孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

幸せに思える条件

2018年10月31日 | Weblog
天然資源を湯水の如くに使い続け、その生産力による大量生産と使い捨て文化、そして競争主義で差別格差が広がり、勝ち残らなければ使い捨てにされる社会、そんな中で金さえあれば何でも出来るような先進国・経済国家になりましたが、そんな暮らしぶりが決して幸せとはいえません。

幸せに思える条件にあるのが、差の無い平等と束縛支配されない自由が無ければなりません。

ところが皆と同じでは幸せに思えないようになって、他と差をつける比較競争をして見栄や世間体を張ったり、人とは違う特別な肩書き名称や名声名誉や権威権力を欲しがったのがそもそも間違っていたのです。

差があるところに幸せは絶対にありません、それなのに差を持つことで幸せになれると思い考えるから、それが矛盾して思い悩むことになるのです。

他の人と差を持ったことで幸せに思っている人は、自分の心を嘘で偽っていることなのか、単なる自己満足や錯覚勘違いや自己欺まんの幸せでしかありません。

他との差を付けたことが自分の幸せに思えているのなら、欲張ることばかり熱中し過ぎて、何処にでもあるような小さな幸せを自覚した事がないからです。

欲で得た差を持って一度握り締めればそれを守らなければなりません。

差を手離せば差が差ではなくなるから、必ず守りに入ります。
…差を守っているから差を持ておれるのです…

そして良い悪いの裏表の世界ですから、表の守り意識の裏に攻撃意識があります。 
…守るためには先んじて攻めることが必要になってくるのが道理なのです…

そんな攻守のある差・矛盾を持っていて幸せといえば嘘八百になります。

差が無くて皆が同じであれば、どんなに貧しい生活であっても共に支えあって調和しながら楽しく生きていく事が出来ます。 

差が無ければ、皆が寄り集まって助け合ったり、大勢で共同作業するところに互いの喜び感謝を分かち合えます。

差が無ければ、年齢や男女の違いや能力や性格の違いがあっても、その多様性と調和を皆で楽しむ事が出来ます。

とは言っても残念なことに現代社会ではなかなか通用しません。

また差を無くする事が大切だと理解できたところで、自分から進んで差を無くしていく自己縮小の実践が出来る人は何人いるでしょうか…

ちなみに世間の常識やその伝統風習や道徳やしがらみと言った形に意識が縛られてなかなか抜け出せないのです。 

また世間体や見栄やプライドからして世間の目や身近な人の目が気になるのです。

それでも執着さえしなければ何とかなっていきます。 

ゆえに他に巻き込まれないで、急ぎ慌てないで、諦めないで、ゆっくりでもいいから意識だけ確り持っていれば何とかなっていきます。

しかし・・・悩んだり迷ったりするのであれば・・・差を持っている証しです。

ちなみに不平不満になったり、迷ったり悩んだりするのは、自分の判断に良い悪いの裏表の差を持っているからです。

そして思惑・理想・目的意識は自分の都合から出た欲な思いですから、失敗失意で逆恨みにすることになったり、思い道理にならないで苛立ち迷い悩むことになるのです。

今の自分にあたり前に出来る事が、差の無い役割を果たしていることになります。 

その役割の質や量にそれぞれの違いがあっても、いっさいの差はありません。

ちなみにテレビ番組ですが…ゆっくりと牛が引く荷車で遠くまで移動するような暮らしぶりであっても、テレビに明るい笑顔で映り、今の生活が長く続く事が幸せだといった現地の人がいました。

皆が同じような格好で集まり、皆で喜びの唄を歌いながら収穫をしている様子がとても幸せそうに見えました。

最後の最後まで何一つ無駄にしない自給自足の山岳民族や、その日暮のジャングル民族や孤島の民族がいかにも幸せそうに暮らしているのが印象的でした。

そられ住民や民族には先進国ほどの格差差別はありません。 
だから皆が同じ様な仲間であれば差が気にならないで皆が仲良く楽しく暮らしていけるのです。

衣食住や財・名を競い合う差別意識に幸せ・至福の時はありません。

喜怒哀楽や生老病死に執着すれば幸せ・至福の時は来ません。

世界各国の人々の環境や価値観の違いや持つものの質や量の違いが大きく違っていても、それぞれに与えられ恵まれ持っている中にある、その小さな喜び感謝の心の中に幸せが宿り、神や愛を自覚することになるようです。

