孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

真の精神世界とは無縁にして食欲性欲&他力依存の副産物である現在の生活を守っていたいのです。

2015年02月27日 | Weblog
否定反発排除&束縛制限支配があれば愛ではありません。

然るに皆が自由でなければなりません。

だから人間の本能である食欲性欲を否定していません。

だから不食の仙人を目指す必要もありません。
然るに修行が如くに断食する必要もありません。

また性欲を絶つこともありません。
然るにその人間関係を絶つこともありません。

またモーゼが如くに「姦淫することなかれ」と否定していません。
然るに浮気不倫不貞を責めることもありません。

だから俗世間の中でもって素朴に生きる自己縮小の実践&欲張らない愛の実践が可能なのです。

ところが性欲の副産物である恋愛関係や家族関係からして欲張らない実践が難しい状態の人も大勢いると思っています。

何たって心優しく思いやり深いあなた方だけに、そのあなたが素朴に生きる自己縮小&欲張らない実践をすることになると、どうしても身近な人&家族を巻き込むことになるのが心苦しいようです。

然るに誰でもが公平で皆が無理なく実践できるはずの「欲張らない愛の実践」に戸惑い躊躇することになるその愛情深い人が多いようです。

それを品良く言えば、恋愛感情や家族に対する愛情が「足かせ」になっているのにその家族や世間から離れることが世捨て人&薄情者&罪悪感にも思えているようです。

それを品悪く言えば、自力不足の他力依存からして自分に都合が悪いのです。
それだけに先行き老後に不安心配があるのです。
また家族&世間から離れることになると(自由になれるのに)寂しいと思っているのです。

だから否定反発されようが束縛制限されようが自由を阻害されようが(己の為に)その人間関係を守っていたいのです。
それを品悪く言えば、家族や身近な人のための愛情ではなくして、自分さえ良ければの「自分のため」なのです。

然るにその個人意識&エゴ&偽善を愛情に誤魔化し正当化していたいのです。

然るに自分の都合からして食欲性欲&他力依存の副産物である現在の生活を守っていたいのです。

そして己や家族に悩みや困難があるときに巷の精神世界&神仏霊魂&神懸り奇跡に頼りたがるその弱い心意識とそのご都合主義が見受けられます。

然るに皆に公平で誰もが簡単に実行できるはずのその愛の実践、然るに「欲張らない実践」さえも絵に描いた餅同然になるのです。

然るに中途半端な精神意識からして(真の精神世界を知らないままに)「どうしようもない」不完全な人間関係が死ぬまで続くのです。

あなた方は「どうしようもない」仲間のままにして生きるのですか?

2015年02月25日 | Weblog
完全なる宇宙意識・神意識・愛意識の仕組みで創造された人間は完全ですが、ところがその人間意識に良い悪いで判断する矛盾意識を持って生まれ出ています。

然るにその原因意識に矛盾が有ることからしてその結果も矛盾します。

だから人間が創造したものに良いこともあれば悪いこともあり、また良いことが悪いことになったり、悪いことが良いことになったりと、不確かで不完全です。

だから人間が創造した言葉やそれを表す形にも矛盾があり<すべて>が不完全です。
然るに衣食住・名権財、趣味嗜好娯楽、冠婚葬祭・伝統風習・道徳・常識、学識知識教養や医科学、創作芸術、哲学思想、真理、宗教、信仰祈祷祈願、超能力・霊力・念力、ヒーリング・セラピー・カウンセラー、占い運勢など等、

だからこの世で何を成せども矛盾があり不完全で中途半端ですから、一時の気休めや自己満足で終わり、然るに納得確信&悟りに至らないままに同じ繰り返しを続けることにもなっています。

ところが中には納得確信&悟ったが如くに自惚れ慢心の思い込み自己洗脳にして「私は正しい」と主張堅持する者がいますが、しかし何処かしこに矛盾する行動表現がありますから、それを見極めることが出来る人なら惑わされません。

