はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 湯ヶ島

2012-05-31 16:07:40 | ウォーキング
天城越え2-2

湯ヶ島
 左側に元の湯ヶ島町の役場で現在は伊豆市の天城湯ヶ島支所になった建物が見える。でも同じ敷地内の建物の半分は民間の会社のような看板や旗が建っている。看板には「TOKYO RUSK IZUFACTORY」と書いてある。東京ラスク?知らないな。ラスクってあのパンを薄く切って油で揚げたやつ? まさかこんな場所でそんな物を売ったとしてもやっていけるわけはない。
それより驚いたのは役所だった建物を民間会社と共同で使っている事だ。平成の大合併の目的の一つに、幾つもあった自治体が一つになれば、その集中益で物も人も少なくて済む。という説明もあった。だが合併後本当に物や金が少なくなったのか一般住民にはわかりにくい状態だ。しかしこの民間とシェアしている湯ヶ島支所を見れば、伊豆市民は合併の効果を感じる事ができるだろう。上手い方法だと感心した。いや皮肉でなく本心からそう思う。

 街道歩きをしていると、人気の少ない商店街を歩く事は多い。シャッターが降りていたり、店内ががらんどうの店も見かける。その中で立派な建物なのに空き家になっているNTTの電話局を見かける事がある。あの建物もここと同じように民間に貸し出したらどうだろう。そしてその利益を、最近激減している公衆電話の歯止めに使ってくれると無携帯の私は助かるのだが。
 そうそう家に帰り東京ラスクの話をしたら妻は知らなかったが、娘は知っていた。あの建物は東京ラスクの伊豆工場だそうだが、何故輸送に不便な湯ヶ島に工場を建てたのだろうか?

  
  東京ラスク伊豆工場                     湯ヶ島市山の旧道 

 右手に旧道らしき道が伸びている。さっき狩野川を渡ったのだから、右に行くぶんなら間違ってもたかが知れていると入って行った。太い道の割には車は走ってなく、いかにも田舎の道になった。
正面に山が見えるが天城峠はどのあたりだろう等と考えながら歩く。道の高台には時折石仏があるがとても登って見る気にはならない。と思っていると今度は道脇に常夜灯と例の単座像の石仏が並んでいた。その石仏の後ろの崖に穴が空いていた。何だろうと覗き込んでみると箒が入れてあった。なんだ。
いや違う、今は掃除道具を入れてあるだけの穴だが、昔はこの穴の奥にイエスキリストを祀ってあった隠れキリシタンの聖地だった。その目隠しに石仏を置いたのだった。なんてくだらない事でも空想しないと飽きてきてしまう。

 旧道はまた国道と合流する。国道先の道には警官が何人か立っている。物陰には止まれの旗を持った警官もいる。スピード違反の取締り中のようだ。警察もゴールデンウイークの最中なのにえげつない事をするものだ。ここで捕まった観光客は二度と伊豆には来なくなるだろうに。それにしても捕まった人は可哀そうだ。これで9000円以上は盗られてしまう。近づいて見ると捕まっている車は2台で、いずれも伊豆ナンバーだった。

 取り調べをしている横を顔は神妙だが心の中でニヤニヤしながら通り過ぎる。
上り坂の道が右にカーブして小さな住宅に向かっている。いやこの道では無い。ともう1本あった山と住宅地を遮蔽しているフェンスの横の道に入ったのだが------
矢張りこの道が街道であるわけは無い。と思ったがはっきりする所まで歩いてみようと先に進んだ。じきにフェンスと道は終わり川にぶつかってしまった。仕方ないこれでは引返すしかないと住宅地の方に下り、庭作業をしていた人に聞いてみた。すると
「あそこは道じゃなくて土砂崩れを防ぐフェンスの土台で、下田街道は下の国道だ」そうです。
人の不幸をニヤニヤした罰が当たったのだろう。戻る途中立っていた警官に「街道かと思ったけど、この道は行き止まりでした」と言うと「そうですよ」と返ってきた。