2009-01-17 投稿・リメイク版

欲らしての満足よりも<納得>すること

2018年10月30日 | Weblog
不満がなければ満足することにもなりません。
だから普通なのです。

ところが不満になると何とかして満足したがります。
となれば特別なことを成すことになります。
だから意欲的になり・欲張り頑張り無理し我慢します。

そして運良く事が成せれば自己満足しますが、それがダメとなれば悲運にくれます。
となれば…不満が満足になったり、不満のままに終わることもあります。

然るに不満と満足の喜怒哀楽となります。

何はともあれスイッチポンの快適便利な生活をしているのに不満を持っている人が大勢います。

ところが私は食って寝て糞をしながらただ生きているような生活ぶりですが、それに納得していますから、不満が出てきません。

ちなみに不満になるのが物質金銭的なことだけではなくて人間関係からしても不満が出てきます。

ところが私は妻離れ子離れ世間離れしていますから、その人間関係からして不満になることもありません。

しかも食って寝て糞をしながら生きているだけで満足納得していますから、特別な衣食住や趣味嗜好娯楽が必要ありません。

またそれだけに自然界の四季折々を五体五感の味覚視覚聴覚嗅覚触覚と創意工夫でもって味わえていることで十分になるのです。

さらに必然にしてご縁があった時だけの人間関係ですから見栄もプライドも欲も出てきません。

ちなみに私は肉体や感情体と離れた精神体でもってあるがままに生きようとしていますから、そんな私を理解できる人でなければご縁が続くはずもありません。

だから人間関係からして問題が起こることもありません。
ちなみに拘り未練執着のない・その時々のご縁で一旦終わっています。

ちなみに皆さんは自分の生き様に<納得>していますか…?

見栄や世間体や自尊心が出ていませんか?
私は正しいと自慢していませんか?
趣味嗜好娯楽がなければ寂しいですか?
セックス依存になっていませんか?
自己満足がなければ生きた心地がしないのでは?
孤独が孤独感になっていませんか?

何か事足りなく思えている・不満があるようでは…絶対的に納得できません。

拘り執着や未練があれば・思い残しがあれば、納得人生では終われません。

然るに…人間は自然界の一員である…ことが自覚納得確信とならなければ…人間として生きていることの価値を味わえません。

だから人間関係を含め諸々の人為人工的なものに深く関わっている限り、その矛盾偽善が必ず付きまとってきますから、中途半端なままに推移して、納得には至れません。

だから殆どの人たちは喜怒哀楽の思いを残した、納得できないままの人生で終わることでしょう。

被害者が加害者にもなる矛盾とその連鎖

2018年10月29日 | Weblog
この世は良い悪いで比較競争して差をつけたがる世の中ですから、勝ちたいから負けたくない、得をしたいから損をしたくないと、表と裏の両方を気にして生きています。

だから競争で負けることは「損をした」ことになり、勝てば「得をした」と思います。

また損得勘定で多い少ないの差を意識しますから、人より少なければ「損」になり、多ければ「得」に思います。 またご褒美が多い少ないで損得勘定が出てきます。 

だから時として奪い合いになります。

だから無償の愛で与えられた物であっても、少なければ損、多ければ得に思いますから、無償の愛(水や資源)を我先に奪い合うことも平気になります。 

だから常々から自分より多く持っている人を羨ましがったり、焼きもち妬みの嫉妬ジェラシーになって、人の幸せが自分の不幸に思えてきます。 

その羨ましがっていた人が失敗して困っているのをみると「ざまーみろ」と思ったりして、人の不幸を見て自分が幸せに思えたりするのが不完全意識の我々人間です。

そんな損得勘定で判断していますから・・・
例えば損害被害者が賠償を求めて取り返すことは、済んでしまった過去を許すという愛が無いから、過去の被害者が今度は奪い返すという仕返し復讐・報復行動の加害者になるのです。 

