生殖年齢を過ぎれば、その後の人生はまさに「付録」
老化ということの始まりはいつからなのだろうか。
こんなことを考えることがある。ある時日を境界として、突然始まるのだろうか。どうなのだろうか。
どーも、老化というのは、定年とか、退職したからという理由で始まるのではないのではないか。そう感じる。感じるというのだから、さしたる理由はない。
アメリカの一部政治家のように、いつまでも若く見えるというのが、支持者から支持される理由だというのだと、アンチエイジングは永遠の課題なんだろう。ハゲを隠したり、ぶったるんだハラの筋肉を鍛えたり、まぁまぁ涙ぐましい努力をされるのであろう。想像だけど。
日本でもそういう爺・婆はいる。アンチエイジングという輩である。私の生涯学習よりも無駄である。無駄な努力である。健康になりたいというのならわかる。健康になるためにアンチエイジングを目指すというのは、おおいに結構である。私もやっているからである。私の言っているのは「見た目」である。見た目がいくら若くても、不健康なら話にならない。もっとも私風情がそんなことを言う資格はないが。
老化を意識するようになると、自分の病気のことばかりが話題になる。病気自慢もその類いである。病院に入院していると、やたらと病気に詳しくなる。まるで相互に自慢するようになるからである。相部屋のヒトと、休憩室でいろいろと昨年入院していたときに、話をする機会があった。そのときにそう思った。お互いの病気について、かっこうよく言えば情報交換、悪く言えば病気自慢をしていた。治りたいから、やっているのだが、どうも正確さにおいては問題がある。お互い医師ではないからである。
昨日、テレビを見ていた。大腸癌のことである。大腸カメラが痛いからということを聞いていて、検査を拒否していたご婦人が、とうとう癌になってしまったという。大腸カメラを拒否する方は多い。一回もやったことがないという方がいる。あれれれれれれ、である。なんで?と思う。たぶん、周囲の方々から聞いた間違った情報から、怖れおののいているのだろう。いけない、いけない。それではいけない。
あれは全然痛くないとは言わないが、耐えられないものではない。どうしようもなかったら、鎮痛剤というのがある。点滴でやってもらえばいい。要するに慣れである。カメラが腸の中を動いている時だって、痛くない。深呼吸をしながら、脱力していれば大丈夫である。
だから、不安のある方は、早め早めに検査をした方がよろしい。私なんぞ、40代からずっと毎年やっている。バリウムを飲むよりも、正確だからだ。
次に、老化を意識するのが「孫」である。
孫を話題にするようになると、爺になった、婆になったと思ってしまう。そりゃそうだ。自分の子どもたちが、孫をこさえて「じいじ」「ばあば」とか言うからである。孫に教えているわけである。目の前にいる人間は、「じいじ」「ばあば」という種類の人間であるということを教えないと、それこそ「分類」ができない。孫にとっては。だから言語というものが大事だということなのである。「分類の思想」という本によると。
三番目に「勲章」がある。
勲章をもらいたいということになると、老化したということになるだろう。その他に関心がないからである。それしか希望がなくなる。過去の思い出の呪縛から逃れられない。逃れられないどころか、自ら望んでしがみつく。それが生きがいになるのだろう。なるのだろうというのは他でもない。私にはそんな機会もないだろうし、不要だからである。当たり前だ。私には、受賞経験がまったくないからだし今後ともそういう体験は不要であるからだ。
老化を意識するのは他にもある。
それは酒が呑めなくなったことである。呑んでも次の日に残るようになる。下手をすると三日酔いくらいしているときがあった。だんだんとである。あったというのは、去年の11月から一滴も呑んでいないからである。そうなのだ、ドクターストップがかかっているのと、一合くらいならと言われているのだが、一合では呑む気がしない。だったら最初から呑まないほうがいい。
これは女性にもてないから、最初から女性に関心を持たないというのと一緒である。やっても無駄だとなったら、最初からやらない。生涯学習は別である。無駄だとは全く思っていないからである。研究方法を、碩学に教えていただくだけで、私は喜びにうち震えるからである。ホントである。だから異性に興味が無くなったら老化してしまったと言う同年配もいるが、ちょっと違うのではないかと思う。最初から、モテないと諦めている私のようなものもいるからである。
つまり(何がつまりだかよくわからない展開になってきたが・・トホホ)、取り返しのつかないことの連続が人生だということを言っているのである。
いくら言説でもって、老化を拒否してみても、老化それ自体はひたひたと押し寄せてくるのである。
だから、老化とはある特定の現象をさしているのではなく、生きている一生というものの「経過」に過ぎないと思うからである。そうなのだ。一連の動きの中で現れる「経過」である。それでしかない。一連の過程と言い換えてもいい。区切ることはできない。
始点もなければ、終点もない。あ、終点はあったか。それは「死」である。
だから老化を拒否して、老化の原因だけを考えて、逆らってみても無駄である。
生殖年齢を過ぎれば、その後の人生はまさに「付録」である。だから無理をする必要はない。
無理はいけない。
無理したっておしまいになるだけだ。一生とは、「経過」であり、「一連の過程」でもって、終点を目指すだけだからだ。
たとえベッドに横たわっているだけであっても、他になにもできない身体になっても、爺になっても、「夜と霧」で有名なフランクルは言っている。自分の運命をどのように受容して生きたかということを、周囲の人々に生きることの価値を知らせるものである、と。
最後はまじめに書いてしまった。
私でもこういうことを考えるのである。
マジに。
じゃぁ~ねぇ~。
(^_^)ノ””””