はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:掛川3城廻り(横須賀城趾)

2018-02-09 17:33:53 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                        高天神城址から横須賀城址までの概略図

        
             県道249号線                        旧大須賀町MH

  県道249号に合流した後の南への道は、緩やかな傾斜の下り道で歩き易いのだが、見る物がないのでつまらない。
両側に見えている山並が終らなければ横須賀街道には出ないのだが、まだまだ終わる気配は無く山並は続いている。
因みに横須賀街道とは、相良城から横須賀城を結ぶ街道とのイメージはあるのが、正確な事は知らなかった。
で、調べてみたがネットでヒットするのは “遠州横須賀街道ちっちゃな文化展” ばかり。
漸く探し当てたのはネットではなく5年前に歩いた遠州七福神の自分で写した写真の中でした。

 「通称横須賀街道遺跡 横須賀街道の名は徳川家康の第十一子頼宣が、駿府から横須賀に移封に決まったが、在府のまま
横須賀領を治める為に駿府、横須賀間の街道を整備し、駿府、相良間に馬次を開いたことに始まると言われています。
(中略)明治二十二年東海道線が開通し、堀之内(現菊川駅)が開設され、それに伴う県道が整備されるにつれて横須賀街道の
名は次第に薄れていきました。」


  成程と終わりたいが、文中で気になるのは “駿府、横須賀間の街道を整備し” です。この頃は既に駿府の東西には東海道は
開設整備されていました。そうなると東海道の何処から横須賀街道は分岐していたのでしょう?
ヒントは “駿府、相良間に馬次場を開いた” だと思うが、相良と聞けば思いつくのは 「田沼街道」 です。
その田沼街道とは江戸時代中頃、幕府の老中だったが賄賂政治を行い失脚した田沼意次から付いた名前です。
相良城主になった田沼意次は権力を使い、海寄りの藤枝から相良を結ぶ地点に、渡渉禁止にもかかわらず街道を造って
しまったと言われています。
尤も大井川の渡渉禁止は、東海道の島田・金谷間では厳しかったが、上流や下流の住民は大井川を渡って行き来をしていた
ようです。

  しかし田沼意次が相良城主になる以前の、徳川頼宣(よりのぶ)が横須賀城主になった頃は田沼街道はありませんでした。
そうなると横須賀街道の分岐点で考えられるのは、駿府藩の巡検使が相良に向かって歩いた 「巡検使の道」 です。
巡検使の道は駿府から東海道を金谷宿まで行き、金谷からは牧の原台地を下って相良に向かっています。
今ではどちらの道が頼信が整備した横須賀街道か分かりませんが、何れにしろ江戸時代初期から横須賀街道はあったようです。

  何も興味を引く物も無く、飽き飽きしながら歩く県道ですが今までと絵柄の違うMHが出てきました。
MHに書かれている 「大須賀町」 の文字を見て気が付きました。
そうだ! 横須賀は大東町ではなく大須賀町だったと。これでは当初考えていたウォーキング名の “大東 城廻り” の名前は成立
しませんね。イヤイヤ採用した 「掛川3城廻り」 が正しかったとは、掛川市の “掛川3城ものがたり展” のお陰です。
それとこのMHには私の苦手な英語が使われていて 「WE LOVE OSUKA」 なんて書いてある。
意味兎も角 “OSUKA” では “オスカ” とも取れますよね。街中で見かける “KOBA”も “コバン” と読んでしまうが、マー今回は
ヘボン式の疑問については過去何度も書いているので止めておきましょう。

  MHには似顔絵もあるが、顎の部分は遠州灘の波を表し、頭は小笠山を表現しているのかな? これが大須賀町のシンボル?
でもどうせなら町外の人も知っている横須賀城や三熊野神社祭の山車の方が大須賀町と分かりやすいと思うのだが。
それにしても大須賀とか横須賀と共に 「須賀」 が付いて紛らわしいが、須賀という言葉の意味は「砂浜、砂丘、砂州」の事
らしいです。
なので大須賀には “大きな砂浜” があり、その隣にある小振りな砂丘は、横の砂浜、即ちち “横須賀” になったと思う。
そう言えば東海道の遠州に白須賀宿もあるが、ここは砂浜は白かった事から付いたとか。今なら “白浜” かな。

