はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道9回目-1

2011-09-20 09:39:17 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」9回目-1  2011/9/6

津島駅 ― 佐屋宿 ― 木曽川 ― 桑名宿 ― 四日市宿 ― 四日市駅
 8:30     9:50     11:05     13:00     16:30      16:50
                10.7k     16.2k     33.3      34.6k


      9回目歩行ルート
     

             木曽川へ(三里の渡し)

            

津島駅 ― 佐屋宿 ― ふたつやの渡し ― 木曽川
 8:30     9:50       11:00        11:20     
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 前回の失敗に懲りて持物は昨晩点検し、トイレも藤枝駅で済ましてきた。
出発地が徐々に遠くなり、出発時間もそれに伴い遅くなる。青春18切符を使っているので、なるべくJRの路線を利用したいのだが、今日の出発地のように私鉄の駅だと中々思うようには行かない。
藤枝駅からJRを最大限使うと 藤枝―豊橋―名古屋―弥富―津島となり、私鉄の利用料金は290円ですむ。だが到着時間は8時59分になってしまう。
一方もう少し私鉄利用を増やして 藤枝―豊橋―金山―津島とすると料金は440円と増えるが到着時間は8時28分と30分早く出発駅に到着する。
150円で30分が高いか安いかは別にして、出発時間が30分早くなるのは大きい。というわけで今回は金山から名鉄線で津島に来ました。

     
      名鉄津島駅

 津島駅を8時30分に出て、前回佐屋街道を離れた地点まで戻る。
前回の行程は宮宿から内陸部の北に向かい、佐屋街道に入ってから西に向かってきた。今日はその方向を南に向けて、桑名の海を目指すことになる。
前回七里の渡しから津島までは約25kmで5時間かかった。そして今日ここから桑名までどの位かかるか。七里の渡しが28kmで4時間。それが陸路の佐屋街道回りだとはたして何kmになるのだろう。

     
      佐屋街道址

 津島から愛宕神社までは直線道路を南下してきたが、愛宕神社からは住宅地の中の細い道を歩く。駅から50分も歩いた頃田圃の中に「佐屋街道址」と彫られた石碑があった。これは史跡となっているが石碑自体は昭和54年に建てられた物だった。
その石碑の少し先の信力寺に、一対の切支丹灯篭があるというので寄ってみた。小さな寺で境内も狭いのだが灯篭は見当たらない。だが一対の建造物というと五輪塔の前に立つ2本の石塔、これが切支丹灯篭なのか? 自信は無い。

     
      信力寺の切支丹灯篭??

 佐屋宿に入ったようだが宿場町の風情は残っていない。江戸時代には佐屋宿から桑名宿には三里の渡しがあり木曽川を桑名まで下っていた。その名残の道標が立っていた。
「左 さや舟場○」とある。古くて読みにくい案内板を見ると「この道標は舟乗場に行く道を指しているが個人の屋敷内にあったのを移設した」と書いてある。なら乗場は何所だろう?
さらに隣にある「きこくの生垣」の案内板には「江戸時代このあたりは佐屋宿舟番所前で旅籠があった」と書いてある。ならこのあたりが宿場であったのは間違いないようだが舟乗場の位置は分らなかった。

     
      舟場への道標

「きこくの生垣」も話しておかないと分りませんね。
この「きこく」とはカラタチの別名で天保(1841)の「尾張名所図鑑」に描かれていて、当時の姿を今に伝える大変貴重な物だそうです。

     
      きこくの生垣

でもコンクリ-トブロックの上の生垣は柘植の生垣のようにしか見えませんでした。

 そうそう前回歩いていて私が勝手に勘違いして悩んでいた木曾三川の事が分りました。
勘違いの元は佐屋街道に入って出合った橋に、長良橋の名前付いていたかとに端を発します。長良橋のの名前を見た私は、当然その川は長良川と思い込んでしまいました。
それが間違いの元で、その川は中川運河だそうです。
実際の長良川は県境の木曽川を越えてから、更に三重県に入った所にあり、長良川とその横には揖斐川が流れているそうです。

