つながりあそび・うた研究所二本松はじめ

二本松はじめ(ピカリン)の活動予定や活動報告、日頃、考えていることなどを書きます。研究所のお知らせも掲載します。

コロコロおきなさい

2021年09月30日 | 抱っこ通信
今日(30日)、Youtube二本松はじめつながりあそびチャンネルにアップしました。
『コロコロおきなさい』
4小節シリーズ?です?午睡明けになかなかスッキリ起きられない子どもに、うたいながら遊んで起こそうと思ってつくられました。♬コロコロコロコロ♬のところは何回でも転がして遊んでください。
 「ピカリン、あれダメ! 子どもたちが何回もコロコロコロコロしてもらいたくて起きてこないんです。疲れました」と笑顔で先生。ま、いつかはそうなるだろうと思っていましたからニンマリ。保育は肉体労働でもあるのです。なんてね。
 あそびうたでは出だしの♬ソ・ファ・ミ・ファ・ソ・ファ・ミ・ファ♬は、王道です。昔から避けては通れません。
 
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私をみつけて(親子あそび)

2021年09月30日 | 抱っこ通信
今日(30日)、Youtube二本松はじめつながりあそびチャンネルにアップしました。
『私をみつけて(親子あそび)』
つながりあそび動画200回です。パチパチパチパチ・・・。つながりソング動画100回の時のように、「200回は、これをアップしたい」というものを特別に考えていませんでしたが、Youtube二本松はじめつながりあそびチャンネルにmihoさんから『私をみつけて』の親子バージョンのリクエストがあり、「そうだ、これだ!200回は」と急遽、アップすることにしました。収録済みだったこともありましたし・・・。
 mihoさんのコメントの抜粋です。「この曲で、運動会の時に、先生のフリを見ながら子ども達がダンスをする感じだったので一緒にはダンスしなかったんです...。自分の事を指差したり、いないいないばぁの様な振り付けがありました(*^-^)」。
 ちょうどつながりあそび・うた研究所を立ち上げてから10年目くらいの作品です。立ち上げて数年くらいは、保育応援団だとしても、あそびのプロになったのだから、新しいあそびをつくらなければ、自分の独自性を、自分のカラーを、オリジナリティを等々を出さなければとえらく難しく考えていました。
 ところが、現場から乳児のあそびや親子のあそびを求められるようになって、子どもたちのできることが少ないというか、大人のできることが少ないことに気がつきました。もちろん、子ども自身はやりたいけど、出来るようになりたいけど、楽しみたいけど、まだできないということですが、。
 それならば「抱っこして、見つめ合って、微笑み合って」が楽しめればいいのではないかと考えはじめ、『ピッタンコ』『ラッコっこ』『ぬくぬく』『カエルの親子は』など、CD『だっこしてオンブして いい気持ち ラララ・ラッセーラ』(音楽センター発行)に収録してあるようなつながりあそびをたくさん創作しました。その延長線というか、ひとつの到達点にあるあそびが『私をみつけて』です。ただ抱っこするだけのあそびですが、保育のあそびで、親子のあそびでなにを大切にしていかなければならないかを考えさせてくれたつながりあそびの1曲です。
 なんとなく、保育ということや、保育の中のあそびや遊ぶということがわかり始めてきたのでしょうか。現場で子どもたちとつながりあそびを楽しむ仲間たちが良く言ってくれます。「つながりあそびは楽しい。でも、ただ楽しいだけでない」。
 『私をみつけて』を収録したCD『あそべやあそべみなあそべ』(音楽センター発行)のピカリンメールには次のように書きました。
 『私をみつけては』は、今、私の親子あそびコンサートの中で大好評の遊びの一つです。「保育参観で盛り上がりました」。「運動会の最後の種目として遊んでやさしい雰囲気で終わることができました」。という実践報告も届いています。保護者が子どもを抱っこするだけの遊びなんですけど、こういう単純な遊びがいいんですね。子どもは自分のまるごとを見てほしい、自分のまるごとを受け止めてほしいのですよね。それが抱っこしてという形であらわれているのでしょうか。保護者も保育者も、もちろん子どもたちのその気持ちをよくわかっているはずです。でもねえ、現実は・・・。だからこそ、『私をみつけて』は単純だけど大好評なのかと思っています。

 
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つないでゆこう

2021年09月29日 | 抱っこ通信
今日(29日)、Youtube二本松はじめつながりソングチャンネルにアップしました。
『つないでゆこう』
 以前は『伸ばしてごらん』というタイトルで歌っていた曲を自主制作・出版CD『笑って笑って笑って』を収録するときに変更しました。
 『伸ばしてごらん』は、つながりあそび・うた研究所設立直後に歌詞らしきものがメモしてありました。子どもたちに、友だちをつくるには、まず、自分から手を差し伸べるのだよ、というメッセージソングとしてつくるつもりでした。自分が自分自身の主人公として生きほしいという願いから生まれました。
 でも、子どもたちと歌う時だけでなく、先生にも親さんにも一緒にうたってほしいと思い、同じ立ち位置で、同じ高さで、同じ時代を生きる仲間、という思いで『伸ばしてごらん』ではなく、『つないでゆこう』に変えました。
 私の青春時代、京浜工業地帯に働く青年たちの中で「生きることは手をつなぐこと、生きることはたたかうこと、生きることは仲間を増やすこと」という言葉が広がっていました。言葉は違いますが、『つないでゆこう』を、今を生きる子どもたち、青年たちに贈りたい歌です。【抱っこ通信702号(2016年3月23日)より】
 歌詞を少しだけ変更しました。「きみ」を「あなた」に、「ぼく」を「わたし」に。
 
