孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

身近に仲間がいると心強くなりますが、その裏には孤独感が隠れています。

2012年11月29日 | Weblog
完全真理&自己縮小の実践をするには恋人や家族やのしがらみから離れて仏門に下るが如くの決心決断が必要と書いていますが、
耕栄さんの講演会に集まる仲間がいても、その実践仲間となると身近には誰もいません。
もし同じ地域に仲間がいても寝食を共にしているわけではありませんからやはり独自独歩の実践になります。

ところが宗教であれば(仏門に下れば)
世間から隔離された場所・環境状況で寝食を共にし精神修養・鍛錬試練や聖書経典を唱えるなどの行動を共にしている仲間が身近にいるので心強くもあり共に目指すことができますから、その仲間がいることから言えば完全真理よりも恵まれた環境状況になりますから初心を貫くことも容易くなります。

しかし完全真理の実践となると
一般世間の中で生活していれば実践意識よりも不完全なこの世やその人間関係に意識が多く使われますし、また実践意識で暮らしている人も身近にいないことからして共に励まし合い確認し合いそのやる気・意欲が高まるその機会もなく、
それだけに趣味嗜好娯楽に興じる時間も多いことでしょうし、連続物の朝ドラや大型ドラマやスポーツや歌謡番組に魅せられている時間もありますから、その分だけ実践意識から離れているはずです。


だから完全真理の実践、自己縮小の実践には宗教のような仏門に下るが如くの決心決断&環境状況が必要だと書いているわけです。
しかしそれには相当な無理があるとも書いているわけです。


ところが精神世界でなくしても何かと仲間・人の集まりが必然のようです。
と言うのもパート先の牛舎のオーナーが廃業をも考えていた時期に必然ご縁からして私がお手伝いする事になってからは日増しに意欲的にもなりその創意工夫が活かされることにもなりその成果も出ていることからしてそれが喜び感謝や元気な笑顔にもなっていることからしてです。

しかもオーナーが精神世界の諸々の書籍でもって相当に勉強していますからその会話も交わせますから尚更に(双方共に)都合が良かったのです。
しかもパチンコ愛好も同じですから何かと会話するチャンスがあります。
それだけに(成り行きから)仕組まれたその必然ご縁が双方ともに有り難いことにもなっているのです。

だから自己縮小の独自独歩の実践中の私も同じくして、分かり合え語り合える仲間が身近にいることを望んでいるのと一致します。
また講演会にしょっちゅう参加している人たちのその心情とも一致します。
ゆえに否定反発の無い仲間意識の人が集まることも必然になるのです。

しかし皆が同じ不完全意識(比較差別・否定反発)をもっている事実は変わりませんから、その自己縮小も人様の影響(お節介や介入)を受けないでおれる自らに似合った環境状況でもって独自独歩でやるしかありません。
そしてそれが孤独・自由を生かした自力と自信の実践であれば人の集まりが無くても孤独感にはなりません。

しかし幾ら完全真理を学び知ったとこで、
自らが否定反発・束縛制限の無い自由意識でもって、その気楽気軽さと呑気さを味わうことを意識して望んでいなければ自己縮小の実践には至らないでしょう。

単身で田舎暮らしをするのが自己縮小とは限りません。

2012年11月27日 | Weblog
此れまでの自己拡大の積み重ねから一転して自己縮小に向けた生活に変えていくことですから、
見栄や世間体や常識道徳・伝統風習を気にしない生活力精神力が必要です。

すなわち欲張らない、無理しない、執着しない、気苦労しない、
そして自他共に自由を尊重する、すなわち互いに束縛制限支配しない、
そして自分に出来ることを他力に頼らない、自分に出来ないことを神仏や神懸りに頼らないで、執着しないで、あきらめて、ほっといて、その成り行きに任す。

すなわち不完全なこの世の形やその人間関係だけは「どうにも」ならないし「どうする」こともできないから「ほっとく」ことになる。
すなわち不完全意識の人間同士だけに何をやってもその結果も不完全だから、無理しない執着しない気にしないで「ほっとく」
すなわち自らが捜し求めずに必然ご縁のままの成り行き任せる、自然体、来るものは拒まず去るものを追わずになる。

そして「私は正しい」を持たない、
そして守るために闘うことになる、その「守り意識」を持たない、
すなわち自己主張・自己顕示しない、言い訳正当化しない、

と言うようにこのブログに書いているようなことになるわけです。
そしてそれが実践できれば良い悪いで判断することがあっても不満不足に思うことも無く、まして執着することや不安心配にもならないわけです。

