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淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「4月テレビ新番組視聴率競争の行方!新女王は天海祐希か?仲間由紀恵か?」

2006年04月30日 | Weblog
 とにかく、今年のプロ野球TV中継の視聴率がすこぶる悪い。
 今年は序盤戦からセ・リーグでは巨人がダントツで首位街道を驀進中だというのに、テレビの視聴率はそれに反比例していて、何と4月期の最低を記録したらしい。
 プロ野球開幕前に、世界一決定戦があってイチローとかの大活躍があって大いに盛り上がったというのに、一体どうしてしまったのだろう?

 最新の週間テレビ視聴率のランキングで一番嬉しかったのが、アニメ放映15周年を記念して製作された「実写版 ちびまる子ちゃん」が第二位を獲得したことだ。ほんと、この実写版は面白かった。というより、一にも二にも、主役のちびまる子ちゃんの演技を含めたその立ち振る舞いの素晴らしさだったんだけど。
 第二作目が早く観たい!

 で、ちょっと意外というかビックリしたのが、フジテレビ月9の新ドラマ「トップキャスター」である。
 天海祐希主演のライトなコメディで、舞台はテレビ局というのもワンパターンだし、話題になるなんて全く思ってもいなかった。いわゆる想定外。
 ところがである。何と、ダントツの第一位。
月9が視聴率でトップを取るなんて久しぶりじゃないだろうか。勿論、「西遊記」は別として(まあ、この番組もここまで視聴率を取れるとは意外だったけど)。

 これで天海祐希は、新視聴率の女王に躍り出た。一昔前の、松嶋菜々子がそうであったように。
 彼女が主演した「離婚弁護士」もそうかもしれないけれど、やはり日本テレビ土曜日夜9時からオンエアされた、「女王の教室」が大きな分岐点になったのではないだろうか?
 日テレは、小学校を舞台にした鬼女教師を主役に据えた「女王の教室」の大ブレイクから、先般、何故、鬼の女教師になるまでの過程を描いたスペシャル版を放映して、これもまた大反響を得たが、これで天海祐希は一皮剥けた。

 最近の視聴者の嗜好は、途中半端ではなく、深刻で暗いドラマならとことん暗いもの、楽しいなら肩の凝らない程度に軽いもの、或いは安心して観る事が出来るお笑い系バラエティものへと移ってはいるのだろうけど、一家に一台テレビがある時代から各部屋にそれぞれテレビが置かれる時代への変化が、怪物視聴率番組を激減させる大きな要因になったのだと思う。

 だって、例えば大晦日の「紅白歌合戦」の視聴率でも窺い知れるように、大家族が一家団欒でさまざまな歌を楽しむなど、もう不可能な時代に突入したのである。演歌にポップスにロックに民謡に歌謡曲。それらを全て寄せ集め、大晦日に垂れ流したところで振り向く人間は少ない。
 「紅白歌合戦」は、もう歌番組ではない。完全に賑やかなバラエティとしてのみ成立してしまっている。

 天海祐希が新視聴率の女王に躍り出たのなら、忘れてならないのが仲間由紀恵である。
 NHKの大河ドラマ、司馬遼太郎原作の戦国ドラマ「功名が辻」の主演に抜擢されたものの、当初はかなり視聴率で苦戦を強いられたようだ。
 山内一豊の妻を演じ、ホームドラマ形式で内助の功を前面に打ち出した演出だったけれど、タイトルがよく理解できず、何のドラマなのか分からず、チャンネルを回すまでに至らないという視聴者からの不満が数多く寄せられたようだ。
 しかし、さすが仲間由紀恵である。
 徐々にドラマの内容が理解され、視聴率週間ベストテンに随時顔を出すまでになった。この大河ドラマ、最近の何作かの中でも面白い部類にはいると思う。安心して観る事が出来る歴史ドラマである。それも女性の視点というのが新鮮だ。

 さて。次は何を観ようか?

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「純愛心中―情死はなぜ人を魅了するのか?」

2006年04月29日 | Weblog
 ずっと前、ドライブ中に何気なくFMラジオを聴いていたら、某ミュージシャンが番組の中で、「俺って、恋愛をして、その心から愛してた最愛のひとと何かの理由で別れなければならなくなったりすると、もう一切合切何も手がつかなくなって、本気で死ぬことさえ考えちゃうんだよね」と言っていて、その言葉は今でも時々思い出すことがある。
 そんなにメジャーな音楽家じゃなかったけれど、「やっぱり何てったって、人間は『愛』という中でのみ成立している動物なんだなあ」と妙に感動したものだった。
 いい悪いは別にして、人間は「愛」のためには死ぬことさえ出来る動物なのである。

 堀江珠喜という女性が書いた「純愛心中―情死はなぜ人を魅了するのか?」は、そのタイトルの通り、男と女が、深く激しく愛するがゆえに「死」を選択せざるを得ない状況を、古今東西のエピソードを散りばめながら紐解いた本である。
 しっかし、何でいつもこういうタイトルに引かれて読んでしまうんだろう? まあ、別にどうでもいいんだけどさ。

 近松門左衛門の有名な心中ものに、「曽根崎心中」がある。
 宇崎竜童主演で映画化され、その映画自体も評価されたし、篠田正浩監督の「心中天網島」という素晴らしい傑作映画もまた生まれている。
 江戸時代には、この心中もの、情死ものの歌舞伎や浄瑠璃などが大流行し、それに伴って実際の心中が多発したことが引き金となって、幕府は、相対死禁止令なるものまで出して、あとを絶たない男女の無理心中の抑制に努めたという。