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青い青い空

2021年09月29日 | 抱っこ通信
今日(29日)、Youtube二本松はじめつながりソングチャンネルにアップしました。
『青い青い空』
さあ、101回目、リスタートです。新曲をアップします。
 東久留米反核平和市民実行委員会では、毎月第4金曜日に本町の某スーパーの前で「日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准を求める署名」活動を行っています。この夏は暑かったですが、私よりかなり先輩の仲間たちも、心静かに燃やしながら、表情はおだやかでやわらかく署名活動しています。私の役割は賑やかしです。音楽を流したり、おしゃべりしたり、歌ったりです。少しは署名活動に役立っているのでしょうか。


 いつもは『名前が翼になって』を歌っていますが、一緒に活動する先輩たちの人間にふれて、署名が広がるように、新曲をつくりました。署名活動をしている仲間たちが、リフレーンの♬核兵器なくそう 子どもの未来を守ろう 核兵器なくそう あなたの署名をお願いします♬のところだけでも一緒に歌えたらと願っています。今月の署名活動は24日午前11時からです。
 収録の本番で急に思いつき、イントロのイントロ?に『青い空は』の出だし部分をかめさんに吹いてもらいました。


ということで昨日、署名活動に参加して、『青い青い空』を3回も歌ってきました。他に『名前が翼になって』『にんげんをかえせ』も歌いました。この日は、一人の市民と30分近く話し込んでしまいましたので、私は署名を集められませんでした。こんな日もあります。でも、真正面から向かい合って、戦争や平和、核兵器や原発など、お互いの考えていることを対話すというか、こういう時間が、こういう活動が大事かなと思っています。


 当日は、署名活動に参加している仲間たちに歌詞と譜面、そして、原水協のつなごうパンフからのメッセージ+αの文章をつくってお渡しして、一緒に歌ってもらいました。2回目からはその歌声もしっかり届いて嬉しかったです。


・・・・・・・・・・
今年(2021年)1月22日、国連総会で核兵器禁止条約が発効しました。国連総会第1号決議で原子兵器撤廃を提起して以来、初めて核兵器を違法とする国際法です。
核兵器廃絶の運動は、唯一の被爆国日本で、被爆者と共に国民が行動に立ち上がり、全世界に広がりました。いつも、その先頭にはヒバクシャのみなさんがいました。
 核兵器廃絶の声は、核保有国やその同盟国でも圧倒的な声になっています。人々が声を上げ、協同すれば世界を変えることを教えてくれています。今、地球規模でコロナウイルス感染拡大、気候変動、貧困、格差拡大、ジェンダー問題など、分断や対立ではなく、いまこそ協同、連帯してなければならない解決できない問題が多くありますが、核兵器廃絶運動はその問題を解決する運動の希望になっています。
 しかしながら日本政府は、アメリカをはじめとする核保有国に「忖度」して核兵器禁止条約に署名・批准をしていません。私たちの声をさらに大きな声にして、多くの人たちと手をつないで日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准を求めましょう。子どもの未来のために。人類・地球の未来のために。私たちの幸せのために。
 あなたの署名をお願いします。(つなごうパンフを参考に二本松筆)

 ♬あなたの心をみつめてください あなたの今日をみつめてください
  あなたの名前を書いてください 願いを込めて書いてください
  みんなの名前が翼になって ノーモアヒロシマ ノーモアナガサキ♬
(『名前が翼になって』より)
・・・・・・・・・・
 
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抱っこ通信1203号 天気は良かったけれど

2021年09月25日 | 抱っこ通信
 今週はなんとなく体も重く、いまひとつ「やってやろう!」なんていう気もでなかったです。いい天気が続いているのにね。寒暖差が大きいと、体調や精神状態にも影響が出るということなので、そういうことなのかなと、はい。
 寒暖の差ではありませんが、自民党総裁選、4人ともアベに「忖度」、見え方や言葉で差をつけようとしていますが、根っこのところでは差がありません。自民党と言えばいろいろな意味でもっと賑やかだったのにね。それ以上にひどいのはマスコミの総裁選一色です。自らの首を絞めています。
今週の動画の譜面プラスです。

