淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「元気なら うれしいね」

2013年06月30日 | Weblog



              元気なら うれしいね
              
 

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フジTV、ドラマ藤山直美「鬼女」、松本人志「人志松本のすべらない話」、そして6月の終わり。

2013年06月30日 | Weblog
 日曜日。
 午前中曇っていた空が、お昼ぐらいから晴れ始める。
 朝から仕事用の携帯電話が鳴りっぱなし。着信履歴が同じ人から何度も入っていて、こっちから掛けると今度は繋がらない。

 朝9時に近くの「床屋さん」を予約していたので、定時に行って髪を切る。
 オヤジさんとその二代目の息子の2人で経営しているのだけれど、今日は息子のほうがこちらの担当らしい。

 髪を切ってもらいながら、彼とマラソン談議に花が咲く。
 来週の「あおもりマラソン」「ハーフ」部門にエントリーしていると告げると、「同じコースを2回走るコースなんてあんまりだ」で意見の一致をみる。
 しっかし、なんでハーフマラさんのコース、同じところを2度走るなんてことにしたんだろう。有り得ない。
 走るの、やめようかな。あんまりだ。

 家に帰って、遅めの朝食を摂り、今日も昨日に引き続いて録画しておいたテレビ番組を片っ端から観ることに。
 昨日の夜観たのが、フジテレビ系「金曜プレステージ・スペシャルドラマ」、「鬼女」。

 主演の藤山直美が次々と男をだまし、多額の保険金を掛けて連続不審死させた容疑をかけられるという、女結婚詐欺師を演じている。
 藤山直美を追い詰める検事役に田中美佐子、事件の真相を追うフリーライターに夏川結衣。

 なんか、イマイチの出来映え。
 確かに藤山直美はノーメイクで迫真の演技をしているし、検事役の田中美佐子の決して幸福とは言えない、醒めた夫婦生活の部分までドラマで描いている点は斬新と言えば斬新だけど・・・。

 ラストの真実明かしも、起伏に乏しい演出が繰り返されてゆくので、それほど衝撃的ではない。
 藤山直美、田中美佐子、夏川結衣の3人だけは、いずれも巧い演技でした。

 そして昨日の夜は、久しぶりの松本人志「人志松本のすべらない話」。
 夜9時からなので、珈琲を淹れ、クラッカーを隣に置き、「柚子」のジャムを入れた瓶を出してクラッカーに塗り、ムシャムシャ食べながらテレビの前に座る。

 今回も、いつもの千原ジュニアに宮川大輔、ほっしゃん。、河本準一(次長課長)、ケンドーコバヤシ、兵動大樹(矢野・兵動)、それから小籔千豊ら常連組。

 それから、「キング・オブ・コント」で優勝した「バイきんぐ」の小峠、「THE MANZAI 2012」優勝者の「ハマカーン」浜谷健司と、「キンタロー」が初出場組。初めて見る芸人で、「アントニー」という日本人と黒人米国人のハーフも、同じ初出場組。

 結局、優勝は千原ジュニアの「ディズニー・シー」でのエピソードだった。
 でも個人的には、宮川大輔と「バイきんぐ」の小峠が面白かった。
 特に「バイきんぐ」小峠の、セックス・ピストルズのシド・ビシャス関連エピソードには笑ってしまった。これが断トツ1位だと思ったんだけどなあ。

 で、また日曜日へ。
 やっぱり、家の中でのんびり寛ぎながら映画を観ていても、仕事のことが頭の中をチラチラと横切って、心から集中出来ないし楽しめない。

 携帯電話が煩わしくて、机の抽斗に仕舞ったままにしておいたのだが、それでもやっぱり気になって、時々、出しては履歴を調べる。
 これだと、落ち着いて映画なんか観てられない。

 あーあ。苛々するっ!

 あまりにムシャクシャするので、映画を観るのを止め、着替えてランニングすることにした。
 ウォークマンのボリュームをマックスまで上げて、いつもよりも速めのスピードで海沿いを走った。
 少し風があるけれど、晴れていて、太陽が眩しい。海の蒼さも鮮やかだ。

 1時間ほど走り、シャワーを浴びて一息ついていると、上司からまたまた電話が入り、最終的に、日曜日の夜9時過ぎから、集まって、仕事の打ち合わせが行われることに。

 しっかし・・・こんなこと、いつまで続くんだ?

 もたねえよ。








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「Something In The Air」

2013年06月29日 | Weblog
 まったくいい事がない。
 本当に、呆れるくらいに、いい事がない。

 仕事関連でてんやわんや状態。
 心ががさついて、苛々だけが募ってゆく。
 どうしてこうも、嫌な案件や気が滅入るような事が、次から次へと仕事で起こるんだろ。
 血の気が引くような、一瞬青ざめるような、そんな報告事項だけで毎日が埋まってゆく。

 辞めたい、辞めよう、いや逃げるのか、逃げちゃえ・逃げちゃえ、意気地なし、頑張れ、ここを乗り切れ、いやいや潮時っしょ、もう限界だってば、まだまだ踏ん張れる、疲れたよ、行け行け、駄目だ、やっぱり辞めちゃおう、えーいっ辞めろ、辞めろ!

 そんな色んな感情が、一日の中で何度も何度も何度も何度も押し寄せてきて、気分が塞ぐ。

 周りがとても居心地よく見えて仕方ない。
 そりゃあ、そうは言っても他人の芝生はよく見えるだけで、みんなそれぞれ辛い案件や重たい荷物を背負っているのだろうけれど・・・。

 なかなか、そんなふうに聖人君主にはなれそうにない。
 まるで自分だけが悲劇のヒーローみたいに振舞う、そんなどうしようもないチキン野郎がここにいる。

 楽な仕事をして、順風満帆に出世し、困難なプロジェクトとか厄介な案件にほとんど遭遇しない人間が、この世界にはいる。
 そういう人間を何人も知っている。

 もちろん、それとは真逆な、真っ当な意見を述べたり上司に対して耳の痛い言葉を正直に投げかけたために、閑職に追いやられたり中々浮かびあがれない人間もまた、この世界にはいる。
 そういう人間を何人も知っている。

 先日、ある先輩と喫茶店で少し話をした。
 某施設に嘱託で一年程度勤めていたのだけれど、この度ちょっとあって潔く仕事を辞めることになった男性である。

 その先輩がこんなことを言った。
 ―同じ職場の某部長職が、施設の状況が困難を極めていることで「辞めてやる」と何度も職場で言っていたので、「辞めるなら黙って辞めたらいいだろう。男なら、そんな言葉、何度も公の場で言うんじゃねえ!」と、上司である某部長を強くたしなめた―

 ちょっとそこで赤面してしまった。
 じぇじぇじぇ!
 自分にもそういうきらいがあるからだ。
 いつも、辞めてやるって叫んでいるし・・・。
 結局、その某部長はまだ職場を辞めていないらしい。別にどうでもいいことだけど。

 とにかく最近ずっと、そんな棘(とげ)が刺さったようなチクチクとした気分が続いていて、憂鬱な毎日から抜け出せずにいる。

 今日の土曜日も午後から「まちなかラボ」で授業。
 なので、午前中、晴れ上がった空の下、約1時間ばかりランニング。
 佐野元春の「ZOOEY」を聴きながら走ったら、少しだけ気分は上昇した。

 お昼は、新町通りからちょっと南側に入った場所にある、美味しい珈琲を飲ませてくれる「カラーズ」というお店で、パスタと熱い珈琲でランチ。

 陽射しが眩しい。

 とても明るい土曜のお昼時。
 これでも気分は上向く。

 1時から4時過ぎまで、マンツーマンで「フィールド・リサーチ論特論」。
 7月から8月まで講義がびっしりと埋まっていて、レポート提出の数もすこぶる多い。
 「まちなかラボ」がやっと終わり、歩いて、まだ明るい6月最後の土曜日の街を帰る。