ところが自己拡大を良しとする一般世間の中の人間関係・家族関係の中で実践することになりますから、余程の決心決断実行力精神力が無ければなりません。
だから実際の実践に至る人は極少数の人となるでしょうし、また恋愛関係や家族関係に支障をきたす事にもなると思います。

それと誰もが絶対に避けて通れない有事によって余儀なく自己縮小の形になりますが、その有事に世間的な有事や真坂の有事やまた天変地異の災害などがあります。

その必然ご縁で仕組まれたその有事による自己縮小の形に素直謙虚に従える人とまた元の生活に戻ることに執着する人もいますが、有事を機に自己縮小してその真価を味わう事になれば二度と自己拡大で生きることを選択しないでしょう。

それと自己縮小の意識でもって確かな実践が出来ていれば、この先に起こる有事に遭遇することも縮小される仕組みがあるようです。
すなわち自らの意識が原因からして有事を招き入れやすい意識の人と、
反対に有事を呼び込み難い意識の人がいるということです。

そして人間最後の有事である死する時にもその意識次第で「溺れる者ワラにもすがる」執着心の強い人と「自然死」の如くに安らかに逝く場合があるようです。


ところで余談になるかもしれませんが、
人間として生まれてきた時とそして死する時のその始まりと終わりの瞬間の記憶が無いのは何ででしょう?
多分ながら宇宙万物の「命&意識」には始まりも終わりも無く永遠に続くからではないでしょうか、
そして生きていくために必要としない記憶は新たな記憶が増えるごとに次第に消えていくのではないでしょうか、
ちなみに「始まりも終わりも無い」その命・意識のことを書いたつもりですから、下手な考え休みに至るので深く考え込まないで下さい。


宇宙万物のお蔭様で生かされているのに、何で死んだも同然の生き方になるの

2012年11月24日 | Weblog
完全真理が説く良い悪いで比較競争したり判断しなければ、人を責めたり自分を責めたりしないからその不平不満を持つことにもならず、それが不安心配や恐れになることも、ましてやきもち嫉妬や仕返し制裁やぶち壊したくなる破壊意識になることは絶対にありませんから、皆が自由平等調和の人間関係になります。

その良い悪いで判断しているその矛盾からして人間関係がおかしなことになっていることのその真実事実を矛盾の無い完全でもって説いているのが完全真理ですから、たとえ精神世界のことを知らない人でも(信じるか否かが無くて、矛盾が無いから)素直に納得理解できるはずですから、当然ながら大勢の人が集まってくるものと思っていましたが、未だにその思い通りにはなっていません。

そこでよく考えてみれば
人間には見えないその形の無い精神世界を説く完全真理にも当然の如くにその形がありません。
その形になる以前のその原因意識を説く真理だからです。

だから信仰宗教のように仏門に下るとか、艱難辛苦の修行をしたり、座禅して瞑想したりお堂にこもるなどの形にする必要はありません。

また神仏にお祈りすることも、聖書経典を覚えてそれを唱えることもありませんから、その神社仏閣教会もその祭壇も偶像などの形もありません。

また仕事や家事をするその手を止めて時間的にお祈りしたり、深く頭を下げて何度も拝礼することにもなりません。

ましてお墓や仏壇も関係ありませんから、その先祖のお墓参りやその供養法要も必要ありませんから、そこで線香を立てるとか両手を合わせて思い祈ることを教えてもいません。

と言うことは
神仏や先祖の霊魂を意識して生活している中の奥底に先の見えないその先行きの導きを期待し依存しているところがあるわけです。
だから合格祈願や安産祈願や厄除けやの安心安全の祈願や地獄に堕ちないための導きを願って祈るなどの他力依存があるのです。

と言うことは
自分の先行きに自信が無い不安からしてその神仏霊魂の導きを頼りにそれを信じて生きていくことになりますから、それが(宇宙万物すべてのお蔭様ではなくして)特定の神仏霊魂によって生かされていると思い錯覚勘違いしていることですから、
そのことが宇宙万物に生かされていることに少しはつながりがあっても「自らの意識の自力自信」で今を生きていませんから、
すなわち他力依存からして自らの実力・意識力・個性役割の独自独歩に生きていませんから、

それを更に言い換えれば生きてはいるがその生きているだけの価値の無い(宇宙・神・愛意識から見れば)死んだも同然の生き方になり、その意識のままに死ぬまで生き続けるだけで終わります。