…取り返す事が出来ない過去を「返せ」と無理難題を主張して相手を困らせている加害者になるのです。
…また二度と取り返す事が出来ない過去、その過去を別な形に変えて「返せ」と押付けて、別な形の犠牲を強要している加害行為になります。

強盗殺人の被害者が加害者に死刑を願うのも、過去を刑罰という形にして、また別な形で報復・強要していますから、それが裁判で確定して死刑が執行されれば、その形は正当であっても人を殺しにかかった(嘱託)という形になります。 

過去を許す愛が無かったために、いま生きている人を無理やりに殺す結果、すなわち形は違うが死刑を課すという人殺しの加害者になったのです。
・・・死んだ生命を生きた生命と引き換えで元道理に取り返すことは出来ないのに・・・

しかも死刑囚の家族や親戚までが世間の冷たい仕打ちに困り果てることになって、一つの事件の被害者に止まらずに形の違う被害者が大勢出ているのです。 
そしてその加害者側の被害者が生活に困り果てた時に別な犯罪の加害者にもなりかねません。 

それが原因でまた同じように別な家庭で連鎖的に被害者や加害者が出る可能性もあります。

また戦争やテロによる怒り・憎しみ・嫉妬・復讐ともなれば、その被害者が怒りや復讐で戦闘やテロに加わって更に大勢の被害者を出しますから、そのまた被害者が戦闘やテロに加わり更に被害者を増します。 

被害者が加害者になったり、加害者が被害者になったりする矛盾が起きています。

この繰り返し連鎖がある限り己が被害者でもあり加害者でもあるという、皆が被害者加害者の集団になります。 

と言うことは…今の私達も(見えないところで・知らない間に)被害者と加害者の裏表関係でお互いに裏切り合って来たのに…その「お互い様」の愛で過去を許し忘れることが出来なかったのです。

許せないのは…先ほどのように…自分だけが損をするのが我慢ならないのです。 
自分だけが不幸なのは割に合わないのです。 
相手が不幸にならなければ腹の虫が治まらないのです。 
…すなわち人の不幸が自分の幸せになるのです…

しかし加害者を愛で許すことにすれば、今までの自分の中の怒りや嫉妬・復讐報復の醜い心が愛で許されて、それまでの頑固未練執着の心から開放されるのです。 

それが完全真理で言うところの良い悪いで「人を責めない・自分を責めない」になります。

2008-12-08 投稿・リメイク版

人間一生の<命>をかけることに巡り合いましたか

2018年10月27日 | Weblog
人間一生の「命」をかけるものに出会いましたか・・・
・・・日本一や世界一になることでしょうか・・・
・・・冒険に命をかけることでしょうか・・・
・・・極意を極めたくて極めることでしょうか・・・
・・・世直し人救いのためでしょうか・・・
・・・諸般の有名人になることでしょうか・・・
・・・野心を隠した偽善者になることでしょうか・・・

残念ながらそれらは良い悪いで分離比較判断したことですから、良いと悪いの矛盾があり不完全ですから、人と比較競争差別する特別意識や救世主意識の偽善になり、得るものは自分だけの自己満足であり、私は正しいと自己主張や顕示することであり、その時の体感は二度と出来ないし、人様にその時のありのままを再現できない過去・記憶しか残らず、始まり無き終わり無き宇宙・神から与えられた人間本来の命・愛を知ったことにはなりませんから、結果的には何をやっても無駄骨だったことになります。

良いと悪いの裏表・矛盾がある以上は100㌫の完全ではなくて、良いも悪いもある半端な片寄ったものですから、何かの目的に限られ、限られた誰かの為であっても、すべての人に通じる完全ではありません。