【19日SH101.『青い青い空』】
 さあ、101回目、リスタートです。新曲をアップします。
 東久留米反核平和市民実行委員会では、毎月第4金曜日に本町の某スーパーの前で「日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准を求める署名」活動を行っています。この夏は暑かったですが、私よりかなり先輩の仲間たちも、心静かに燃やしながら、表情はおだやかでやわらかく署名活動しています。私の役割は賑やかしです。音楽を流したり、おしゃべりしたり、歌ったりです。少しは署名活動に役立っているのでしょうか。

 いつもは『名前が翼になって』を歌っていますが、一緒に活動する先輩たちの人間にふれて、署名が広がるように、新曲をつくりました。署名活動をしている仲間たちが、リフレーンの♬核兵器なくそう 子どもの未来を守ろう 核兵器なくそう あなたの署名をお願いします♬のところだけでも一緒に歌えたらと願っています。今月の署名活動は24日午前11時からです。
 収録の本番で急に思いつき、イントロのイントロ?に『青い空は』の出だし部分をかめさんに吹いてもらいました。

ということで昨日、署名活動に参加して、『青い青い空』を3回も歌ってきました。他に『名前が翼になって』『にんげんをかえせ』も歌いました。この日は、一人の市民と30分近く話し込んでしまいましたので、私は署名を集められませんでした。こんな日もあります。でも、真正面から向かい合って、戦争や平和、核兵器や原発など、お互いの考えていることを対話すというか、こういう時間が、こういう活動が大事かなと思っています。

 当日は、署名活動に参加している仲間たちに歌詞と譜面、そして、原水協のつなごうパンフからのメッセージ+αの文章をつくってお渡しして、一緒に歌ってもらいました。2回目からはその歌声もしっかり届いて嬉しかったです。

・・・・・・・・・・
今年(2021年)1月22日、国連総会で核兵器禁止条約が発効しました。国連総会第1号決議で原子兵器撤廃を提起して以来、初めて核兵器を違法とする国際法です。
核兵器廃絶の運動は、唯一の被爆国日本で、被爆者と共に国民が行動に立ち上がり、全世界に広がりました。いつも、その先頭にはヒバクシャのみなさんがいました。
 核兵器廃絶の声は、核保有国やその同盟国でも圧倒的な声になっています。人々が声を上げ、協同すれば世界を変えることを教えてくれています。今、地球規模でコロナウイルス感染拡大、気候変動、貧困、格差拡大、ジェンダー問題など、分断や対立ではなく、いまこそ協同、連帯してなければならない解決できない問題が多くありますが、核兵器廃絶運動はその問題を解決する運動の希望になっています。
 しかしながら日本政府は、アメリカをはじめとする核保有国に「忖度」して核兵器禁止条約に署名・批准をしていません。私たちの声をさらに大きな声にして、多くの人たちと手をつないで日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准を求めましょう。子どもの未来のために。人類・地球の未来のために。私たちの幸せのために。
 あなたの署名をお願いします。(つなごうパンフを参考に二本松筆)

 ♬あなたの心をみつめてください あなたの今日をみつめてください
  あなたの名前を書いてください 願いを込めて書いてください
  みんなの名前が翼になって ノーモアヒロシマ ノーモアナガサキ♬
(『名前が翼になって』より)
・・・・・・・・・・



    青い青い空
        作詞・作曲 二本松はじめ
1. 青い青い空 どこまでも続く
  歩きはじめたヒバクシャの声 平和願って
  再び愛が 奪われないように 
  ヒロシマナガサキから 世界に向かって
  核兵器廃絶(なくそう) 子どもの未来を守ろう
  核兵器廃絶(なくそう) あなたの署名をお願いします。

2.青い青い空 どこまでも続く
  歌いはじめた仲間の声 平和願って
  長崎を最後の 最後の被爆地に
  ヒロシマナガサキから 世界に向かって
  核兵器廃絶(なくそう) 子どもの未来を守ろう
  核兵器廃絶(なくそう) あなたの署名をお願いします。

3.青い青い空 いつまでも続く
  つなぎはじめた人間の声 平和願って
  一本のペンから いのちを抱きしめる
  ヒロシマナガサキから 世界に向かって
  核兵器廃絶(なくそう) 子どもの未来を守ろう
  核兵器廃絶(なくそう) あなたの署名をお願いします。
  核兵器廃絶(なくそう) 子どもの未来を守ろう
  核兵器廃絶(なくそう) あなたの署名をお願いします。 (2021.9)


【23日のつながりあそび№198
 『おなかをグルグル』】
 子どもの頃、おなかの調子が悪い時、お母さんにおなかに掌をあててもらった経験ありませんか? 額に手をあてて熱があるか診てもらったことは・・・。
 手当て療法、触手療法、手のひら療法、手かざし、ハンド・ヒーリング、ヒーリング・タッチ、等々、呼び方も様々で、世界中にもいろいろあるそうです。
 なんて言っても、大好きな人に見つめられて、触れられているということが嬉しいのですね。すぐにおなかの調子なんて戻ってしまう。超・密状態だけどね。
 この『おなかグルグル』が元になって、あのメイ曲『ぐるぐるぐるぐる』(№.55)ができたのです。遊び方は手あそびとしてつくったはずなのに、みやちゃんが子どもたちと遊んでしまうと、全く想像できないあそびになってしまいましたが・・・。