そこで完全真理の実践を(先程に書いたような)信仰宗教のような形にすれば取っ付きやすいのですが、
例えば耕栄さんの講演会に参加すればいい、耕栄さんの成す奇跡を見てそれを感じていればいい、そのファバラエネルギーに接し触れ合っていればいい、完全真理を説き奇跡を成す耕栄さんを信じて頼っていればいい、となりますが、

ところがそれだけでは完全真理の理解力や意識力や実践力が欠如した片手落ちの、絵に描いた餅・棚ぼた式同然の真理や他力依存の不完全な実践になります。

そこで自らの意識でもって欲張らない無理しない素朴に生きる(愛情よりも愛で生きる)その自己縮小の実践が言われていますが、その自己縮小となるとやはり無理があります。

何故ならば此れまで自己拡大を味わっていた人は当然ながら反対の自己縮小を実際に味わっていませんから、その今までに味わってもいない、その中身正味を知らない現実性に欠けた、思い思惑の信じるか否かの類になるだけに、
余程の決心決断と勇気が必要となる自己縮小の実践が誰にも簡単に取り組めるはずもありません。

と言うことからして完全真理の名ばかりで(結果的には)無用の長物となりかねません。

そこで何度も同じようなことを繰り返して書くことになっています。
だからせめても欲張らないで無理しないで謙虚素朴に生きるその実践が望まれているわけです。

そして此れまでの自己拡大と反対の自己縮小を味わってこそ、その自己拡大の過ちに気付けるわけですから、絶対的に自己縮小が無ければ人間として生かされ生きているその真価を知らずにして、その役割使命を果たせないままの中途半端な人間のままに終えることになり、
新たな人間意識と成る来世が望めませんので、その命・意識は大元の事の始まりの「宇宙のチリ」同然となって何万年何億年も漂う事になるようです。

他力依存のその思惑期待感が原因からして空虚・虚しい孤独感にもなっています。

2012年11月21日 | Weblog
孤独になることを恐れている人は概ねにして自分の自力やその自信・精神力が欠如していると思われます。
と言うことからしてやはり他力依存が強くなっていると思われます。

だから身近な人に寄り添っていたい心持があり、人様を信じて頼って安心していたいのですが、しかしその裏に裏切りが潜んでいますから、その人間関係の絆を強くしたいがために相手の顔色伺いご機嫌伺いがあります。
そしてプレゼントのやり取りや記念を祝う催しで互いの絆を確かめ合うことにもなります。

それが自力自信の無さが原因だと気付いていません。
それがまた人様に頼る他力依存になっていることに気付いていません。
そして義理や人情や愛情を持ち出して相手を束縛制限支配したがるのです。

それが自他共に自由の無い生き方になり、それが相手の心に負担を強いることになり、それが時には見えない心の傷・ストレスを負わせることになっていることに気付いている人はごく少ないでしょう。

それだから(原因からして)どんなに強い絆であってもそれを簡単に断ち切る裏切りがいたる所にあるのです。

その人的他力依存のほかに物質金銭に依存しすぎているのも己の自力自信・精神力の不足を補うためなのです。


ところでその他力に頼るのは、その頼る人を信じているからです。
何故なら信じてもいない人に頼る人はまずいないでしょう。
その信じて頼るなかに期待感が必ず含まれています。
何故なら何も期待することが無ければ何で他力に頼ることになるでしょうか。
それが道理です。

と言うことからして、
他力に頼るその他力依存や他力祈願や願望には必ず思惑期待が込められています。
と言うことは己に自信が無いからそれを人様に頼ることになるのです。
それが道理です。

ところが自信が無いと不安心配を持つことも多くなります。
その不安心配を解決するにも自力が無ければ他力に依存する事になります。
だから自力自信が無いほどに他力依存が多くなりそれが強くもなります。
またそれだけに期待感も強まります。

だから神社仏閣や宗教や教祖や超能力や神懸り奇跡に頼ることになったり、また最先端医科学に頼る事になれば尚且つ少しでも優秀で有効な形や術を探し求めまた望みそれに期待を込めます。

ところが良く考えれば、人間関係の中に他力依存やその思惑期待があるからして人が集まっていると言えます。
だから束縛制限支配されていて自由も平等もあるはずはありません。

すなわち自らの自力の無さ、その自信の無さからして自由を放棄し、そして比較競争するための集りの中に自らが選んで入り込み、その中で何とかしながら生きることを望んだことにもなります。

そしてそれを支えているのが他力依存の関係であり、またその先行きの思惑期待感でもって何とかその形を維持し持ちこたえていますが、一寸先は闇のこの世ですから、当然ながら使い捨て寝返り裏切りや有事からしてその関係がもろくも崩れ去る事になるのは現実事実に数多くあります。

