Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

定時終了

2008-05-30 12:17:43 | つぶやき
 毎日、会社を出るのは6時前である。こんな生活は今までにあっただろうか、などと記憶をたどるが思い出せない。続けることほぼ1ヶ月。一度都合で6時以降ということはあったが、それ以外は一応定時で終っている。そして毎日のようにまだ人影は多くない駅で電車を待つ。もともと一般人で電車を利用している人が少ないから、人影のまばらなホームに毎日のように立っていると、暇人のようである。繰り返しているうちに、「わたしは窓際?」などと感じるようになる。年度末から年度始めにかけての終電三昧が嘘のようである。

 いっぽうでいまだに夜遅くまで毎日働いている部署もあるのだろうか、などとどこかで思うから、自らはいらない人間?、などと頭をよぎってしまう。割りきりが良いといわれるわたしも、実はけっこういろいろ考えるタイプではある。もちろんそう思うのは、みなが定時で帰るわけではなく、わたしだけいつも「お先に」と帰るからでもある。収支の合わない会社にあって、残業などすることじたいが気に入らない。それも無報酬であるならばそれもありなんだろうが、限度はあっても報酬がある。ということで残業をなくせないのか、と考えているわたしの年収は、同じ社員より1割以上少ない。だから「その分仕事もしない」、ということはない。ちまたで問題になっている正規と非正規の報酬差にくらべればゴミのようなものだろう。

 実は、かつてのように自動車で通勤していれば、このところの毎日定時終了はなかっただろう。ところが電車を利用するようになるとその時刻表に合わせることになる。運転本数の少ない飯田線に乗っていれば、時には1時間以上あくことがある。したがってひとつ遅らせば必ず1時間という背景があるから、時間を意識するようになる。自動車の通勤にはそういうことはない。だらだらと続けてしまうことも多い。そういう意味では、毎日終電を続けたころも、一応最終の時間があったから、最大でそこまでと自ずと決まる。時間に制約されることはストレスにもなるが、いっぽうで目安の中で納めるという日常を体感することになる。かつての自分ならそんな制約がとてもできないと思っていたが、今や慣れたものである。

 もうひとつ、意識の問題もある。人の顔色を見て仕事をしていれば人に合わせることになる。若いころはもちろんそういうこともあった。しかし、今や自分は年老いている。そんな人間がだらだらと毎日仕事をするのも、時間を意識させるには良くないことでもある。だから時間外に仕事の打合せをしようとするのも、休み時間に仕事の件で言葉を交わすのも避けることを前提にしている。時間外の仕事は、わたしにとっては趣味なのである。だから人には声を掛けてほしくないのだ。善悪明確化の時代にあって、そんな整理のできない人も多い。「言うこととやることが一致していないよね」、とまた言葉を発してしまうわたしは、ますます窓際存在である。

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