はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道2-4

2011-02-25 16:07:58 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」2回目-4  2011/2/15

三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
 7:05       7:25      8:55     10:20      11:55       13:00      13:33
          1.5k      8.8k     16.0k      22.3k        26.2k      28.7k
 
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
   14:05      15:30      16:00       16:50       17:00     17:25
   30.8k      37.7k      39.4k       42.6k       43.6k     46.3k

                  蒲原宿へ(田子の浦ゆ)

        

富士川からは富士山がよく見えた。河原の土手が雁堤(かりがねつつみ)なのだろうか。
確かにここから見ても、あの山裾から堤防を造れば、その先に見える町は水害から
逃れられたことが分る。
一方岩淵側はどうだったのだろう。今まで東に流れていた水が西の岩淵側に押し寄せ
る事はなかったのだろうか。少々気になる。

気になるといえば、この富士川は交流電流の分岐点で、ここより東は50Hzで、西は
60Hzになっている。
そして一般的には静岡県の東部と中部の境も富士川とされている。
更に地震の源にもなる富士川糸魚川大構造線も、この富士川を走っている。
この様に文化的や地形的にも違う富士川町と川向こうの富士市が合併してしまった。
電気設備は二重に必要になり、橋を渡らなければ、行き来の出来ない場所では、
駿河湾地震が発生したとき、救援活動がスムーズに出来るか心配になる。
個人的には富士川の西の富士川町、蒲原町、由比町が合併して庵原市となれば自然
だったと思うのだが。

話がそれてしまったが、橋から川底を見ると所々に岩礁が見える。
昔この岩礁を削って川底を下げて、舟が運行できるようにしたという。
舟には人を30人、牛馬を4匹乗せ船頭が5人ついた結構大型な舟だった
とも書いてある。船賃は一人16文と書いてあるが、これが高いの安いのか----

        

富士川の西岸に着くと一気に登りになり、今日最初で最後の坂を登る。
坂を登りきると間の宿岩淵の本陣があった。
小休本陣常盤邸は、街道沿いの黒い塀に囲まれた由緒ありげな建物で、国の有形
文化財に登録されている。
内部が公開されているので見学する予定だったが、今日は定休日なのか、時間外
なのか何故か門は閉まっていた。
今3時50分。今日は富士川駅をゴールにするか、次の蒲原宿まで行って蒲原駅をゴール
にするか迷っていたが決心がついた。この本陣を見学しないのなら蒲原まで行こうと。

        

枡形なのか街道がカーブしているところに江戸から37里目の岩淵の一里塚はある。
江戸時代から現存する貴重な一里塚で、左の標識の建っている一里塚の榎は植え替えて
あるが、右の榎は江戸時代からのものとある。
見事に成長した木は一里塚を凌駕して、まるで自分の花壇のようにしてしまっている。
塚の間を走る県道がいかにも窮屈に感じてしまう。

             

「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 」
ご存知万葉集の山部赤人の歌だが、この歌は田子の浦から富士山を見ての歌だとして
「田子の浦を通って見渡しの良い所に来たら、真っ白な雪を抱いた富士山が見えた」
と解釈されている。
そして詠った場所はというと、「田子の浦」の「ゆ」が、どこどこを通ってとか、
経由して、という意味だそうなので、田子の浦を通過した場所になる。

ならば赤人は東国から京に向かう途中、鈴川の海岸付近から見た富士山を詠ったのか。
いや違うと思う。東国から来たなら、それまでに何度も富士山の全容は見ていて筈だ。
それなら感激の度合いも減っていて、この様な歌は詠めなかったと思う。



以後は私の独断と偏見になってしまうが、私は以前からこう考えていた。
赤人は京から東国に向かって歩いているとき、岩淵に来て、初めて何の妨げもない
富士山の全容を見た。そして感激して詠ったのが、この歌ではないのだろうかと。

しかしこれでは田子の浦を通っていないので「ゆ」が意味をなさなくなってしまう。
大丈夫!こんなデータもありました。

「むかしの田子の浦は現在とは異なる場所にあって、現在の庵原郡由比町から
蒲原町の海岸あたりが、かつての田子の浦です。
現在の田子の浦は、そこよりもっと東の富士市の海岸になっている」