例えば科学医学の物質薬剤や化学反応や手術反応のように、良い結果も出るが副作用や弊害の悪い結果も併せ持つことになります。

人間でいえば、誰かが善になり優になり得することになるが、その反対に誰かが悪になり劣ることになり損をする結果が出てきます。

神で言えば、特別な神とそうではない神が入り混じり、共に良い神と悪い神として比較競争差別し争い合っている現実があります。

与えられ持っている命をこの世の不完全にかけることは、始まりの原因が不完全ですから結果も不完全なのが当然ですから、命をかけても命の本質を知ったことになりません。 

すなわち命以外の不完全を知り得たことになりますから、完全で消えることのない永遠の至福の時を知らずして、もう一度霊魂が集まる4次元に戻り、再度出直す転生を繰り返していたのが此れまでの人間の命です。

宇宙・神・愛の人間本来の命の役割使命を忘れてしまって、その大切な命を自我・自己中の欲の為にしか使っていないのです。 

だから言い訳程度の大義名分で神や愛を語ることや、矛盾や妥協で染まった言葉でそれを言い訳正当化しつつ言うだけ・聞くだけ・祈るだけの偶像崇拝や世の中に混乱のタネを撒く差別・戦争のある宗教意識が蔓延するだけです。

過去現在や先を見れば一目同然なのだから、もういい加減に目覚める時が来ているのに、何で未だに同じ繰り返しや積み重ねしか頭に無いのでしょう。 何で、なんで、何で・・・

それは自分を守りたい欲があるからです。 過去や現在を守りたいのです。 今の自分が大事で先のことは人任せにしておきたいのです。 

そして原因を見ずして現れた結果だけを見て判断して喜んだり悲しんだり自己満足したり不平不満を言っていることが「人間らしい」と錯覚勘違いしているのです。

ブログの女王や主人公ヒーローになることではありません。
探検冒険スポーツで英雄・ナンバーワン・世界一になることではありません。
伝統文化芸術美術音楽芸能で有名になることではありません。
趣味嗜好娯楽の刺激で生きることではありません。

不完全で片寄った神様に祈り願うことではありません。
不完全が原因で起きている諸問題を解決するために命をかけることではありません。

矛盾の無い完全を知って完全になることに「命をかける」のが人間本来の役割使命です。
それ以外はすべて無駄なことであり、不完全な結果が出るだけの無駄骨になります。

言い訳正当化しないで真剣に考えれば誰にでも理解できるのが「完全真理」なのです。

そして完全を他に求めることではなくて、自分の命に課せられた役目・使命なのです。

だから我神なりの完全に成るか成らないかに命をかけるしかありません。

そのためにまずは素朴謙虚に生きる自己縮小の実践から始めなければなりません。

(2008-11-29 投稿リメイク版)

無知な人、無視する人、無理する人、無駄に生きる人

2018年10月25日 | Weblog
学歴教養は形ある人間で生きていく為の糧にはなっていますが人間に大切な愛意識の糧にはなっていません。 

すなわち…見えない完全な神や愛を自覚する為の学びではなくて…見える姿形のある人間の飾り、人の目を引くための見せ掛けの装飾にしか過ぎないのです。

その見せ掛けの地位や肩書きのために学習教育を積み重ね、その学識学歴教養で地位を得て立派になったと自己満足し自慢し自己主張し自己顕示したがっているのです。

すなわち実在する神や愛を学び知ることよりも、非実在の名誉名声肩書き権威権力を欲しがっている欲の深い人間であっても…完全な神や愛を知らない無知な人になるのです。

<無知>だから・・・
自己満足・自己主張・自己顕示して生きることを選択するのですね。 
言い訳正当化して「私は正しい」と主張できる訳ですね。 
守ることが攻めることになる矛盾を知らないし気付かないのですね。