 「道行(みちゆき)」という言葉は、エロティックでいて、しかも儚い美しさを持っている言葉だ。
 愛し合う二人が、その死に場所に辿り着くまでの道程であり、二人の最後の逢瀬とも呼べる、短くても永遠にも感じられる共有時間。それが「道行」である。
 そして、この「心中」という概念への肯定は、たぶん日本人だけが持っているものであり、キリスト教的人生観が広く普及するアメリカやヨーロッパ諸国には余り見られないのではないか。キリスト教において、自死とは、罪であるからに他ならない。

 シェークスピアの「ロミオとジュリエット」だって心中じゃないか!って、反論があるかもしれない。でも「ロミオとジュリエット」は、ジュリエットが仮死状態にされられているのを死んだと勘違いしたロミオが毒を飲んで死に、やがて目覚めたジュリエットが、今度は死んだロミオの姿を目の当たりにして、後追い自殺するというもので、最初から「死への旅路」へと、愛する二人が手に手を取り合って向かうという様な、凄惨な美しさに纏われたものではない。

 堀江珠喜は言う。誰もが「愛と死」を扱ったドラマには熱狂すると。
そうかも知れない。文学における究極の二大テーマは「愛」と「死」に関することである。そのほかにはないと断言してもいいくらいだ。
人は、愛と死に関してのみ、その力を割く。仮に、権力や富や名声を得たとしても人間たちは満足などしないのである。どういう形であれ、愛を勝ち取り、死の淵から帰還することこそ、歓喜に震えるのである。勿論、死の恐怖から一時的に免れたとしても、必ず最後に死は目の前に横たわるけれど・・・。

「純愛心中―情死はなぜ人を魅了するのか?」は、そんなに重い読み物ではない。スラスラと最後まで読み切ることが出来る。「ダイアナ妃」や「皇室」のエピソードを含め、過去に話題となった恋愛に関するスキャンダルが数多く掲載されていて、「女性週刊誌」的な切り口と言えなくもない。
 だから、日本における「心中」の歴史を切り口に、「情死」を哲学的かつ文学的に解明することを期待すると肩透かしを食らうことになる。
 そこがこの本の弱点であり、だからどうしたの?と、思わず問い詰めたくなる部分でもある。

 しかし、「情死」とはやっぱり凄まじい。
 人間とは不可解だ。不可解この上ない。

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「GOOD-BY」

2006年04月28日 | Weblog

        明日から黄金週間? 輝ける9日間?
        そんなの厭だね。うらはらで。

        それじゃあ、暫しの、さ・よ・う・な・ら!







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ここまでガメラの歴史を壊す事に意味があるのだろうか?映画「小さき勇者たち~ガメラ~」は無残である。

2006年04月27日 | Weblog
 これまで、米国版を含めた全ての「ゴジラ」シリーズと「ガメラ」シリーズと「大魔神」シリーズを(もう、その他を含めてたくさんのモンスター・怪獣もの)観て来た一人の男として、これだけは言いたい!
 って別に威張るほどのことではないけれど。

 ①怪獣映画の醍醐味は、日本の大都市に上陸した際、当然、その都市を滅茶苦茶に破壊し尽くすというところにあり、街を破壊するという宿命が課せられている。
 ②怪獣たちは、異形へのルサンチマンを抱えており、そのことは必ず何らかの形で(たとえそれが目に見えるものではなくても)映画の中で露呈しなければならない。
 ③最後、人間への「愛」に目覚めたり、或いは、愛した人間への自己犠牲を見せようとも、いざ戦う時のその姿は、あくまでも凶暴かつ暴力性を匂わせるべきである。

 とまあ、こういう感じ?
 つまり、優しさや愛に餓えているとはいえ、それとは相反する残酷さや凶暴さが露呈して、絶えず葛藤に苦しむ姿が本来あるべき怪獣の姿なのである。

 これは一体何なんだ?
 映画「小さき勇者たち~ガメラ~」のことである。
 1965年の、大映映画「大怪獣ガメラ」(そういえば白黒だった)から、第二期の「ガメラ 大怪獣空中決戦」、「2」、「3」に至るまで、ハッキリ言って、別に言わなくてもいいけど、僕は「ゴジラ」よりも「ガメラ」が大好きだったのである。
 特に「ガメラ対ギャオス」と、金子修介監督の第二期「三部作」。
 名作である。

 しかし、今度のガメラ。これはちょっと酷過ぎる。
 優しい目をしたガメラなんて邪道である。勿論、ガメラは子どもが大好きだとしてもだ。だとしても、ギャオスやジャイガーやレギオンと戦う時のガメラは、鋭い眼光で相手を睨みつけ、そして必ずバトルは日本各地の名所旧跡で実行されなければ、一体怪獣映画に何の価値があるというのだろう?

 確かに、製作者側の意図も解る。
 子どもたちとガメラの友情にスポットライトを当て、卵から孵った小さなガメラを主人公の男の子が育てるということで、観客にも感情移入しやすくする。
 それから、マンネリを防ぐ意味からも、怪獣バトルそのものよりも、仲間、親子、そしてガメラとの愛情物語に重点を置くことで、新しい怪獣映画を産み出してゆく・・・。
 でもこれは、並大抵のことじゃない。
 それに、観客はそれをこれらの映画に求めはしない。勿論、その二つが上手く絡めば言う事なしだが。

 かくして、ここにまた怪獣映画にその名を刻む、カルトな奇作・迷作が誕生した。まあ、これはこれでマニアックではありますが・・・。
 

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本当に「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟? 「Vフォー・ヴェンデッタ」はちょっとキツイ。

2006年04月26日 | Weblog
 天気はいいんだけれど、なかなか気温が上がらない。
 このままで行くと、ゴールデン・ウイーク前半の桜の開花がちょっと難しいかもしれない。今年は冷夏になるのだろうか?
 仕事を早めに片付け、映画に出掛ける。
 いいんだろうか?このままで。などと、また漠然とした不安が目の前を横切ってゆく。