 缶ビールを飲みながら、「回鍋肉(ほいこうろう)」をつまむ。
 昨日の夜も、仕事の事であんまり頭にきて、急遽飲みに出たので、連チャンでのアルコールだ。

 また、メラメラと怒りの渦が身体を廻り出す。ほんとは、こういう酒って駄目なんだよなあ・・・。

 缶ビール(アサヒ・スーパードライ)を呷りながら、ウイリアム・フリードキン監督の1970年の作品、NYのゲイたちが集う一夜を描いた、オフ・ブロードウェイ舞台劇を映画化した「真夜中のパーティ」を観る。
 面白かった。

 あーあ。
 かっこよく、去りたい。

 無理かぁ・・・。










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傑作! 台湾映画「セデック・バレ」は第一部「太陽旗」第二部「虹の橋」合わせて約5時間の超大作。

2013年06月28日 | Weblog
 韓国と中国、それに台湾、どこが一番好きと聞かれたら、迷わず台湾と答えることにしている。

 台湾は台北しか行ったことがないけれど、そこに住む人たちには、温かさ、優しさが感じられて、街の賑わいも好きだ。
 どこかの国と違って、刺々しさが全くないし、みんな親切だし、物価もとても安い。
 文化も、新しいものと古いものとが巧く融和していて、街歩きをしていても居心地がいい。

 特に「夜市」の凄さには圧倒された。
 何処まで行っても果てがない。色んなものを売っている夜店が、何処までも何処までも続いている。
 そんな素敵な台湾、また行ってみたい。

 その台湾発の大作映画が日本で公開された。
 台湾で数年前大ヒットした「海角七号 君想う、国境の南」(この映画、実は見逃していて、まだ観ていないのだ。今度絶対観ます)を撮ったウェイ・ダーション監督が、日本統治下の台湾で起こった、先住民族セデック族による抗日暴動「霧社事件」を、二部作構成で描いた歴史映画、「セデック・バレ」である。

 なんと、第一部「太陽旗」と第二部「虹の橋」を合わせて約5時間、300分近い超大作なのだ。

 最初、ちょっとビビった。余りにも長い映画だったからだ。
 長い映画って別に嫌いではないのだけれど、こっちも色々と時間的な余裕がなく、遣り繰りするのに大変でした。

 そしてこの「セデック・バレ」、とにかく圧倒的な面白さである―面白いという単純な言い方、史実に基づき良心的に作られた映画だけに、少し躊躇ってしまうけれど―。
 5時間、全然飽きることなく、その圧倒的な迫力と、目を覆いたくなるような悲劇に心が激しく揺さぶられてしまった。

 傑作である。

 物語は、日清戦争で清が日本に敗れ、台湾中部の山岳地帯に暮らしていた狩猟民族である「セデック族」の周辺にまで日本の統治が進んでいる時代に、焦点が当てられる。

 日本の弾圧は酷く、軍部が山岳地帯の奥深くまで入り込み日本人コミューンを立ち上げるのだが、それまで狩猟生活を続けていた原住民たちは、逆に平穏な生活が奪われ(部族間の狩猟を巡る殺し合いや抗争は頻繁に起こってはいるけれど)、父親の跡を継いで一族の頭目となった主人公のモーナとその一族は、日本人による差別と暴力と弾圧にひたすら耐え忍んでいた。

 ところがある日、ふとしたことからセデック族のひとりが日本人警察官と衝突し、それを切っ掛けに、それまで抑えていた民族自立の感情が一気に爆発する。
 怒りから武装したセデック族は、運動会に集まっていた日本人たちを次々と襲い、女・子どもも含め、ひとり残らず殺りくしてしまう。
 その報せを受けた日本軍は、大挙してその弾圧へと向かうのだが・・・。

 ここまでが第一部。
 本音を言っちゃうと、そこはやはり日本人。
 当初、あまりに酷い日本軍の地元民に対する差別と暴力に腹を立てながら観ていたのだけれど、武装決起したセデック族が、軍人や警察官だけじゃなく、日本人のか弱い子どもや女性たちまで皆殺しにするシーンに対して、「ちょっとそれは、いくらなんでもヤリ過ぎじゃないの?」と反発を覚えてしまった。

 日本軍の極悪非道ぶりは様々な歴史本の中にも綴られているから、それはそれで仕方ないと頭では理解していても、映画の中で罪のない日本人たちが(すべて戦争に関わった人間は、誰もがそれなりの罪があると説く人間もまた、理解出来ないではないけれど)無残に殺されてゆくシーンは、観ていて気分のいいものじゃない。

 続く、第二部。
 日本軍の大報復が始まる。
 しかし、険しい山中での戦闘は悪戦苦闘を強いられ、多くの日本軍兵士が次々に命を落としてゆく。
 その一方で、セデック族の女性たちもまた、長引く闘いで食料不足に陥ることを懸念し、雨の中、山中での集団自決を敢行し、圧倒的な武力に勝る日本軍を前にセデック族たちも後退を余儀なくされるのだった。

 そして遂に、両者の最終決戦が迫る・・・。

 とにかく、第二部「虹の橋」が凄まじい。
 両者の過酷極まりない戦闘シーンも凄いけれど、戦いで犠牲を強いられる幼い子どもたちや女性たちの悲劇が、ここでは克明に描かれて胸に迫る。

 そして、第一部の日本人虐殺とは逆に、ここでは主に、セデック族側の無残で痛ましいまでの姿がこれでもかというくらい、私たちの目の前へと提示されるのだ。
 観ていて、これもまた辛かった。

 もうこうなると、復讐の連鎖が連鎖を引き起こし、誰が善で誰が悪なのか、何が正しくて何が間違っているのか、一切合財が混沌とするだけで訳が解らなくなって来る。
 
 それにしても、こういう傑作もまた、人知れずいつのまにか映画の中の単なる一本として、静かに消えてゆくのだろうか。
 出来ればこういう骨太の素晴らしいアジア映画、みんなちゃんと観てほしい。

 蛇足ですが、日本軍人役として安藤政信と木村祐一が出演しているし、日本人スタッフ、キャストも多数参加している。
 懐かしのビビアン・スーも出ていました。

 因みに、「セデック・バレ」とは「真の人」という意味だそうです。

 台湾映画「セデック・バレ」、絶対に観るべし!









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スタイル・カウンシル「Complete Adventures」。聴くべきは幻のアルバムを収録した5枚目!

2013年06月27日 | Weblog
 今年はカラ梅雨のようだ。

 青森もほとんど雨が降らない。
 時々、ぱらぱらと思い出したように小雨が降る程度で、連日、晴れのいい日が続いている。
 まあ、青森って北海道とおんなじように、梅雨といっても毎年それほどの降雨量にはならないんだけれど。

 週間天気予報を見てみると、なんと一週間連続で「晴れ」マーク。
 実に爽快である。
 個人的に、どうも天候に対して敏感なところがあって、晴れと曇りと雨の日とでは心の動きにも微妙な変化を及ぼしてしまう。

 特に冬の季節。
 この季節になると、心まで暗くなる。
 なので、10月ぐらいから徐々に気分が落ち込み、11月になると、この街から逃げ出してしまいたくなるほどだ。

 憂鬱な空が一日中空を覆い、八甲田山系に雪が被り始め、冷たい雨からみぞれに変わりだす頃は、その憂鬱加減はマックスを迎えてゆく。
 そういう季節を思い出すだけで、嫌になる。

 でも今頃の季節は一年中で一番大好き。
 6月、7月、8月あたりが最も気分的に高揚する時期で、気持ちも前向きで積極的になる。
 誕生日が8月ということもあるんだろうか。夏が来ると、それだけで楽しくてしょうがない。

 そういう素晴らしい季節は、聴く音楽も、前向きで明るい、夏に相応しいジャンルのCDをピックアップすることになる。当然ですよね。
 アメリカだったらウエストコースト系かAORっぽいものになるし、日本の音楽も達郎とか大滝詠一系、最近ならジャンク・フジヤマとかになってしまう。

 そしてイギリスなら、スタイル・カウンシルだろうか。

 スタイル・カウンシルは、1983年に結成された。
 モッズのスピリットを踏襲し、パンク的な要素を打ち出した「ザ・ジャム」のフロント・マンだったポール・ウェラーと、オルガン・シンセ担当のミック・タルボットの2人で結成されたUKユニットだ。
 ベスト・アルバムとか企画ものを除くと、オリジナル・アルバムは全部で4枚になる。