またそれを見極めることが出来なくても、すべての人が不完全意識の持ち主であることは事実ですから、然るにそれら人が集まるところに関わらなければ惑わされることにもなりません。

然るに(自他共に)欲心を隠して世間に目立ち、そして善人が如くにして振る舞い、世の為人の為と偽る偽善者ばかりと言っても過言ではありません。

然るに人が集まるところのその家族や人間関係・仲間関係の中に邪な欲が渦巻いているのです。

しかもそれら他力に頼りたがる弱い心意識の人が大勢います。
然るに学識知識教養が有っても、自らして得た確たる自力や自信の無さが主な原因なのです。

だから諸々の精神世界に関わらずにして質素素朴&謙虚にして自力を多く使って生きている、然るに食って寝て糞をしながらにして生きてそれ以上の過ぎた物&特別を欲しがらないで生きている人のほうが真っ当な精神世界で生きていることになります。

然るに日々雑多の矛盾することに意識が使われて苦労苦悩していることさえも気付かない人が、何で真っ当な精神世界で生きることを選ぶでしょうか、
然るに手取り早くして巷の神懸り奇跡で集まるその集合体・組織団体の仲間になるか、
せいぜい決断決心しても不確かで矛盾のある信仰宗教に依存して入信したり仏門に下ることくらいでしょう。

然るに不完全意識のこの世人間関係からして「どうしようもない」ことさえも気付かないままにして、しかも己さえも「どうすることもなく」ただ無駄で余計な苦楽の繰り返し人生のままにして人間を終えることでしょう。

性欲の副産物が恋人・愛人や夫婦・子育て・家族となるのです。

2015年02月23日 | Weblog
愛には自己満足も不平不満もありません。

しかし愛情には自己満足・不平不満があり、それが不安心配・怒り・憎しみ・嫉妬となり、手当たり次第ぶっ壊したくなる破壊意識(自殺&殺人)となっていきます。

そして自己満足からして自惚れ慢心になり、それが私は正しいと自己正当&自己主張したがり、それが潔癖完璧や正義感にもなります。

また不平不満からして否定反発・排除したがることになり、また束縛制限支配したがることにもなります。

然るに性欲にも自己満足と不平不満があります。
また子育てにも自己満足と不平不満があります。
然るに夫婦・家族関係にも自己満足と不平不満があります。

然るに自己満足の性欲からして恋人や夫婦関係となり、また出産子育からして家族関係となっています。
それを品悪く言えば性欲の副産物が恋人・夫婦・子育て・家族関係なのです。
それを品良く言えば愛情になるのです。

然るにその裏が出ると裏切り関係となり、恋人愛人夫婦関係での浮気不倫や破綻となり、また子育て放棄や家族関係の崩壊にもなります。

然るにそれが不完全意識・矛盾&裏表のある「愛情」と言われる正体です。

然るに欲張ったことが原因の結果になります。

だから私は欲張らない(苦楽の無い)「愛の実践真理」を遂行中なのです。

不平不満・不安心配・恐れ怒り・憎しみ嫉妬・報復仕返し・破壊意識、それらは同類です。

2015年02月22日 | Weblog
人間が生きていくために最も重要なのはお腹を満たすことです。
然るに食うことが出来れば衣服や住居が無くても原始人が如くに生きていけます。

それを品悪く言えば食うために生きているのです。
それを品良く言えば生きるために食うのです。

然るにお腹を満たすために働くことは当然ですから、それが苦にはなりません。
ところがそれを過ぎると苦になります。

然るに現代であれば衣食住があればそれで十分なわけです。
ところが厄介なことに価値ではなくして価値観で判断するところがありますから、それが原因で不平不満が出てきます。

その不平不満からして不安心配や恐れ怒りや憎しみ嫉妬となり、それが報復仕返しや破壊意識になっていきます。

ちなみに不平不満から始まるそれらは(使われる)エネルギーの質量が高いか低いかだけで同類です。
だから不平不満で止まっているうちはそれ程でもないが、怒り憎しみとなると心身に相当なダメージを与えます。