 映画「Vフォー・ヴェンデッタ」。
 あの「マトリックス」三部作を作ったウォシャウスキー兄弟が脚本に参加したということもあって、全米でも鳴り物入りで拡大公開されたものの、結果はあまりパッとした興行成績は上げられなかったようだ。

 映画館に入ると、一番大きなハコなのに、何と客は僕を入れてたったの4人。ちょっと平日とはいえ淋しい入り。うーん。ちょっと宣伝も地味だったしなあ。
 一番後ろの席に陣取って、熱い珈琲を啜りながら足を伸ばす。

 映画は近未来。
 第三次世界大戦後の世界は、アメリカが植民地化され、イギリスは独裁国家としてファッショ政治が国民を統制していた。
 ある夜、夜間外出禁止令が布かれていたにも係わらず、ナタリー・ポートマン演じる主人公は外出し、運悪く捕らえられてしまう。
 そして、そこに忽然と現れたのが仮面を被った、Vと名乗る謎の男。彼は、捕まる直前のナタリー・ポートマンを助け、独裁国家に対して宣戦布告をするのである。

 国家の独裁者の名前をサトラーと名付けているように、ヒトラー率いるナチス・ドイツをモデルに描いている。国民弾圧。国家独裁。そして、権力に独り反旗を翻すVという仮面の男。
 実は、独裁国家に君臨するサトラーとその側近たちは、ある悲惨な過去の国家的犯罪を隠蔽しており、映画の進行とともにそれは明らかになってゆく。

 しっかし、この映画、本当に「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が脚本を担当しているの? と疑いたくなるほど散漫な映画になっている。
 確かに、一種の政治映画と観れなくもないが、原作がコミックということもあってか、今ひとつピントが合わない。
 この映画を、アクション映画、あるいは「マトリックス」的な近未来サイバー・アクションと思って観に行ったら、ちょっとキツイだろう。

 ナタリー・ポートマンは、女性の大事な髪を剃り落とすという迫真の演技を見せはするけれど、何せ映画自体の焦点がズレまくるから、かなりしんどい。
 もう観ちゃった人は仕方が無いけど、わざわざお金を払ってまで観るような映画じゃないね。はいっ。
 

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橋本治の「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」。その分析には脱帽するけれど。

2006年04月25日 | Weblog
 橋本治を始めて知ったのは、だいぶ昔の事だ。
 確か、あの東大紛争に関わった人たちを追うNHKのドキュメンタリーで、まだ「桃尻娘」もポップな現代語訳の「徒然草」とかを出版する、そのずっと前の事である。
 インタビュアーに、「全共闘や学園紛争が燃え上がっていたとき、橋本さんは何をしていたのですか?」と聞かれ、「僕は布団を被って寝てました」と、何度も連発していたのを今でもハッキリと覚えている。
 その後の彼の活躍は、もう誰もが承知の事実だけれど・・・。

 集英社新書の「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」は、彼独特の緻密で論理的な論法で、今の日本の経済システムや、世に蔓延る「勝ち組」「負け組」という価値基準を解き明かす。

 彼は言う。
 日本人は、もう誇るべき独特の「理論」を展開してゆく方法論を失ってしまい、短絡的な二分法に逃げ込んでいるのだと。
 確かに。
 もうこれはホントいい加減にしてほしいと、心底思う。大体、永遠に勝ち抜く事などほぼ不可能に近い。勝ったという状態って、どの時点なわけ?
 著者も言っているけれど、「勝った・負けた」という判断基準そのものが、「富」を得た人間が「富を得ていない」人間を嘲笑うだけなら、そんなことどうでもいい。笑うだけ笑えばいいのだ。それを「けっ!」と吐き捨てるだけだから。気にする必要もない。

 頭に来るのは、そんな低次元なレベルで「勝ち組」と「負け組」を区別していないことにある。そこに悲劇が横たわる。もっと複雑に絡み合っているのだ、現実は。
 つまり、「負け組の言い分には一切耳を貸さない」という、思考レベルでの平等性を全く拒絶している点である。そして、発信者は、常に「勝ち負け」の土俵から一歩退いた場所で発言している。
 そういう自分は何様なんだよ?

 特に、女性を「勝ち組」と「負け組」に二分割する、その思考が理解出来ない。
 キャリアがある。高学歴である。美人である。優しい性格である。知性もある(いや、別になくても一向にかまわないが)。
 でも未婚である。或いは子どもがいない。
 それだけで、負け組だとレッテルを貼られてしまう。別にフェミニストでも女性崇拝者でもないけれど、何故この部分の欠落だけで、そこまでの分類をしてしまうのだろうか。

 橋本治はこうも言う。
 「誰が勝ち組と負け組を持ち出したのか?」
 「勝ち組と負け組という図式で、短絡的に判断するもの。それは、その近くにいるもの、そしてその『外側』にいるものたちなのだ」と。

 息苦しさの時代が始まっている。
 ここから、抜け出し、自分自身のための人生を歩む方法論を見つけ出すのは可能だろうか? その明確な答えはない。

 「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」は、確かに面白い。正確な積み上げと論理的な展開に終始する。
 でも少し難を言えば、その論理の積み上げが優等生的過ぎる部分もなくはない。

 ああー。しっかし、息苦しい。この乱世って。
 

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素晴らしい映像美! テレンス・マリック監督の映画「ニュー・ワールド」は美しい。

2006年04月24日 | Weblog
 探検家でもあるジョン・スミスは、イギリス国王の命を受けて新大陸を目指し、ついにアメリカ大陸のヴァージニア周辺に上陸する。
 そこはまだ未開の地で、原住民たちはコミュニティを組みながら、狩りや簡単な畑を耕して穏やかに暮らしていた。その原住民の長の末娘は、とても美しく優しい心の持ち主で、の長も彼女を溺愛しており、名前をポカホンタスといった。
 ジョン・スミスたち一行は、上陸後、浜辺に砦を築き、未開の地の探索を続けるが、ある日、原住民たちに捕まり、殺されかけたところをポカホンタスに助けられ、しばらくそので暮らすことになる。