と言うことは他力依存のその思い思惑のその「期待感」でもって生きていると言っても過言ではありません。
しかもその期待感が(使い捨て寝返り裏切りや有事で)泡の如くに消えると、それが空虚・虚しい孤独感にもなるわけです。
そして自力自信が無いだけに立ち直れないことにもなるわけです。

それだから尚の事に他力依存の宗教や超能力者や神懸り奇跡を成す人に憧れその期待感でもってその人を信じて頼るその信頼・信者の意識でもってただ従うだけになり、その中の精神世界の真実事実の真理や道理の学びやその実践がおろそかになり、それゆえに尚のこと自力・自信の精神力を磨くことにはならないままに年月が過ぎていくのです。
だから「どうしようもない」意識体のままに人間を終えるのです。

単身生活者や離婚者や熟年離婚が増えていることは意識改革の学びの途中かも

2012年11月19日 | Weblog
一人だと一人力しか出ません。
ところが二人になると二人力になり、三人だと三人力になります。
だから人が集まるほどにより多くの力が集まりその分だけ成すことが多くも大きくもなりますから、その集合によって成せる事を拡大させることが出来ます。

反対に自己縮小が必要ならば(手っ取り早く)自分一人の孤独になればその自力を使うだけになりますから、今までの自己拡大の結果が否応なしに縮小していく事になります。

また身近に人がいませんから見栄や世間体も気にならなくなります。
また不足不満に思う相手も(身近)いませんから、当然の如くにその不足不満に思うことも減っていきます。
また自分の悪口や人様の悪口や陰口を聞くこともまた聞き耳を立てられることも世間話等でうるさく騒ぐ人もいませんしまた要らぬ口出しされたりお節介されたり指図も受けません。

だから人様に影響されません。
まさしく自由に生きられます。

ところが矛盾意識を持った人間ですから良いこともあれば悪いこともあります。
だから自由な孤独が人恋しい人肌恋しい孤独感にもなります。

ところが良く考えると、
街中で妻や家族と一緒に暮らしていたのに(孤独ではないのに)(前頭に書いたようなことが原因からして)意思の疎通に欠けていることからして、それが虚しくなるその孤独感を今よりも多く味わっていた事に気付きました。

すなわち人恋しい孤独感なら皆で寄り添っていれば何とか解決できます。
しかし意思の疎通に欠けた疎外感・孤独感だけはその相手がいるだけに、自分一人の問題ではないから、その解決が難しくもなりますし、その相手次第ではどうすることも出来ない状況になる場合もあります。

と言うことは、
人と接する限りにおいては
互いの意識の疎通が無ければ疎外感・孤独感が出てくると言うことです。
ところが皆が不完全意識だけに意思の疎通は望めません。

そこでその孤独感を癒すために心の奥底に溜まっていた不満不足や不安を吐き出す事になったり、その代替に食べ歩きや行楽地めぐりや海外旅行や衝動買いやの物欲や贅沢で自己満足したり、また快適便利さを追求することで己の孤独感や虚しさの気を紛らしているとも言えます。

また孤独になるとその不安や恐れからして人と寄り添う事になっている人もいますが、近年のように自力に自信がある自立心・独立心・自由意識の強い人が増えていることからして、単身生活者や離婚者やまた熟年離婚や子供と離れて暮らす独居老人も増えています。

と言うことは(このブログに書いているように)
自力に自信があれば孤独とその自由を選ぶことが出来ると言うことです。
言い換えれば
今の状況境遇環境がどうであれ、その不安・恐れも無く、また意思の疎通に欠けた他力に頼ることも無く、その独自独歩の自力でもって心強く生きようとしている事になります。
言い換えれば
先々のことよりも「今を生きる」その学びの途中・予備段階・前兆線上にあるとも言えます。

すなわち自己縮小の自己改革・意識改革の流れ、
すなわち(終わり始まる)その宇宙の新たなる仕組みに乗ったとも言えます。
あとは欲張り無理することなく質素・素朴・謙虚な心持で暮らし続けていれば人間意識(闇意識)の夜明けを味わえることになるやもしれません。

自力と自信の無い精神力の弱い者同士が何かと集まりたがるようです。

2012年11月17日 | Weblog
私も不完全意識を持っていますから、孤独が孤独感になることもあります。
しかしそれに執着しないで済みますから直ぐに平常心に戻ります。

何故だと思いますか、
それは自由だからです。

何たって孤独だから(見栄や世間体や妻や家族を気にしないで)人様の事を気にしないで、自分が思うままに好き勝手なことを遠慮なく自由にやれることからして、その孤独が気にならないのです。