また不安心配から恐れ怒りになりますが、その不安心配は私は正しいの守り意識を持っているからです。
然るにイエスが不安心配からしてサタンを恐れたのが原因からして守り戦うことになり、そのサタンを排除破壊することになったのです。

となると殺されたサタンは当然ながらイエスを憎しみ報復仕返し破壊する敵対意識を持ってあの世に戻り、やがてこの世に生まれ変わってきます。
然るにイエス・キリストを敵対する魂の者がこの世に実在していても当然の結果なのです。

然るに双方の私が正しいからして正義&聖戦と主張し、そして爆弾を抱えて敵陣に飛び込む(正義の勇者)自爆特攻隊や(聖戦の勇者)自爆テロが起こるのです。

だから怒り憎しみから暴力沙汰にもなり、それが報復仕返しや破壊意識にもなり、そして他者破壊(殺人行為)自己破壊(自殺行為)することになる人が絶えません。

しかも怒り憎しみの犠牲となった被害者が同じ怒り憎しみを抱え込もことになり、その仕返し報復をする立場の加害者側にもなるように、怒り憎しみが連鎖して次々と広がるのがこの世です。

然るにこの世が闇に覆われていると言われるわけです。
だから「どうしようもない」と書いているのです。

然るに「どうしようもない」不完全なこの世人間関係の矛盾&苦楽に気付き悟ったなら、「何とかなる」己の心意識を改革修正する生き方に方向転換するしか他に道は無いのです。

だからこそ皆に公平で誰でもが実践できる「欲張らない」生き方しか他に道は無いのです。

然るにそれが宇宙&神&愛意識に近づく「愛の実践真理」でもあるのです。
そして人間が学び知るための真の精神世界でもあるのです。
更に宇宙の進化拡大のための人間の役割使命でもあるのです。

スピリチュアル・精神世界に<欲>は禁物です。

2015年02月21日 | Weblog
全知全能の宇宙&神&愛意識の仕組みにより創造されたからには不完全意識の人間が付け入る隙間もありません、然るに完全なのです。
だからその仕組みに任しておけば、成ることは成るし、成らないことは成らないだけです。

だから自然界の葉っぱ一枚も創造できない人間がとやかく言わないで(白黒言わないで)(善悪を思わないで)(欲張らないで)(無理する事無く)必然ご縁の仕組みに任せてその成り行きに(文句を言わないで)素直に従っていればいいのです。

なのに宇宙&神&愛の全知全能の仕組みの端っこをちょこっと知ったぐらいで思い上がり、それを巷で説くなど自惚れもいい加減にしてやめればいいのです。

と言うことからしても精神世界に欲は禁物なのです。
だから欲が絡んでいれば真の精神世界ではありませんから、然るにどんなに熱心に取り組もうとも、今の現実が如き矛盾のある精神世界になるのです。

然るにまだまだ未熟なのに自惚れ慢心からして大勢の人を集め説教して釈迦やイエスといった名前を残す事無く、己の未熟な精神を磨きつつ名も知れない仙人が如くに己の役割使命を静かに果たしていればいいのです。

なのに釈迦やイエスの生まれ変わりだとか神の遣いだのと前宣伝したり神業に見せ掛けて人を集めたがる輩が後を絶ちません。
然るに欲が絡んでいれば何処かしこで矛盾があります。

然るに完全真理には矛盾がありません。
然るに完全真理を語る者に欲があってその説教の中に矛盾を語ることがあっても、本来の完全真理の中には矛盾がありませんから、それが嘘も方便だとか、飴と鞭の使い分けをしているとか、事実ではないことを事実が如くに言っている等と見極められるようになります。

また己が欲張らなければその分だけ必然としている人に行き渡りますから、結果的には人の為にも役立っていることになるし、また省エネにもなれば地球環境の保全にもつながります。

