来週の日曜日、6月24日は隊長のXX回目の誕生日です。
この年になると、誕生日を迎えることに何の感慨もありませんが、毎年6月24日が近づいてくると、人生最悪の誕生日の事を想いだします。
Aさんとお知り合いになった⇒ http://blog.goo.ne.jp/taichou-san2014/e/0ac4d5259fc9f427c04d2634dc283688 M社での国内営業を担当していた前は、同社で海外営業・海外市場開拓を担当していました。
当時は仕事がら、海外出張が多く、1年の内に4ヶ月間は海外出張をしていた年もありました。その年は、誕生日の6月24日を挟んでのまる2ヶ月間、台湾に長期海外出張をしていました。
その時の上司の業務命令は、「まる2ヶ月間、台湾に滞在して、市場開拓をしてこい。その間は、何があっても日本に帰国するな。他の国への出張も、台湾から行け」と言う、めちゃくちゃなものでした。この2ヶ月間は、家族にも友人にも全く会うことも出来ません。
長期出張なので、台湾ではホテルに長期滞在するのではなく、より安い、朝晩の賄いが付いた台北の「下宿」に滞在していました。この時の面白いエピソードはいろいろと有りますが、それは機会を改めて書くつもりです。
当時の台湾では、観光ビザの有効期限は1ヶ月間で、更新するのには、一旦台湾国外へ出なければなりませんでした。ビザの更新のために日本に帰国することは、もちろん業務命令で出来ません。
当時の香港では、台湾の再入国ビザを1日で取得できたので、誕生日の前日の6月23日に台湾から香港に飛び、ビザの取得と同地の顧客との商談を行い、6月24日に香港からの朝一番の便で韓国に入国し、ソウルの顧客と商談をして、最終便で台北に戻るスケジュールを立てました。
誕生日に、家族とも、友人とも、一緒に過ごすことも、語らうことも出来ずに、過ごすことになります。
香港にて、無事に商談とビザの取得を済ませて、6月24日の誕生日当日の朝一番の便で、韓国に飛びました。当時、香港の国際空港は、現在の「チェクラップコク空港」ではなく、「啓徳空港」で、韓国もまた、「仁川空港」ではなく、「金浦空港」でした。
ソウルの顧客とは、長いタフな交渉を行い、最終的に大量の注文を頂くことが出来ました。注文書を受け取る時には、心の中で、「今年の誕生日には、誰からもプレゼントをもらう事が出来なかったけれど、この注文書が誕生日プレゼント」と叫んでいました。
当時は、携帯電話もない時代でしたので、東京の本社への連絡は、空港から国際電話をするつもりで、タクシーを飛ばして金浦空港に向かいました。電話を終えた後に、空港のラウンジで、「プレゼント」と見なした注文書を傍らに置き、一人で誕生祝いの乾杯をするつもりでした。
ところが、本社へ喜び勇んで、コレクトコールをしたところ、上司からはお褒めの言葉どころか、「ばか者、さっきソウルのお客様から電話があり、注文をキャンセルすると言ってきた。今、直にお客様のところに戻り、注文を取り返してこい」と罵声を浴びせられました。
急いで客先へ戻ると、けんもほろろに、「別のメーカーから20%安い見積もりが出たので、お前の会社への注文はキャンセルする」との返事です。上司からは、「土下座はしても良いが、値段は一円も下げるな」と、これまた無理な命令です。泣く泣く、再受注を諦めて、空港に戻りました。
既に、台湾への最終便は出発してしまいました。まだ、日本への最終便はあります。よっぽど、会社を首になることを覚悟して、誰も待ってくれていない台北に戻らずに、家族や友人の待つ日本へ帰ろうかと思いましたが、それは出来ませんでした。
すでに周辺のホテルも満室です。翌朝一番の台北への便まで、空港のロビーで待つしか方法がありません。なんとか、空港の食堂で、「一人ぼっちの誕生日ディナー」を食べましたが、一夜を明かすしたのは、空港ロビーの硬い椅子の上でした。
だんだんと照明が落ちて暗くなっていく、空港ロビーの椅子の上で、寂しさと悔しさで涙をこぼしながら、この『人生最悪の誕生日』のことは決して忘れずに、仕事で成功して上司を見返してやろうと心に誓ったのでした。
これが、隊長の『人生最悪の誕生日』の苦い思い出です。
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