   
  市山の石仏              警察の鼠取り             道が終わってしまった

 また左側に道があるが今度は入るのは止めよう。さっき間違えたのは街道と狩野川の間なら大丈夫の鉄則を忘れて、国道から山の方に入ったからだ。同じ失敗は二度はしないと通り過ぎようとしたのだが、案内板に気になる貼紙がある。「しろばんばの里」とある。
なに! しろばんばの里! それなら是非とも歩かなければならない。しかも貼紙には。「洪作少年が歩い道」ともある。イラスト化された観光地図の貼紙で現在位置を確かめて、行いきたい所を頭に入れてサー出発だ。

 最初に目に付いたのは「しろばんばの文学碑」の看板が立った公園だった。公園の奥にある文学碑にはしろばんばの冒頭が刻まれいた。
「その頃の、と言っても大正四、五年のことで、今から四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々に「しろばんば、しろばんば」と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さな生きものを追いかけて遊んだ。
素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。
しろばんばというのは、゛白い老婆゛ということなのであろう。子供達はそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、その白い虫がどこからともなく現れて来ることを、さして不審にもおもっていなかった」


 しろばんばを知らないって? しろばんばとは伊豆地方の呼び方で一般的には雪虫と呼ぶらしい。私の住んでいた御殿場地方では雪虫とかシロッコと呼んでいたような記憶がある。飛ぶと言うよりフワフワ舞っているような状態で勢いよく捕まえようとすると、その風の勢いでかスーと横に逸れてしまったりする。飛んでくるのは寒くなる前でこの虫が現れると寒くなると言った記憶がある。
最近では去年の11月に富士眺望トレインの明神山を歩いているとき何年振りかに見る事ができたのでチョット覗いてみてください。
 
 エッ!虫のしろばんばではなく小説のしろばんばを知らないって? ウーンあの小説は話の筋という筋は無く、親の都合で母親の実家に預けられた少年の目を通して、大正時代の湯ヶ島が描いている話です。更にこの小説で特異だったのは、少年を預かり一緒に生活した人が曾祖父の妾で、住んだ家が倉だったことで、これが話に膨らみを与え面白くしています。
この小説は井上靖の自伝的小説といわれ、後年になって自分一人を実家に預けた母親との心の葛藤を描いた「わが母の記」が現在映画化され評判を呼んでいます。

 話を元に戻して、その文学碑のある所は洪作少年とお婆さんの住んだ倉の家があったそうです。現在その倉は無く文学碑が建っているだけのようでした。
 公園の前には祖父母が住んでいた「上の家」あります。現在ある上の家は玄関の周囲はナマコ壁になっているが、さほど大きい家ではなく建物の造りも普通の家の感じだ。これではとても医者の邸には見えなかったが建てなおしたのだろうか? 井上靖の父親は軍医で母親の実家は湯ヶ島で医者をやっていたそうなので、もとっと立派で大きい家を想像していたのだが。

   
  文学碑のある公園              文学碑             上の家

 洪作の友達がいた雑貨屋の店、転校生がいた御料局など見ながら歩いていく。この先に小学校があるようだが現役の学校のようなのでパスしよう。そろそろ街道に戻ろうかと思った四辻の上の方に寺が見える。時間は10時40だが朝が早く腹が減ってきた、あの寺の境内で昼飯にしようと山門の階段を登って行った。
 左に石を組み合わせたような記念碑があったので近づいて見ると「亜米■賀使■泊」と書いてあるらしいが正確には読む事ができなかった。ただ最初の不明文字の旁が「里」なので多分「亜米利加」だ。次の不明の文字の冠が草冠のようだが分からない。
分からないまま更に記念碑に近づくと文章が彫ってあった。そこには

「湯ヶ島の村を通って、宿所の寺院へ向かう途中、その道路から私は右へそれた。そして、その瞬間、私は始めて富士山を見た。それは名状することの出来ない偉大な景観であった。(中略)その荘厳な孤高の姿は、私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。湯ヶ島の寺も梨本の寺と同様に、私を迎える準備をしていることを私は知った。アメリカ初代駐日総領事 タウゼント・ハリス「日本滞在記」岩波文庫」と刻まれていた。