ところが妻やと一緒に居るのに孤独さを感じて、それが虚しくて孤独感を味わうことが過去に度々ありました。
何たって妻や家族と一緒に暮らしていれば個人の自由が制限されます。

その自由が制限制約されている上に(意思の疎通が無くて)一人ぽっちの孤独とその虚しさの孤独感が(人に囲まれているのに出てくるのですから)尚の事に相当な精神的ダメージを受けます。


だから街中の大勢の人がいる中で孤独を感じ、それが虚しくもなり、その孤独感からして生きていることがつらくなる人(引きこもり現象)が大勢います。
ところが田舎では(私同様に)その独り暮らしを意気揚々として味わっています。


皆さんの中にも孤独と自由が無いためにその裏の孤独感を感じることがあると思います。
そこで遊び友達や仲間が欲しくなったり、また大勢の人が集まる所へ何かと出向いていくこともあると思いますが(生まれながらにして孤独なだけに)それが孤独になりたくない(孤独が怖い)その思いが奥底にあるからです。

そこで集まった者同士が共に比較競争し優劣や損得や勝敗に拘ったり、また自慢しあったり、また慰め励ましあったりもして、それぞれが孤独にならないように共に支えあっているようですが、しかし(裏を返せば)それが都合が良いときと悪いときがあるのが事実にあります。

それをいちいち事細かく書くことは何度も書いているので省略しますが、
とにかく何が無くても自由があれば気落ちすることなく平然と生きていけるのは事実にあります。

だから自由があれば不完全意識ながらも何とか乗り切っていけるのも事実です。
反対に自由が無いために多くの問題を抱え込むことにもなって意気消沈しているのも事実にあります。

だから孤独が寂しいと思うのは(他力依存からして)自力と自信の精神力が弱いからです。
そしてその精神力の弱い者同士が何かと集まりたがるのです。

またその精神力に欠けた人(弱みを見せた人)が集まりたがることを上手く利用したがる、そんな利口な人や欲な人までもが一緒に参加しているわけです。

また皆で何か事を成そうとするときに(人が集まると必ずリーダーが登場しますから)そのリーダーと共に一致団結して頑張ろうと(期待を込めて)声を張り上げているのです。

それが俗に言う(人が集まるところの)ピラミッド社会(宗教組織を含めて)の生け贄・人身御供・使い捨て・奴隷になるとも知らずに、です。

「触らぬ神にタタリなし」から「困った時の神頼み」になり「神も仏もあるものか」になる

2012年11月16日 | Weblog
このブログを読まれて気付いたとは思いますが、
書いている内容が今の常識から外れることばかりですから、
精神世界や宗教思想真理や人生の歩みの中で思い悩み考え思考錯誤した人の中にも、
何かと否定反発する人も多いと思います。

その常識とやらに
働かない者は食うべからず、苦労は買ってでもしなさい、理想目的を持ちなさい、成せばなる、欲が無ければ生き甲斐を失う、信じて頼るその信頼が必要、義理人情やの愛情が無ければ人でなし、親孝行や先祖供養が無ければ地獄に堕ちる、善を成せば天国、悪を成せば地獄、その宗教のいう神を信じて敬い尊ぶことも神に祈ることもその(特定特別な)神に感謝することも必要など等からして、
このブログの内容に否定反発する事にもなっていると思います。


ところが古今東西のそれら神々やその教えを信仰して良かった結果よりもそれ以上に深刻な問題になってそれが繰り返されていたり、それよりももっと悲惨な人殺し戦争の原因にもなっている事実があります。

だから最初は天使の姿を見せて人心をつかみ、その人心に期待感を持たせながらも、それらを思うがままに操ることにして、その人心の集合意識からしてサタンの役割(不都合な者を否定反発して排除させる)(宗教思想拡大のための侵略や戦争)を果たす人心に変化させていたとも言えるわけです。

すなわち我が宗教の我が神の思想普及拡大のために大勢の人が利用されて巻き込まれていたとも言えます。
そんな宗教の手先に使われているのに気付かないで「私は正しい」ことをしていると未だに自惚れてさえいるかもしれません。


ところがそんな宗教に馴染めずにいる人も、それら宗教の思想を(前記に書いたような事柄を)(信じるか否かを)いつの間にやら常識のように思っている人が多いのもおかしな事です。