【24日つながりあそび№199.
 『コロコロおきなさい』】
 4小節シリーズ?です?午睡明けになかなかスッキリ起きられない子どもに、うたいながら遊んで起こそうと思ってつくられました。♬コロコロコロコロ♬のところは何回でも転がして遊んでください。
 「ピカリン、あれダメ! 子どもたちが何回もコロコロコロコロしてもらいたくて起きてこないんです。疲れました」と笑顔で先生。ま、いつかはそうなるだろうと思っていましたからニンマリ。保育は肉体労働でもあるのです。なんてね。
保育現場では今、午睡で、時間だから一斉に起きなさい、となってはいないのかな。どうなんでしょう。教えてくれたら嬉しいです。

 あそびうたでは出だしの♬ソ・ファ・ミ・ファ・ソ・ファ・ミ・ファ♬は、王道です。昔から避けては通れません。この日は、午前中に外でだいぶ声を張り上げて歌ったので、声の調子が今一つでした。
(イラスト大ちゃん)
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おなかをグルグル

2021年09月23日 | 抱っこ通信
今日(23日)、Youtube二本松はじめつながりあそびチャンネルにアップしました。
『おなかをグルグル』
今日のつながりあそび動画№198『おなかをグルグル』
 子どもの頃、おなかの調子が悪い時、お母さんにおなかに掌をあててもらった経験ありませんか? 額に手をあてて熱があるか診てもらったことは・・・。
 手当て療法、触手療法、手のひら療法、手かざし、ハンド・ヒーリング、ヒーリング・タッチ、等々、呼び方も様々で、世界中にもいろいろあるそうです。
 なんて言っても、大好きな人に見つめられて、触れられているということが嬉しいのですね。すぐにおなかの調子なんて戻ってしまう。超・密状態だけどね。
 4小節位で短いし、どこかで聞いたようなメロディだけれど、心が密になるつながりあそびを4曲続けます。

 
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抱っこ通信1202号 『私が先生になったとき』⑤帰る場所があるから

2021年09月23日 | 抱っこ通信
 「『私が先生になったとき』は、私が一人の人間として、悩んだとき、迷ったとき、何も見えなくなったときなどに、そして自分に帰るときに歌う大切な詩です。」と①で書きましたが、この歌を取り上げて、つながりあそび・うた研究所機関紙『手と手と手と』第56号(1999年9月1日付)に「帰る場所がるから、元気が、勇気が湧いてくる」と題して次のように書きます。

   ・・・・・・・・・・
 「いってらっしゃい。また来年、ただいま!ってサマー・カレッジに帰ってきてください。私たちはお帰り!って喜んで迎えますよ」
99サマー・カレッジはこんな言葉を交わして終了しました。
実のところ京都会場(教員向け)では、私たちが「おはようございます」と挨拶したら、会場から拍手がわきあがり、「お帰り」と迎えられたのです。嬉しかったです。参加した仲間とその仲間の後ろにいる子どもたちや親さんからつながりあそび・うたが本当に待たれているのだなぁとジーンと来ました
私たちの「いってらっしゃい」の意味は、参加者に送る言葉だけでなく、私たちも一年間つながりあそび・うたを届け、広げていきますよ、という決意も含まれているのです。そして、私たちが帰ってくるところは待っている仲間たち一人ひとりのところですよ、子どもたちのところですよ、という意味なんです。帰れる場所があるからとっても元気と勇気が湧いてくるのです。
 「いってらっしゃい」の言葉の中には「いつでもここに帰っておいで」という意味も込められているのです。元気よく「ただいま!」と帰ってくるときだけでなく、黙ったままでも、うなだれているときでもいいのです。安心して帰っておいでという意味も込められているのです。
今、子どもたちに、仲間たちに心からの「いってらっしゃい」の言葉がけられているでしょうか。または「もう少しここにいてもいいんだよ」なんて言葉がかけられているでしょうか」
    ・・・・・・・・・・

 私にとっては帰れる場所、帰れる歌が『私が先生になったとき』ですが、きっとそれぞれが自分にとっての「歌」を持っているのでしょうね。持っていてほしいですね。今度教えてください。
(イラスト 大ちゃん)

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抱っこ通信1201号 『私が先生になったとき』④ 東久留米市立ひばり保育園で

2021年09月21日 | 抱っこ通信
 前号は、加子母保育園の職員室の壁に詩が張り出されていたということを書きましたが、以前、教育関係の月刊誌だったと思いますが、組合事務所の壁に『私が先生になったとき』の詩が張られているグラビア写真を見た記憶があります。きっと、詩が活動、運動という側面だけでなく、個々人が生きていく励みにしていたり、目標としていたりと受け入れられる時代だったのですね。