それはともかくとして、己が欲張らなければそれが己の為にもなるのです。
然るに心身ともに健全にして生きていけるのです。

そして現れ出た結果に不平不満の思いが出てきたなら、それが欲張っていた証拠でもありますから、そのことに自らが気付けばその己の意識を省みることが出来るようになります。

然るにその不平不満に執着しませんから、それが不安心配や恐れにならずにして一旦終われば、それだけでもありがたいくらいに十分なのです。

そして不平不満の思いが出てこなくなればそれだけ自己縮小が進んでいることになります。

だからその道の先生方に頼らなくても(他力に惑わされることも無く)、成るようになる宇宙の流れの仕組みに添って己の個性役割に見合った独自独歩の歩みが出来るわけです。

欲張らない実践が宇宙&神&愛意識につながる「愛の実践真理」となります。

2015年02月20日 | Weblog
私が宇宙エネルギーに関わっているときに太陽光や風力で電気を起こすことが言われ現実となっています。
然るに無限エネルギー&宇宙エネルギーで発電機を回転させる永久発電機も不可能ではないと超科学者の中で言われています。
また無限宇宙エネルギーで様々な物質を作り出すことも不可能ではないといわれています。

ちなみにイエスが飢えた民人に一切れのパンを次から次と作り続け与えたという逸話もあります。
然るにサイババの奇跡や耕栄さんの意識エネルギー&ファバラエネルギーも似たところがあります。

次にご縁があった高次元の霊魂と言霊で会話できる霊能者と関わっているときに否定反発排除しないその愛意識を学び知りそして実感納得しました。

次の耕栄さんでは完全なる宇宙&神&愛の完全真理が説かれ、そして良い悪いで判断しない愛意識になるその実践が言われていましたが、それが絶対的に無理だとなり、そこで素朴に生きる自己縮小の実践が説かれるようになりました。

そこで私の登場となるのですが、
自己縮小となる「欲張らない」実践が誰にも実践できる公平さとまた誰もが容易く取り組めることでもあり、その欲張らない実践が地球人類の為にもなることからして、
それを「愛の実践真理」と銘打っても何ら問題は無いと思っています。

然るに欲張らない実践が宇宙&神&愛意識につながる実践真理となるのです。
それを言い換えれば全知全能の宇宙&神&愛意識に<欲>は無いのが当たり前なのです。
然るに真の精神世界に欲はタブーなのです。

然るに「あるがまま」「自然体」が言われ、また「成り行き任せ」「来る者は拒まず去る者は追わず」「仏に任す=ほっとけ」が当てはまるわけです。

ところがそれらを理解納得確信できても、此れまで「特別」を捜し求めていたことからして素直に応じられないかもしれません。

そこで私の中にある限りの言葉を使い尽くして根堀り葉堀り書き上げても、書いている私に何ら特別が無いから、その書いた言葉に(魅せられない)軟弱さがあるようです。

ちなみに肩書き名声を持ち威風堂々と威厳ある態度で熱心に語る者や、また修行を積み重ねて何もかも知り尽くした感じでもって健やかに穏やかで親切で優しく語る者や、また神業が如くを誇らしげに見せて優々と語る者であれば、然るに何だかありがたくもあり、あとでご褒美の甘い飴玉がもらえそうだから、その分だけ魅せられ引き込まれ熱中熱心にもなれます。

ところがご褒美の飴玉が期待できるどころか、かって戦時中の「欲しがりません勝つまでは」が如くに暮らすなんてのは正に興ざめするような内容になります。

だから私が過去の自己拡大に明け暮れているときにこのブログとご縁があったとしても、然るに読んで知ったかぶりして、欲張っていない振りをしながらも、内心では自己満足することに取り組んでいることでしょう。

しかしそれでも矛盾あるこの世人間関係のストレスで精神が疲れていることに気付き、また自己満足し続けているその裏の苦労を実感でもって気付けば、そこで年金頼りの質素倹約な生活に馴染む創意工夫をしながらも、やはり世間ではいづらくなり、やがて人離れ世間離れした生き方になることでしょう。

