と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

文化講座で握手を求められた・・・・(^_^)

2015年06月14日 08時45分23秒 | 民俗与太話にムチュウ

人は、当然というか残念というか、年をとったら学ばなくなるからこそ大事でっせ!

 

 

昨日の文化講座は無事終了した。終了後、聞いていた方(ご夫婦)から握手を求められた。内容が鬼舞であったので、好きな人にはたまらないのだろう。中世日本古典文学でもいろいろと扱っているし。今昔物語もそう。宇治拾遺物語もそう。そのご夫婦は、かなりそういう面に造詣が深かった。さらに芥川龍之介の作品との関わりについても、講座が終わってから三人で雑談していた。

おもしろいものである。

こうしたことが私の方では生きがいにつながっていくからである。

ありがたいものである。こういうチャンスをいただいたことに。ただし、案の定というか、心配していたことが現実になってしまった。プロジェクターをお借りしたのであるが、私のコンピュータとの相性が良くなかった。映像の音声が出なかったのである。むむむむむむである。せっかく工夫していろいろと動画を仕込んでいったのにである。残念無念。

かくなる上は、個人用のプロジェクターを買うしかないと思った。思ったが、こういう人様の前で話をするというような機会は二度とないだろうから、ヤメタ。買ったら古女房ドノに叱られてしまう。Amazonで買うと中古で3万円から買えるのであるが。ま、いいだろう。止しとこう。

私のクチの方は相変わらず絶好調である。原稿と、パワーポイントを作っていったのであるが、まったく下を向かないで聞いている方々と視線を合わせながら、ベラベラしゃべっていた。よくまぁできるもんだ。もっとも、内容は全部この悪いアタマの中に入っているからだが。なにしろ、退学した大学院で3年間も毎日毎日書きためていたゴミ論文である。病気になってしまった最大の理由がこのゴミ論文である。捨てる前に、再活用をしなくてはならない。だから、徹底してお話をさせていただくのである。

それに生涯学習に取り組んできたことも申し上げた。これまで学部を含めて5つの学校に出入りしていたこと。大学院も大病して退学したこと、さらに学業劣等で追い出されたことも申し上げた。若いクラスメイトたちとの交流も体験談としてあれこれと披瀝したら、なかなかウケがいい。そうなのだ。文化講座であるから、みんなある意味聞いている方々も、私も生涯学習をやっているのである。それに気がついたから、熱弁を振るってしまったよん。

思うに、定年でリタイアしたら、生涯学習に取り組んだ方がいい。

それも可能ならば、大学とか大学院とか行ってみることである。

なぜなら、学校に属することは、「強制的」に勉強させられるからである。ここらへんが、その辺のカルチャーセンターとは違っている。独学だとなかなかオノレのモチベーションを維持するのが難しいからである。

師匠がいて、教えていただいてそれでもって、レポート、試験があるからいいのである。論文提出とか、qualify testとかあるからいいのである。もっとも私はそれすら受験させてもらえなかったという老いた駄馬である。だから学業劣等だと自覚したのである。それほど低評価であったということである。実力がない、アタマが悪いというのは事実である。事実であるから、素直に受け入れるしかない。

だからワタシャ、まったく威張れないのである。どうだ、オレはこんなにやっているんだぞ!とか、こんなに資格とかライセンスとか、学位とか取っているんだぞ!とかである。あるいは、学会の研究誌にこれだけ研究発表をしたんだぞ!という自慢ができないのである。

しょうが無いではないか。事実であるからである。

さて、巷間、「老人に学ぶ」ということが言われる。これ、本当だろうか?

今と言わず、昔と言わず若い人が学ぶに足る爺婆がそんなにたくさんいたわけではないというのが、自分への反省も含めて思い出される。

人は、当然というか残念というか、年をとったら学ばなくなる。もっと言えば、学ぶ必要がなくなる。いっぱしの完成度があると思っているからである。自分だけ。

だから「老人に学ぶ」といっても気を付けないといけないことがある。

一つ目は、学んだからといって、誰しも賢くなるとは限らないということだ。私も他人のことは言っていられないから、これは戒めとして守っている。逆に学ぶことによって賢さを失っている場合だってある。学びすぎて人格に異常をきたしている場合だってあるからだ。これは気を付けないとアカン。

二つ目は、老人に学んだからと言ってそれをすぐ実行するというのは危ない。私のブログを見て、おおオレもやってみようというのは危険である。私のようになっちまうからである。ましてや、もっと危険なのは政治家である。老人政治家の言うことを完全に信用してはならない。別に賢いから政治家になったわけでもあるまいに。

三つ目は、定年後学びを始める方々は、「賢明」をモットーとされることである。学ぶことによる弊害もあるからである。すくなくとも、自分は賢明ではないという自覚を持つ必要がある。でないと性悪爺婆になっちまうからだ。可能なかぎり、自分はまだまだ未完成であると思っていた方が、安全である。少なくとも殺されることはない。体験上。だから私は、自虐を多用する。安全だからだ。(^-^)/

いずれにしても、学びはいい。

それも学校に行くことである。強制的に90分くらい教室にいて、師匠から叱咤激励されることである。これが、なんでもいい自由に勉強していいということになると、人間はそもそもが怠けものであるから(私だけか・・)、昼寝しているだけの存在になっちまう。

そんなことばかりやっていると、生活不活発病になりますぜ。

クワバラ、クワバラ。

 

 

さ、けふもwalkingに行ってきまひょ。

病気にならないためにも。

 

(^_^)ノ””””

 

 

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