<無知>だから・・・
自分の事で精一杯で心意識精神に余裕がないのですね。 
人の目が気になるのですね。

<無知>だから・・・
権力による多数決の妥協や権力者の主義主張に従って生きることに疑問がないのですね。

<無知>だから・・・
あらゆる形に束縛制限支配されていることに気づかないのですね。

<無知>だから・・・
比較評価し合い、競い合い、奪い合っていることに気づかないのですね。

<無知>だから・・・
比較競争で差を付けて、他との違いを見せつけて偉そうにして生きたいのですね。

<無知>だから・・・
喜怒哀楽の感情に支配され、生老病死で不安恐怖を持つのですね。

<無知>だから・・・
不安恐れから逃避する趣味嗜好娯楽・変化刺激を求め続けるのですね。

<無知>だから・・・
人を裏切り自分も裏切ることになる思惑期待や目的理想を持つのですね。

<無知>だから・・・
いつも裏切り関係にあるから、不信感を持ち続け更に強めるのですね。

<無知>だから・・・
過去(頭の中の記憶)に執着し、後悔や未練を引きづるのですね。

<無知>だから・・・
先の事(非実在)を思い考え想像する・想像の世界・白昼夢の生き方に気づかないのですね。

<無知>だから・・・
善悪・優劣・損得勘定で良くも悪くもなる矛盾と裏表の差で生きるのですね。

<無知>だから・・・
不平不満、不安恐怖、怒り、仕返し復讐、嫉妬を持つのですね。

<無知>だから・・・
実在する「見えない」世界を信じられないのですね。

<無知>だから・・・
「完全真理」を知ることが出来ないのですね。

<無知>だから・・・
自分が知らない事を否定反発したり、無視するのが平気なのですね。

<無知だから>見せ掛けの姿形で如何にも「生きている」ように見えるが、しかし、見えないところの実在する愛・意識の世界では「生きていない」のです。 

それをガラスコップに例えれば…コップが結果でガラスが原因となります。
ちなみに「ガラス」が無ければ「コップ」は(作れないから)実在できません。

何はともあれ・・・何が愛で・・・何が無知なのか・・・それを知っていなければ・・・世の中の役に立つどころか知らないまに多くの人に迷惑を掛けていることになります。

ちなみに贅沢が出来なくても喜び感謝の心で楽しく生きている人、南海の孤島やジャングルの奥地でそれが当たり前のように生活している人、この世の文明文化に汚染されていない僻地で当たり前のように生活している人、これらの人のほうが現代人の無知な人より遙かに自然を愛し人間を愛しています・・・

ちなみに知らなければならないことを知ろうとはしない「無視する人」と「無知な人」がいます。

また知らなくてもいいことを知りたがっている人が「無理をする人」になり「無駄に生きている人」になります。

その「無知」となる原因は・・・我神なり、我愛なりを自覚することが人間の役割使命だと知らないことからして…
それ以外の無駄骨になることを如何にも大事なことに勘違いして…
今まで一生懸命に取り組んできたからです。

やらなければならないことをやらずに、やらなくてもいいようなことに(苦労を買ってでもしなさいと)頑張り続けて他と差をつけて、

さらに喜怒哀楽や波乱万丈の悩み苦しみ迷い混乱を抱えて生き残るほうが人間として意味ある「優れた」生き方と思われ、

だから平坦な道を平凡に(普通に)生きる事が能無し人間の「劣る」生き方に思われ…皆から軽蔑され敬遠されるようになったのです。

あたり前の事を「あるがまま」にして心安らかにゆっくりと時間をかけて少しずつ進化発展していくのでは事足りずにして…結果を急ぎ慌て求める欲を出したことが原因にあるようです。

だから「結果」ばかり求める意識からしてその結果の積み重ねで更に大きな結果を出したかったのです。 

然るにそれが自己拡大ですが、その反対の自己縮小をすることで「良い悪い」で分離判断して差をつけていることから卒業出来て…人間本来の「あるがまま」の愛意識…我神なり・我愛なり…を自覚認識できるようになります。

(2008-12-15 投稿・リメイク)

