さんちゃんに続いて、もう一人に話を聞きました。元岐阜県恵那郡加子母村立加子母保育園(現中津川市立加子母保育園)の元保育士の安江寿子さんです。
彼女が2017年3月、保育生活を引退する時に、勤務先だった坂下保育園(当時園長)に押しかけて子どもたちと遊んできました。もちろん、『私が先生になったとき』もリクエストに応えて歌いました。話をするのはそれ以来です。彼女をはじめ恵北地域の保育仲間とのつながりは長く、毎年、恵北ツアーと称して、各保育園をまわったり、サマー・カレッジも仲間たちと誘い合って参加してくれていました。
聞きたかったことは、加子母保育園職員室の壁に『私が先生になったとき』の詩が大きく張られていたのですが、いつ頃から張り出し、その理由はなんだったのかを知りたかったのです。
(1992年夏祭り)
(2000年夏祭り)
(2000年夏祭り)
初めて加子母保育園に遊びに行ったのは1982年8月21日の夏祭り。その後、何回も夏祭りや親子つながりあそびコンサートなどで加子母には遊びに行っています。ちょっとしたお休みで下呂温泉に行く途中に寄ったりもしました。
なぜ、夏祭りに呼んでもらえたかと言うと、1991年9月、東京で開かれた第20回保母のうたごえ祭典に、加子母保育園の先生たち有志が加子母シスターズとして参加していました。その時にゲスト出演というか、応援団として参加していた私は『私が先生になったとき』を歌いました。もちろん、セリフ入りです。聞いていた安江さんたちは涙、涙だったそうです。当時の恵那地域は、「恵那の教育」をめぐっていろいろあったようなのです。
職場の仲間たちが一つなりたい、気持ちを一つにしたいと、名古屋から先生を呼んでうたごえを始めていたのです。そういう状況だったので『私が先生になったとき』の歌詞は、仲間たちの思いに、気持ちにピッタリだったのでしょうね。
そんな歌をうたう人に来てもらいたい、子どもたちと遊んでもらいたいと依頼されたのです。当時の私は自動車免許を持っていなかったので電車で行きました。名古屋までは新幹線、そこから中央線に乗り換えて中津川駅へ、車で迎えに来てもらったのかな、路線バスだったのかな・・・「えらく遠いところに来たもんだ」と思いました。
それから、ほぼ毎年、夏祭りだけではなく、親子つながりあそびやコンサートや親さん向けの子育て講座などで行きました。行くたびに職員室で目にするのが、夏祭りや他の行事だけでなく、保育園生活の日常での子どもたちの姿や言葉が書かれたクラスだよりでした。机からはみ出していましたよ。子どもの姿を親さんたちと共有することと、保育の内容を伝えることを通して、子どもを真ん中にした共育て、共育ちを願っていたのでしょうね。すべてのクラスがクラスだよりを発行していました。私が保育園に来るという前などは、ピカリンってどんな人?から始まって、子どもたちが歌っていたり、遊んでいたりつながりあそびの紹介や、子どもたちの期待の声などがほぼ日刊で届けられていました。また、コンサートなどが終わってからの子どもたちの感想や声、親さんたちの声を写真と共に届けてくれるのも嬉しかったです。
当時は、恵那地域だけではないでしょうが、全国的に学級通信など、先生たちの教育の自由が抑え込まれ、なんでも横並びが求められてきた時代でもあったのです。話は逸れますが、東京の公立では経費の削減という名目でクラスだよりの発行が抑えられ、週一が月一になり、最後は、園長先生が担当する園だよりしかなくなってしまったところもあると聞いています。ま、壁新聞というか掲示板というかそういうものに変わっていったところもありますが。
そういう加子母保育園の雑多というか、にぎやかというか、活気があるというか、そんな職員室で目にしたのが『私が先生になったとき』の詩だったのです。なんどか張り替えられて、なんと今でも張られているそうですよ。
先生たちは、保育に燃えているというか、加子母、恵北という地で、生まれ育ち、目の前の子どもたちと、その保護者や地域の人と共に育てるということ、そして、その中で自分も育っていくということの喜びが、先生たちからビンビン伝わってきていたのです。その中心にいつも泣き虫の安江寿子さんがいました。
そう言えば、恵北の先生たちは泣き虫が多かったな。子どものこと、保育のことを話し始めると熱くなって、いつしか涙してる。東久留米の保育や保育士のことを少ししか知らなかった私には、恵北の保育や保育士との出会いは、とても新鮮でした。子育て、保育をもう一度見つめ直すことができた意味でも加子母、恵北は大事にしてきた地域です。『私が先生になったとき』があったからですね。