 「カフェ・ブリュ」、「アワ・フェイバリット・ショップ」、「コスト・オブ・ラヴィング」に「コンフェッション・オブ・ア・ポップ・グループ」である。

 スタイル・カウンシルは約7年間続いたのだが、イギリスや日本では大ブレイク、「アワ・フェイバリット・ショップ」は全英第1位に輝き、日本でもアルバムは好成績を残し、来日コンサートも大盛況を博した。

 また日本のロック・アーティストたちに与えた影響も大きく、「パリス・マッチ」はスタイル・カウンシルの同名の曲からバンド名を取ったものだし、佐野元春なんかは、彼の作った何曲かがスタイル・カウンシルからのパクリじゃないかと、論議をかもし出したほどだった。
 当時、よく東京のオッシャレーなバーやカフェのBGMで、このスタカン(スタイル・カウンシル)のアルバムが流れていたものだ。

 僕が初めて彼らを聴いたのは、デビュー作(ミニ・アルバムとしてリリースされた)「イントロデューシング」である。
 すぐに好きになった。
 白人なのにソウル・テイスト満載で、メロディアスでポップ、とにかくカッコいい音楽。その後、矢継ぎ早にリリースされた12インチシングルを買いまくって聴きこんだ。

 スタイル・カウンシルは、アルバムに収録された曲と12インチで発表された曲で、同じ曲であってもアレンジや解釈を大幅に変えていることが多い。
 ベストやライブもたくさんリリースされているものの、この集大成ともなる「BOX」には、アルバムとは異なる別ヴァージョンもちゃんと入っているので、その点でも評価が上がる。

 そして、今回のスタイル・カウンシル「Complete Adventures」はベスト的集大成「BOX」という体裁で、目玉、それは何と言っても5枚目にある。

 お蔵入りとなってしまった、つまり「コンフェッション・オブ・ア・ポップ・グループ」に続くはずだった、オリジナル5枚目アルバムの曲がここに丸ごと収録されているからだ。

 まさに、超貴重盤!

 そこでは、ハウスやヒップポップをベースにした実験的な試みを数々行っていて、それが先鋭的と捉えられたのか、結局、アルバムとしては発表されないままに終わり、「BOX」の中の一部として日の目を見ることになったのだ。

 曲自体のテイストは、EDMと言い切ることも可能かもしれない。
 ダンサブルで、乾いている。非常に濃い目の音楽だ。
 ただし日本のみで単独リリースはされていて(現在は、ほとんど入手不可能な状態だ)、アルバム・タイトルは「MODERNISM:A NEW DICADE」だった。

 この、今となっては幻となった全8曲。
 個人的には好きだなあ。

 なんでこれがお蔵入りになったのか、よく分かりません。



 






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「夏至、それから小暑まで」

2013年06月26日 | Weblog
 6月21日は夏至だった。
 一年の中で、昼が一番長い一日だった。
 朝の4時過ぎにはもう明るくなり、夜の7時を過ぎてもまだ外は明るい。

 この前の日曜日、アサヒ・スーパードライの缶ビールを飲みながら、NHKBSで夕方6時から始まる大河ドラマ「八重の桜」を観ていたら、窓から差し込む痛いくらいに眩しい夕焼けの光に、ちょっと酔いも回ったのか、嬉しくなってしまった。

 ちょうどドラマでは白虎隊出陣の悲壮感溢れる場面が流れていて、ひとりの東北人としては当然「会津びいき」がメラメラ心の底から燃え上がっていたのだけれど、それがちょうど薩摩・長州を含めた「官軍」に対して敵意を剥き出しにしていた時だったので(そこまで「八重の桜」にのめり込んでいる自分もどうかとは思いますが)、ちょっぴりだけ「いいなあ・・・こんな夕暮れ」なんて、心の奥で呟いてみたりしたのである。

 夕焼けに沈んでゆく前の、ほんの僅かな時間帯。
 テレビの前に座って冷えた缶ビールを飲みながら、昨日の「駅伝大会」の疲労感を心地よく感じながら見る、とても優しく穏やかな初夏の西日と窓の先一面に広がる夕暮れまじかの青い空。

 綺麗だなあ・・・。

 一瞬だけの、顕微鏡で見ることが出来るくらいに小さい、そんな幸せでしかないのだけれど、それを今感じているという喜びが、微かに、そして確かにあった。

 でも、それさえ束の間の儚い時間でしかない。
 やがて陽は西の山並みの奥へと傾き、夜の帳が下り始めると、それに呼応するように心もまたざわめき出す。

 ずーっと、夏だったらいいのに。
 冬なんて来なけりゃいいのに。
 こうしていつの間にか、夏至が去り、小暑が来て、大暑になり、それから立秋が来るのだ。あっという間にみんな過ぎてゆく。何もかもが過ぎ去ってしまう。
 そんなふうに、心がざわめき始める。

 そんなことを考えている間に、どっぷりと夜は街を浸し、あっという間に夜の9時になった。
 ゴミ出しをしようとゴミ袋を持って外に出たら、一点の曇りもない夜空に、お月様だけが煌々と輝いているではないか。

 そうか。
 今夜は、月が地球に最も接近する時と満月が重なる、「スーパームーン」現象が起こる日だったっけ。
 最も遠くにあるときの満月より、なんと約14%も大きく、30%も明るく見えるらしい。

 ゴミの集積場所にゴミを置き、家の前の広い駐車場の真ん中に立ち尽くし、ずーっとその綺麗なスーパームーンを眺めていた。
 それほど大きくは感じなかったけれど、確かに眩しさは通常より凄いと思った。
 本当に美しい月だった。このまま何時間でも黙って眺めていたかった。

 缶ビール持ってきて、ここで暫く「月見酒」でもしていようかと考えたけれど、それは止めて家へと戻る。
 アスパムまで続いている一直線道路の、その先の先まで一台の車も見当たらない。信号機の鮮やかな色だけが煌びやかに輝いている。
 そんな日曜日のひっそりとした夜の街をちらりと眺め、そのまま家の玄関を開けてひとり部屋へと戻った。

 ああ・・・。
 こうして俺は老いてゆく。歳を重ねてゆく。それだけだ。それだけに過ぎない。
 何も残せず、もがき苦しんだまま、悔いの中で老いてゆく。何をしたって満たされるということはない。
 暗い夜闇を部屋から眺めながら、そんなふうに独りごちてみる。
 
 そしてまたいつもの朝がやってくる。
 今日も仕事場へと、疲れた躯体に鞭を打って出かけてゆく。
 今は何故か、お昼休みが待ち遠しくて堪らない。それだけを待っているといっても過言じゃない。

 お昼になると、部屋の電気を消して、椅子にもたれて目を瞑る。部屋の窓を開け、外の新鮮な空気を入れ、何も考えずにただ目を瞑る。
 遠くから聞こえてくる自動車のクラクションやエンジンの音。誰かが歩く優しい足音と微かに聞こえる笑い声。そんな雑音さえも愛しく思えてくる。

 こんなふうにして、なんということのない、平凡で緩やか過ぎるそんな日常がひたすら繰り返されてゆく・・・。

 ただ、それだけのことだろう。




 

 




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ご贔屓の韓国キム・ギドク監督のドキュメンタリー映画「アリラン」。これをいいとは思わない。

2013年06月25日 | Weblog
 韓国映画の監督でお気に入り、ご贔屓(ひいき)監督といったら、まずは「殺人の追憶」、「グエムル―漢江の怪物」、「母なる証明」のポン・ジュノ。

 次は、「悪魔を見た」のキム・ジウン。
 この人、ハリウッドに招かれ、最近になってアーノルド・シュワルツネガーで「ラスト・スタンド」(この映画はイマイチだったけど)も撮った。
 「悪魔は見た」、傑作中の傑作です!