 さて、いつだったかすっかり忘れていますが(忘れることが多くなった)、チエイちゃんに東久留米市立ひばり保育園の卒園式か、その後の祝う会だったかはっきりしませんが、先生たちが『私が先生になったとき』を歌ったという話を聞いた記憶があります。もしかしたら、夜の夕食会だったかもしれません。当時は、卒園式は「最後の保育の日」と言われて(私だけ?)、子どもだけでなく、親さんも、先生たちにとっても巣立ちの日であり、保護者も巻き込んでの一大行事だったのですね。午前、午後、夜と長い一日だったのです。ふぅ~。

 ひばり保育園に限らず、子どもたちや保護者に先生たちが歌を届けたりして、保育者集団として“思い”を届けることはよくありました。あ、チエイちゃんとは、ひばり保育園にも在籍していた保育士でもあり、全レク一座、保育のうたごえこんぺいとうのうたごえ仲間でもあるK・チエイ先生です。今は再任用で子どもたちと保育園生活を楽しんでいるようです。先日、思い出したついでの確認のために連絡をとりました。「そんなこと、あったっけ、あっはっはっ・・・」とチエイちゃん。
 今でもやられていると思いますが、卒園式に限らず、いろいろな機会に子どもたちへ先生たちの”思い”を歌にして届けるということは、多くの保育園でもよくあったことです。横浜には卒園児一人ひとりに歌をプレゼントしているというH保育園もありましたっけ。

 卒園式等で『私が先生になったとき』を先生たちが歌うということは、先生たちの選曲にあたっての視点、それはどんな子どもに育ってほしいかとか、子どものためにどんな保育をつくっていくのかとか、子どもたちの家庭、親さんたちどんな支援をしていくのかとか、子どもや親さんや自分も含めて、働き生活する社会をどう見るかとか、自分自身がどんな人間になりたいかとかいろいろなものが問われていると思います。
 ま、もっと気軽に係の先生の提案で、なんていうこともあるかもしれませんが・・・。

 日常の保育の中でも、うたったり、あそんだりということも「楽しい」中身が問われていると思います。たとえ、子ども自身があそびやうたを持ち込んでいてもです。保育の中で、保育園生活の中で歌ったり、遊んだりするのですから園をつくる文化として、子どもが育つ文化として子どもらしく、人間らしく暮らすには、育つのに、毎日ドキドキワクワクできる“楽しさ”であるか、いつも問われ続けていると考えます。

 先生たちが何を歌うかで話し合いもされていたのでしょうね。集まって練習もしたのでしょうね。保育は、この保育者集団での話し合い抜きには考えられません。保育者集団だけではないです。ひばり保育園だけでなく、東久留米の公立保育園では、いろいろな行事も保護者さんたちと実行委員会をつくって取り組まれていましたから、保護者たちとの話し合いも大事でした。もちろん、保育の基本でもある、わが子、わがクラスの子の育ちについても話し合うことも大事でした。「一緒に行事をつくる」「一緒に保育を見つめる」活動は、東久留米の保育、共育て、共育ちの関係がつくりだしていきました。

 ただでさえ、保育園も同じですが、仕事が多忙になり、職場で様々な困難に直面しながら、そして子育てはもちろん新人で、子どもと格闘している保護者さんたちですから、この話し合いや、共につくりだすということに時間を捻り出すことも含めて様々な葛藤を抱えながらだったと思われますが。チエイちゃんの話の中に「今夜は家に帰れるのだろうか」と思ったこともあると言っていました。ほんとうにありがとうですね。

 最近、この話し合いの時間が少なくなっていませんか。もちろん中身も、進め方も、あり方も問題ですが、先生たちがそれぞれの立場で、保育について自由に話し合うということがなくなっていませんか。心配です。以前、フェイスブック上でびっくりしたことですが、「我が園には、保育について自分の考えを持つ人は必要ない」ようなこと書かれていたことを思い出します。考えてしまいます。
 話し合うことで、話し合いの中身が前進するということも大事ですが、同じくらいに話し合う仲間たちを、お互いを認め合ったり、信頼しあったり、愛しあったりする関係に育っていくこと、自分を自分らしく大事にできる、仲間をその人らしく大事にできる関係ができることが大事です。そうでなければ子どもを、親さんを大事にできないのではと考えます。

 『私が先生になったとき』を卒園式で歌ったのではないかということを思い出して、再び、広げてみた本が「保育における人間関係論」(嶋さな江+ひばり保育園著 1998年ひとなる書房)です。本の中には知っている先生の名前が出てきますから懐かしいやらなんやらかんやらですが。

 「いのちは、人と人のつながりあい中で生まれ育つ」ことを出発点に考えているつながりあそび・うたをつくり広めているのですから、あそび・うたそのものの「楽しい」も大事、遊び、うたう主体である子ども、人間、そして、つながりあい(関係)についても、もっと考えていかなくてはと思います。そんなこともこの本や『私が先生になったとき』は思い起こさせてくれています。
 ちなみに、この本の中では『私が先生になったとき』はまったく出てきませんよ。私の作品がでてくるのはただ一か所、親さんの運動会の感想の中に『わかくさイキイキ』にふれているところがあります。(前本220ページ)