 2人は互いに惹かれ合い、そして深く愛し合う。

 しかし、幸せの時間も束の間だった。
 イギリス人たち、つまり新世界を求めてアメリカに足を踏み入れた者達と、先祖から土地を引き継がれたネイティブ・アメリカンとは、交じり合うはずもない。
 土地と権利を巡って争いが勃発し、多くの犠牲者を出し、ポカホンタスは停戦との引き換えに人質として捕らえられてしまう。

 ジョン・スミスは、ポカホンタスを深く愛しているものの、文化や生活の相違や互いの行く末を案じ、「私は死んだ」ということにしてポカホンタスの元を去ってゆく。最愛の男性がもうこの世にはいないと思い込んだ彼女は、生きる屍となり、開拓者側の人間として単調な日々を送るのだが、ある日、ジョン・ロルフという開拓者から突然のプロポーズを受けることに・・・。
 そして・・・。

 あの、テレンス・マリックである。
 伝説の、孤高の、巨匠の、天才の、映像の魔術師の。そんな言葉が必ず前に付く、あのテレンス・マリック監督である。

 これまでに、たった4本の映画しか作っていない。
 「地獄の逃避行」、「天国の日々」、「シンレッド・ライン」、そして今回の「ニュー・ワールド」。
 たったこれだけ。しかし、そのどれもが素晴らしい。教壇で哲学を教えていたというだけあって、あらゆる無駄なものを削ぎ落とし、その科白は思索的である。そして、余りにも美しい映像。

 テレンス・マリックは、絶えず自然と会話する。
 小鳥のさえずり、木々のざわめき、風の音と太陽のきらめき。余計な描写は一切無い。極力、台詞を排し、自然と人間を調和させる。こちらにまで、空気の振動が伝わってくるようだ。

 新人の15歳の女優、クオリアンカ・キルヒャーが素晴らしい。ポカホンタスを自然に演じている。その悲しみ。それから幸福感。孤独。自立。慈しみ。愛。
 勿論、コリン・ファレルもクリスチャン・ベールも、愛することの苦しさと切なさを見事に演じている。

 しかし、今度はいつこの監督の映画が観れるのだろうか?
 何たって、「天国の日々」から「シンレッド・ライン」まで20年も掛かっているんだから・・・。
 

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「そして、春の日は過ぎ行く」

2006年04月23日 | Weblog
 日曜日。
 朝の8時に起き出し、ウォルター・サレス監督の「モーターサイクル・ダイアリーズ」をビデオで観る。若き日のチェ・ゲバラの南米横断旅行をスケッチしたロード・ムービー。
 そしてそのまま引き続いて「恋人までの距離(ディスタンス)」。イーサン・ホーク主演のラブ・ストーリー。ヨーロッパ縦断列車の中で偶然知り合った若い男女。男は明日の朝、アメリカに帰国しなければならない。それでも2人は恋に落ちる・・・。
 原題が「ビフォー・サンライズ」。果たして2人は? 
 そしてその後の2人を描いたのが、去年日本でも封切られた「ビフォー・サンセット」。つまり「恋人までの距離(ディスタンス)」の後日譚ということになるわけだ。
 2人はどうなるのかった? 絶対、教えな~いっ。

 窓を開けると、清々しい空気が部屋の中に流れて来る。
 とてもいい天気だ。雲ひとつ無い爽やかな日曜日。パジャマを脱ぎ捨て、手と足の爪を切り、顔を洗って歯を磨く。午後から、所用でどうしても人に会わねばならず、車を出して一路北部方面まで。
 億劫だけど片付けて置くべき様々なこと。避けては通れない様々なこと。
 つまりは、雪かき。出来るだけ跡を残さず綺麗に片付ける。片付けておかないと、ますます雪は積もってゆく。こうして人生もまた過ぎてゆく。

 遅い昼食を、今度は東部方面にある「安田屋晴右衛門」という蕎麦屋さんで。
 ここの「鴨うどん」は抜群に美味い。突然、無性に食べたくなってくるのだ。
 しかも、この蕎麦屋さん、ちょっと変わっていて、「美術全集」や「シェークスピア著作集」が置いてある。それから、各大手出版社の文芸PR冊子も揃えているという凄い蕎麦屋さん。
 で、今日は、「エドワード・ホッパー」と「モネ」と「ピカソ」の絵を眺めながら鴨うどんを食べる。
 美味いっ!

 しっかし、いい天気。よしっ! 午後の空いた時間、久しぶりに外を走ろう!
 少し厚手のランニング上下を身につけ、家を出る。
 家から国道、官庁街を抜け、アスパムと呼ばれる海辺の観光物産館まで。そこから今度は海辺をひたすら東部方面を目指す。午後の歓楽街。人影はない。車がたまに横をすり抜けてゆく。まるで、ホッパーの絵のようだ。午後の街の孤独・・・。

 寺山修司が学生時代に住んでいた、歌舞伎座という映画館跡。遠くに映える八甲田の山並み。抜けるような青空。春の微風。緩い太陽の光。陸奥湾のさざ波。その先には、津軽半島と下北半島が。
 気持ちいい。ひたすら気持ちいい。
 約10キロの小さな旅。約1時間弱の小旅行。凄い汗だ。

 家に帰ってシャワーを浴び、今度はマリリン・モンロー主演の「バス停留所」をDVDで。
 夕食を済ませ、図書館から借りたDVDとCDを返しに、自転車に乗ってぶらぶらと。夕日が美しい。静かな繁華街。日曜日の夕暮れ。図書館もどこかひっそりとしている。