 それからパク・チャヌク。
 「オールド・ボーイ」と「親切なムクジャさん」ね。どちらも傑作でした。
 ハリウッドでこの2作はリメイクが決定したらしい。
 「オールド・ボーイ」はスパイク・リーが監督をつとめ、今年秋に全米公開。それから余りにも強烈過ぎる復讐劇「親切なムクジャさん」は、なんとシャーリーズ・セロンが主役なのだとか。
 楽しみだ。

 そして、ホ・ジノ監督もいい。
 「春の日は過ぎゆく」もよかったし、ペ・ヨンジュンが主演した「四月の雪」も素晴らしかった。
 ある意味、このリリシズムは圧倒的に美しい。

 これ以外にも凄い監督が韓国にはたくさんいるし、映画だけを取り上げても素晴らしい作品は限りない。
 そして、その数多いる韓国の素晴らしい映画監督の中で、忘れてならないのがキム・ギドクだろう。

 キム・ギドクの映画を初めて観たのは、「春夏秋冬、そして春」だった。
 この映画には衝撃を受けた。
 それからすぐに「悪い男」を観た。そして、またガツンと脳天に一撃を受けてしまった。

 そこから、僕のキム・ギドク行脚の旅が始まる。
 「サマリア」を観て、「うつせみ」を観て、「弓」を観て、「絶対の愛」を観て・・・。
 ただ、オダギリ・ジョーが主演した「悲夢」にはガッカリしたけれど。

 一番印象に残っているのは「弓」だろうか。
 「弓」映画自体の評価がどうだということより(もちろん、好きな映画ではあるけれど)、その観た当時の事が今でも蘇るのである。
 恐ろしいくらい当時は落ち込んでいて、完全にどん底状態で、確か雨降る秋の夜、独りで東京の渋谷で上映した「弓」を観に行ったのだった。

 観終えて映画館を出たら、突然冷たい秋の雨が降って来て、傘もなかったから、楽しそうに相合傘を差して舗道を歩くカップルたちを横目に、凄まじいまでの焦燥感に塗(まみ)れ、濡れながらホテルまで帰った事を「弓」のシーンと合わせて想い出してしまう・・・。

 圧倒的な孤独と、凄まじい焦燥感・・・それはそのまま、キム・ギドクのドキュメンタリー?映画「アリラン」の中の、キム・ギドク自身にも当てはまるに違いない。

 ドキュメンタリー?映画とあえて疑問符を付けたのには訳がある。
 この映画、キム・ギドク自身がカメラに納まり、自分でカメラを回してその長期間に亘る隠遁生活を撮ったドキュメンタリー的作品なのだが、自らの分身を影と名付けてそのもう一人の自分と対話させるなど、全編、演技すれすれの独白形式でカメラの前へと立ち続けるのである。
 本人も、ドキュメンタリーでもありドラマでもあると、「アリラン」の中で語っている。

 キム・ギドクは何故、たった独り、辺鄙(へんぴ)な山里で3年間もの隠遁生活を続け、一本の映画すら撮る事が出来なかったのか?
 それは「悲夢」の撮影時、女優が大事故を起こしたことの精神的なショックや、助監督らの裏切りや、母国での低評価などが重なって、映画を撮れなくなってしまったということを、「アリラン」を通して告白する。

 カメラの前で泣く自分自身を、また別のモニターで眺めながら、軽蔑した目線をそこに送り、自虐的に語ってゆくキム・ギドクがいる。
 「アリラン」を泣きながら歌うキム・ギドクがいて、猫に寂しく餌を与えるキム・ギドクがいる。自己批判を繰り返し、自らを痛めつけ、罰し、罵るキム・ギドクがいる。

 そこに居るのは、痛々しくて、弱り切って、自らを貶(おとし)める独りの男ではあるのだが、それを設置したカメラに向かっていくら叫んでみても、そこに見え隠れする自己憐憫が、観る側を白けさせるというのもまた一方の事実なのだ。

 というか、カメラの前でおのれの「どうしようもなさ」を声高に叫ぶキム・ギドクと、雲泥の差はあるとしても、こうしてブログなんて媒体を通じて自分自身の不甲斐なさを吐露する浅はかな志の低さとを、否が応でも比べてしまうからかもしれない。

 まあ、こちらの程度の低さとキム・ギドクの高邁な苦悩の高さには、比較出来ないほどの大きな落差が存在しているのは、誰もが認める事実ではあるけれど。
 自己憐憫って奴、ほんと、厄介な代物ではあります。

 しっかし、それにしてもなあ・・・。

 それでも映画「アリラン」、第64回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映されて大絶賛され、「ある視点賞」を受賞した。










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「ビーディ・アイ」セカンド・アルバム「Be」。すんごく頑張ったとは思いますが・・・。

2013年06月24日 | Weblog
 最近のロッカーというか、ロック・スターって、そのカリスマ性の有無は別にして、「ガキっぽさ」とか「破天荒」とか「やんちゃさ」って部分が無くなって来ている気がしてならない。

 ロックは優等生たれなんて全く思わない。
 むしろ、そういうところから遠く離れている音楽のほうが、数十倍面白いし、刺激的に決まっている。

 「ミュージシャンは行儀よくしろ」なんて言うつもりはないし、近頃は、知的―それだって全然構わない。むしろ、そういう知的な衣を纏ったロックだって大好きだ―だったり、寡黙なロック・アーティストも結構いるし、メディア嫌いな人間も多く、マスコミ媒体でも、昔のように過激でセンセーショナルなアピールはほとんど見受けられなくなってしまった。

 昔は、「ドアーズ」のジム・モリソンがステージ上で○○○を露出して逮捕されたり、ジョン・レノンが「僕らはイエスより人気がある」とインタビューで答え、キリスト教信者たちが大規模なビートルズ排斥運動をしたりと、とにかく大騒ぎになった出来事がたくさんあった。
 それと同じ事をまたやれなんて、言いません。

 ロックは時代の流れといつも一緒にあるのだし、その時代の空気を敏感に感じ取り、それを自分たちの作る曲の中に敏感に刷り込み、そこから発信し、表現してゆくものだ。

 もちろんそういう「今」を、音楽に反映することを意識することなく自分なりの「音楽」として追求しているミュージシャンだってたくさんいる。
 たくさんいるけれど、出来あがったその音楽には、必ずその時代、時代の、気分や空気、そして、なにがしかの社会性や批判性が内包されているはずだ。

 「ロックはどうして時代から逃れられないのか」というロック評論集を書いたのは渋谷陽一だったけれど、ロックは絶えず「今ここで起きていること」、「この生きている時代が発酵し続けていること」を瞬時に吸い上げてきた、このことだけは確かだろう。

 まあ、ジョン・ライドンのように、「ロックは死んだ」と言っていたミュージシャンだっているし、トム・ヨークみたいに、「ロックなんて退屈だ、ゴミ音楽だ!」と批判していたアーティストだっている。
 これもまた、アリだ。すべて、なにもかもアリだ。それらも含めてロックである。

 イギリスのロック・グループ、「ビーディ・アイ」がセカンド・アルバムをリリースした。
 残念なことに、全英1位にはならなかったようだ。でも、我が日本でもそれなりに売れている。
 「ビーディ・アイ」のフロント・マン、リアム・ギャラガーが以前いた「オアシス」からのファンが、この日本には今でも根強くいるからだろう。

 「オアシス」を聴いたことがある人はたくさんいると思う。
 今、テレビで頻繁にオンエアされているauのCMでも流れているから、バンド名を知らなくても耳には残っているはずだ。
 「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」という曲だ。スタジアムにauユーザーが大勢集まって一斉にスマホを振りかざす、あのCMである。

 そのオアシスだけど、彼らのアルバムはすべてUKチャート1位に輝いていて、ギャラガー兄弟、兄のノエルと弟のリアムが大げんかをしてバンドが解散、そこからリアムが「ビーディ・アイ」を結成したのである。

 そのリアムが、前段で書いた、やんちゃというか、悪ガキというか、昔懐かしロック・スターの破天荒な言動や行動をちゃんと踏襲しているというか、とにかく愛すべきロックン・ローラーなのである。