(全レクの保母さんのための「若葉レクリエーション学校」で保育についてお話をしてくれた嶋さな江先生。年月日不明)
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抱っこ通信1200号 『私が先生になったとき』③ 加子母との出会い

2021年09月19日 | 抱っこ通信
 さんちゃんに続いて、もう一人に話を聞きました。元岐阜県恵那郡加子母村立加子母保育園(現中津川市立加子母保育園)の元保育士の安江寿子さんです。
 彼女が2017年3月、保育生活を引退する時に、勤務先だった坂下保育園(当時園長)に押しかけて子どもたちと遊んできました。もちろん、『私が先生になったとき』もリクエストに応えて歌いました。話をするのはそれ以来です。彼女をはじめ恵北地域の保育仲間とのつながりは長く、毎年、恵北ツアーと称して、各保育園をまわったり、サマー・カレッジも仲間たちと誘い合って参加してくれていました。
 聞きたかったことは、加子母保育園職員室の壁に『私が先生になったとき』の詩が大きく張られていたのですが、いつ頃から張り出し、その理由はなんだったのかを知りたかったのです。
(1992年夏祭り)

(2000年夏祭り)

(2000年夏祭り)

 初めて加子母保育園に遊びに行ったのは1982年8月21日の夏祭り。その後、何回も夏祭りや親子つながりあそびコンサートなどで加子母には遊びに行っています。ちょっとしたお休みで下呂温泉に行く途中に寄ったりもしました。

 なぜ、夏祭りに呼んでもらえたかと言うと、1991年9月、東京で開かれた第20回保母のうたごえ祭典に、加子母保育園の先生たち有志が加子母シスターズとして参加していました。その時にゲスト出演というか、応援団として参加していた私は『私が先生になったとき』を歌いました。もちろん、セリフ入りです。聞いていた安江さんたちは涙、涙だったそうです。当時の恵那地域は、「恵那の教育」をめぐっていろいろあったようなのです。


 職場の仲間たちが一つなりたい、気持ちを一つにしたいと、名古屋から先生を呼んでうたごえを始めていたのです。そういう状況だったので『私が先生になったとき』の歌詞は、仲間たちの思いに、気持ちにピッタリだったのでしょうね。
 そんな歌をうたう人に来てもらいたい、子どもたちと遊んでもらいたいと依頼されたのです。当時の私は自動車免許を持っていなかったので電車で行きました。名古屋までは新幹線、そこから中央線に乗り換えて中津川駅へ、車で迎えに来てもらったのかな、路線バスだったのかな・・・「えらく遠いところに来たもんだ」と思いました。

 それから、ほぼ毎年、夏祭りだけではなく、親子つながりあそびやコンサートや親さん向けの子育て講座などで行きました。行くたびに職員室で目にするのが、夏祭りや他の行事だけでなく、保育園生活の日常での子どもたちの姿や言葉が書かれたクラスだよりでした。机からはみ出していましたよ。子どもの姿を親さんたちと共有することと、保育の内容を伝えることを通して、子どもを真ん中にした共育て、共育ちを願っていたのでしょうね。すべてのクラスがクラスだよりを発行していました。私が保育園に来るという前などは、ピカリンってどんな人?から始まって、子どもたちが歌っていたり、遊んでいたりつながりあそびの紹介や、子どもたちの期待の声などがほぼ日刊で届けられていました。また、コンサートなどが終わってからの子どもたちの感想や声、親さんたちの声を写真と共に届けてくれるのも嬉しかったです。

 当時は、恵那地域だけではないでしょうが、全国的に学級通信など、先生たちの教育の自由が抑え込まれ、なんでも横並びが求められてきた時代でもあったのです。話は逸れますが、東京の公立では経費の削減という名目でクラスだよりの発行が抑えられ、週一が月一になり、最後は、園長先生が担当する園だよりしかなくなってしまったところもあると聞いています。ま、壁新聞というか掲示板というかそういうものに変わっていったところもありますが。

 そういう加子母保育園の雑多というか、にぎやかというか、活気があるというか、そんな職員室で目にしたのが『私が先生になったとき』の詩だったのです。なんどか張り替えられて、なんと今でも張られているそうですよ。

 先生たちは、保育に燃えているというか、加子母、恵北という地で、生まれ育ち、目の前の子どもたちと、その保護者や地域の人と共に育てるということ、そして、その中で自分も育っていくということの喜びが、先生たちからビンビン伝わってきていたのです。その中心にいつも泣き虫の安江寿子さんがいました。
 そう言えば、恵北の先生たちは泣き虫が多かったな。子どものこと、保育のことを話し始めると熱くなって、いつしか涙してる。東久留米の保育や保育士のことを少ししか知らなかった私には、恵北の保育や保育士との出会いは、とても新鮮でした。子育て、保育をもう一度見つめ直すことができた意味でも加子母、恵北は大事にしてきた地域です。『私が先生になったとき』があったからですね。