どうですか、これなら「ゆ」に必然性が出てきます。よって

「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 」


は山部赤人が岩淵で詠んだ歌です。

写真は雲が多く、また最近では民家が建って見づらいですが、江戸時代の街道の
一里塚付近から見た富士山と愛鷹山です。
それ以前の街道はもっと海岸寄りで、山部赤人が見た富士山の景色は、JRの
東海道線や新幹線の辺りから見た感じになるのではと思います。



面白い水準点があった。水準点のマンホールの蓋に水準点・国土地理院と書かれ
日本地図と測量機を覗く人物が描かれている。このマンホールの中に標高の水準に
なる物が入っているのだろう。
そういえば原のお寺の境内の中にも水準点があったが、そんな場所にある水準点の
使い方を一度専門家に聞いてみたい気がする。そう水準点だけでなく三角点も。

アッそうだ、さっき富士川の手前の水神の森近くの住宅街で、狭い車道の脇に
三角点があった。
畑に中、森の中、住宅地の中と、見通せない所にも三角点は一杯あるが、本当に
利用しているのだろうか?

車道が突然新幹線の軌道で遮断されていた。歩行者は狭いガードを潜って渡れる
ようになっている。旧の東海道はこの道になっているので、JRが気を利かして
ガードを造ってくれたのだろう。

          

岩淵にはやけに秋葉神社の常夜灯が多い。富士川を渡ったところ、本陣の横、
一里塚といたる所で目にした。岩淵は秋葉信仰が強いのか? となると以前に
大火の経験でもあったのだろうか?

               

明治天皇の休憩場所の記念碑がある。今までも一里塚より多い感じで、この碑は
建っていたが、ここの碑には「明治天皇御駐輦之址」と記されていた。
この「輦」の字を使った碑は小田原からここまで目にしなかったが、実は金谷宿の
菊川坂の石畳の上にもある。
一度ブログで紹介したこともあるが、未だにそのとき感じた疑問は解けていない。
今回も金谷宿に行ったとき、その疑問を紹介しようと思っている。



道は東名高速の切通しの横に付いていたが、多分この道は新しい道だろう。
新しい物が出来れば古いものは壊され運命なのは仕方ない。
ただ岩淵の一里塚のように今もその原型を保っている物は保存してもらいたい。

道脇に馬頭観音の石仏があった。



蒲原の一里塚に着いた。ここが38里目で岩淵の一里塚の次にあたる。
距離はどうだろう。今度はしっかり書いてあった。GPSの距離は3.3km。
なんだか短い感じだ。案内板を読むと
「最初の一里塚は元禄の大津波で流失してしまい、宿の移転に伴って、
ここに移されました」とあった。なるほど、その影響で距離が短くなったのだろう。

一里塚を少し行ったところが東の木戸跡だった。沼津宿の伝でいけば一里塚は
宿場の中には造らないとあったので、ここの一里塚の距離が短いのは仕方ないな。



安藤広重の蒲原の「夜之雪」は五十三次の中でも傑作といわれている。
しかし温暖な地の駿河では、絵のような雪が降ることはないので、これは広重の
想像で描いたものとも言われているらしい。
マーそれはともかく、少しでも絵に似た場所はと、キョロキョロしながら街道を
歩いたが見当らない。
「蒲原夜之雪記念碑」なる場所にも行ってみたが、浮世絵とは似ても似つかない
場所だった。だいたい街道沿いには、絵にあるような山が接近したところは無い。
それでも下り坂と登り坂の鞍部があった場所は、夜之雪記念碑へと向かう辻だった。



蒲原の宿には黒塀に囲まれた旧本陣跡の平岡家、薄緑色の旧歯科医院の家屋など
古い建物が現存している。街道も旧国1とは別のため車が少なく落着いて歩くことが
でき、町の説明も所々にあるので飽きることがない。

今日の歩行距離は、ここまでで43kを越してしまった。蒲原駅はまだ先だが
何とか明るいうちに着く事ができそうだ。

静岡嫌の東海道2-3

2011-02-24 12:08:03 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」2回目-3  2011/2/15

三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
 7:05       7:25      8:55     10:20      11:55       13:00      13:33
          1.5k      8.8k     16.0k      22.3k        26.2k      28.7k
 
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
   14:05      15:30      16:00       16:50       17:00     17:25
   30.8k      37.7k      39.4k       42.6k       43.6k     46.3k

                     富士川へ(塞の神)