自己縮小の欲張らない実践は皆に公平にして、地球に優しく人にも優しい宇宙&神&愛の実践真理です。

2015年02月19日 | Weblog
完全真理&自己縮小&欲張らない生き方を書いたブログですが、
それを理解する難易度も中学生程度ですから、然るに誰もが違和感無く納得確信できるはずですし、また自己拡大することが無理でも自己縮小なら誰でもが簡単・楽チンでもって実践できます。

然るに自己縮小&欲張らない実践は老若男女の誰でもが公平に実践できますから、宇宙&神の愛にあたります。
だから当然ながら地球に優しく人にも優しい真の実践真理になります。

ところが自己拡大に励む人はいても、自らが先んじて自己縮小する人はごく少数だと思います。
その中でも俗世間から離れた仏門に下るとか教会の中で仲間と信仰心を高めることになる人が殆どだと思います。

ちなみに季節労働者として半年働いて後の半年は呑気気ままに暮らしている人もいるようですし、また臨時職員として半日働き、その年収150万円で生活し時たま家族旅行にも行っている夫婦家族もいるようです。

また都会から離れて田舎暮らしをしている人もいるでしょう。

然るに私の場合は成り行きから仕組まれ続けて過疎地の廃屋を購入したことからして別荘感覚の遊び心から始まったことですが、
ところが仕事を廃業にしてまで本格的に暮らすようになってからは、世間では珍しいヤギ数頭を放し飼いにして人を呼び込み、また鶏を放し飼いにしてその産みたての卵を熱々のご飯にかけて食べるその美味しさを味わってもらったり、囲炉裏で暖を取ったり、薪を燃料にして風呂を焚いたり、草刈体験や野焼き体験、栗拾いや竹の子堀りや山菜取りや山野草探し、また犬と一緒に山道を散策したりする等の手はずを整えてお客さんに喜んでもらっていました。
またポニーやロバを飼育して来客をもてなすことも考えていました。

然るに皆さんが田舎暮らしを思い考え実行するのと同じ似たようなことをしていたのです。

ところがやり始めた頃は良かったが、放し飼いにして飼育管理することの難点が苛立ちストレスになっていましたし、しかも人が来て一時賑わうも内面的に気疲れしていることや、その人たちが去ったあとの静寂がわびしく感じるようになったことからして、自らが先んじて人を招き入れることをやめました。

そして数年のうちに鶏もヤギも死んだのでその面倒から開放され安堵しました。

然るにそれが自己満足のために余計なこと面倒なこと無駄なこと無理なことをしないままの静寂にして気疲れしない孤独の自由にして暮らせることのありがたさ、その価値を見出すことになったわけです。

だから変化刺激快感快楽からして気付けなかったのが(生まれて始めて)(実感でもって)自己満足の裏に苦ありと悟ったわけです。

そして食って寝て糞をしながらにして(欲張らずにして)平然と生きることになったわけです。

だから欲張らないで生きる、然るに自己満足を求めない生き方になったことからしてこの世の様々なものが色あせたのです。
となると、なお更に思い描き求め欲しがることが無くなり単調な生活が板に付いてきたのです。

然るに自己満足の裏に苦ありを実感納得確信すればこの世のことは(己のことさえも)どうでもいいことになり、然るに成り行き任せの(必然ご縁の仕組みのままに生きる)自然体で生きていけるようにもなるのです。

全知全能の宇宙&神&愛の仕組みで人間が生かされています。

2015年02月18日 | Weblog
全知全能の宇宙&神&愛の仕組みで人間が生かされています。
それを宇宙の法則&自然の法則とも言われていますが、そこには人間の力が及ばぬことは当然のことです。
然るにほっといても成るように成るその仕組みがあり、然るにあるがまま&自然体に生きることが言われるわけです。

ちなみに私は巷の神仏霊魂の宗教や霊力霊感からして言われる精神世界やその伝統風習に違和感があってそれら精神世界には関わらないで俗世間の中で成り行きながらも勝手気ままにやっていました。