 
               遠鉄横須賀営業所                               大須賀番所跡

  横須賀街道に出たが先ず駅に戻るバスの確認をしなければなりません。期待半分いや期待も不安も八分づつでバス停の標識を
探しながら県道69号となった横須賀街道を歩きます。
そんな不安を直ぐ解消すべくバス停の標識がありました。しかもバスの本数は平日1時間に2本、土日でも1本ありました。
これなら安心です。ただ行先は掛川駅ではなく袋井駅しかありません。ここは掛川市なのにどうした事でしょう。
多分掛川から横須賀までは小笠山の山中のため乗降者が少ないのでバス路線は無く、平地で住宅地の多い袋井駅に路線が出来た
のでしょう。暫く歩いて行くと道の左右には遠鉄バスの横須賀営業所があり、バスも数台停まっていました。

  大須賀番所跡だそうです。番所は元は横須賀城の追手門の外の街道脇にあり、城に出入りする人を見張っていたそうです。
一寸見は民家にも見えるが、一時は民家として使われていたと案内されています。

  
               大須賀図書館                                徳川家康着用の甲冑

  番所の傍には支所と公民館と図書館があるが、今日の目的の 「掛川三城ものがたり展」 が何処で開催されているか忘れてしまった。
先ずは番所に近い大須賀公民館に行ったが外れで、聞いた職員は 「知らない」 と言う。
一瞬焦ったが奥にいた職員の 「図書館でやっていますよ。」 の声で一安心でした。

  物語展を行っている2階に行くと中央に3城のジオラマが並び、周囲には縄張を含めた印刷物が貼ってある。
中で一番風変わりなのは甲冑だった。この甲冑は徳川家康が関ヶ原の戦いで着用した物を模写したそうです。
名前は 「大黒頭巾兜 歯朶具足」 だそうですが “大黒頭巾兜” は理解できるが “歯朶具足” は分かりません。
具足は脛を守る物としても “歯朶” は何でしょう。よく見ると口の周りが黒く覆われているが、そのことを云うのでしょうか?
見当がつかないのでネットで調べると大外れでした。
まず知っていると思っていた具足は、足の脛の保護など全然関係なく甲冑そのものの事でした。更に歯朶(しだ)も歯なぞ関係なく
 “羊歯(しだ)” の事で、鎧の上の飾り(前立てと云うらしい)が羊歯の葉を図案化した物を指すそうです。
よって歯朶具足とは、 「歯朶の前立てが添えられている甲冑」 という事のようです。


                              高天神城趾ジオラマ

  今、歩いてきた高天神城のジオラマがありました。このように立体的に見ると理解がしやすくなります。
これを見ると今日行かなかった二の丸や三の丸を増々見たくなります。そして甚五郎の抜道も気になります。
近いうちに再訪したい気がますます強くなってきました。

  ものがたり展はそれなりに収穫はあったが、どうしてもバスの時間が気になります。折角ビデオで3城物語が放映されていたが
見ずじまい。印刷物も読まない。で、写真に写して来ました。

 
               横須賀街道八百甚                             旧郵便局

  県道と別れて古い町並みの残る横須賀街道に入ります。ここ横須賀地区では秋になると 「遠州横須賀街道ちっちゃな文化展」
行われる事が有名です。これは普段生活している家の軒先や部屋、土間にバラエティ豊かな芸術作品が飾られます。
私も一度行ったのですが中々のアイデアで、住民が一体となって協力している事が感じられました

