と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

クレーマー爺

2015年01月29日 08時49分01秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

邪魔にされているのだったら、去ればいいのである

 

 

今朝は寒い。

マイッタな。寒いと血圧が上がる。事実、今朝はちょっと高かった。毎朝測っているからである。趣味のようなものだ。朝晩必ず測る。そして、血圧手帳にメモする。この手帳はタダでもらえる。そこに体重も毎朝測ってメモする。今朝は、67.9キロになっていた。ダイエット効果があった。毎日のwalkingのせいである。飲酒も止めたから効果があるのだろう。食事も、相当気を付けている。一回の食事に20分はかける。そう時間制なのである。早食いはよくない。早食いをすると太る。咀嚼数を30回というのも守っている。

ある意味、徹底している。頑固なんだろう。爺になると、自分で自分に規制をかけないと、暴発する。

つまりラジカルになってしまうのである。

しかし、気を付けないとクレーマー爺になってしまう。リタイヤ後も「競争・指導」する相手を求める老人になってしまうのだ。例をあげよう。インターネットで「高齢者クレーマー」と入力するといくらでも出てくる。笑っちまうくらいに出てくる。

「なんだ?その目つきは」

「歩き方がなっていない」

「アタシャ、ユーザーだ。もっと顧客を大事にせよ」

「こっちがしゃべっているのに、なんで黙っているのだ?」

「おつりの渡し方がなってない」

「お前の店で買ったクーラーを付けていたら熱中症になったから返品したい」

「この試供品をビニール袋一杯にくれ」

「お惣菜のパックに割引シールを貼ってくれ」

「この店の設計が悪いから足をぶつけた。痛いだろう!」

「サービスがなってない」

「こんなところに商品を積んでおいてはいけないな。危険じゃないか。ほかに倉庫を確保すべきだね」

「そろそろ品揃えのリニューアルが必要じゃないか。テナントも代わり映えしないな、選考したほうがいいな」

「お前じゃ話にならん。社長を出せ!」(*出典 NEWSポストセブン|団塊世代クレーマー目立つ リタイア後も相手の論破を試みる等々)

 

以上である。以上終わり。

 

とやりたいところだが、私だって他人のことは言えない。だからもうちょっと書く。つまり我がことなのである。

高齢者クレーマーというのは、こころの闇を抱えているのである。愚痴をきいてくれる相手もいないし、サラリーマンだった時代から抜け出ていない。職業人だったころの役職から離れていない。さらに、サラリーマンだった時代の後輩たちは、退職した人間のことなんか知っちゃいない。相手にしたくないのである。うるさいだけである。

そこのところが分かっていないのである。

邪魔にされているのだったら、去ればいいのである。これは大事なことだ。私のモットーでもある。人間関係なんて永遠ではない。在籍大学でもそうだ。年若い友人を作ることができたが、在籍大学だって、永遠ではない。人間関係が、である。語学を教えてもらったクラスメイトたちもいたが、もうおさらばである。会うは別れの始めである。だから人間関係は大事にしなくちゃいけない。

学問だってそうだ。

対象を教えてもらって、それから論文を書くのではないのである。大学院がそうだ。方法論を教えてもらうだけである。あとは、自分で考えるしかない。論文はまさか教授が書くのではないのである。自分が書くのである。ここのところをきちんと自覚していないと、教えてくれないから学位がとれなかったというクレームに発展する。

私にいわせるとバカじゃねぇかとなる。もっとも、ゴミ論文しか書けない私では、こんなことを書いてもなんの意味もないが。

なにを対象に論文を書いたらいいかということは、大学院に入ってくる前から決まっていなくちゃ書けるわけもない。

自分で考えることを放棄しちゃいけない。

なんでもかんでも教えてくれというのは虫が良すぎる。虫でもそんなのはいない。独学が大切だというのはそういうことである。友人たちに教わるのもいい。しかし、論文は自分で書くしかない。誰かに書いてもらったのだったら、それはドロボーである。

正味の実力で勝負すべきである。

そして、その正味の実力がないとわかったら、去ればいいのだ。いつまでも拘泥していたらみっともない。

それをである。オレがこんなになったのは、アータのせいだ、オメェのせいだ、社会のせいだ、政治のせいだ、経済が悪いからだ、しまいには親がこんなふうに産んだからだという笑えない冗談になる。

現代は、他罰的である。

自分が悪いと思っている人があまりいない。あまり、である。全部が全部他者が悪いのである。これはこれはいかがなものかと思う。

しかし、人生も末路に至った高齢者たち、団塊の世代が、クレーマーになっていたらどうしようもないではないか。末路に至ったのである。終わりに近づいてしまったのである。それは誰のせいでもない。時間がたったのである。どんなに否定しても、時間は残酷である。

爺や婆になったからといって、鏡を見て嘆いていてもなんの意味もない。

 

私なんか家の中に鏡すらない。

古女房ドノのはあるが、見ると叱られる。

だから、私は、老いさらばえた自分の姿を知らないのである。

よって、クレーマー爺にはなっていないのである。

 

 

良い天気だ。

さ、これからwalkingに行ってくる。近所にある「カコチャン神社」までである。

楽しみ楽しみ。

 

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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