「良い悪い」で判断して、その良いとこ取りをする、自分さえ良ければの個人意識を持った不完全意識の私だけに、如何に完全真理の実践意識でいても、何か気に入らないことがあれば不平不満を持つこともあります。
しかしいつまでも執着してその不満を持っているとその精神の乱れから精神的・気分的な負担から面白くない時間帯を持つことになりますが、その面白くない思いをしているのは私自身ですから、それを損得で判断すれば私は<損>をしていることになりますから、その損な事を早く終わらすためにも執着しないことにしています。
すなわち不平不満を持った人にその不平不満があるわけですから、その不平不満を早く終わらすことが出来るのも<自分>なのです。
ところが(自分が損をしているところの)不平不満を人様に吐き出すことで(人様を動かし)(他力を使わせて)自分が少しでも得をする立場になりたがることからしてその人間関係に影を落としているのです。
その他力の中に衣食住やの物質金銭や医科学からまた精神的なこともあります。
すなわち不平不満を持つことになるその多くは己の自力で解決しないでおいて、他力に頼るその弱い心の「他力依存」を持っているからです。
だからそんな他力依存の人が完全真理を学び知ってもその実践となると相当に難しくなります。
そこでまた実践することよりも「信じて頼る」その他力依存や願望や神仏祈願にもなるのです。
しかもその他力依存を持っているから<自由>になれないでいるのです。
だから完全真理の実践には絶対的な自力とその自信の精神でもって自由・独自独歩に歩んでいくしかないと書いているわけです。
しかしその自由・独自独歩の歩みを邪魔して難しくしている世間やその人間関係がありますから容易ではありません。
ところが私の場合は既に世間離れした過疎地で「お一人様」生活しているだけにその人間関係で邪魔されていません。
だからその自力と自信の精神力があれば安心安全の自由に生きる事が出来ることを「実感」でもって私は味わっているのです。
しかしその自由の為に仕事・収入に支障が出てきたり、家族との関係にも支障が出てきたりして、生活が大きく変ることにもなりますが、それが自己縮小につながれば申し分ないわけです。
しかしそれらが不足・不平不満になるようであれば(前頭に書いたように)自力で解決出来ない未熟さと他力依存の思いがあるからです。
だからその他力依存の多い人ほど完全真理もその実践も不向きになります。
すなわち他力依存の強い人ほど自らの自由も失い、また人様の自由までも巻き込んで邪魔をすることになる、はた迷惑な「どうしようもない」意識の人になります。
しかも己が持つ不平不満の原因を何かと人様の責任に思い違いしていますから、自分のその間違った不完全意識を改革修正することよりも、(赤子から老人までの)人様を「正し」たがる(はた迷惑な)ところがあります。
それが「私は正しい」の潔癖・完璧主義であり、しかもそれを主張し顕示したがりますから、尚更に困った人になります。
しかもその「私は正しい」の意識を持つ人ほどにその守り意識も強く持っていますから、尚更に「どうしようもない」意識の「はた迷惑な」「困った」意識を持つ人になります。
更に私は正しいの正義感の主張顕示からして喧嘩・暴力沙汰になったり抗争・戦闘・戦争にも至っています。
そこで自力・自信の自由に生きることからして他力依存に頼る必要もなくなり(その不平不満を持つことにもならず)、またその他力の比較競争・差別意識も消えていきますから、その自由と平等の調和意識で生きていくことが可能になるわけです。
※衣食住や名誉・肩書き・権力・財力や医科学などの<他力>をあてにする事無く、宇宙・神・愛のお仕組みによる必然ご縁の「成り行き任せ」(自然体)の結果であれば、前もって思惑期待したことでもなく、また欲を出して無理し執着していなかっただけに、その結果を得たことが成り行きだけに「ありがたい」思いになることがあっても不平不満になることはまずありません。
しかしいつまでも執着してその不満を持っているとその精神の乱れから精神的・気分的な負担から面白くない時間帯を持つことになりますが、その面白くない思いをしているのは私自身ですから、それを損得で判断すれば私は<損>をしていることになりますから、その損な事を早く終わらすためにも執着しないことにしています。
すなわち不平不満を持った人にその不平不満があるわけですから、その不平不満を早く終わらすことが出来るのも<自分>なのです。
ところが(自分が損をしているところの)不平不満を人様に吐き出すことで(人様を動かし)(他力を使わせて)自分が少しでも得をする立場になりたがることからしてその人間関係に影を落としているのです。
その他力の中に衣食住やの物質金銭や医科学からまた精神的なこともあります。
すなわち不平不満を持つことになるその多くは己の自力で解決しないでおいて、他力に頼るその弱い心の「他力依存」を持っているからです。
だからそんな他力依存の人が完全真理を学び知ってもその実践となると相当に難しくなります。
そこでまた実践することよりも「信じて頼る」その他力依存や願望や神仏祈願にもなるのです。
しかもその他力依存を持っているから<自由>になれないでいるのです。
だから完全真理の実践には絶対的な自力とその自信の精神でもって自由・独自独歩に歩んでいくしかないと書いているわけです。
しかしその自由・独自独歩の歩みを邪魔して難しくしている世間やその人間関係がありますから容易ではありません。
ところが私の場合は既に世間離れした過疎地で「お一人様」生活しているだけにその人間関係で邪魔されていません。
だからその自力と自信の精神力があれば安心安全の自由に生きる事が出来ることを「実感」でもって私は味わっているのです。
しかしその自由の為に仕事・収入に支障が出てきたり、家族との関係にも支障が出てきたりして、生活が大きく変ることにもなりますが、それが自己縮小につながれば申し分ないわけです。
しかしそれらが不足・不平不満になるようであれば(前頭に書いたように)自力で解決出来ない未熟さと他力依存の思いがあるからです。
だからその他力依存の多い人ほど完全真理もその実践も不向きになります。
すなわち他力依存の強い人ほど自らの自由も失い、また人様の自由までも巻き込んで邪魔をすることになる、はた迷惑な「どうしようもない」意識の人になります。
しかも己が持つ不平不満の原因を何かと人様の責任に思い違いしていますから、自分のその間違った不完全意識を改革修正することよりも、(赤子から老人までの)人様を「正し」たがる(はた迷惑な)ところがあります。
それが「私は正しい」の潔癖・完璧主義であり、しかもそれを主張し顕示したがりますから、尚更に困った人になります。
しかもその「私は正しい」の意識を持つ人ほどにその守り意識も強く持っていますから、尚更に「どうしようもない」意識の「はた迷惑な」「困った」意識を持つ人になります。
更に私は正しいの正義感の主張顕示からして喧嘩・暴力沙汰になったり抗争・戦闘・戦争にも至っています。
そこで自力・自信の自由に生きることからして他力依存に頼る必要もなくなり(その不平不満を持つことにもならず)、またその他力の比較競争・差別意識も消えていきますから、その自由と平等の調和意識で生きていくことが可能になるわけです。
※衣食住や名誉・肩書き・権力・財力や医科学などの<他力>をあてにする事無く、宇宙・神・愛のお仕組みによる必然ご縁の「成り行き任せ」(自然体)の結果であれば、前もって思惑期待したことでもなく、また欲を出して無理し執着していなかっただけに、その結果を得たことが成り行きだけに「ありがたい」思いになることがあっても不平不満になることはまずありません。