また「触らぬ神にタタリなし」のはずが「困った時の神頼み」にもなっていますから、これもおかしな事です。

そんなご都合主義からして天使が悪魔にも変化するのです。
そして「神も仏もあるものか」の人殺し戦争にもなるのです。

だから常識にもなっていることの裏・真実・事実を知ることが先ず無ければその意識を修正することは不可能です。

そして自然体で生きる、今を生きる、欲を出さない、無理をしない、執着をしない等と言われながらもその実践は出来ていません。
それは天国を知らないものがその天国を目指すのと同じで無理があるのです。

しかし想像の世界の天国ではなくして実在する中で味わうことですから、実際に実践さえすればそれが味わえるのです。


その実践する前からやる気にさせてくれるのがこのブログだとも言えますが、
そのお手本となる映像をテレビで何度も見ているはずです。

私から見れば恵まれている状況環境でもないのに皆が明るい笑顔で暮らしていて、その中には此れで十分だからと他に望むことはないとまで言っていた人たちがいたでしょう。
素朴で元気で明るい生活やその笑顔を何度も見たでしょう。
私はそれら映像に魅せられたひとりです。

反対に素朴さが無くて、子供らしさが無くて、目先のことばかり言って現実が無くて、自力が少なくて他力が多く、自由が無くて、比較競争することが先走り、派手好みで、立ち振る舞いが目立ちすぎる、潔癖症で、完璧を求める人たち、
それらの映像も見たでしょう。

その何れを選ぶのも自己意識・自己選択ですが、
その何れを選ぶも、
先ず動き出す実践とはならずにおいて、先走りの思い思惑や憧れ理想を持っているだけで、何やら自力よりも他力をあてにしているようですから、それなら不平不満が出てきても仕方がありません。

と言うことからして(このブログが)目先の忙しさで理性を失っているときのその気つけクスリや想像の世界の白昼夢の夢心地から目覚めるためのハッカ飴にもなればと思っています。

どうしようも無いこの世と、どうすることも出来ない人間意識。

2012年11月15日 | Weblog
思いつくままにブログを書いてきましたが、結論から言えばタイトルのようになります。
何たってすべての人の中に天使と悪魔がいるからです。
そして過去の史実からしても、また現在を見ても、その矛盾に溢れています。

その史実の中に精神世界を説く宗教の過ちが世界中に大きく影を残して現在にまで至っているその事実があります。
すなわち天使でもあったがその裏の悪魔の役割もキッチリと残していたのが見て取れます。

だから良いことをするつもりで成したことが事が進むにつれそれが侵略になり神と神が闘う事になりその人間同士が殺しあう結果になったことが史実にすべて残っています。

だから良いことをする始まりがその良いことだけではなくして、それ以上に悪い結果・悲惨・悲劇を残してきた事実があります。
それが精神世界に限らずとも医科学や政治経済や教育指導にもありますから、結果的には今や自然環境も人間関係も破局の一歩手前まできていますから、皆が皆善人でもあるが裏では悪にも成りえるその両方の役目を果たしてきたのです。


すなわち人間の矛盾意識に仕組まれている通りのことがこの人間界で成るようになってきたわけですから、その役割を果たしたその結果を踏まえて次なる進化に進む道を見い出すその<使命>があるということです。

だから良いと思ってやってきた自己拡大の結果が現在である事とその反対の自己縮小をして味わったその結果からして、その自己拡大の苦楽・喜怒哀楽で生きるよりも自己縮小で生きるほうが無理や執着が無くて素朴で平穏な中にも自力を多く使うことからして、その当たり前に生きている正味・味わいが深くなることを知ることになるわけです。


しかも先程に書いたように、この世で神や愛を説くすべての精神世界の形の中にも不完全さが潜んでいて、それに気付かずに多くの人が惑わされ続けたことも知る事になります。

特に宗教に期待するところがあったことや摩訶不思議を成してみせる超能力者に期待するところがあったのもまやかし(錯覚勘違い)であって、それらに係わっている者たちも同じ未熟な不完全意識を持っていて、この世でその学びの途中であることは皆と同じなのです。


と言うことでその結論を言えば、この世の形やその人間関係は「どうしようも無く」「どうすることも出来ない」不完全意識の集まりなのです。

だから不完全意識が原因のその結果も同じですから、今もその不完全が出続けているわけです。

そこでその不完全意識を持ったままに人間を終える時が(誰にも)(やがて)来ますから、
その人間を終えるまでにこの世の裏表の矛盾を多く学び知り、併せて完全真理が説くところの宇宙・神・愛の完全を学び知り、尚且つ「あるがまま」の自然体で生きる実践をし続ける必要があるのです。