(前日の東海道の疲れが残っていて、目はショボショボ、気力は減少で
ブログを書く気にならなかった。やはり50k越えは、私にとって厳しすぎた。
次回からは多くても50kを越えないようにしよう)


        

寺の中に望嶽碑があるというので立円寺の境内に入ってみた。
確かに望嶽碑はあったが、碑の後ろは壁になっていて富士山も愛鷹山も見えなかった。
どうせ望嶽碑を建てるなら山の見える場所に建てるべきだなどと思いながら、隣に
ある赤錆で覆われた碇の案内板を読んでみた。
昭和54年の台風で田子の浦の海岸に打ち上げられた、インドネシアの船の碇だと
書いてある。昭和54年だと今から31年前になる。それで思い出した。
この難破し船を見学に子供を連れてきた事があることを。
確か難破船は波打ち際で横になることなく真っ直ぐ立っていた。
海岸には見物客がいて露天も出ていたと思う。

その時連れきた子供はもう二人の母親になっている。自分もこの碇のように皺と白髪で
覆われて、そのうちボロボロになってしまうのだろう。

        

昭和放水路の近くに一里塚があるはずだと探したが矢張り見当たらない。
近くにちょん髷姿の銅像があり、この辺りを開拓した増田平四郎と紹介してある。
田子の浦は昔は浮島沼といわれた一大湿原だった。その湿原の開拓に挑戦した人の
碑が、この街道沿いに幾つかある。例の助兵衛さんもその一人だ。

ところで、一里塚はこの銅像の近くにあると、市役所で立てた立札には書いてあるが
残念ながら見つけることは出来なかった。

        

達磨市で有名な毘沙門天の妙法寺に着いた。階段を登らなければならないが
この寺にはお金を洗うと2倍になるという銭洗い池がある。
ヨシ私も100円玉を洗って、お金を増やしてやろう   と洗ってみたが-----

毘沙門さんを過ぎて狭く感じる車道を歩く。右手に須山方面に向かう県道76号の
踏切がある。この踏切は去年の夏「海から剣ヶ峰」で通った踏み切りだ。
ということは、この右手の海岸は鈴川海岸なので、大蛇の生贄になった阿字神社に
近いはずだ。注意しながら歩こう。

踏切があったが工場の入口のようなので通過した。すると道は線路沿いに真っ直ぐな
道になった。前方には駅の弧線橋も見える。不味い!確か旧東海道は吉原駅の北側の
はずだ。慌てて引返し踏み切りを渡ると、道は工場に入らず左に延びていた。
踏み切りの名前は鈴川踏切なので、阿字神社はこの辺りだろうか。

吉原駅前の交差点に来てしまったが阿字神社はなかった。
この吉原駅は以前は鈴川駅と言っていたので、鈴川はこの辺りに間違いないのだが
神社はない。誰かに聞きたいのだが駅前なのに歩行者がいない。
とそんな訳で阿字神社には行き着けなかった。



国道139号に合流し、国1バイパスの下を潜った所で道はぐんと北にカーブする。
江戸初期の頃の東海道は現在の線路沿いだったが、たび重なる津波の被害で街道を
北の山側に移動して宿場も移動したとある。
そのため歩行ルートの地図を見ると、吉原駅から富士川駅にかけて北に膨らんで
いることが分る。その移転のお陰で、この名所左富士は誕生した。

それにしても江戸時代の人は、どうでもいい事に感動する人達だ。
たかだか富士山が左に見えるだけで名勝にしたり神社を建てたり。
いや逆に言えば何でもないような事柄から、楽しみを見つけることの出来る
達人なのかもしれないな。

        

平家の大軍が水鳥の羽音に驚いて"スワ源氏が攻めてきた”と戦いもせずに敗走した
「富士川の戦い」の場所に着いた。現在は平家越え橋の袂に記念碑が建っている。

その橋は富士川に架かっている橋かって? 
いえ勘違いしないでください、この橋は小さな川の小さな橋でした。
では富士川の戦いは嘘なのか?これも"いえ"らしいです。
富士川は江戸時代に左岸(東)の堤防(雁提)が出来るまでは、その流れを縦横に変え
ていた暴れ川で、富士川の戦いがあった頃は、今よりずっと東側を流れていたと
いう。そして雁堤が出来て本流が西に移動して、残された支流がこの川なのだろう。