また本を読むのも苦手からして先人・賢人・専門家が書いた哲学思想や精神世界や摩訶不思議な奇跡や異次元や怪奇現象などを含めて、それらの著書を自らが選んで読んだことは未だにありません。

そんな私が今のブログを書くようになった経緯に摩訶不思議な「仕組み」の数々が有ったことを何度か書きました。

然るに宇宙エネルギー&波動なる浄水器にご縁が仕組まれたことも、その浄水器が縁で仕組まれて愛意識の霊能者とのご縁が続いたことも、また嫁いだ娘夫婦が田舎暮らしを望んでいたそのお鉢が私に回ってきたその仕組まれも、またその娘が神が如くに信じていた耕栄さんの完全真理が私に仕組まれたことも、また完全真理の実践が無理だとなり素朴に生きる自己縮小の実践が説かれたときには、既に私は自己縮小の実践中だったことなど、

それらすべては私の予期せぬ出来事であって、然るに我先に思い考え思惑期待していたことではなくて(先付けではなくして)ことの成り行きからして仕組まれた(後付けの)結果なのです。
然るに「成り行き」の自然体で仕組まれ続けた結果が現在なのです。

しかもこのブログを思いつくままに書いているうちに次から次と気付きが起こり次第に書く内容が奥深くなって、しかも矛盾も無く納得確信した事柄を根堀り葉堀り書くようになり、とどのつまりが「欲張らない」実践で完結した格好になっています。

然るに私には超能力も霊感霊力も念力もありません。
また人様と接したり会話するのも苦手なほうです。
だから人様を引き付け・引き寄せるような能力もありません。

タダ得意なことは必然からして思い付くままにワープロで文書を書くことが出来るだけです。
だからそれが私の役割使命だと納得確信しています。

ところで別件ですが、サイババの奇跡の類、耕栄さんの意識エネルギー&ファバラ、また巷の摩訶不思議も含めてですが
私の所にラグビーボールに似たUFOがジェット音で身近に飛来してきてたことやまた隙間の無い一階の天井からモルモット風ネズミ?が落ちてきたりまたホタルとはまったく違う謎の発光体がここ数年連続で手が届くほど身近に現れていることなどの異次元的な数々も私が現実事実に見たことですが、
それもどうやら3次元界が終わり高次元界になる前兆を私に仕組んで見せてくれているような気がします。

然るに燃料エネルギーが無くてもUFOの如くに自由に飛び交うことが出来る、また仙人が如くに食べなくても不老長寿が如くに永年生きていられる、また必然とする物を瞬時に作り出す、意識した所に瞬間移動・ワープできる、

然るに燃料エネルギー・資源エネルギー・食料エネルギーが無くても不自由しないで生き長らえるようになれば略奪侵略人殺し戦争にもなりません。
然るにそれがフリーエネルギー&宇宙エネルギー&意識エネルギーの成せる業として私は確信しています。

この世&精神世界の矛盾&真実を知らずにして、何を知る。

2015年02月15日 | Weblog
私たちが精神世界に関わるとしたならば、概ね宗教に入信入団することになりますが、その志の強い人は俗世間から離れた仏門や教会で仲間と一緒になって精神修行をはじめます。

そんな宗教に馴染めない人や摩訶不思議が好きな人は神業神懸りの超能力や霊力や念力・手かざしなどに興味関心を持つって、それらの集まりに参加したり専門的著書を読破することにもなります。

また一般世間的なことでは冠婚葬祭や先祖供養の時や盆暮れ年末年始の伝統風習に従うときであったり、安産健康安全祈願・入学就職祈願などで、また手かざし・セラピー・ヒーリング・カウンセラーなどで、
また伝統的な茶道や花道や武術などや創作芸術やスポーツの中でも精神世界が語られます。

