回り道
郷土史に載せていただく原稿を訂正していた。孫が寝ている間にである。まったくマジックである。いつそんなことがやれるのだろうかと自分でも思うのだ。昔から細切れの時間を使うのは得意だったからなんだけれども。後は、切り貼りしてひとつのメッセージを持った文章にしていくだけである。
昨日も、今日も、ルーズルーフのノートに、仏教民俗学と司馬遼太郎さんのメモをつけていた。やはりこういう地道な作業がないと、文章書きの神に降臨していただけないようである。いったん神が降臨してくださると、後は一気にいけるのだが。
つまり、情報を収集してあたためる時間がないとアカンのである。考える時間がないと書けないのだ。それにオレは感想めいたものは書かないから、あくまで原典中心主義である。適当な思いつきを書いていたら、そりゃ誰でも書ける。そうじゃないだろうと思っているし、事実そうでなくちゃいかんということである。
それでも、メモをつけるためにメモしていては埒があかない。記憶するためとか、書くためにやっているのであって、このあたりは優先順位を間違えるととんでもないことになると思うのだ。
学部時代にいい友人に恵まれて、情報カードシステムを教えてもらったっけ。それをずっとやってきたのだが、ともすると形式主義に陥ってしまって記憶できないという矛盾をいくらでも味わった。ノートもそうだ。ノートのためにノートをつけるのではないのである。そこのところを勘違いしていたのだった。
そういう反省がいくらでもあるのである。
回り道も楽しかったけれどもねぇ。今思えば。それが若さだったのだろうなぁ。
効率の良さばかり追い求めていないで、回り道もたまにはしてみることだ。いいものがあるかもしれないからである。
もっとも、オレなんかそれ専門でやってきたようなものだけれども。
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