 彼がマスコミに対して吐く毒、批判、駄々っ子ぶり、他人(そのほとんどが同業者、つまりロック・アーティストたちに対してなんだけど)への、こき下ろし、非難、これがまた痛快でセンセーショナルで面白い。彼のインタビュー記事が今一番面白いかも。

 ただし、その痛快さが今回の「ビーディ・アイ」セカンド・アルバム「Be」にはない。それがちょっと残念だ。
 1曲目の「Flick of The Finger」が導入曲としては中々素晴らしく、次からのドラマティックな展開と熱いロック・チューンの連打を大いに予感させたのだが、聴いてゆくと、これといった目玉になる楽曲がない。

 確かにアルバムを通して聴くと、ヴァラエティに富んでいて、一本調子にならないように工夫されているので、飽きるということはないけれど・・・。

 リアム・ギャラガー、アルバムそのものもいつもの過激な言動と同じように、「破天荒」に「やんちゃ」に大爆発して欲しかったんですけどねー。









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映画「マーヴェリックス 波に魅せられた男たち」。でも「ビッグ・ウェンズデー」には敵わない。

2013年06月23日 | Weblog
 海が大好きだ。
 毎日でもいい。海を見ていたい。そう思う。

 最近は夏でも余り海では泳がないので、雪が降る季節以外、とにかくランニングするときだけでも、なるべく海辺をそのコースに組み入れている。
 海が見たいからだ。
 海の香りを身近に感じていたいからだ。

 家から、直線で1キロ近くの場所に海が広がっていて、それだけはほんとに感謝している。近くに海がない、四方を山に囲まれている、都会で海が見られない、それだけは勘弁してほしいと思う。

 その昔、ゴッデスのサーフボードを高いお金を払って買い求め、友達と一緒に八戸や三沢方面までサーフィンをしに行った。
 青森の海は陸奥湾内に広がっているので、高い波がほとんどない。なので、ここから100キロほど離れた太平洋側まで行かないとサーフィンは出来ないのだ。

 でも、ボードを買い、ウェット・スーツを纏ったまでは良かったけれど、いつも上手く波に乗ることが出来なかった。
 毎週、行くわけにもいかず、太平洋岸に辿りついても数時間時間練習したらまた青森まで戻るしかない。往復4,5時間は拘束されるし、海の中に入れる時期だって北国なら2カ月か3カ月がいいところだろう。
 結局、サーフィンは挫折してしまった。
 
 映画「ビッグ・ウェンズデー」が公開されたのは1979年。
 ジョン・ミリアス監督の「ビッグ・ウェンズデー」は、サーフィン映画の傑作である。
 ストイックで、寡黙で、男の匂いがプンプンしていて、まるでジョン・フォード監督の西部劇のようだった。
 これとはまた別の意味で、北野武監督による「あの夏、いちばん静かな海」という傑作も、日本映画に存在しているけれど。

 最近、サーフィンを題材にしたアメリカ映画が公開された。
 1960年代のカリフォルニアが映画の舞台である。冒頭、実話に基づく物語だとテロップが流れる。
 サーフィン、60年代のLA、夏の太陽と潮風、男たちの友情とラブ・ロマンス・・・スポーツを題材にした青春映画って、やっぱり他のジャンルと比べると20点増しになる。
 「マーヴェリックス 波に魅せられた男たち」にも当然期待が高まる。

 アメリカ西海岸に現れるという伝説の大波は、「マーヴェリックス」と呼ばれていた。
 このビッグ・ウエーブに果敢に挑み、22歳で他界したというサーファーの物語である。
 映画のラスト、本人の生前の姿、インタビューに応じているシーンが映し出される。ジェイ・モリアリティという名前らしい(その方面では伝説のサーファーなんだろう。僕にはよく分かりません)。

 カリフォルニアで父親と離婚した母親と2人で暮らす、高校生のジェイ・モリアリティ。
 彼の近所には、別れた父親と同じくらいの年齢のサーファー(ジェラルド・バトラー。最近、随分出ていますなあ)が住んでいて、彼の活躍に憧れたジェイ・モリアリティは、早速弟子入りを乞い、巨大な波「マーヴェリックス」への挑戦を心に誓うのだが・・・。

 監督が、「L.A.コンフィデンシャル」や「8 Mile」を撮ったカーティス・ハンソンと、「007 ワールド・イズ・ノット・イナフ」「ナルニア国物語 第3章」のマイケル・アプテッドによる共同監督。
 カーティス・ハンソンは好きな監督のひとりなので、「マーヴェリックス 波に魅せられた男たち」には結構期待したのだが・・・。

 まず、主人公の青年と師匠であるジェラルド・バトラーに、子弟としての緊張感がない。
 普通なら、激しい特訓とか、示唆すべき名言とか、対立とか反発とか、それらを超えたところにある「心の繋がり」がきちんと描かれるものなのだが、そこが余りにも通り一遍というか、サラッと描かれているというか、あるにはあるのだが、イマイチ、観ている側へと伝わって来ない。

 そういう葛藤や苦悩や、あるいは恋愛や仲間たちとの反目やライバルとの切磋琢磨が描かれていてはじめて、最後の「マーヴェリックス」への挑戦が盛り上がるし、生きるのである。
 それなりにラストは興奮するものの、そこに到るまでの日常の描き方が平凡過ぎるから、感動が薄く、なんとなく終わってしまう。

 やはり、「ビッグ・ウェンズデー」には敵わなかった。
 期待してたのに。













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「ラスト・シンデレラ」最終回、サン・プリンセス入港、駅伝大会4区間約10キロ走る。

2013年06月22日 | Weblog
 6月20日木曜日の夜10時は、フジテレビ系ドラマ「ラスト・シンデレラ」の最終回。
 このドラマ、尻上がりに視聴率がアップして、最終回は17.8%を記録した。

 主役が篠原涼子。篠原涼子を巡る恋のライバルに三浦春馬と藤木直人。篠原涼子の友人が大塚寧々と飯島直子。三浦春馬の妹が菜々緒、そして大塚寧々の夫にココリコ遠藤という布陣だ。
 ちょっときわどいシーンもあって、「ちょっぴりエッチ」という謳い文句が毎週躍っていた。その「ラスト・シンデレラ」の脚本を書いたのが中谷まゆみである。

 中谷まゆみは、薬師丸ひろ子と豊川悦司が夫婦役を共演した、行定勲監督の「今度は愛妻家」の脚本を書いた人だ。この映画も良かった。

 ラストの見どころは、主人公の篠原涼子が、三浦春馬と藤木直人の2人のうち、いったいどっちを最後に選ぶのかという、まあこれもよくあるパターンではあるけれど、ラブ・コメの定番と言えば定番だ。

 結局、篠原が選択したのは、三浦春馬との結婚。
 藤木を選んでニューヨークに一緒に飛び立つと思っていたのだが、そこは上手く裏切ってくれました。
 でも、このドラマ、篠原涼子と藤木直人の掛け合いの面白さにあったのに、最終回ということもあったのか、全員が収まるところに収まって、これもまたテレビドラマ特有の、予定調和の大団円。
 悪くはなかったですけどね。

 そして金曜日の夜は、さすがにランニング。
 だって翌日に控えている、午前11時スタートの「駅伝大会」。いくらなんでも少しは走り込みをしておかないとヤバいっしょ。

 夜、「新中央埠頭」に向かって走っていたら、埠頭に巨大な客船が停泊しているではないか。船の灯りが煌々と漆黒の闇を際立たせていて、凪の水面を美しく照らしている。
 「サン・プリンセス号」が青森港に寄港しているのだ。

 せっかくなので、その豪華客船の前を走り、そのまま埠頭の突端まで行って、そこでまたUターンする。
 高校生のカップルが、誰もいないと思っていたのか、夜の海風に吹かれながら、べったり寄り添って熱いキスを交わしている。

 そりゃあ、そうだよね。
 美し過ぎる豪華客船の灯りと、ウォーター・フロント沿いに広がるビル群の灯りが、静かな夜の海を照らしていて、遠くからは、「ねぶた祭り」の囃しの音が潮風に揺られて流れて来るんだもん。
 ムードとロケーションは最高だし、愛し合っている若い2人なら、キスぐらいしたくなるわな。