本当のことを知らないから矛盾偽善がはびこる

2018年10月24日 | Weblog
原因と結果は離れていない 原因があるから結果がある

その原因は意識にあり その結果が今である

その今を認めて「あるがまま」にしとけばいいものを「良い悪い・善悪優劣損得」で分離判断して「人を責め、自分を責める」ことが原因となり、その原因が結果となって現れているのが今の世の中の闇です。

…そのまま、このまま、あるがままにしとけばいいものを…

悪と思うから正義がうまれる、
しかしその正義は悪にもなる(正義で闘えば正義が悪になる)

劣ると思うから優れたものを欲しがる
優れたと思うから劣るものがうまれる

欲得の思いが叶わないと、反対に損をした思いに変わる
感謝よりも(内心では)多い少ないで判断することにもなる

失うことを気にしすぎると守る事になる
守ることをしなければ、(失うものがなくなり)平和になる

自由平等・平和を守ろうとすると、(反対に)闘い戦争になる

平等を思うから、(裏側の)不平等が必要になる
皆が平等であるのに、比較して不足を思うから不平等に思える

自由の為に闘うと、(闘うことから自由を奪われ)不自由な身となる
不自由と思わなければいつも自由である

いま自由が無い奴隷の身ならば、それは奴隷になることを選んだ結果である
…奴隷になることが本当にいやなら奴隷にはなっていません
(お金に縛られた奴隷・使い捨て人間が多いのが経済界)
(形に束縛制限支配された奴隷の身だと気付かない無知な人が多い)

本当の満足(心の満足)が無いから偽善で自己満足している

本当の神を知らないから偽善の神を崇拝して自己満足している

本当の命のことを知らないから仮の姿形・御身を命と思って大事に守っている

本当のことを知らないから…
矛盾する間違いだらけの科学医学・思想哲学・宗教・指導教育
またそれらの常識や道徳伝統風習を正しいと思い込んでいる

そして「私は正しい」と自己満足し自慢し自己主張し自己顕示誇示したがるから
その裏で相反するもの・敵対するものが生まれている

すなわち矛盾するのがこの世なのです

(2008・08・05投稿・リメイク版)

真理の「深イイ言葉」大全集

2018年10月22日 | Weblog
不平不満に思っている人に・・・
「欲張るから今が不満になる」
「人を責めない、自分を責めない」
…心の安定がなければ絶対に生活の安定は望めませんよ…

差別を受けている人に・・・
「差別されていると思うから、差別されていることになるのよ」

私は不幸だと思っている人に・・・
「不幸に思えば不幸になるが、幸せに思えば幸せに思えるのが人間」
「天国を望むから、今が地獄になる」

劣等感を持っている人に・・・
「今より優れたことをしたいと思うから、今の私ではダメだと劣等感になる」

負け犬、負け組みに思っている人に・・・
「人を蹴落としてまで登らなくてもイインダヨ」
「上にあがれば落ちることもあるが、平らなら安心でしょう」

寝たきりの人に・・・
「まわりから愛を頂くことができてよかったですね」
「多くのお蔭様で今も生きていることができますね」

死にたいと思っている人に・・・
「いま生きていることを忘れて、死の夢の中にいませんか」
「大切なものは何か、見落としてきたものを探し出してみては」
「肉体の死に価値はない、生きることに価値がある」
「苦しければ、楽になるまで休息していたら」


腹いせ・仕返し・復讐を思っている人に・・・
「雨やんで傘を忘れていませんか」
「過去となっていることに拘り執着していませんか」
「私は正しいと思っていませんか」

世間や人の目を気にしている人に・・・
「自分を守る意識が強いのではありませんか」
「人のことばかり考え過ぎて、自分のやりたいことを見失っていませんか」

自信・自力が無い人に・・・
「始める前から失敗することを恐れていませんか」
「人と比較して本来の自分を見失っていませんか」

人の性にしている人・・・
「言い訳正当化して責任を言い逃れしていませんか」
「人の性にすることで自分の未熟さを隠していませんか」
「私は正しいと自惚れていませんか」