だから皆が不完全意識だけに良い悪いで判断することがあっても仕方が無いことですが、それに執着しなければ無理することも欲張ることも無くなりその苦楽を味わうことも減っていきますから、自ずと自己縮小に進んで行きます。

その人間を終えて新たなる始まりとなる高次元の意識を持つ人間として生まれ変われる可能性のある人は多くは無いと思います。
そして近代的な日本人よりも、過去世の学びからして自然界の中で穏やかな生活を続けている素朴な民族が選ばれる可能性が高いと私は思っています。
また先進国家であっても、その都会の片隅でひっそりと穏やかに暮らしている人が選ばれるかもしれません。

しかしこれ等のことは信じるか否かになりますが、金銭物質の経済優先や医科学に頼る人や宗教の特別な神に頼る人や奇跡に期待する、そんな他力依存や他力願望の自力と自信の無い人は先ず失格です、と過去にご縁があった霊能者の「お伝え」にありましたし、私自身も確信でもって書いています。

自らの道理で生きて、そこに自由があれば、何の問題も無く生きていけます。

2012年11月11日 | Weblog
自分が持っている物を盗まれたり搾取されたりすると損するから腹も立ちます。
なのに何で人様の物を略奪搾取する人がいるのでしょう。

人に愚痴小言を言われて気分を害することがあるのに、
何で人に愚痴小言を言うのでしょう。


自分の道理はまた人様の道理でもあります。
だから人様の身になって考えなさいと言われます。

私は愚痴小言を聞くのがイヤだから愚痴小言を言いません。

私の嫌いなことを人様に押し付けることはしません。

私は世間話を聞くのがイヤだから私から世間話はしません。

私の時間(自由)を大切にしますから、
私から(相手に不自由させることになるので)先方に出向きません。

自分が好きな事とはいえ、それが人様も好きな事とは言えませんから、それが善意であっても(何らかの迷惑になることもあるから)押し付け押し売りはしません。

私の身近にいる人が普段の顔・普通の顔をしているだけで私は安心して側におれます。
またそれが明るい表情であれば私も同じ明るい表情になります。
だから自分の中の問題(不満不足)は自分の中で解決しておいていつも明るく生きる事を心掛けています。

人様の慢心・自惚れ・恍惚の表情には違和感が出てきます。
それだけに私は謙虚を保ちます。

私は常日頃から自力で成せることだけをしていますから困ることはありません。

ところが身近な人の多くは自力で成せるはずのことをしないで、それを何がしの理由・理屈をつけて人様に頼む人がいます。
それが「わがまま」だと知っているのでしょうか

私は自らの力を付けるためにも(初めてのことでも)(自分に出来そうなら)(修練や経験のためにも)自力を多く使うことにしています。

ところが身近な人で自らがわがままを通しているのに、他人様がわがままを通しているとあの人はわがままな人だと陰口を言う人がいます。
それを人様のことは見えても自分のことは見えていない例えになります。

その「わがまま」が自分の都合を考えた上での「良いとこ取り」だと気付く人は少ないようです。

私の将来がどうなろうともそれは私の自己責任で済ませますから、
それと同じく(身近な人であっても)その人の将来のことを前もって思惑思案したり気掛かり心配になることはありませんし、また期待することもありません。
これも「一寸先は闇」から言えば道理に合致します。

私は成り行き任せですから「石橋を叩いて渡る」ような事はありません。
反対に用心深い人に真坂の出来事が多いようですが、それは多分目先のことしか見ていないで周りのことがあまり見えていないからだと思っています。

私は人様のことに自らが手出ししませんから、私に対しても手出し不要でほっとかれても大丈夫です。
だから私が助け舟を頼んでほっとかれても後悔しません。
と言うことは私から助け舟を求めることは先ず無いでしょう。

自分さえ良ければの個人意識を批判する人がいますが、その批判している人も「同じ穴の狢」だとは知りません。
ところが「同じ穴の狢」だと悟っている人は謙虚ですから自己主張も堅持誇示することにはなりません。

義理人情が必要だという人はそれを自らが求めているからです。
その義理人情を必要と思っていない人はそれを求めません。

また親孝行や先祖供養を求めている者がその親孝行や先祖供養を人様に言うが、それを必要としていない者が人様に求めるはずもありません。
それが道理です。

その道理を違える人は「わがまま」です。

だからこの世は必然とする者が居るからその必然の形があるわけです。
しかしそれら必然の中に、それを必要としない者がいても、何ら差し障りありません。
何故なら必然の形の中には束縛制限の縛りや否定反発が含まれているからです。