  街並みに入り三熊野(みくまの)神社は鳥居の外から眺めてパス。どうしてもバスに時間が気になります。
ここを通るときは必ず写す八百甚をパチリ。次は造り酒屋だったと言うが、玄関の屋根瓦には郵便局の 「🏣」 があるので
大元は郵便局だったのでしょう。そこもパチリ。
オッ! そこには 「凧揚げ まつり」 のポスターが貼ってある。そう言えばここ横須賀には 「横須賀凧」 があり、猿回しの猿が舌を
出している凧が有名だ。
そうだ! ここのMHの絵柄は、この凧がピッタリだ。横須賀凧の絵柄なら多くの人は横須賀を思い出すだろう。

  それにしても歩いていて 「大須賀」 の名称は役所関係の支所、公民館、図書館ぐらいで、後はみんな 「横須賀」 だ。
チョッと気になり旧大須賀町を調べてみると、何と!何と! 大須賀町は昭和31年に大浜村と横須賀村が合併して誕生した町名だ
そうです。なら大砂丘の横の砂丘だから横須賀との私の説は、大須賀と大浜の違いはあるものの一応正解かな。

  今日の土産は横須賀の愛宕羊羹と決めてあったが、ついつい街道を歩いて通り過ぎてしまいパス。
めったに土産を買わない私ですが、ここ横須賀の愛宕羊羹、森町の梅衣、奥山方広寺の大餡巻、三ケ日の浜納豆は必ず買ってます。
でも今日は気づいてもバスの事が気になり戻って買う気は起りませんでした。


                               横須賀城縄張1

  ものがたり展にあった横須賀城の縄張です。
最近歩いた山城と比べ如何にも城の縄張の感じがしますが、この縄張で気になる事があります。
まず縄張の中央には城の絵が描かれ 「天守閣」 となっています。山城には無かった天守閣がこの城には建っていたようです。
天守閣と云えば頑丈な物見櫓とか、権威を誇示するための建物ですが、しかし横須賀城は物見台が必要なら、近くには標高の
高い場所が無数にあります。なので城内にわざわざ頑丈な物見櫓を建てる必要はない。となるとここを建てた人物を象徴する
ための天守閣だったのでしょう。

物語展にあった資料を抜粋してみます。
 「高天神城が武田の奪われると現在の大東町付近から東は武田氏の勢力下に入った。
高天神城の奪回を目論む家康は、遠州平野の東は小笠山の北にある掛川城を陸の大動脈東海道の押さえとし、南の海上交通の
押さえとなる横須賀には、高天神城奪還の拠点とし地元の家臣大須賀氏に築城を命じた。
横須賀城の築城の場所は、小笠山南西部の沖積平野に深く入り込み、小笠山の支脈が長く延びて三方が入り江と沼や深田に
囲まれた要害の地で、入り江には横須賀湊もあり物資の補給地点としても有利な地点でした。」

この時点で家康は横須賀城を高天神城奪還するためだけの砦としてででなく、城を奪還後の遠州経営も考慮していたと思いたい。

気になるとと言えば横須賀城築城を命じられた “大須賀氏” の姓も気になりますよね。大須賀町は大浜村と横須賀村が合併して
誕生した町でしたが、この地に大須賀氏が存在してたという事は、当時は大須賀の地名があった事は十分考えられます。
何しろ武将の姓は地元の地名を名乗ることが多いのですから。という事は大浜村とは、地名だった大須賀を時代に合わせ大浜と
改名したとも考えられ、私の横須賀の地名説は大正解という事になります。

  オット天守閣の事を忘れていました。横須賀城に天守閣が建ったのは高天神城奪還後の豊臣方の武将が城主となった時です。
当時掛川城も豊臣方の山内一豊が城主となり天守閣を完成させています。これは豊臣とは縁の無かった遠州の住民に豊臣の力を
鼓舞する意味があったのでしょう。


                               横須賀絵図

  縄張で一番気になるのは縄張下に書いてある 「入り江」 です。
横須賀絵図を見てください。ここには “内海” とか “塩田” とも書いてありますが、運河に塩田があったとは思えません。
掛川市のHPにはこの横須賀城と掛川城の関係をこんな風に書いてあります。
 「横須賀城築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、
横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられています。」