何かに成りたいと思っている人に・・・
「絵に描いた餅は見るだけで食べられませんよ」
「何かに成らなくても、今で十分なのよ」

ヒーロー主人公になりたがっている人に・・・
「人それぞれオールワン、今のあなたでイインダヨ」
「ヒーローの上にもヒーローがいるからキリがないよ」

名誉名声・権威権力・財力を持った人に・・・
「重たい荷物をたくさん抱え込んでお疲れさんです」
「本当に満足していないから偽物で満足しているのでしょう」
「失いはしないかと不安心配ばかりしていませんか」
…手放してみれば自縛・重圧から開放されますよ…

(過去の記事のリメイク版)

新たな世界の高次元界でもって…新たな生き方が始まる…

2018年10月21日 | Weblog
ちなみに神様仏様が必要になるのは欲張っているからです。

だから欲張らなければ神様仏様は必要ありません。

そして人為人工的なものが無くなっても自然界があれば十分です。

また欲が原因の不満が諸悪の根源となっています。

だから極悪非道の人殺し戦争にもなっています。

またストレスからして万病の元となっています。

だから寝たきり要介護や認知症にもなっています。

ところが始まりがなければ結果もありません。
すなわち原因がなければ結果もありません。

だから最初から何もしなければ何の問題にもなりません。

なのに此れではダメだの不満と何とかしなければの欲からして動いているのがこの世人間界です。

ところが不満と欲から始まったことは何を成せども矛盾する結果になります。

ちなみに思い通りに事が進みバラ色の人生やこの世の春を味わっていても、ちょっとしたミスでもって奈落の底に落ちていることもあります。

また人間関係でうまい具合に進んで喜んでいても、いつしかその裏が出てくれば、その理不尽さ無情さからして思いもよらない展開に陥ることもあります。

また順風満帆で事が進んで喜んでいても、いつしか真坂の有事でもって二度と立ち直れない羽目に陥ることもあります。

しかも世間で目立つほどに・展開活動するほどに…巷の有事(事故災害・事件犯罪)に巻き込まれやすいのです。

ちなみに食って寝て糞をしながら生きているだけで十分ならば…何とか成りながら何とか生きていけます。

ところが此れではダメだの不満と欲からして事を始める自己拡大をしている限り…先程のようになって幸せにはなりませんが…しかしその自己拡大をやめて自己縮小するほどに幸せが近づいてきます。

すなわち何の不満もストレスもなく食って寝て糞をしながら「生きている」ことが幸せだったのです。

ちなみに不満からして欲張れば幸せになれると錯覚勘違い・思い込み陶酔・洗脳となっていたのです。

何はともあれ…欲張るほどに幸せが逃げていくのは事実なのですが、その事実に気付けないのも欲張っているからです。

また欲張っているから自由になれないでそれが不満にもなっているのです。
…不満と欲は一対なのです…

それでも不満と欲でもって生きていきますか? と問い掛け続けているのです。

ちなみに(私が思うに)生きているだけで十分となれば…この世人間界に拘り執着し未練を残すこともなく…空白が如くの思い残しのない人生で終われば…この世三次元界から卒業したことになります。

となれば新たな世界の高次元界でもって・新たな生き方が始まると確信しています。

婚姻制度及び家族制度には不自由・不平等・不調和が隠れています。

2018年10月19日 | Weblog
自然界は完全なる宇宙・神・愛の仕組みのままに動いています。

ところが不完全意識の人間が思い考え成した仕組みには矛盾偽善があります。

だから婚姻制度及び家族制度には不自由・不平等・不調和が隠れています。

ちなみに人間の本能からして人を好きになるのは必然ご縁になりますし、性欲からしてセックスに至るのも必然ご縁であり、人間ならば当然のことですから自由です。

ところが自由なセックス関係・フリーセックスからして…その人間関係が淫らに思えたことからして…モーセが十戒でもって…また日本では聖徳太子が婚姻制度なる法律を設定したと言われています。