そうか、ハリスは下田街道を歩いたのだから、どこかに泊まっている筈で、そのうちの一ヶ所がこの寺だったのか。なら先ほどの文字は使節団の節ではないか。となればあれは「亜米利加使節泊」と読めばいいのだろう。多分。

 ハリスと聞いて最初に思い出すのは「唐人お吉」のことだ。当時後進国だった日本に来た西洋人ハリスは当然の如く妾を要求し、下田芸者お吉を囲った。だが江戸に向かう時にお吉を捨てて行った。残ったお吉は皆に唐人お吉と後ろ指を指されて自殺してしまう。そんなイメージを持つハリスには余り良い感じは持っていなかった。
だがハリスが初めて富士山を見たときの感想を読んで、「偉大な景観で、その荘厳な孤高の姿」とか、さらには「ヒマラヤ山脈よりも目ざましい」とさえも言ってくれている。こんな感受性豊かな人が好色漢で非道な男とは思えない。どちらのハリスが本物なのだろう? 疑問に感じてしまった。
因みにハリスをネットで調べてみたら
「敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。下田の駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスに芸者のお吉を派遣した。ハリスは大変怒り、お吉をすぐに解雇している」ちょっと待てよ、それでは今までのイメージが180度変わってしまう。しかしこれだけで判断しては片手落ちになりそうだ。続きは下田に行って、実際にお吉の墓などを見てから結論を出そう。

 お吉はともかく、その荘厳な富士山は見えるかと思い回りを見まわしたが富士山は見えなかった。この後、境内に上がって見えた富士山は-----

   
 亜米利加使節泊の記念碑                   弘道寺からの富士山

 天城山弘道寺の境内でまず目を引いたのは石灯籠だった。石灯篭の基壇は石垣で、その上の基礎の部分は2段になり、下段は文字、上段は植物(?)が彫られている。その上の反花も2段だが上に乗っている中台が変わっている。四方の面にはそれぞれ彫刻が施され、二体の仏に狛犬とか、彫の入った扉の所もあった。またその角の4カ所には彫貫された仏の立像がある。
石灯籠の主体である火袋は、これはただ四方をくり抜いただけの火袋だったが、その上に乗っている笠の軒先には桟のような模様も彫ってある。ただ笠の上の模様や宝珠は高すぎて見る事ができない。
今まで何個かの石灯籠を見てきたが、このように中台の部分に仏の立像があるのは初めて見た。きっと由緒のある石灯籠なのだろう。

 寺の裏山は墓なのだろうか、一番下は赤い前掛けをした地蔵のようだが、その上は古い墓石らしき物が何基も見えるが新しい物は見当てらない。墓が少なく山間地にある寺なら真言宗なのだらうか、雰囲気の良い寺でのんびり昼飯を取らせてもらった。
帰りがけ「弘道寺の文化財」と書かれた案内板があり眺めてみると、伊豆市指定の文化財として「ハリス宿泊時の看板と床几」とあるだけで、私が感心した石灯籠は書かれてなかった。やはり私には古美術などを鑑賞する目は無かったようだ。
そうそう寺の宗派真言宗ではなく曹洞宗だった。どうも雰囲気の良い寺はすぐ真言宗と思ってしまう癖があるようだ。

   
  天城山弘道寺                石灯篭            裏山の古い墓

 弘道寺を出て街道に戻る。左折して両側に家に並んだ街道を行くと四つ角に出た。確かこの角を右折して行けば、しろばんばの洪作が従姉弟と一緒に入った共同風呂もあるはずだが、どうしよう、見たい気もするし時間も気になる。今時間は11時10分で頭で計画した時間では湯ヶ島を11時は出るとなっていた。今から共同風呂を見て帰ってくれば小1時間は掛かるだろうから出発が12時になってしまう。止めた、止めた。どうせ風呂を見ても入ることは出来ないのだから。

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