何たって人間生きていて「自由」が無ければ死んだも同然だと、私は思っていますから、
「自他共に」自由を尊重しています。

だから「わがまま」ではなくて<道理>になります。

と言うことからして、複雑怪奇に言われているその神や愛の精神世界・宗教真理を知らなくても、自分の道理に自らが従っていれば、それが人のためにも自分のためにもなるわけです。

精神世界でなくても知識・理屈・道理で判っているのに、何で不満・愚痴が出るの

2012年11月10日 | Weblog
私が人様とご縁あって接するときには必ず顔色を見計らってそのご機嫌度を推し量ることになります。
そして相手の人のご機嫌が良いときは、接する私も当然ながら明るい笑顔になって会話が弾みますが、暗い表情をしているときは足早に事を済ませて早くその場から離れたくなります。

また妻と娘夫婦が住まいする(独立型二世帯住居)ところへ出向いたときも同じく、孫三人と娘夫婦や妻の顔色を見ています。
そして皆が明るく振舞っているのを見るだけで安心していられます。

そして妻が明るい表情で皆と一緒に居るのを見るとその妻(老妻)が魅力ある美人に見えます。
ところが妻と二人きりになったらその娘や息子の心配事の愚痴が出てきますから、先程の美人がやつれた老婆にも見えてきます。

娘も同じく何の思案も無く明るく立ち振る舞っているときは側で見ているだけの私でも心が和らいで居心地がいいことになりますが、長男の不登校があったときやその進路のことで悩んでいるときは美人が台無しの表情になっています。

何で子供のことで悩むのか、悩んで何が解決するのか、悩んで得するどころか損までしているのに、何でそうなの?となりますが、しかも完全真理の私の先輩でもある娘なのですから、更に何で、一体何のために学んでいるのともなるわけです。

と言うことからしていえば、やはり学んだ知識・理屈では役立たないのです。

また己の愚痴小言で人様を修正することを考えるよりも、まず自己修正するしかありません。
その自己修正が無い限り常に同じことが(不足不安が)繰り返されるだけです。


ところが自己修正できても、それでも困ったことが有るのです。
それは自己修正は己の自力で成すことはできますが人様の修正は不可能ですから、先程の事例のように私の力だけではどうすることも出来ない、その役不足の何ともし難い問題が出てくるのです。
そこで何とか納得できる一時しのぎの策を講じても次から次と出てくるのです。

だから私独りだけの問題ではなくなって(巻き込まれて)(私が直接の原因でもないのに)(何でそうなるのよと)私の気分が落ち込むのです。
それがこの世の形でありその人間関係なのです。

私自身は成り行き任せですから不満不足に思うこともそれに執着することもほとんどなくて、自分の中では殆ど問題らしい問題も無く生きていたのですが、
ところが人様の思惑に巻き込まれて私がイヤな思いをすることだけは避けられませんでした。

だから私自身の精神安定のためにも、その仕事関係を含めた人間関係から一度離れて暮らしてみるその決心が付いたともいえるわけです。
そしてやり始めてから娘が縁で完全真理を知る事になり、その中に自己縮小の必要性が説かれていたことからして心強くもなった経緯があります。


皆さんもこのブログでなくても多くの知識・理屈・道理を知っているはずです。
だからその知識理屈通りにすれば何とかなっているはずです。
しかしそう容易くないのが自分独りではないからです。

そこで完全真理や精神世界や前世や来世や神懸り奇跡や超能力や博学知識を知らなくても、
またどんなに貧乏であっても、
その家族が明るい表情で暮らしていれば、
仏門に下ることも、過疎地で暮らさなくても、自己縮小が未熟でも、不完全意識丸出しであっても、
それらに関係なく明るい笑顔のある穏やかなこじんまりとしたシンプルで素朴な生活が出来るのです。

私ならそれで十分すぎるくらいですから、それ以上のことを自らが求め欲しがることはありません。
何たって不足・不機嫌な家族の顔が消えた家族団らんの生活になるのですから。

ところがです、
それさえも一般的に無理なのは何故でしょうか、
それは先程のように自分独りのことではなくて、意識がそれぞれに食い違う者が一堂に集まった家族だからです。
だから仏門に下ることよりももっと難しい修行をしているようなものです。

だから今の私が望むことにあるのが、
まず自由を尊重していること、だから否定反発することが無くて素直、何でも知りたがる、何でも自らがやりたがる、熱中するが執着しない、それを喜びとして、過不足を思わない、そんな人やその実践意識の人と(遠近に関係なく)一時でも巡り会いたいものです。