孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

個人意識の偽りの愛・偽善

2008年01月29日 | Weblog
個人意識から出る偽りの愛
神を愛さなければならない、人を愛さなければならない、自然を大切にしなければならないと思ったり、責任感・義務感に思えた愛の行為は自然体(あるがまま)ではないから、(愛の形であっても)自分が先にある自己を中心に考え思った個人意識からでた偽善の愛であり、 また自らが愛していると「思う」ことは、自らの個人が思うことであって、想像しただけですから、誰かに実のある愛・実在の愛を与えたことにはなりません。 だから与えたと思うだけの自己満足・自惚れになります。 だから実際には誰も愛してはいません、自分で想像して満足しているだけです、しかも「見返り」を望むと更にややこしくなり(愛情のもつれで)、他を巻き込んだ問題に発展するのです。
 
善行と思われる行為、世の為人の為に何か奉仕しなければいけないと「思って」動いた愛は、先に個人の思い(個人意識)が優先されているから、自己主張・顕示誇示するための偽善になります。すなわち私を良く見せたい、良く思われたい、奉仕している私を見て知って認めて欲しいなどと、奉仕を己の存在感・自己顕示を示すための道具に使っているのが殆どです。 

神はすべてに愛を与えているだけで見返りは求めていません。(世の為人の為)ああすべきだとか、こうすべきだとか、こうなるべきだ、等と求めたり、人を支配したり束縛制限することは一切ありません。 
この世にある様々な形は、人間(意識・表現体)の自由を束縛支配する形であり、あらゆる形は(伝統・風習・道徳の形)(理想・目標を掲げる形)(善悪・優劣・損得で判断する形)すべて個人意識から想像で作られた非実在の形であり、個人のために都合がいい束縛制限・支配するための形になり、自由平等が無くなっているのです。
 
無私と言うことは個人意識を捨てること、私・個の感情を脱ぎ捨てることにあります。
自らが本気になって実践して実感納得・確信して、実勢に触れ合ったことが無ければすべてが想像になります。 想像には裏と表があり差と矛盾が必ずあります。それを中途半端に妥協していれば迷い混乱葛藤が起こります。 その矛盾があるのに無理に白黒の決着をつけたがるのが個人意識です。 白黒(良い悪い)で決着(判断)したがるのが個人意識です。
その個人意識から出る差を無くすることで、宇宙意識・神意識に戻ることが出来るのです。

巷で言われている2012年(宇宙の計画・節目の時)とは少し異なりますが・・・先ずは良い悪いで判断する「感情体」、次に生老病死の「肉体」、その次に理想目標・思考の「精神体」を脱ぎ捨てる、完全意識・神意識になることが出来るチャンスが到来しています。 ただ他力・寝て待て式では無理です。 実際に「良いや悪い」で判断しない本気の実践意識が無ければ完全に至る光エネルギーを受け取ることは出来ません・・・と言われています。 


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