おはようございます。今朝は雨、犬の散歩もできず、時間ができ、今月のまとめを書きたくなりました。
さて70年以上生き、50年以上悪戦苦闘し、人様に迷惑をかけてきました。大いに反省しています。しかし、まだ偉そうに、人様から見たら多分、満足して生きられている理由は、今日の主題の言葉ゆえ。私は何事も、若い時から、特に会社に勤め、まあいいか、やるか、と考えて生きてきたようです。卒論も修論も、受験勉強すら、いわんや富士通の仕事やシャープの仕事も、自己満足できる成果も得られそうもないことが予想できていたのに、仕方なしに実践してきたために、今の状況に満足できているのでしょう。非常勤の仕事は、まあいいかが100%でした。
最近、学童や高校生もできるだけ早期に自分の実力を認識し、よく理解してその範囲で努力し、妥当な成果を望み、努力することが大事だと考え始めました。そのお手伝いしてきたようです。要するに求むる所第一義は超優秀な人には良い教えだが、凡人にはそぐわない教えだろうと考えています。人は小学生時代、誰もがどこかの領域で天才、超優秀になれる生き物。でも成長とともに次第に凡人になる生き物でしょう。会社に勤めるころになれば、変わり者でなければ凡人になっています。
当方としては、どのように今の自分を評価しているかです。当方は成果に大満足できています。普遍性があるかは分かりませんが、私の関係した範囲の人では、ほとんど満点に近い真実が、まあいいかの言葉にあるように思えます。私の人生はまあいいか人生だったわけです。
私は大学院生まで、何をしたいのか自分でも良く分かりませんでした。とにかく有名になって偉くなりたいと考えていたのかもしれません。ところが、会社に勤め、自分のやりたい、信じている課題と、上司の指示の狭間で私の心は揺れました。上司の指示をほどほどの努力で達成でき、自分が設定した難しい課題に取り組んでいたようです。それで認められてしまったようです。本人は困りました。全力でやるのが好きだったからです。
結婚し子供ができ、我を通すのは人さまに迷惑をかけると考え始めました。次第に何でも上司や会社に言われたことをやり、他人や上司が私の成果を認めてくれなくても良いと考えられるようになったようです。とても気が楽になりました。逆に会社が指示していない、自分として好きなことを実践し、その課題の理論と真実に迫れるようになったようです。人様はその論を知ることはありませんでしたし、これからもないでしょう。
今日の主題の言葉を先人の、たくさんの偉人たちの業績から演繹できると今は考えています。でもそうすると大変な説明をすることになります。ですから、一言、主題の言葉だけ。この言葉の価値を認めてくれる人が現れることを願っています。特に高校生や大学生が考えて欲しいと願っています。40になっては遅すぎるからです。
今日はここまでにします。