虹の架け橋

2004年の44歳から綴ってきたブログ。塾長として、男として、父親として、そして爺として、感じたことを記した記録。

明日は親父の33回忌

2009-05-04 | 家族
私は親父と高校2年の6月29日に別れた。親父は肝臓癌であった。
酒はビールコップ一杯でもう真っ赤になってそれ以上は飲もうともしなかった。何一つ道楽もせず、働くことだけの人生だったように思う。仕事以外に趣味もなく、朝から晩まで働く姿だけを私たち家族に見せた親父だった。

親父は馬の蹄を打つ仕事、竹籠を作る仕事、縫製業とその時代に則した仕事をやっていた。勿論、私の記憶があるのは竹籠作りと縫製業だが、今の本校教室は親父が馬蹄を打ち、竹籠を作っていた場所でもある。

私は高校2年の誕生日前だから16歳。親父は49歳。
こればっかりは偶然だが、私が今年49歳で我が息子も高校2年生。
今、仮に私に天からお呼びがかかって家族と別れることになったことを思うと、いたたまれない。まだやり残していることが一杯ある。まだまだわが子の成長を見届けたいと気持ちと責任がある。きっと親父もそんな気持ちであっただろう。今、親父が他界した年齢を迎える自分は、まだまだ『志半ば』と言ったところ。

子に何を残してやれるか、わたしなんぞの小さな田舎の塾屋が巨額の資産を残すことは考えられない。今の私は生きる術も仕事観もまだまだ未完成。『これだ!』ってわが子に伝えられるものなど何一つない。

親父の33回忌を明日に控え、今日は自宅の清掃と親父が残した田圃の草刈りを行う。普段は自分のことしか考えられない自分だが、今日と明日は親父、お袋、家内、そして子ども達のことを考える日になるだろう。
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4 コメント

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Unknown (とよ爺)
2009-05-04 14:05:20
上野先生、こんにちは。
私も16歳の高2の子供を持ち、私は自分が高1のときに父親を失いました。
先生のところとは違い、小さい頃は仕事が忙しくて家にいることも少ない父でしたが、
亡くなる2年ほどは闘病生活のため、家で私と同じ病気と戦っていました。

美川先生と先ほどまでお話をさせていただき、上野先生のご勇姿も見せていただきました。
加えてサプライズも見せていただき、岐阜一のアナログ人間だという上野先生のお人柄も聞きました。
機会があれば、薄汚れた居酒屋で焼酎でもやりたいものです。
頭のてっぺんからつま先まで全部が全部塾屋一色の話でもしましょう。
Unknown (上野義行)
2009-05-04 16:06:16
とよ爺先生へ

先程、美川さんから先生のなま写真が携帯に送られてきました。何度も申しますが、「爺」ではありませんね。とってもお若い写真でした。
そばにいた家内に見せたら、私と同じことを言っておりました。

親父やお袋から教えられたことは「ひたすら働く、働くとは、傍(はた)が楽(らく)になること」と二人で話していたことです。

まだまだ私は『傍を楽にする』ような生き方ができておりません。これはもう少し時間と自分の年輪が必要に思います。

先生、私はコテコテの塾屋の一生を送りたいと思っています。授業現場をこよなく愛し、子ども達の未来を一緒に描く己の人生を完遂できればきっと、傍が楽になる人生に登頂できるような気がします。

親父はもう私に何も言ってくれませんが、お袋が笑って「それでいい」と言ってくれる日まで、信じた道をまっすぐに進みます。

美川さんや塾会メンバーと先月行った「コテコテの居酒屋」に先生や先生のお仲間をご招待いたします。「とよ爺を囲む会 in Gifu」の幹事を立候補いたします。ゆっくりゆっくり時間が流れる中で、『酒と泪と男と塾屋』を語りたく思います。
『いま鎌倉』 (美川)
2009-05-04 17:26:23
先程、とよ爺先生とお別れしてから直後に四畳半スクール永田塾長からアンケート回答を携帯にもらって残念。
こちらは戻ってから先生に転送します。
Unknown (上野義行)
2009-05-05 02:47:05
美川さん、是非とよ爺先生と井上先生のお話聞かせてください。
美川さん、先鋒としての役割完遂ですね。
本当にありがとうございました。

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