また話は脱線します。富士川の戦いでは、水鳥の音を敵襲と勘違いして逃走した
平家を嘲る説明が多い中、こんな見方もありました。
「水鳥の羽音で源氏の来襲を知った平家軍は、全員退却をして被害が出なかった。
一方水鳥の羽音で敵に来襲を察知された源氏方は、敵を取り逃がしてしまった」

        

吉原宿は現在の富士市の繁華街でアーケードになっていた。
途中看板には本陣跡などが記載はされているが、現地には何の標識も見当たらない。
見落としたのか、それとも元々無いのか分らないが、吉原宿の距離や時間、そして
写真を写す事が出来なかった。
それにしても吉原宿の中は分りにくかった。今回の東海道で始めて迷ってしまった。

潤井川を渡り民家のブロック塀の横を歩いていると、大きな顔の石仏があった。
忽を持って頭巾でも被っているのか、今まで見たと事がない格好だ。
古さも大分古い感じで、決して新しくない。

石仏を見ている内に、忽を持った形で思い出した。今日歩いてきた原の助兵衛さん
の石碑の所にあった、石仏が同じような形をしていたことを。
デジカメの画面で確認すると矢張り似ている。きっと同じ種類の神様なのだろう。

家に帰り調べてみると東海道の道中記に「袂の塞の神といわれる道祖神があった」
「蓼原の単体道祖神」とかの表示があった。では袂とはなにか。
たもとと読む地名なのか?調べてみたが地図にも郵便番号にもなく、ヒットしたのは
道中記でこの塞の神を紹介した物ばかりで結局分らなかった。

次に塞の神を調べてみると、これは「さいの神」といって、道祖神の元になる神様
らしい。この塞の神のお祭りも道祖神と同じで、1月14日に正月のお飾りなどを
燃やすドンドン焼きもあるようだ。
国語辞書によると「塞」には道を塞ぐ 流れを塞ぐ 閉ざすなどの意味があり、
悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために、塞の神を村境・峠
・辻などに置いていた。とあった。

この忽を持った姿は外にも似たものがある。
それは電車の中の携帯を持っている乗客の姿です。彼らが携帯電話を両手で前の
方に持つ格好は、さながら忽を持つ塞の神のように見えませんか?
そして現在の塞の神は、忽では無く携帯で他人からの干渉を塞(防)いでいるのかも。

        

富士川に近づいてきたようだ。民家の間から枯草色をした堤防が見え隠れしている。
これが有名な雁堤(かりがねつつみ)なのだろうか。
雁堤とは江戸時代初期に造られた堤防で、雁が群をなして飛んでいるように見える
ので名付けられたいう。この堤防が完成のお陰で暴れ川だった富士川の流れは
定まって富士・吉原方面に新田が開拓された。
その雁堤の南端の水神の森に着いた。堤はここから北へ2.7kmも続く長い堤なので
歩く事は遠慮して、この水神の森にある水神社にお参りするだけにしよう。

境内に目を引く石碑が二つあった。
一つは「富士川渡船場跡」とあり、ここから対岸の岩淵までは渡船だった事が分る。
徳川幕府の江戸城防御のため、くだらない政策を強いたものだ。
当時は少し大きい川だと渡船か徒歩渡りで旅人は難儀したことだろう。
川の水量が増加すれば当然川止めになり、川の両岸では渡船の再開を待つ人がいる。
その人達の泊る宿は手前の吉原宿では遠すぎるので、途中に間宿の本市場ができた
のだろう。
本市場では白酒や雑炊、肥後ずいきが売られていたと看板にはあり、中でも肥後
ずいきは本場肥後の物より品質が良く、良く売れていたと別の資料には載っていた。

まてよ確か江戸の吉原遊郭の名前の語源は、遊郭の開拓者の出身地、ここ吉原から
きていると聞いたことがある。とするとその開拓者は肥後ずいきを使って客を
喜ばしたのだろうか。いやあれは客が喜ぶのではなく----------
また脱線してしまった。

もう一つは「富士山道」と彫られた石碑で、裏には宝暦8年とある。
まてよ、ここが富士山の登山道ということは、富士川より西の人は、この水神の森
から富士宮に向けて歩いて、富士山に登った事になるのではないか。
私の知識では江戸時代の富士登山は、田子浦の海岸で禊をしたあと、鈴川の富士塚に
お参りする。そして富士塚から富士宮に向かい、最後は村山登山道から山頂に登った
と思っていた。
しかしここ水神の森が登山道だとすると、ここから更に東に向かう富士塚まで態々
行ったのだろうか? 私なら考えられないが、昔の人は歩くことを屁とも思っていな
かったのだろう。それに富士講という宗教が絡めば、距離が延びても何とも無いか。