 ごめんね、こんな汗臭い男が息を弾ませながら、独り淋しく走ってて。すぐに目の前を去りますから。
 早足で、その熱い恋人たちの空間を走り去る。

 それにしてもなんて綺麗なんだろう。
 こういう美しい夜の港の風景、滅多には見られない。

 次の日の土曜日は「駅伝大会」。
 二つのチームにエントリーしているので、一区、二区、三区を連続して走り、それから今度はまた別なチームの六区を走ることに。
 人数が足りないのだ。仕方がない。
 気合いを入れて何とか走り切るしかない・・・練習だってそんなにしてないし。

 最初のスタート、400メートルトラック2周で、まずはグロッキー。全員のペースが速いので、それに引き摺られてしまった。
 二区、三区と何とか走り切り、四区と五区のランナーが走る間、少し休み、それからアンカーの六区をまた走った。

 合計で9.4キロ走った。
 さすがに疲れたけれど、まだ走る余力が残っているのには、自分でもびっくり。
 しっかし、爽快な気分だ。充実感に満たされる。
 こういう気持ちになるから、走るのって止められない。

 午後は2コマ(3時間)の授業が組まれているので、急いで陸上競技場を出て、そのまま帰宅。
 シャワーを浴びて、着替えを済ませ、今度は青森駅前「アウガ」の「まちなかラボ」へと駆けつけた。
 教室に入ると、既に先生が待機していて、そのまま講義に突入する。まったく予習して来なかったので、かなり辛い。
 なんとか切り抜け、やっと2コマが終了。

 その次は、この街から約100キロ離れた街で急な「お祝い事」があって、どうしても今日中に行かねばならず、家に戻った足で車に乗り換え、すぐに出発。
 もう夕闇が迫っている。

 もう、クタクタに疲れている。
 今日1日で駅伝をこなし、3時間の授業を受け、往復200キロのドライブをした。

 全部終えて、家に帰ったら11時を過ぎていた。

 ああ・・・しんど。









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映画「インポッシブル」。何度も何度も涙が零れてしまった。この映画は観るべきだ。

2013年06月21日 | Weblog
 映画を観始めて少ししてからちょっと息苦しくなってきて、観続けるのをやめようかとも考えた。

 辛いというか、切な過ぎるというか、何故こうして、非情な現実をなぞるようにして描かれてゆく画面を直視しなくちゃならないんだと、目を背けたくなってしまったのである。

 どうしても、3.11東日本大震災の悲惨極まりないシーンが何度も脳裏を横切ってしまう。
 直接、住んでいる場所が津波の被害にあったわけではなかったけれど、八戸港が津波に襲われた場面を思い出し、そこから連鎖するように、凄まじい地震に襲われてすべての電気が消えてしまった瞬間の事がフラッシュバックした。

 3.11。その日は、早春だというのに粉雪が舞っていて、大地震が起こったその日の真夜中、真っ暗なオフィスで腕を組んで仮眠をとったことや、青森駅前「ねぶたの家 ワ・ラッセ」に緊急避難していた多くの観光客たちの安否確認に駆けつけた際に見た、ひっそりした新雪を被った駅前の暗い車道の映像が、何故か目に浮かんだりもした。

 何も、あえてこういう映画を観なくたっていいじゃないか。現実の今いる世界だってそれなりに厳しくて、明日も明後日もギリギリ綱渡りの緊迫した案件だって待っているのだ。
 こんなに疲弊したクタクタの身体なのに、なんでこういう2004年に起こったスマトラ沖大地震の悲惨極まりない状況を描いた映画を観る必要がある?
 観るの、止めちゃいなよ。そう思う自分が横に居る。

 それからまた、それとは別の考えをする自分も横に居る。
 別にいいじゃん、所詮映画だろうが。
 映画の中の人物だって、一生懸命真剣な演技をしているだけで、その前には何台ものカメラやスタッフたちが居るだけだ。
 そんなに構えてないで、気楽に映画を観てたらいいのに。所詮は、フィクションの娯楽映画だろう。

 二つの自分が、映画を観ながら葛藤している。
 それでも、目の前では圧倒的な緊張感を保ちながら、観る側をグイグイ引っ張るようにして進んでゆく。

 2004年12月26日、インドネシアのスマトラ島西方沖で大地震が発生した。
 この地震によって発生した大津波がインド洋沿岸諸国を襲い、津波によって22万8569人という膨大な死者や行方不明者を出した。

 映画「インポッシブル」は、この2004年スマトラ島沖地震で離れ離れになったアメリカ人5人家族の実話をベースに、ナオミ・ワッツとユアン・マクレガー主演で映画化したドラマである。
 監督は、「永遠のこどもたち」を撮ったJ・A・バヨナ。

 仕事で日本に駐在しているアメリカ人の家族(ナオミ・ワッツとユアン・マクレガーが夫婦、そして可愛い男の子3人)が、タイのリゾート・ホテルで楽しいバカンスを楽しんでいたその時、突然大津波がビーチを襲い、5人は凄まじい津波に流され、離れ離れになってしまう・・・。

 とにかく、映画の最初から涙目状態。
 最近はとみに涙腺が緩んでいて、ありえないほど涙もろい。

 映像がリアル過ぎて、家族が大津波に襲われるシーンに胸が締め付けられて、気が滅入って来る。
 それに、生き延びた子どもたちのいたいけな姿が画面に現れると、もう駄目なのだ。それだけで涙がぽろぽろ流れて、それがまた一向に止まらない。
 子どもたちが可愛過ぎる。

 映画の途中、何度「もう分かったから、止めてくれ」と思ったことか。
 3.11の現実に起こった悲惨なシーンとシンクロして、かなりしんどかった。辛かった。
 それは、結局取りも直さず、監督であるJ・A・バヨナの力量なのだが、母親役のナオミ・ワッツが余りにも巧くて(マリア役のワッツは、第85回アカデミー賞で主演女優賞にノミネートされたほど)、知らず知らずのうちに画面に引き込まれてしまう自分がいるのである。

 津波で引き裂かれた家族は、果たして再会することが出来るのか? 
 映画「インポッシブル」はその一点に集中してゆく。
 なので、後半はたぶんに映画的というか、サスペンスフルに展開する。

 名作とか佳作とか傑作とか、そういう言葉でこの映画「インポッシブル」を表層的に表現したくない。
 ただ、いい映画だとは思う。出来るなら、観てほしい映画だとは思う。

 個人的には、今年観た数多くの映画の中の、10本に入るくらいの出来映えだ。
 観るべし!









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「東京。すごい風が吹いている」

2013年06月20日 | Weblog
 通勤に2時間。だから朝の4時半には起きなきゃならない。眠い目を擦って、子どもたちの食事を作り、自分の分を急いで食べ、まだ寝ている子どもたちの朝食を食卓に置いて、そのまま5時半には家を出る。冬は特に辛い。真っ暗だし。2時間電車に揺られ、7時半には都内の会社に出勤。そこから仕事モードに突入して、残業が無ければ6時過ぎぐらいには退社。急いでまた満員電車に揺られ、シートになんて座ることも皆無。クタクタになって家へと帰り、そこから晩御飯の支度、食事の片づけにお風呂。やっと一息つく頃は、既に11時を回っている・・・。

 と、久しぶりに会った横浜の従兄妹が、冷えたビールを煽りながら呟いた。
 彼は、不幸にも最愛の妻に先立たれ、男手ひとつで(近くに両親がいるのでかなり応援してもらっているらしいけど))3人の子どもたちを育てている。

 すると、それに呼応するように、神奈川県内の某有名企業で役員秘書をしているその妹も、彼と同じような科白を吐いてくる。

 お兄ちゃんほどじゃないけど、通勤時間は約1時間。座れたことなんてないよね。主人と共働きだから6時には起きて、急いで朝食摂って、7時過ぎには家を出る。仕事が役員秘書だから、幹部の人間が会議なんかで夜遅くなるとそのまま待機しなきゃならないので、いつも帰るのは夜9時前後。それから食事の支度をして、主人と一緒に食べるのは10時ぐらい。それからお風呂入るから、寝るのは12時ぐらいになる。だから毎日、睡眠時間は5時間ぐらい。土日? 土日も起床は6時。1週間分溜まった洗濯をしながら、部屋を掃除して、買い物。主人は仕事の付き合いで「朝野球」とか「ゴルフ」があるから、帰って来るとその汚れものも洗わなきゃならないし・・・。でもウチはそれでも子どもがいないからいいほうで、会社のキャリア女子の中にはもっと凄まじい人がいて、慢性的な残業が続くし、子どもが小さくて熱出しても休めないから、その都度、静岡にいる両親が上京して、病院とかに連れて行ってくれるんだって・・・。

 ところで、と今度は従兄妹たちが逆にこっちに聞いてくる。
 青森だと、通勤時間ってどれくらいなの?