 さて、1977年に完成したドキュメント映画『夜明けへの道 恵邦の教育一年』を見た人も多いかと思いますが、その主題歌は笠木透さんの『あなたが夜明けをつげる子どもたち』です。笠木透さんは、うたごえ新聞(うたごえ新聞84年10月22日号)に次のように書いています。

「子どもたちが外で遊ばなくなってから何年になるだろう。
 僕らはいつも山で、山に抱かれた野原で走り回っていた。いつもそこに、どっしりと故郷の山があった。遊んでいるときに、山を見上げていたわけではない。いや、むしろ山のことなど忘れていた。でも、ちゃんと母のフトコロのような山があることを知っていた。
 石川啄木が『故郷の山はありがたきかな』とうたい、島崎藤村が恵那山を見て『ごらん、いい山だね』と“夜明け前”に書いた母なる山は、外で遊び回った子ども時代を送った人たちにしか分からないだろう。『ありがたい』という想いを、現代の子どもたちが将来もてるかどうか、僕は心配でしょうがない。自分を育ててくれた自然への『ありがたい』という思いがなくて、公害反対も反核もないような気がするのだ。
 作曲は木曽に住む僕の友人、細田登。この歌は、中津川の教育記録映画『夜明けへの道』の主題歌として創ったもの。中津川、恵那は、綴り方を教育の中心にすえてやってきた地域で「恵那の教育」と呼ばれてきた。ぼくのうたは、大人の綴り方みたいなものだろう。マスコミでは流れたことはないのに、口から口へ伝わって、かくれたヒット曲になりつつある。
 口コミで伝えてくれた君が、この国にいるということが分かっただけでも、ぼくは創ってよかったと思うのです。」

 私にとってその「恵那の教育」は憧れでもあったのです。学生時代から住民とひざを突き合わせて生活要求から教育要求へと気付きを促す「一升瓶社会教育」を、住民の生活から根ざす社会教育活動を東久留米で実践したいと願っていた私にとって、教育の場は違えども憧れでした。
 
 私が初めて恵那地域に入ったのは、1988年の坂下保育園での親子遊びコンサートでした。まだ全レクの活動の一環でした。前年に、自主制作で出版したカセットアルバム『生きて生きて生きて』の存在が大きかったです。あの「恵那の教育」を受けていただろう先生や親さんたちに会えることにワクワクドキドキしていました。また、伝説?のフォークジャンボリーの開催地でもある坂下町に行けるというのも喜びでした。前日、泊まって、朝、起きたら首の周りが凍っていたのにはビックリ。雪が降って、東京から車で行ったたまちゃん(音楽家の玉木孝治さん)は帰りに車のチェーンをもらっていました。コンサート後に園舎で食べたカレーライス、おでんがあたたかかった、美味かった。

 翌年だったかな、次に行ったのが付知町立付知保育園?南付知保育園? 小学校の体育館で遊びました。当時2園あったような気がしていますから合同だったのかも知れません。保育園なのに所管が教育委員会というのも東京から来た人間には不思議でした。
 この付知の時、先生から「恵那の教育とか、綴り方教育とかにふれないでください」とくぎを刺されたことが印象に残っています。憧れの「恵那の教育」なのにです。でも、その時は「恵那の教育」と言っても、その教育実践や運動や歴史まで知っていたわけでもなかったのです。たまたま、子どもの体力の問題が話題になっていたこともあり、「恵那の教育実践 レポートー子どもの心とからだ―」(川上康一著 1979年あゆみ出版)くらいしか読んでいませんでした。

 次が福岡町立坂下保育園。まだ旧園舎の時代で、親さんたち手作りの朴葉寿司の旨かったことと、駅まで送ってもらった時に、上り坂下り坂がすごく急だったこと思い出します。その後、坂下保育園の廃園反対の運動を知ることになりますが。

 その次が加子母保育園だったような気がしています。その後、ほぼ毎年、恵北ツアーと称して、川上村、加子母村、蛭川村、付知町、福岡町の全保育園と中津川市や恵那市の保育園、幼稚園、子育て支援も加わって遊びまわっていました。
 恵北ツアーは2010年くらいまでの20年間くらいかな。その後もポツポツと、中津川や恵那の保育園で遊んだり、平和コンサート開いてくれたり、東濃地区の保育士研修会を開いてくれたりしています。嬉しいことに今はまっちゃんが恵那を中心に遊びまわっています。
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抱っこ通信1199号 譜面です

2021年09月18日 | 抱っこ通信
 最近は、時代小説文庫を楽しんでいます。文庫を読み始めたのは白内障の手術をしてからでしょうか。手術をして世の中が明るく見えました。小さい字も見えるようになりました。特に、4年前のがんの手術から時間もできたので、時代小説を楽しんでいます。池波正太郎から始まり、毎月の新刊が待ちどおしいです。
 宇江佐真理だったらデビュー作品からほとんど全部を読んでしまうというように、一人の作家を読了するのが流儀というか、楽しみ方です。昨日は岩室忍の「初代北町奉行米津勘兵衛③ 蜂月の碑」読了しました。
 時間がある時は1日3~4時間が読書時間です。今まであまり小説を読むという習慣がなかったので、最初の頃は、途中で読むことを中断すると、話がうまくつながらなかったので、読み始めると一気に読んでしまいます。日をまたいでしまう時もありましたが、最近は、やっと途中でやめることも覚えてきたみたいで、話もつながるようになりました。新書を読むのとは違って気軽なのがいいです。
さて、今週の動画の譜面です。