しかし何度も書いているように、良い悪いで判断するその矛盾意識・不完全意識・個人意識の良いとこ取りしたがるその欲絡みの人間が思い考えて作り上げたものには邪な欲が隠れているから、
そこで善悪損得優劣で比較判断されて差をつけられたり、また天国と地獄・褒美と罰・飴と鞭の使い分けがあったりして、
しかも不確かで矛盾に満ちているから、その嘘も方便や事実とは異なる嘘偽りのインチキ・偽善が潜んで絡んでいたりするわけです。

然るにそれら肝心要の精神世界が不完全で矛盾だらけなのだから、
しかも私たちも同じ不完全意識で矛盾に満ちて生きているのだから、
またこの世人間関係は己の力量では「どうすることも」出来ないから、
然るに全く全体「どうしようもない」わけです。

その「どうしようもない」事実に気付き納得確信できればそれで十分なのですが、それを活かした実践がなければ「絵に描いた餅」同然になるかもしれません。

そこで真の精神世界に関わって人生を全うしたいのなら(俗世間から離れて仏門に下るが如き精神力にして)自力と自信の独自独歩でもって(先ほど書いた)この世にある諸々の欲絡みの他力にあまり頼る事無く、己の自力を多く使いながら何とか生きて行けるだけのことをしながら、質素素朴謙虚に生きながらにして多くを学び知り気付き己の精神を改革修正しながら(玉ねぎの皮をはぐが如くに)磨き清めていくことしか他に道はありません。

然るに不完全意識のままであっても(どうしようもない世の中で)「欲張らなければ」諸々の他力も必要なくなり、その矛盾&喜怒哀楽を味わうことも無く、呑気気楽省エネにしてその自由も味わえるのです。

そしてその先は天地創造の宇宙&神&愛の仕組みに任せるしかありません。

ちなみに完全なる宇宙&神&愛を説く完全真理以外に真の精神世界を説いている形・集合体・組織団体・ブログがあれば教えてください。

この世に夢も希望も無ければ<闇>ですか?

2015年02月12日 | Weblog
私たちは頭の中で思い考え評価判断する、その「思いの世界」空想・仮想・想像の世界で生きているところがあります。

然るに思い思惑の理想目的やその期待願望が「夢や希望」となっているのです。
だからその夢や希望が無ければ生きている価値&生き甲斐も無いとして、この世が闇にも思えるのです。

だからその夢や希望の実現を目指して頑張り欲張り無理することになっています。

その苦労努力の甲斐あって夢や希望を得ても一時的な自己満足で終わります。
だからそれを維持し守るためにまた頑張り欲張り無理し続けることになります。

然るに一時的な自己満足の為に、それを得るまで苦労することからして、その苦悩と満足の喜怒哀楽の繰り返しをしながら生きていることになります。

然るに若者はエネルギッシュですから、その苦労よりも自己満足に満たされることに人間の価値観を見出したがります。
だから夢や希望の期待願望が生き甲斐にもなるのです。

ところがその生き甲斐の裏に苦労苦悩が付きものですからその負担が心身ともに害をなしそれが老後に影響するかもしれません。

しかも夢や希望に手が届かなかったときの虚しさ挫折感やその間の苦楽やあらゆる変化刺激&快感快楽を味わい続けてきたことや此れまで人間関係の矛盾を大いに味わってきたことを含め、
そして日々年老いていくほどに世間や身近な人から見離されていくことにもなるから、
然るに年老うごとにその孤独感や無念さ虚しさが更に深まることになるのは間違いありません。

ところが夢や希望を持たずにタダ食って寝て糞をしながら生きているだけならそんなに頑張り続けたり苦労し続けることにもなりません。
然るに(無理無駄のない)楽チン省エネにして生きていくことが出来ます。

何はともあれ、不完全意識の私たちが何を成しても、同じ不完全な結果が出ますから(その苦と楽を味わうも)余計なことを無理して無駄な結果となるのです。

なのに不確かな(仮想空想の)夢や希望を持って夢中&闇雲に追いかけていること事態が<闇の中で生きている>ことになるのではないでしょうか!