この様な「富士登山道」の石碑が水神の森から富士宮にかけては、もう無いのかな?
私が地元なら、この石碑を探してみたい気がするな。



静岡の東海道

2011-02-22 03:05:07 | ウォーキング
今日は蒲原駅をスタートして
由比―興津―江尻―府中と歩き静岡駅をゴールにする予定だ。
距離は27kmで30kmを切りそうだが途中の難所のサッタ峠を越えなければならない。

その次となると丸子―岡部と宿場が東海道線と離れてしまい、駅が近づくのは藤枝宿を
過ぎたところの藤枝駅になる。
距離は50kmを越えてしまい、更に難所の宇津ノ谷峠も越さなければならない。
それでは到底無理な気がするので今日のゴールは静岡駅とした。

静岡県の東海道2-2

2011-02-21 12:07:16 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」2回目-2  2011/2/15

三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
 7:05       7:25      8:55     10:20      11:55       13:00      13:33
          1.5k      8.8k     16.0k      22.3k        26.2k      28.7k
 
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
   14:05      15:30      16:00       16:50       17:00     17:25
   30.8k      37.7k      39.4k       42.6k       43.6k     46.3k

                     原宿へ(六王子)

サーいよいよ車道沿いを歩く街道の始りだ。
旧国1より更に前の旧旧国道1号が江戸時代の東海道と同じでその道を歩く事になる。
片側1車線で交通量もかなりある。歩道は右側は白線のみの歩道だった。
この道の南側は旧国1が走っていて、その横は千本松原が続いている。
だが残念ながら歩いている道は両側に家並みが続き千本松原は見えなかった。


        

車道歩きに飽きたころ神社の境内に「従是東」と太く深く彫られた石碑が建っていた。
説明を読むとこれが沼津藩の領境傍示で、一般的には領界石とか境界石とか言われて
いる物だ。この石碑はその上半分だけが残っていて実際には「従是東沼津領」と書か
れていたらしい。
説明には西側の領界には「従是西沼津領」と彫られた領界石が建っているとある。
場所は黄瀬川を渡り旧道が国道1号に合流する辺りらしいが見落としてしまった。

しかしここで又もや疑問が発生した。
確か千貫樋の説明の中に「下を流れている境川が伊豆と駿河の境だった」となっていた。
だが沼津藩の領界石は、そこより大分西で黄瀬川を渡ったあたりだという。
それでは境川と領界石の間はどこの領地だったのだろう?
現在の市町村区分では境川から東が三島市で西は黄瀬川までが清水町になっている。
そしてその黄瀬川からさらに東が沼津市になるのだから分らなくなる。

領界石は境界から何キロも離れた場所に建てることもあるのか?
「従是西沼津領」の領界石は明治時代になって移動したのか?
現在の清水町の辺りは沼津藩以外の領地だったのか(例えば飛び地)?

たった一つの領界石でこれだけ空想してしまうのだから、単調な街道歩きも続ける
ことが出来るのだろ。
          

「駿河には 過ぎたるものがふたつあり 富士のお山と 原の白隠」と謳われた
白隠和尚が住職だった松陰寺がある。
白隠和尚とは原宿の生まれでここ松陰寺で出家をした。
当時白隠が所属する臨済宗妙心寺は衰退していたが、成長した白隠の働きで再興する。
白隠は妙心寺派の中興の祖と称えられ500年に一人の名僧と尊敬を受けていた。
後年大寺院の妙心寺住職をしていたが、そこを止め生まれ故郷の片田舎の松陰寺に
戻って住職になり生涯を終えた。

松陰寺の境内には有名な擂鉢の松がある。
擂鉢の松とは、岡山藩主から贈られた高価な備前焼の擂鉢を、折れた幹が腐らない
ようにと、惜しげもなく擂鉢を被せた松のことで、白隠の慈悲と無欲の象徴として
今でも高い松の上に擂鉢は見えている。

ただし、今の擂鉢は贈られた備前焼の擂鉢でなく、レプリカの擂鉢とか----



富士山が見えていないので似たような写真を撮ろうとしても無理だった。
本来なら愛鷹山の横には富士山が見えて少しは似るかもしれないが----

原宿を歩いていて気になったのは寺の看板が頻繁に出てくることだ。
それもそのいずれも南の海側にある事だ。
地図で調べてみると本陣跡付近に寺が6ヶ所もあった。
そこで思い出した。以前聞いた読んだのか忘れたが、原宿は津波の被害を避ける
ため寺を海側に建て津波の防波堤の代わりにしたとあったことだ。
確信が持てずネットで「原宿 寺 津波」と検索した。ヒットしたのは次の宿吉原の
ものが多くて、原宿のは少なく、またその内容も私の求めるものはなかった。
私の思い違いか空想の産物なのか??