 10分!
 7時30分に、目覚まし代わりにNHKBSのドラマ「あまちゃん」で起こされて、それを観ながら素早く着替え、食事を10分程度で済ませて家を出るのが8時ちょうど。で、仕事場までが10分。だから帰りも帰宅時間は10分。こっちだって相当忙しいし、土日も仕事やイベントがあるからすんごく不規則だけど、仮に、仮にだけど、もしも定時にオフィスを出られたなら、そのまま速攻で家へと戻り、一気に着替えて、近くの海までジョギングして来ても夕方のニュースを観ながらゆったり夕食は摂れる・・・。

 ・・・。

 そんな話をしながら、19日、20日、東京出張の夜、仕事が終わった後、何年振りかで会った従兄妹の2人と久しぶりにお酒を飲み交わした。
 都会に暮らし、定年まで毎日続く通勤地獄で身も心も擦り減らすのがいいのか、それとも、そういう都会のストレスはないけれど、1年間の約半分が雪に覆われ、1月、2月、過酷な雪片づけを強いられるほうがまだマシなのか。
 よくわからない。

 それにしても、東京は蒸し暑かった。
 降るのか降らないのか、早くどっちかに決めてくれとでもいうような、そんな鬱陶しい空模様が続いている。
 そして、風が強い。めっぽう強い。
 泊った火曜日の夜中、神奈川県内では激しい雨も降り出した。

 ここ数日間ほとんど眠れず悶々とした夜を過ごしていたから、絶えず眠くて、もしかしたら今夜もまた睡眠不足かと少し不安だったけれど、なんとか、激しい雨の音を子守唄がわりにして眠りにつくことが出来た。

 しかし、こちらも経験済みとはいうものの、東京での通勤生活はやっぱり相当しんどいということを、改めて実感させられる。

 従兄妹たちに言わせると、「もう通勤地獄には慣れたから、東京じゃそういうもんだと思って居直るしかない」と諦めていたけれど、肉体的な疲労だけでもかなりのものだと思う。
 東海道線の電車に揺られ、都会の曇天の空を眺めながらそんな事を考える。

 確かに住んでいる街は大嫌いだけれど、いいことだって、そりゃあ幾つかある。

 海まで1キロで行ける。大自然に抱かれた八甲田連峰だって車で30分だ。通勤は10分(もちろん、数時間掛けて通勤・通学している人だって沢山いるけれど)。だから食事をするためだけに帰ることだって可能だ。映画館だって歩いて行けるし、近くにデパートもある。

 それでも、東京が好きだ。
 都会の喧騒が好きだ。街のノイズや無慈悲が好きだ。通勤地獄だけは耐えられないけれど・・・。

 そしてまた僕は、今度もこうして、新青森行きの新幹線に乗り込んでゆく。










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佐野元春「ZOOEY」を聴く。完全復活! 遂に、あの最高に輝いていた頃の佐野元春が帰ってきた!

2013年06月19日 | Weblog
 すべての言葉が生きている。
 すべての音が踊っている。
 すべてのリズムが躍動している。

 素晴らしいアルバムだ、佐野元春「ZOOEY」。
 12曲、その全部が光り輝き、尖がっている。
 これをロックというんだ。

 僕が買ったのは、「デラックス盤」。
 「ZOOEY」のオリジナル・ヴァージョン1枚。それと全曲インストルメンタル+デモ・トラックス、全16曲入りのCD(ZOOEYLANDSCAPE)。レコーディング・ドキュメント+ミュージック・クリップDVD全12が入っているZOOEYMOVIE。その3枚セットだ。

 そして、それだけじゃない。
 100ページに及ぶブックレットにポスターに佐野元春からの手紙に、ボーナス・トラックのダウンロード・パスキーに特製ステッカー。
 それらが、ブルーのケースにぎっちり詰まっているという超豪華盤なのである。

 そんなのは、まあどうでもいい。
 アルバム自体の内容が一番重要だ。
 そして、それがいい。すんごく、いい。

 佐野元春15作目のオリジナル・アルバムとしてリリースされたのが3月13日だから、実は発売されてから既に3カ月も経っている。
 正直にいうと、ほとんど興味がなかった。というか、もう既に佐野元春にはほとんど興味を失いつつあった。

 彼を絶対的に支持していたのは、ファースト・アルバム「BACK TO THE STREET」から、続く「Heart Beat」、「SOMEDAY」、「VISITORS」、「Café Bohemia」、「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」あたりまで。
 そして、何度も何度も繰り返し聴いたのは、やっぱり「SOMEDAY」と「VISITORS」だろうか。

 それ以降は、ちょっとしんどかった。
 それでも、1985年の「ヤング・ブラッズ」だけは、今でも、ひたすら聴き続けている。
 スタカンからの盗作じゃん、という意見も多々あるだろう。でも大好きだ。この曲を聴くことで、今でも「元気」を貰っている。
 この曲は、盆暮れに必ず聴いている、永遠のアンセムである。

 そんな、佐野元春だったけれど、たまたま最近、音楽番組でニューアルバムからの何曲かを聴いて、一発でノックアウトされた!
 すぐさま、購入。この復活には衝撃を受けた。

 「世界は慈悲を待っている」、「La Vita e Bella」、「ポーラスタア」、「ビートニクス」、「君と一緒でなけりゃ」、どの曲も素晴らしい。
 みーんな、ロックしている。

 特に「ポーラスタア」がいい。
 キャッチーなメロディ、エッジの効いたギターがいい。そして歌詞がいい。ぜんぶ、い、い!

 疲れた躯体に、この曲は効く。
 オロナミンCの100倍は元気が出る。
 なにくそ、と思う。やってやる、と思う。生きてやるぞ馬鹿野郎、と思う。

 佐野元春は完全復活した。もちろん、自分の中で。
 ロックしている。
 果てしない荒野を疾走している。都会の夜を全力疾走している。

 そんな感じのする、素晴らしいアルバムである、「佐野元春「ZOOEY」は。









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西内啓「統計学が最強の学問である」を読む。うーむ。難しい・・・よく解らん。

2013年06月18日 | Weblog
 物凄く売れているらしい。
 ベストセラーである。

 先日も、青森市内の中心市街地にある老舗のN本店に立ち寄ったら、ベストセラーの上位にこの本が並べられていた。確か、週間売り上げ第1位になっていたこともあったような気がする。

 西内啓氏の「統計学が最強の学問である」という専門書のことだ。
 今、話題の本で、副題が「データ社会を生きぬくための武器と教養」とある。
 武器と教養? 
 確かに、これって戦略として、道具として、かなり使えるかもしれない。

 というのも、これまで色んな「論考」とかを、拙(つたな)い文章と頭を駆使して、自分なりに様々なステージで発表してはきたけれど、どうもイマイチその主張に迫力がないということを感じていた。
 反省を込めていうと、綺麗な言葉に逃げているのである。

 どんなに美しく文章を着飾っても、それは一種の繕いでしかない。
 論理的に課題を読み解き、きちんとした推計と到達点を描き、読み手にわかり易く、しかも興味を惹くような展開で提示すること。そこがとても大事なのだが、それがなかなか出来ない。

 データを駆使して、数字的な統計を入れ、起承転結がしっかりしている「論文」、「論考」、「レポート」などを読むと、自分の書いてきた稚拙な解釈と見比べて恥ずかしくなり、舌を噛んで死んでしまいたくなる。
 素晴らしい論文の類いには、品格と読者を唸らせるちゃんとした説得力があるのだ。