さて、1977年に完成したドキュメント映画『夜明けへの道 恵邦の教育一年』を見た人も多いかと思いますが、その主題歌は笠木透さんの『あなたが夜明けをつげる子どもたち』です。笠木透さんは、うたごえ新聞(うたごえ新聞84年10月22日号)に次のように書いています。
「子どもたちが外で遊ばなくなってから何年になるだろう。
僕らはいつも山で、山に抱かれた野原で走り回っていた。いつもそこに、どっしりと故郷の山があった。遊んでいるときに、山を見上げていたわけではない。いや、むしろ山のことなど忘れていた。でも、ちゃんと母のフトコロのような山があることを知っていた。
石川啄木が『故郷の山はありがたきかな』とうたい、島崎藤村が恵那山を見て『ごらん、いい山だね』と“夜明け前”に書いた母なる山は、外で遊び回った子ども時代を送った人たちにしか分からないだろう。『ありがたい』という想いを、現代の子どもたちが将来もてるかどうか、僕は心配でしょうがない。自分を育ててくれた自然への『ありがたい』という思いがなくて、公害反対も反核もないような気がするのだ。
作曲は木曽に住む僕の友人、細田登。この歌は、中津川の教育記録映画『夜明けへの道』の主題歌として創ったもの。中津川、恵那は、綴り方を教育の中心にすえてやってきた地域で「恵那の教育」と呼ばれてきた。ぼくのうたは、大人の綴り方みたいなものだろう。マスコミでは流れたことはないのに、口から口へ伝わって、かくれたヒット曲になりつつある。
口コミで伝えてくれた君が、この国にいるということが分かっただけでも、ぼくは創ってよかったと思うのです。」
私にとってその「恵那の教育」は憧れでもあったのです。学生時代から住民とひざを突き合わせて生活要求から教育要求へと気付きを促す「一升瓶社会教育」を、住民の生活から根ざす社会教育活動を東久留米で実践したいと願っていた私にとって、教育の場は違えども憧れでした。
私が初めて恵那地域に入ったのは、1988年の坂下保育園での親子遊びコンサートでした。まだ全レクの活動の一環でした。前年に、自主制作で出版したカセットアルバム『生きて生きて生きて』の存在が大きかったです。あの「恵那の教育」を受けていただろう先生や親さんたちに会えることにワクワクドキドキしていました。また、伝説?のフォークジャンボリーの開催地でもある坂下町に行けるというのも喜びでした。前日、泊まって、朝、起きたら首の周りが凍っていたのにはビックリ。雪が降って、東京から車で行ったたまちゃん(音楽家の玉木孝治さん)は帰りに車のチェーンをもらっていました。コンサート後に園舎で食べたカレーライス、おでんがあたたかかった、美味かった。
翌年だったかな、次に行ったのが付知町立付知保育園?南付知保育園? 小学校の体育館で遊びました。当時2園あったような気がしていますから合同だったのかも知れません。保育園なのに所管が教育委員会というのも東京から来た人間には不思議でした。
この付知の時、先生から「恵那の教育とか、綴り方教育とかにふれないでください」とくぎを刺されたことが印象に残っています。憧れの「恵那の教育」なのにです。でも、その時は「恵那の教育」と言っても、その教育実践や運動や歴史まで知っていたわけでもなかったのです。たまたま、子どもの体力の問題が話題になっていたこともあり、「恵那の教育実践 レポートー子どもの心とからだ―」(川上康一著 1979年あゆみ出版)くらいしか読んでいませんでした。
次が福岡町立坂下保育園。まだ旧園舎の時代で、親さんたち手作りの朴葉寿司の旨かったことと、駅まで送ってもらった時に、上り坂下り坂がすごく急だったこと思い出します。その後、坂下保育園の廃園反対の運動を知ることになりますが。
その次が加子母保育園だったような気がしています。その後、ほぼ毎年、恵北ツアーと称して、川上村、加子母村、蛭川村、付知町、福岡町の全保育園と中津川市や恵那市の保育園、幼稚園、子育て支援も加わって遊びまわっていました。
恵北ツアーは2010年くらいまでの20年間くらいかな。その後もポツポツと、中津川や恵那の保育園で遊んだり、平和コンサート開いてくれたり、東濃地区の保育士研修会を開いてくれたりしています。嬉しいことに今はまっちゃんが恵那を中心に遊びまわっています。