 お酒をやめて23日目。CDも本も買わなくなって23日目。
 だんだん苦しくなってきた。

 そしてまた春の日は過ぎ行く・・・。
 

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やっと観た、映画「ブロークバック・マウンテン」。やっぱりアニー・ブルーの小説と少し肌触りが違ってた。

2006年04月22日 | Weblog
 やっと観たという感が強い、映画「ブロークバック・マウンテン」。
 上京した際、折角映画館まで行ったのに、その日もう既に2本掛け持ちで観ていて、疲れて結局パス。そして、その後「シッピング・ニュース」の原作者でもある、アニー・プルーの短編小説「ブロークバック・マウンテン」を読んだ上での今回の鑑賞となった。

 何か、映画を観る前に観てしまったような、そんな奇妙な感じ。何回もの予告編、それから映画雑誌の特集記事に、テレビの特番に。こうなると、原作との違いや、アン・リーの映画的解釈や、役者たちの演技に目が向いてしまう。

 県内初デビューの初日ということもあってか、30分前に映画館に乗り込んだのに「シネマ・ディクト」には何人か客がもう既に待っていた。
 今日は、久しぶりのいい天気。しかも土曜日の午後。窓から、晴れ渡った青空が見えた。でも風はまだ冷たい。

 そして「ブロークバック・マウンテン」。
 約2時間20分、映画はアメリカの大自然をバックに、二人の男の激しくも純粋な愛の数十年間をゆっくりと辿ってゆく。静かに澄んだ湖、流れてゆく雲、淡い太陽の光、緩やかな川のせせらぎ・・・。

 アニー・プルーの小説は、翻訳者の思いや意図が反映したのかもしれないが、全体を通して、孤独や悲しさを基底にしながらも、どこか硬質で重量感が感じられた。それに反して、映画はとても柔らかく、そして儚(はかな)ささえ漂わせる。
 それに、小説は短編という事もあって二人の家庭生活にまでは深く入り込んでいないけれど、映画はじっくりと周辺のディテールをもあぶり出してゆく。

 また、主役の二人、ヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが、意外といい味を出している。
 特にヒース・レジャー。これまでの「ロック・ユー」や「パトリオット」などを観ても、個人的にハリウッドの典型的な男優という印象しかなかったけれど、実にいい演技をしている。ジェイク・ギレンホールの妻を演じるアン・ハサウェイもそうだ。彼女、ほんとにあの「プリティ・プリンセス」の女優? 

 アン・リー監督は、原作にはない部分をじっくり描くことで、映画自体により深みを持たせた。男同士、互いに深く愛し合う後ろめたさと、それに反比例する感情の襞(ひだ)。離れ離れになった後、異性を愛して結婚生活を営む二人の男性に蔓延る、不和と離反。
 これらを丁寧に描くことで、ラストの深い悲しみがより一層倍増する。

 観た後、どうしても、同じ映画を二回観た感じが付き纏って離れなかった。
 今回のアカデミー賞では、作品賞の本命だった「ブロークバック・マウンテン」だったけれど、惜しくもポール・ハギス監督の「クラッシュ」に取って代わられた。でも、いい映画であることに変わりは無い。

 「ブロークバック・マウンテン」と「クラッシュ」、どちらが素晴らしかったかって?
 うーん。僕は・・・「クラッシュ」!
 

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「金曜日の夜のグレアム・グリーン」

2006年04月21日 | Weblog
 もう何日も寒い日が続いている。
 ニュースでは、八甲田山系の酸ヶ湯温泉にも11年振りの雪が降ったとか。
 ホテルで開催予定の飲み会をキャンセルして(どうせお酒は飲めないんだし)、図書館へ。冷たい風。宵闇の中を震えながら歩く。
 そうだ。今日は金曜日なのだ。
 
 図書館の7階の隅っこの椅子に腰を下ろして、「文学界」の最新号を読む。
 「グレアム・グリーンの絶望的な祈り」というタイトルで、ハロラン芙美子氏が作家グレアム・グリーンの「情事の終わり」にまつわるエピソードを書いている。
 思わず、最後まで読んでしまった。

 グレアム・グリーンは映画「第三の男」の原作者であり、「情事の終わり」もこれまでに何度か映画化されていて、最近では1999年にソニーが映画化した。切なくて悲しい、震えるような愛の物語だ。発売された当時も、本国で大ベストセラーを記録している。

 「情事の終わり」とあるように、一人の中年作家と人妻との恋愛をテーマにしている。二人は恋に落ち、そして激しく燃え上がる。ところがある日、街は空襲に見舞われ、中年作家は瓦礫の下敷きになって意識を失ってしまう。やがて九死に一生を得た男は、一つの事実を知ることになる。
 心から深く愛した最愛の女性が、その場から去ってしまったのだ。あんなに激しく二人求め合ったはずなのに・・・。もう彼女はいない。
 嫉妬、恨み、悔やみ、絶望、未練、孤独。様々な感情が彼を襲い、苦しめる。しかし、と彼は考える。
 
 何故、彼女は突然、自分の前から姿を消してしまったのだろう? 一体何故?

 有名な小説だから読んだ人も多分いるだろう。
 後半の驚愕の事実に、読者は戦慄する。ここまでの究極の「愛」って何なんだと? ここまで激しい、そして純粋な「愛」のかたちって本当にあるのだろうかと?
 