        

一里塚の場所を見つけるのが難しい。この一里塚は31里目の一里塚だが30里目と
32里目、33里目は見つけることが出来なかった。
多分この辺りだと思って近所の人に聞いても知らないという。きっとこの写真程度の
標識はついていると思うのだが、興味のない人には目に入らないかもしれないな。

        

またまた面白い石碑を見つけた。
手前にある低い石碑に「桃里開闢400年・改称百年記念碑」と書いてある。
何を改称したのだろう。
大きな石碑は漢字ばかりで読みにくいが中ほどにこんな文字が見える
「助兵衛新田然助兵衛名習俗冐?淫婬猥人綽------」これを私流に解釈すると
「助兵衛新田は助兵衛の名前が習俗を侵し淫猥卑猥にして---」となってくる。
ようは400年前に助兵衛新田と呼んでいたのを100年前に桃里に改称した記念碑だ。

これにより400年前の江戸時代は助兵衛さんは助兵衛さんでしかなかったが、
100年前の明治には助兵衛さんはスケベと誤解されるようになったのだろう。



改称記念碑の近くに風化して原型が何だったのか分らない石仏があった。
その石仏を過ぎて暫く行くと、今度は新しいような古いような石仏がでてきた。
先ほどの風化した石仏と、どことなく似かよっている。
どうやら風化した石仏のもとは、この石仏と同じだったのかもしれないと感じた。
この石仏は吉原宿を過ぎた辺りにもあったので、その時また話します。

        

丁度12時になった。どこか食事をする所は無いかと探していると。東田子の浦駅の
近くに六王子神社があった。その境内に入り昼飯を食べる事に。

昼飯を終え境内に建っていた神社の縁起書読むと、ここにも気になることが書いてある。
「三股の伝説・三つの川が合流する三股渕に龍が住んでいて、毎年若い女を奉げていた。
ある年、関東の巫女7人がここを通りかかり、巫女の中で一番若い「おあじ」が生贄に
されてしまった。仲間6人は国許に引き返そうと戻る途中。ここ柏原まで来て悲しみの
余り世を儚んで浮島沼に身を投げてしまった。村人は6人の亡骸を引き上げて祀ったのが
六王子神社といわれている。おあじは鈴川の阿字神社に祀られています」

なるほど、ここの村人は仲間を生贄にされ力を落とし身を投げた6人の巫女を祀った
心優しい人達だ。
では生贄にした鈴川の村人はどんな理由を書いて「おあじ」を祀ってあるのだろう。
もう興味津々だった。これでは是非鈴川の阿字神社に行かなければ。

結論を先に言ってしまうと、残念ながら阿字神社を見つけることが出来ませんでした。
そこで例によりネットで調べてみると富士市役所の昔話で紹介されていた。
「生贄にされるおあじは覚悟を決めていたが、徳川家康に毒蛇退治を命令されていた
地元の僧侶が三股渕で読経すると、毒蛇は鱗を何枚か残して退散してしまった。
命の助かったおあじは仲間を追って柏原まで戻り、そこで仲間の死を聞いて、あまりの
悲しさに同じ沼に身を投げてしまった」
何々おあじは柏原で身を投げて死んだって? 柏原の六王子神社にはそんな事は一言も
書いてない。もしこれが本当なら柏原の住民は六王子神社を七王子にして一緒に祀った
に違いない。それにいつの間にか龍が毒蛇になってしまっている。

さらにこんな話しも
「生贄になるおあじは京にどうしても行かなければならない用事がり、用事を済ませた
ら必ず戻る事を約束して京に向かった。
生贄になる為に吉原へもどるお味の話が帝にもしれ、おあじを生贄にしてはならない
という宣旨も出た。
一方毒蛇は僧侶達の読経で逃げてしまったので、おあじは生贄にならないですんだ。
だがおあじは大蛇の霊を慰めるため三股渕に堂宇を築き一生を終えた」とあった。

