尻すぼみ。結局、3000万ドルレベルで終わったらしいが、うーん、それも解るような気がする。
 こうなると、今冬のお正月映画、やはり「ハウルの動く城」のひとり勝ちに終わるのだろうか。
                                          淳一

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11月23日 断片化

2004年11月23日 | Weblog
淳一さんへ

 しっとりした話題にさえ、あなたのエキサイトした反応が返ってくると「ふふ、やっぱり来たな」という手ごたえを感じます。

 今日は、断片化してしまった自分の心と頭をoptimazationする日と決めたのですが、取り散らかった周囲の状態を、どのように処理したらよいのか少し途方にくれています。
 しょうがないから、たまっている宿題を少しずつ片付け始めました。この日記。来週までにバイリンガルで提出を迫られているレポート。あるアーティストについて、思いをめぐらせること。来週の天気。両親のこと。新しい企画のプレゼンについて。子供たちのためにつくる物語の世界について。来年のオランダ行きのこと、など、など。

 結局は自身の最も強い欲望を実現させる糸口は探せないままで、どれをとっても少しずつしか進まない宿題たちは、断片化を一層激しくさせるだけで、それは当分の間先送りになりそうです。

禎子

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ターナーの光、エドワード・ホッパーの影。

2004年11月22日 | Weblog
 ターナーの絵から発する光って凄いですよね。その時々の心の襞(ひだ)を投影するかのごとく、眩しいほどの眩暈(めまい)にも似たものを感じとったり、その陰影に、苦しいほどの圧迫感を感じたり。
 光といえば、僕が好きなのは、エドワード・ホッパーです。村上春樹が訳した、アメリカのグレイス・ペイリーという女流作家の「最後の瞬間のすごく大きな変化」という小説の表紙にもエドワード・ホッパーの絵が使われてました。その中でも、僕が一番好きなホッパーの絵は、「ナイト・ホークス」です。この絵を、アメリカのシカゴ美術館で実際に見たときは、本当に感動しました。
 真夜中の都会のダイナーのカウンターに座る男と女。表には誰もいない舗道と夜の静かな闇。蛍光灯の淡い光。孤独と静謐。何も語ろうとはしない風景。エドワード・ホッパーの絵に描き出される、殺風景な街や風景の中には、疎外感や喪失感が漂っている。そんな感じがしませんか?
 光とは、「どこか聖なる場所」から照らし出される贈り物だと言った人がいます。「光は光を求めるが、光の光こそ欺くのだ!」これは確か、シェークスピアですね。          淳一

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11月22日 風景とは何か

2004年11月22日 | Weblog
淳一さんへ

 見慣れた風景が、ある時ふっと違って見える瞬間がありませんか?それが季節の変わり目なのでしょうね。
 長く続く坂道を愛車で走りながら毎日見ているはずの雲が、今朝は格別に美しく目にうつりました。厚い雲の切れ間から光がこぼれ、グレイの雲に金色の縁取りが作られて。

 あぁ、これはどこかで見た景色だと思いました。それは、ロンドンのテート・ギャラリーで見た秀逸なジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品群です。風景を見て風景画を思い出すというのもおかしなものですね。
 私がターナーを見て感じるのは「北の光」です。生粋のロンドン子であったターナーが見ていた光は、私が住むこの青森の光にとても良く似ているのです。
 厳冬のロンドンに少しの間暮らしていた時、私はその光に惹きつけられ、何度もギャラリーに足を運びました。異国にいたとしても、体の中に潜む原風景を探している自分がそこにありました。

あなたには、そうした体験がありますか?

禎子

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福原愛ちゃんに会う。

2004年11月21日 | Weblog
 土曜日の午前中、凄くハッピーな出来事があって、それがまるで暖かい焚き火のように体を包み込んだまま、日曜日の夕方まで続いている。何かの外的な要因が思考を変える。最近のカウンセラーやセラピストは、「思考」→「感情」→「行動」の流れを捉え、よく「思考をコントロールしになさい」とか「思考は単なる思考でしかない」とか、ネガティブな考え方の基底には、その人の思考にあるのだという論調が支配的なようだ。最近、この手の本ばかり読んでいるので、よく解るのだけれど、そうだとすると、「俺の主体」って一体何なの? 記憶はよく嘘をつくっていうし、思考は自分の心に悪さをするっていうし・・・。じゃあ「自己」って何なのさ!「わたし」って誰?
 そんなとりとめもないことを考えていた土曜日の午後、ちょっと仕事で主催したシンポジウムにあの福原愛ちゃんが登場してくれました。凡人には計り知れない、凄まじいプレッシャーや外圧の雨あられだろうに、何故かその顔は朗らか。あの何事にも動じない「さとり」はどこから来るのだろう?
 そして、今日の日曜日。昼下がり。また一週間ぶりに汗をかこうとスポーツジムに向かう途中の古川通りの飲み屋街。空はまだ真っ青なのに、うらびれた飲み屋の暗がりから、ベロベロに酔っ払った中年男女の歌う、人生を恨むような演歌が聞こえてきた。それは余りにも暗くて、悲惨な旋律として、無垢な日曜日の青空に融けてゆく。何なんだこれは?    淳一

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また淋しい週末ですね。

2004年11月20日 | Weblog
 街は、楽しそうな人たちで賑わっている。それなら、こういう時には映画でしょう!
 「茶の味」。シネマ・ディクトに久しぶりに飛び込む。谷田館主はいなかったけど、最終日ということもあってか、それなりに混んでいる。
 「鮫肌男と桃尻娘」、「PARTY7」に続く、石井克人監督の第三弾作品。これがなかなかいい。夕暮れの空、静かな田園風景、真夏の雨、そしてお茶をゆったりと啜る人たち。CGやアニメも飛び交う、いつもの摩訶不思議な石井ワールドだけれど、今回はちょっと小津安二郎的世界観が漂う。というより、ピンク映画時代の滝田洋二郎や、あのピンク映画史上燦然と輝く傑作映画「変態家族 兄貴の嫁さん」にも通じる、暖かくて柔らかいトーンがスクリーンを包む。
 それはそうと、禎子さん。昨日の日記で言っていた、最後のコメントに対するレスは?って、リュック・ベッソンについて言えってこと? 確かに、リュック・ベッソンって、あっち行ったり、こっち行ったりで、ちょっと節操がないけど、どこかスピルバーグや作家で言えば、村上龍っぽいところがあるよね。どちらも、物凄い傑作も生み出すけど、駄作もあるみたいな。「二キータ」や「レオン」は確かに傑作。でも「フィフス・エレメント」はなあ。それと「ヤマカシ」は、脚本と製作に関わっただけで、監督はアリエル・ゼトゥンという人ですのであしからず。
 まあ、落ち着きがないところが、どちらも可愛いよね。あっ!落ち着きがなくていつまでも子どもって、俺のこと? 淳一でした。

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