【2日今週のSHS№100「私が先生になったとき」】
私が先生になったとき 自分が真理から眼をそむけて
子どもたちに 本当のことが語れるのか

私が先生になったとき 自分が未来から眼がそむけて
子どもたちに 明日のことが語れるのか

私が先生になったとき 自分が理想を持たないで
子どもたちに どんな夢を語れるのか 

私が先生になったとき 自分に誇りを持たないで
子どもたちに 胸を張れと言えるのか

私が先生になったとき 自分がスクラムの外にいて
子どもたちに がんばれ がんばれと言えるのか

私が先生になったとき ひとり手を汚さず 自分の腕を組んで
子どもたちに 仲良くしろと言えるのか

私が先生になったとき 自分のたたかいから眼をそむけて
子どもたちに 勇気をだせと言えるのか

私が先生になったとき


【16日つながりあそび№196.
 『ノミのジャンプは』】
 今週は2曲軽いうたあそびです。虫や動物たちのジャンプできる距離をうたの♬ピョーン♬で表したかったのですが、どうも体の大きさの違いになってしまった感があります。それも最後には距離なんかどうでも良い感じになってしまって、という感じのうたです。バッタは跳ねるというより飛ぶし、子どもたちは「ノミ」を見たことはないだろうし、存在さえ知らないのではないかと思ったり。ま、歌っているときは楽しいからいいか。
 子どもの頃、ノミに喰われたという経験があります。痒かった。捕まえて爪と爪に挟んでプチュとつぶすと血が滲んできた。それが普通だったのです。虱もいたのかな。戦後直後、感染症対策で子どもの頭髪にDDT(米軍が持ち込んだ殺虫剤)をふりかけているニュース映画を見たことはあっても、自分が真っ白になった記憶はないのです。小さかったからでしょうか。子どもの頃はダンゴムシよりアリと遊んだな。

【17日つながりあそび№197.
 『カバさんあくびした』】
 水の中シリーズの1曲です。もっと早くアップすればよかったと思うのですが、プールで、ビニールシートをジャブジャブして、泥んこの中など遊んでください。今は部屋の中で水の中の動物になり切って遊ぼうか。水はどうする?新聞紙でプールにしてみたり、リリアンテープで川に見立てたり、ブルーシートで波をつくったり、いろいろ工夫してください。カバさんだけでは寂しいからワニさんやラッコさんやクジラさんや、たくさんの仲間で遊ぼう。 
 カバさんにはしばらく会っていないです。昨年、旭山動物園のカバの赤ちゃんの成長記録がフェイスブックに流れていましたが、5年前まで毎年、この時期は保育園まわりや研修会で北海道に行っていました。何度か旭山動物園でカバさんに会いました。毎年2週間近く、夏休みも兼ねて、道東を中心に北海道をまわっていました。次はいつ行けるでしょうか。


 今日、17日は父親の命日です。
 2009年、仙台港で北海道行きのフェリーを待っていると父が亡くなったという知らせが入りました。特に体の調子が悪かったという話は聞いていませんでしたのでびっくりしました。テレビで相撲を見ていて、「部屋のベットで観る」と言って、部屋に戻ってそのまま亡くなったそうです。
当時、私は前日まで与論、徳之島、大島をまわる11日間(6日~16日)の奄美ツアー。16日の午前中に保育園でつながりあそび、午後3時の飛行機で帰京。17日の午前中に東京を出発して、19時40分仙台発、翌18日11時苫小牧着、道央道で旭川入りし、18時30分からの旭川のわかば保育園で親子つながりあそびコンサートが待っていました。

 急遽、仙台駅上の駐車場に車をおいて帰京。通夜のみに出席して北海道行きでした。親の死に目に会えませんでしたから親不孝な息子です。この仕事をする時から覚悟はしていましたが。でも、「親の死に目に会えない」の本意は、親よりも先に死んで親の死に目に会えないのは親不孝ということらしいです。両親より先には死ななかった、それだけはなんとか守れました。
 いつも私は、子どもたちにも若い仲間にも、「親より死んではいけない」ということを言い続けてきました。生きているだけでいいのです。コロナ下というだけでなく、若い人の自死が増えているのが気になります。ちなみに、自主制作CD『母になった娘へ』(音楽センター出版)に収録してある『ゆっくりでいいんだよ~母になった娘へ~』の中でも同様なことを歌っています。
 さて、法要はお寺さんからコロナ禍のため追加供養のお塔婆だけにしてほしいと言われてしまいました。


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