 ハロラン芙美子氏は、グレアム・グリーンの波乱の人生をも語る。
 -人生が幸福だと感じる人間に小説は書けない、生きることに対して懐疑的で、未来への希望を語ることもせず、数多の感情の渦の中に身を置く人間だけが小説を書くことが出来る-と。
 勿論、そういう人間が素晴らしいなどとバカな事を言っている訳ではない。人間は、幸福に生きるに越したことはない。ただ、そういうふうに生きることが出来ない人間も、確実に存在する。

 グレアム・グリーンは、生涯に二冊の「自伝」を書いたが、「情事の終わり」に関するエピソードには触れなかったらしい。それらの真相は、後年の作家研究によって現れた。
 つまり実生活においても、グレアム・グリーンは、ある人妻との深く強い愛を永きに渡って育んだということが判明したのである。そしてその恋愛は、彼の作家人生にも大きな影響を及ぼす事になる。

 「文学界」を読み終え、系統立てて、この作家の魂の遍歴を探ってみたいという欲求に駆られた。
 グレアム・グリーン。
 まずは、もう一度「情事の終わり」から・・・。
 

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これはアニメ実写化における久々の快挙!フジTVドラマ「ちびまる子ちゃん」はメチャメチャ面白い!

2006年04月20日 | Weblog
 これまで、さくらももこの漫画「ちびまる子ちゃん」も、フジテレビのアニメも、そんな熱心なファンというわけじゃなかったし、テレビをたまたま点けていたら放映していたという程度のものだった。
 ただ、漫画自体の時代背景が懐かしい「昭和」であるということや、キャラクターそれぞれの会話が絶妙な味を出していること、それから、全体を覆っている優しくて緩やかな流れに、ずっと心引かれるものがあったのもまた事実だ。

 これまでも、人気漫画を実写化したり、テレビでアニメ化したりするということは数多くあったけれど、そのほとんどが失敗作で終わっている。特に酷いのが実写ドラマ化した場合だろう。それも特にテレビドラマ化されると無残に切り刻まれるケースが多い。
 上戸彩の「エースをねらえ!」、それから「花より男子」、まだまだいっぱいある。

 近々映画館で封切りされる実写版「テニスの王子様」もそうだけど、映画化となるとまた話は別。実写版「北斗の拳」や「ゴルゴ13」という奇作はあるとしても、「あずみ」、「NANA」、「三丁目の夕日」など、映画的にもそれなりに評価されている作品が多い。
 ところがアクション映画の範疇となると、きちんと漫画で描かれていた部分を具現化する作業が伴うことから、実写版にすると少しきつくなってしまうのだ。

 「ちびまる子ちゃん」を実写でテレビドラマ化するというプロジェクトは、テレビ放映15周年の節目の企画として浮上したらしいが、候補者選びで難航を極め、今回やっと500人の子役たちの中から「ちびまる子ちゃん」が決定され、今回のドラマが生まれた。

 とにかく、この主演の子役が素晴らしい。というか、アニメとそっくりそのままである。しかも雰囲気がいい。演技も上手い。でもって凄く可愛い。群を抜いている。この子を主役に据えたというそれだけで、このテレビ実写ドラマ化は既に成功してしまったといっていい。
 子役の名前は、森迫永依(もりさこ えい)ちゃん。
 はじめに断っておくけど、僕は別にロリータ嗜好でも、萌え系大好きアキバ人間でもないし、そういう年下少女愛好癖もあるわけじゃない。でも、彼女の演じ方そのものが愛くるしくて、仕草もまる子ちゃんにそっくりなのだ。役者としての将来がとても楽しみだ。恐るべし。

 今回の実写版もまた、何回かのパートに分かれてドラマ自体が進行してゆく。お父さん役の高橋克実を含めて、お祖父さん役のモト冬樹や、まる子の親友役である美山加恋に到るまで、アニメのキャラクターを忠実に演じていて、普通であれば、そのギャップが鼻につくことが多く途中で白けてしまうのだけれど、そういうパターンからも見事に脱却している。これも、ギャグ・お笑い・ほのぼの系だからこそ、なせる業なのかもしれない。

 しかし、このドラマを面白く、しかもグレードの高いものにした一番の原因は、何度も繰り返すけれど、主役の森迫永依(もりさこ えい)チャンである。本当に素晴らしい。こんな可愛い子役には、近年お目にかかったことがない。出来れば、このキャストで第二弾を是非製作してほしいものだ。

 うわさによると、あの「のだめカンタービレ」もドラマ化の話が出ているとかいないとか。うーん。これもまた微妙な位置だなあ。つまりは、キャラクターを誰が演じるのか、それにかかってるんだよなあ、すべてが。

 それはそれとして。
 森迫永依(もりさこ えい)チャン。お奨めである。

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「シティ・オブ・ゴッド」を彷彿させるとの評には?だけど確かに映画「タブロイド」にはパワーがある

2006年04月19日 | Weblog
 一時期の韓国映画、あるいは中国やアジア諸国の映画、それから中東や中南米の映画には、観るものを圧倒させる独特の力が宿っているようで、その計り知れない熱気にたじろいでしまうことがよくある。
 低予算で、しかも斬新な映画的手法を用いるわけでもないのに、画面からほとばしる強烈な熱波と力強いメッセージ。誤解を恐れずに言い切れば、その国が抱えている混乱や政治的な状況などが、映画を含めた文化や芸術そのものに対しても、何某かの影響やメッセージ性を与えるのだろう。
 
 ブラジル映画の「シティ・オブ・ゴッド」も、仁義なき戦いのストリート・キッズ版とも呼ぶべき凄まじいバイオレンスを乾いた文体で描き切った傑作だった。リオデジャネーロの荒廃した街の匂い、血と汗と喧騒と乾き。スクリーンをギラギラした熱気と暴力が踊る。
 監督のフェルナンド・メイレレスの、素晴らしい才能と力量に負うところが多いとは言うものの、ブラジルという風土、リオデジャネーロという街が醸し出す雰囲気が、そのバックボーンとしてあるからこそ生まれた映画だった。

 セバスチャン・コルデロ監督の「タブロイド」は、南米のエクアドルを舞台にした、ミステリーの要素を纏った映画である。
 「天国の口、終わりの楽園」のアルフォンソ・キュアロン監督が、その脚本に惚れ込み、映画化が実現したというエピソードがあるけれど、同じ南米の風土を背景にしているというのに、映画から感じる体温は、何故か冷たくて暗い感じが漂う。