 木曾三川の事はそれで解決したが、今度は佐屋川について疑問が発生した。
ネットの中にこんな表現があった。
「かつて佐屋に、木曽川に通じる佐屋川が流れていた。川幅は通常でも127メートル余りあったという。佐屋湊から漕ぎ出す船は、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川と伝って、桑名まで運行した。
 時が過ぎ、治水技術も発達したため、水害対策もかねて佐屋川は木曽川から締め切られて廃川とされることになった。 佐屋川の埋立工事は明治20年から行われた。
これによってかつて佐屋を潤していた大河は、地図上から抹消されたのだった」
 となると矢張りこの辺りから三里の渡しは始っていたのだろう。

     
      旧佐屋町のマンホールの蓋

 船場の道標からは見所も無くただ歩くのみ。時折目につくマンホールの図柄が人魚が泳いでいる絵になった。これはきっとローレライを表しているのだろう。木曽川=ライン下り=ライン川=ローレライ=人魚 の発想で出て来たのだろう。しかしライン下りはここよりずっと上流だが。

     
      尾張大橋

 木曽川を渡る国道1号線の尾張大橋に着いた。さすが木曽川だけのことはある。900mに近い川幅一杯に、満々と水を湛えユックリ流れるさまは、まさに大河そのものだ。
静岡県にも木曽川より川幅の広い川はあるが、何せ水が少ない。それこそ河原砂漠で渇水期などは広い河原の中を、チョロチョロと流れているだけの事もある。
しかしまだこの橋は渡らず、もう少し先に渡し跡の石碑があるらしい。


 ふたつやの渡し跡の石碑            渡し跡の裏には役場跡文字が

 佐屋の三里の渡しと、ここのふたつやの渡しの関係は共に影響しあっていたようだ。
東海道の陸路の脇街道として三里の渡しが賑っていたころは、ここのふたつやの渡しは近郷の人たちの足として使われたようだ。
それが明治5年に新東海道が制定され、ここ弥富が宿場に指定されるとふたつやの渡しは急に活気が出て来た。
その反面三里の渡しは急速に衰えていったらしい。
そしてふたつやの渡しも昭和8年尾張大橋の竣工で消えていったという。

 色々の説があり、どれが真実なのか不明だが、私には理解できない事がある。
1.陸路といいながらも佐屋から桑名までは三里の渡しに乗らなければならない。
 そのため宮宿から佐屋まで6時間以上歩く事になる。
2.明治になり海岸近い弥富が宿場町に指定されたが、佐屋街道と違う街道が指定されたのか。
 同じ街道だとすると佐屋かここまでの1時間余計にかけて歩く事になる。何故だ。

 歩く事が好きな私でも6時間7時間歩いた後、渡しに乗るなら、七里の渡しで4時間で桑名に行ったほうのが良い。
海路も陸路も朝宮宿を出たとして、海路は4時間後に桑名到着する。ならまだまだ歩けるので次の宿の四日市までは行けただろ。
一方陸路は6時間かけて佐屋に行き、そこから三里の渡しに乗らなければならに。渡しが1時間としてもその日は桑名泊まりになるだろう。
歩く事が好きな私でも、これなら七里の渡しを利用するだろうな。


 河口に遊園地が見える              尾張大橋の途中にあった県境

 尾張大橋を渡りきったところに東海道の石碑が建っていた。

     
      尾張大橋右岸に建つ石碑

 これが新東海道の証拠なのか? 1号線の交通量が多く渡るのを諦めたが、石碑の横面には「明治○六年 四月の字が見える。
アレー明治ならまだ尾張大橋は完成しておらず、ふたつやの渡しは弥富から桑名に渡船で渡っていたはずだ。
それならここは新東海道でないはずだが-----  

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1 コメント

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Unknown (さや)
2021-02-11 09:55:40
地元民です。
当時、東海道の宮~桑名:佐屋路~桑名の使用率は、3:7だそうです。
木曽三川の河口は土砂が堆積していて、大きい船は沖に出て航行しましたので、船酔いと、女子供は犯罪に巻き込まれる恐れがあり、海路を避けたようです。
また、佐屋街道埋田宿から西行して津島神社を参拝して佐屋宿に行くのが更にポピュラーでした。

更に、宮~大須で遊んで、枇杷島橋を渡り(お城が見えるので)、甚目寺観音➡津島神社に至る津島上街道経由佐屋宿ルートも人気だったそうです。

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