 西内啓「統計学が最強の学問である」は、前半のエピソードが面白い。
 19世紀にロンドンで発生したコレラに関する話が出てくる。
 合計で十数万人もの死者を出し、大パニックを引き起こした疫病コレラを救ったのが、「統計学」の力だったというのである。

 当時のロンドンは産業革命の真っ最中。
 凄まじい数の労働者たちが大都会ロンドンへと押し寄せ、人口増加にインフラが追いつかず、街は荒れ放題、不潔で不衛生な劣悪の環境地区が幾つも生まれ、下水も整備されていなかったから、ゴミや排泄物がいたるところに溢れ出し、悪臭が酷く、最悪の環境が都市を覆っていたらしい。

 その最低最悪の環境下で、コレラが発生する。
 次々と人々が病に倒れ、瞬く間に大勢の人間たちが命を落としていった。
 しかも、その最悪のコレラの発生原因がまったくもって分からないのだ。人々は不安に怯え、防ぎようのない悪魔に対して無抵抗だから、死者の数は膨れ上がる一方だった。

 と、ある役人が考えた。
 「臭い地域」に住んでいる、貧しい労働者たちが出す「汚物」が原因に違いないのだから、この「汚物」を片っ端から川へと流したら、それでこのコレラは治まるのでは?
 彼は、人力を使って次々と街中の汚物をきれいに片付け、それをどんどん川へと流していった。
 
 ところが・・・。
 不思議なことに、むしろ最初のコレラ流行時より、大量の死亡者が出てしまったのである。
 知恵と時間と膨大な労力を使っても、むしろ逆に酷くなってしまったのだ。

 そこに、疫学の父と呼ばれた(らしい)、ジョン・スノウという人物が登場する。
 彼は統計学を基底に据え、きちんとした仮説を立て、それに基づいて詳細な調査を行い、集計してゆくという作業を丁寧に繰り返してゆく。

 ①コレラで亡くなった人の家を訪れ、付近の環境を調査すること。
 ②コレラに罹った人と、罹らなかった人との違いを調べること。
 ③大規模なデータ収集をし、表に落とし、コレラの「発症/非発症」の違いを検証すること。

 スノウは約1万軒を調査し、コレラの原因が、「水道会社」が提供している水にあったことを突き止める(当時のロンドンは、同じエリアに住む人でも別々の水道会社の提供する水を、それぞれ利用していた)。
 Aという水道会社を利用している家で、8.5倍もの高さでコレラ死亡者が出ていたのだ。そして、コレラ菌が存在している水を飲んだ人間だけが、次々と感染していることを突き止める。

 ここで、統計、「統計学」の持つ重要性が見えてくると、西内啓は述べる。
 仮説を立て、統計学の知識を駆使して、適切なデータを取り、解析し、数字として落とし、そこから見えてくるものをきちんとあらわにする。
 それは、あらゆる「論考」、「論文」、「レポート」執筆に言えることだろう。

 確かに、西内啓の「統計学が最強の学問である」は目から鱗の箇所がたくさんある。あるのだが、後半部がちょっときつい。
 根っからの文系脳なので、数学や計算となると最初から拒否反応が生まれてしまう。

 「疫学・生物統計学」、「データマイニング」、「計量経済」、「ゴルトンの回帰分析」、「P値」と言われても(丁寧に説明されても)難しくてピンとこない。

 うーむ。
 これをマスターすれば、かなり強力な武器にはなるのだろうが・・・。
 なにせ、数字に弱いから。

 「統計学が最強の学問である」、もう一度最初から読み直そうかなあ。
 











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矢沢永吉 ALL TIME BEST ALBUM(初回限定盤)(DVD付)を聴く。

2013年06月17日 | Weblog
 エーちゃんのコンサートに初めて行ったのは「日本武道館」だった。
 矢沢永吉の初の武道館コンサートである。
 2階席だったけれど、凄まじい盛り上がりだった。確か、「キャロル」の曲も披露したのではなかったか。

 ずーっと「キャロル」の頃からの大ファンで、キャロルのアルバムも擦り切れるほど聴いたし、ソロになってからもアルバムを買い続け、ジョニー大倉のソロ・アルバムも好きだった。
 巻き舌の英語っぽい日本語で歌ったのも、ジョニー大倉とエーちゃんがいた「キャロル」が最初だったと思う。

 それほど彼らのデビューは衝撃的だった。
 確か、「サディスティック・ミカ・バンド」と一緒に「キャロル」はツアーにも出ていた。僕は行けなかったけれど、今にして思えば、このジョイント・コンサートは是非観てみたかった。
 残念至極である。

 そういえば、あの頃、ユーミンとダウンタウンブギブギバンドもジョイント・ツアーをしていて、古い「青森市文化会館」に来た事があった。
 ユーミンは、青森駅前のリンゴ市場でリンゴを齧っていたんじゃなかったかなあ。まあ、今となっては、もうどうでもいいことだけど。

 そして今回、矢沢永吉「ALL TIME BEST ALBUM(初回限定盤)(DVD付)」がリリースされた。
 エーちゃんは、昨年デビュー40周年を迎えたのである。
 今回のオールタイム・ベスト・アルバムは本邦初。すべての楽曲がリマスタリングされている。

 昔、板橋の大山に住んでいた時期、向かいに住んでいた水戸出身の住人がエーちゃんの大ファンで(地元では仲間たちとつるんでバイクを乗り回していたらしいけど)、よく2人で「ゴールド・ラッシュ」のアルバムを聴き狂ったものだ。
 懐かしい。

 懐かしい続きで言うと「キャロル」も、当時地元に帰ると、仲間たちと車に乗り込んで朝まで何度も繰り返し彼らのアルバムを聴きながら、あてもなく街中を走り回った。ああ、懐かしい。

 「ALL TIME BEST ALBUM」は3枚組だ。
 当然、楽曲はどれもが素晴らしい。

 その中でも、「チャイナタウン」、「YES MY LOVE」、「アイ・ラヴ・ユー,OK」「東京スタイナー(Introduction)~逃亡者」、「雨のハイウェイ」、「共犯者」、「時間よ止まれ」、「SOMEBODY'S NIGHT」がいい。
 勿論、これ以外の楽曲も素晴らしい。

 そして、もしもこれから買うのなら、絶対、初回限定盤がお薦め(って、いつも初回限定盤を薦めているけれど、やっぱり特典映像やボーナス・トラックが入っている初回限定盤って狙い目だと思う)。

 今回の初回限定盤の特典はディスク4のDVD。
 これがいいのである。
 PVがたくさん入っていて、特に素晴らしいのが「チャイナタウン」。

 この「チャイナタウン」のPVは、これまでも「ユーチューブ」で何十回も観てきたものだけど、本当に素晴らしい。
 聴いていると、昔の情景が想い出されて胸がきゅんと熱くなる。

 曲自体の素晴らしさもあるのだろうが、エーちゃんと2人の女性バック・コーラス、それとサキソフォンの男性の4人が、ひたすら艶やかに、そしてしっとりと、甘く歌い上げるという美しい映像だ。
 このPV、何度観ても飽きることがない。

 矢沢永吉の作る曲って、とてもストレートで分かりやすい。とにかくメロディが美しく、どの楽曲も綺麗にまとまっているところが凄い。
 そこが天才のなせる業なのだろう。

 早速、このアルバム、「ウォークマン」にダウンロードして、ランニングしながら聴き狂っている。
 これから夏に向かって、こういうアルバムはとてもありがたい。
 辛くても、このアルバムを聴くと前向きになれる(ちょっとだけれど・・・)。

 ・・・なんてことを書いてたら、なんと、ジョニー大倉が癌だというニュースが。
 とにかく早く完治して、新しいアルバムをリリースして欲しいと思う。
 だって、「キャロル」の音楽に顕在していた、あのスイートでポップな部分って、ジョニー大倉に負うところが非常に大きかったと思うから。

 そういう音、また聴かせてほしい。
















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