 街で起こっている連続殺人事件。
 残虐な謎の犯人は、必ず子供たちだけを狙い、暴行したあとで惨殺している。マスコミは、連日行方不明になった子供たちの行方を追いかけ、犯人像を予想し、ニュースで報道を繰り返していた。名付けて「モンスター」。
 ある日、それまで行方不明だった、双子のうちの一人が惨殺死体で発見された。ある中年の聖書売りの男が、ふとしたアクシデントから、もう一人の男の子を轢き殺してしまい、その場に居合わせた男の子の父親がそれを見て激昂し、リンチを加えたことから、警察に逮捕されるという事件が起こる。
 偶然その場をカメラに撮ったテレビ局の取材班たちは、そのスクープをきっかけに一躍時の人となるのだが、子供を轢いた男が刑務所で報道マンに漏らした「モンスターの情報を提供するから、わたしを釈放するための手立てを打ってほしい」との一言から、事件は意外な方向に向かって突き進んでゆく・・・。

 巷では、この「タブロイド」を「シティ・オブ・ゴッド」と比較して評価する向きがあるようだ。でも、ここから漂ってくるものは、どんよりとしていて、しかも冷たい。「シティ・オブ・ゴッド」のような、熱気や乾いた感覚とは異質のものである。
 テーマ性の違いから来るのかもしれない。暴力対暴力による集団抗争劇と、モンスターと呼ばれる連続猟奇殺人鬼を追うという物語性の違いが別の感覚を呼び込むのだろう。

 ただ、ラストには驚愕する。
 そうきたか、という感じ。しかし、中盤、物語が平板のままに進んでゆくことと、いい意味で、街の熱気と対比させるような冷たさの絡み合いがなかった点が少し惜しまれる。

 果たして、子供たちだけを狙う連続暴行殺人犯、モンスターとは誰なのか?
 それは、実際に映画館で確かめてくださいませ。

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「一切は無であるということー」

2006年04月18日 | Weblog
 日本映画界というよりも、世界のOZUと言ったほうが手っ取り早いかもしれない。名匠、小津安二郎は、12月12日の誕生日からちょうど60年経ったその同じ誕生日の12月12日に亡くなった。54本の素晴らしい映画だけを残して。

 北鎌倉の円覚寺にある彼の墓には、大きく「無」という一文字が刻まれているらしい。行ってみたいと思いながら、まだ訪ねたことはないけれど、一度その場所を見てみたいと思っている。
「無」とだけ書かれた墓に眠る小津安二郎・・・。彼は一生涯、結婚もせずに独身を貫き通した。彼もまた孤高の人であった。

 図書館のDVDで、また「東京暮色」を借りて観ている。
 もう小津安二郎の映画は、何度も何度も繰り返し観続けている。何度観ても新しい発見がある。何度観ても飽きるということがない。同じパターンを踏襲していると言えばそれまでのことだけれど、独特のローアングル、科白の間、言い回し、イントネーションの妙、絶妙に絡まるユーモア、そして、静謐でありながらもどこか醒めた視点を漂わせる。

 小津の映画で最も有名であり、世界の歴代映画ベストテンでも必ずその上位に入るのが「東京物語」。不朽の名作であり、いつ見ても色褪せることがない。
 ただ、個人的に好きな作品は、そのほかにもたくさんある。「秋刀魚の味」に「麦秋」に「お早う」に「暖春」に「お茶漬けの味」に・・・。

 そしてなんと言っても数多の小津映画の中でも素晴らしい傑作は、「戸田家の兄妹」である。この映画、一体何回観ただろう。そしてこれからも観続けるのだろうか。

 戸田家という由緒ある大家族。大黒柱の父親が亡くなり、優しい母と末の娘(長女)は、長男夫婦と一緒に暮らす道を選ぶ。一番頼りにしていた次男(佐分利信)が、日本を離れ海外で一旗挙げることになり、しかたなく長男夫婦が老いた母と一番下の妹を養う羽目になったのだ。
 しかし、折り合いが悪い。長男の嫁は世間体や格式を大事にし、二人を疎ましく、そして邪険に扱うようになる。肩身の狭い母親と末の娘は、それでも長男の嫁に気を使いながら神経をすり減らし、ついには家を飛び出し二人だけで暮らしてゆくことを誓い合う。
 やがて、海外での事業を軌道に乗せた次男の佐分利信が帰国をする。そして、亡き父親の法要が始まる。久々に顔を合わせた家族の面々。そしてそこで起こった出来事・・・。
 
 ここから、圧倒的な緊張感を持って映画は進んでゆく。
 よく考えれば、家族の法要でしかない有り触れたシーンが、力強く、しかも愛に溢れ、何事にも変えがたい迫力で観る者を感動させる。このシーンこそ、日本映画、いや世界の映画の中で、最も美しく、愛しい、情愛に満ち溢れているとさえ思えてくる。映画史上に残る、屈指の名場面ではないか。

 小津安二郎は天才である。日本が生んだ最高の映画監督の一人である。
 彼の死後も、小津作品は全世界で語られ続けている。周坊正行、市川準、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ベンダース、アキ・カウリスマキ・・・。影響を受けた監督たちはまだまだいる。
最近のCMにも「小津調」は使われているから驚く。消費者金融の「プロミス」なんかのCMは、完全に「小津調」をパロっていて秀抜だ。