何とも大胆な説で、今の逆川は途中で太田川と合流し、ずっと西の福田漁港に注いでいます。その川が7km東を流れていたとは。
しかしその大胆な説も、横須賀湊があった場所が、地震の隆起で海から2kmも内陸に入ってしまい、湊としての機能を失った
のですから十分考えられる説です。
この原因となった地震とは江戸時代中期に起きた宝永地震で、横須賀地区では土地が隆起して海退が起こったようです。
それでも横須賀城は太田川河口から運河を拓き、海上輸送を細々と続けていたようです。

 -- この海退は前回訪れた持舟城のある用宗でも起きていて、城の下にあった持舟湊が使えなくなっていました。
    一方焼津地区では海退とは逆の海進が起きていて、高草山の麓にある林叟院の元の場所は今では海の中だそうです。 --

        
            横須賀城水堀                                    玉石の城壁

  山城の堀は空堀で水が無いが横須賀城の堀には水があったものの、現在残っている堀はこの狭い範囲だけです。
横須賀城の特徴は、普通一つしかない大手門が東西にあり 「両頭の城」 といわれていた事です。
私が登場した場所は大手門の一つ 「東大手門」 側からでした。

  東大手門跡を入りまず目につくのは 「玉石積み」 と呼ばれる河原石を用いた石垣です。
これもこの城の特徴の一つとしてあげられているが、私にはこの石垣の玉石積みが最大の特徴ではないかと思えます。
城の石垣といえば巨石を組み合わせた石垣を思い浮かべるが、横須賀城の石垣は丸い河原石を積み重ねたように見えます。
それもそのはずでこの丸石は天竜川の石を船で横須賀湊まで運んだそうです。

 
               天守閣跡                                 城址から南方の眺め

  石垣の上は天守閣跡の広場になっています。山城と違い清々とした感じがしますね。
南の方を見ても海は見えません。海が遠くなった事もあるのでしょうが、城の標高が高くない事もあるでしょう。


                                玉石の城壁

  まさしく玉石の城ですね。この城壁に座って絵になるのは誰でしょう? 
勿論私のような年寄りではありません。私の頭の中にはセラー服姿の女生徒と学生服の男子が頭に浮かびます。
流れるバックミュージックは “わたしの城下町” や “古城” ではなく、梶光夫の“青春の城下町” です。
 “♬ ああ 青春の思い出は わが故郷の城下町 ♬” エッ!知らない? そんなー!
そうか あれから既に50年 半世紀以上前の流行歌を知っている人は少ないですよね。

  そんな空想が湧いてくるのは、城の空が広く明るく、地面は芝で公園の趣がするからでしょう。
それだけではなく横須賀城は過去一度も城内での戦は無く、戦死者も出ていない事も関係すのかもしれない。
何しろ今まで歩いた他の山城の全ては、多かれ少なかれ城内で戦闘が行われ戦死者が出ていました。
中には持舟城や高天神城のように城兵の多くが惨殺された城もあり、そんな城には戦死者の怨念が漂い空気を
重くしているのかもしれません。

  明るい爽やかな城壁を見ていると、まだ見た事はないが沖縄の城と似ているのではないかと感じます。
沖縄の城のイメージは、木も無い広場に建つ城壁だけの城って感じですが、横須賀城もスケールこそ小さいが似ていると感じます。
しかし沖縄の城は江戸時代の昔ではなく、そう私が生まれた後にも戦死者が出ていたのですから空気は重いかもしれません。

 
               玉石の城壁                                 バス停

  横須賀城が明るい理由がもう一つ有りました。普通古い石垣には苔が生え重みを増してきます。だがここの石垣は河原の玉石の
せいか、表面がツルツルしていた苔が生えていません。一方階段に使われている平らな石は黒くなっています。
玉石の城壁は重厚さは感じないものの明るい清潔感がいつまでも保たれるようです。

  西大手門跡か退出しバス停を求めて来た道を戻ります。
バスは1時間に1本あるのに何故か気が焦り、中途半端な見学に終わってしまいました。
次回は高天神城と横須賀城の2城を時間を掛けて見学したいと思っています。

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