しかし人を好きになることが当たり前だけにそれがフリーセックスになって当然です。

また好きになったもの同士が同じ屋根の下で暮らすのも自由ですし、嫌いになれば離れ離れになるのも自由ですし、また縁があればやり直しもできます。
…とにかく自由なのです…

しかし結婚婚姻制度及び家族制度となれば制限制約されて何かと問題となっています。

ちなみに結婚しての自由恋愛が不貞不倫だの浮気だの、また離婚だの別居だの慰謝料だのバツイチだの後家さんだのやもめ男だのと特別扱い差別されます。

何はともあれ人を好きになるのに年齢はあまり関係がありません。

そして人を好きになり、それがセックス関係になっても当たり前です。

その当たり前が当たり前でなくなるのが婚姻制度です。

ちなみに大恋愛の末に結婚するも足早に離婚となっている事実がたくさんあります。

然るに好きな感情が消えて嫌いになるのも人間なら当たり前なのです。

何たって好きな感情の裏には…やきもち嫉妬があるしそれが憎しみ憎悪にも変化するのが人間なのです。

何はともあれ矛盾偽善のある人間が思い考え成した形には同じ矛盾偽善があるから問題が起こっているのです。

しかもその問題を解決しようとするも…同じ矛盾偽善が出てきて根本的には解決しないのです。
だから…どうしようもないのです…

となれば婚姻せずに自由恋愛しフリーセックスでもって後腐れのない人間関係で人生を楽しむほうが人間に似あっているのです。

ちなみに私は妻や家族から離れて孤独の自由を味わっているところです。

だから来世で生まれ変われば…生涯独身でもって人生を味わうことでしょう…

そして成り行き任せながらも、その時々の必然ご縁に限った人間関係でもって…欲張ることなく、見栄張ることなく…拘り執着のない…思い残しのない人生となることでしょう…

<愛>には特別がありません!…特別な愛には矛盾偽善があります。

2018年10月18日 | Weblog
愛は大切な空気や水と同じです。
…愛である神もまた同じです。 

だから愛も神も空気や水と同じように特別ではありません。

水や空気はとても大切な役目を果たしています。
…それでも役に立っているという自惚れはありません。

しかも恩返し見返りを求めたり、口出し指図することもありません。

そして水や空気は汚されても何一つ不平不満を言いません。

もちろん自由平等に分け隔てなく誰もが恩恵を受けることが出来ます。

愛は「そのまま、このまま、あるがまま」にあるだけです。
…善人であろうが悪人であろうが、戦争をしていようが、差別や虐待をしていようが、金持ちや貧乏であろうが、どんなところで暮らしていようが…空気や水と同じく…愛は分け隔て差別しません。 

人を責めたり自分を責めたりして不平不満を持つものは愛ではありません。

また聖書経典を持ちなさい、あれはだめですよ、こうしなさい、お祈りしなさい、善行をしなさい…そしたら愛・神の人になれるよ等と何か一つでも条件や制限が付けられると愛では無くなりすべて「偽善」になります。

神を知りたい、愛を知りたいのなら、水や空気といった自然界から学び気付くことができるのです。 

そして神であり愛である万物のおかげさまを知れば此れほどまで環境破壊することも無かったでしょう。 

自分も特別になりたいと思い、特別な神、特別な愛、特別な形を探し求め得ていた結果・偽善がこの世人間界に現れ出ています。

生きることが過ぎた守りになったり、生きることが金銭物質の経済主義になったり、生きることが趣味嗜好娯楽や刺激を持つことになったり、生きることが名誉名声・権威権力を持つことになったり、生きることが悩み不安心配や怒りになったり、生きることが競い合い奪い合う戦いになったりするのも…私は正しいの特別意識・差別意識に原因があります。 

「あるがまま」に今と同じ状況環境下で暮らしながら、善悪優劣損得で判断する分離意識・差別意識を出さないように生きていけばいいのです。

そして重たいお荷物や邪魔になるものを持っていたら手放して身軽・自由になればいいのです。 

(2008・08・08)リメイク版