 小津安二郎の墓には、「無」とだけ一言刻まれている。そのほかには一切ない。

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「ポール・ウェラーにもなりたいっ! その①」

2006年04月17日 | Weblog
 雑誌「LEON」が掲げるコンセプトの中でだけ完結していた時点だったら、別に笑って済ませていたかもしれない。勿論、その程度の先端の流行りだったからこそ、こちらも一緒になって遊んでいたんだけど・・・。
 でも、こうも世の中に「LEON」が蔓延してしまうと、「チョイ悪オヤジ」なんて果てしなくダサい。つまりは、カッコ悪い。
 旬で新鮮だったものでも、「流行」してコピーされて行く度に、それは磨耗し色褪せて、使い捨てられる運命を負っているのだ。お洒落は当然コピーから始まるけれど、ただそれを繰り返してゆくだけなら単なるお馬鹿でしかないだろう。

 ポール・ウェラーはカッコいい。
 滅茶苦茶カッコいい。粋で、精悍で、力強くて、信念があって、洗練されている。モッズの中のモッズである。そして、仁義と任侠の人である。まあ女性でも、そういう任侠の人っているけれど・・・。

 実は、パンク・ニューウエーブの嵐の真っ只中にいた頃のポール・ウェラーを、僕はきちんと聴いていない。つまり。イギリスのモッズのスタイルを踏襲していた頃の「ザ・ジャム」の熱心なファンだった訳ではない。

 ポール・ウェラーをちゃんと聴き始めたのは、「スタイル・カウンシル」名義の「SPEAK LIKE A CHILD」からだ。
 ぶっ飛んだ。これを、ブルー・アイド・ソウルと言う。イギリス人ならではの黒人音楽への傾倒と解釈。それでいて非常に洗練されている。
 ただ、その洗練性や明るさが日本では少し誤解されて伝播され、当時のオッシャレーなバーなんかでは、よくナンパのBGMに使われたという誤解もあったようだけど。

 当時、狂ったように買い求めた12インチシングルは、もう手元に一枚も無い。「スタイル・カウンシル」を解散してから、ソロとしての道を歩んでからのポール・ウェラーのアルバムも、そんなに熱心に聴いたというわけではない。
 でも、最近何故か、またこの素晴らしい知性と個性溢れる孤高のロック・アーティストを毎日のように聴いている。

 全23枚! ジャムからスタカン、そしてソロ。
 本当は全作まとめて買い揃えたいんだけど、何せ1年間、お酒と本と音楽の新作は一切、飲まない&買わないと心に決めた身である。こうなると何とか全曲を寄せ集め、一枚一枚、もう一度検証するしかない。だから、まずは①である。

 しっかし。ポール・ウェラー。キリっとしている。
 こういう風に歳を重ねたい。理想である。贅肉というものが一切無いのだ。

 肉体的に太っているとか痩せているとか、そんな意味じゃない。
 無駄なものがないのである。
 そのスタイルにも。その心にも。

 

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「人生はOK! すべてはスウィングさ!」

2006年04月16日 | Weblog
 朝7時に目が覚める。
 昨日も夜遅くまで本を読んでいたので、とても眠い。カーテンを開けたらどんよりと曇った空。今にも雪が落ちてきそうだ。
 朝食も採らずに、20キロほど離れた「浪岡商工会」まで車を飛ばした。
 車の中でFMをかける。フランス音楽の特集をしていた。現在フランスで流行っているという音楽が次々に流れてゆく。どれも初めて耳にする楽曲ばかりだけれど、独特のフランス語に乗って、アンニュイなメロディが憂鬱な景色に溶けていった。 ナビゲーターが紹介した曲のタイトルの一つが「盗まれた季節」。
 何か、今朝のようだ。暖かい春が盗まれて、冬の季節が戻ったみたいで・・・。

 今日は、朝9時集合で「北国のくらし研究会」雪利用委員会の雪山保存実験。
 リンゴと桜の苗木を巨大な雪山の中に保存をして夏場に取り出し、真夏に桜の花を咲かせたり、越冬してより瑞々しくなったリンゴを売り込もうとするその雪山を、初夏まで保護するための作業である。
 去年の夏も「ネブタ祭り」に桜の花が満開になり、マスコミにも大きく取り上げられた。

 あいにくの雨。そしてとても寒い。高さ4,5メートルの雪山の周辺も、泥でぐちゃぐちゃになっている。
 雪山に巨大なビニールシートを被せ、その上に防暖シートを次々と乗せ、網を這わせて土嚢を付ける。書いちゃうと簡単なようだけど、雪山自体が大きくて、一筋縄では進まない。それに雨と寒さ。手足が冷たくて、だんだん痛くなってくる。

 でも、集まった仲間たち、総勢16人が共同で作業する過程ってやっぱり清々しい。仕事と違って、誰も何も見返りなんて求めない。全員が、ただ黙々と辛い作業を続けてゆく。それから、時々起こる笑いや会話。回りくどい言い方も、背負ったり引き摺ったりすることもない。
 だから、とても気持ちがいい。

 作業が終わり、泥塗れの上着を着替え、家に戻ってビリー・ワイルダー監督、ジャック・レモンとウォルター・マッソー共演のコメディ映画、DVD「恋人よ帰れ、わが胸に!」を観る。今日中に駅前の図書館に返却しないと・・・。

 雨が止んだ午後の街へ、自転車で。
 西衡器のオープン・スペース「ゼフィロス」で開催されている「吉田子の世界」を鑑賞したあと、図書館に立ち寄り帰宅。

 夜はWOWOWで、映画館で見逃していた映画を観る。
 ケビン・スペイシーが、監督と脚本と主演までこなした「ビヨンド・theシー」。50年代から60年代にかけてアメリカで一世を風靡したミュージシャン、ボビー・ダーリンの伝記映画である。これがまた、面白い。
 ボビー・ダーリンの曲って、聴いたことはあるけれど、これまで特に熱心なファンでもなかった。でも、こうして劇中で歌われると、物凄くいい。アルバムが欲しくなる。
 
 ラストに歌う曲がまたいいんだけれど、歌詞も素直に心にグッとくる。
 「人生はOK! すべてはスウィングさ!」
 うーん。ボビー・ダーリン。カッコいい。

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