伝説とはこんな物で、話をする場所や人により都合よく変わってしまうのだろう。
では本当はどうか---
「毎年洪水で悩まされていた鈴川の村人は、人身御供をお供えして三股渕の流れを
鎮めようと、京に向かう7人の巫女の一人おあじをかどわかした。
おあじを三股渕に沈めてしまった鈴川の住民達に暫くして柏原の住民が、身を投げた
6人の巫女を神社に祀って供養しているという話が聞こえてきた。
それを聞いた住民たちは、このまままでは自分達が悪者になってしまうと慌てて
神社を建てておあじは生きていているという話を作った」
まー迷探偵はぐれ刑事の推理ではこのようになる。

それにしても何故六王子なのか?王子とは昔は女性も指していたのだろうか?

静岡県の東海道2-1

2011-02-19 10:19:11 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」2回目-1  2011/2/15

三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
 7:05       7:25      8:55     10:20      11:55       13:00      13:33
          1.5k      8.8k     16.0k      22.3k        26.2k      28.7k
 
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
   14:05      15:30      16:00       16:50       17:00     17:25
   30.8k      37.7k      39.4k       42.6k       43.6k     46.3k

    

1回目の東海道の箱根八里は懸念していた街道歩きの不安を吹き飛ばしてくれた。
国道脇を歩くこともあったが大部分は歩道で、しかも興味をhかれる史跡があちこちにあった。
こんな道が続くなら東海道を何回歩いても良いとさえ思った。

だが今日の行程は箱根を下った三島から、平になった道を延々と富士川辺りまで歩く事になる。
そしてその道の全ては車と共用の道で歩行者専用や山道は皆無だ。
いよいよ現代の東海道の難所の始まりとなるのだが、その結果は果たして-------

                     沼津宿へ(千貫樋)

        

三島駅を降りると雨が止んだばかりのようだ。まだ傘を広げている人もいる。
もう言うまいと思っても言いたくなる。全く天気予報の奴め! 6時からの予報は10%だったのに。
それでも雨が止んで良かった。何しろこの「駅からウオーク」は晴の日に歩く事にしているので
合羽は持っていない。今日も常に持っている折り畳みの傘があるだけだから。

三嶋大社の池は湯気が発生していた。水温が気温より高くなるとき生じる現象らしい。
曇っていて放射冷却も起きていないのに寒いなんて何故だろう? 三島は温暖な伊豆半島の付根
だから暖かいと思ったが箱根からの冷たい風が降りてきて寒いところなのかな?

        

三島は水の都で富士の雪解け水がこの辺りに自噴している。
道脇にセンサーで動く人形が井戸から水を汲んでくれた。ありがたく柄杓で一杯貰ってっと。

その少し先に三島本陣跡の石碑が建っていた。

        

こんな石碑では面白くもなんでもないが当分はこんな本陣跡しかないだろう。
それでも証拠写真に1枚写しておいた。

小さな橋の上に看板がある。
読んでみると「千貫樋(せんがんどい)」とあり橋の下を流れる小さな川の説明だった。
時は天文(1555)年、今川と北条の婚姻が纏まり、その引き出物として北条が水不足の駿河の伏見や
八幡に三島楽聚園の小浜池から42.7mの樋を作り水を送ったという。
名前の千貫とはそのとき使った費用とも、この樋のお陰で千貫増えた禄高の事ともいう。とあった。

まてよ楽聚園の前は今歩いて来たが、とても50mやそこらではない。きっと2kmはあるだろう。
気になって家で調べてみると確かに楽聚園からこの辺りまで川が続いている。更に川は東の方向の
伏見や八幡を経て黄瀬川に注いでいた。もしこの川が千貫樋としたら4km以上はあるだろう。
看板の42mはその一部を樋で作ったと云う事なのか? 分らない。

        

更に疑問に感じたのは看板を読んで下を覗くと、余り綺麗とはいえない小さな川が見える。
この川が千貫樋?看板には「当時の木製の樋を現在の鉄筋コンクリートに改めた」とあるが
下の川はコンクリートで囲ってあるようには見えない。ただこの川の奥の方にコンクリートの橋の
ような物が見える。若しかしてあれが千貫樋?と思い露地を通って写したのがこの写真です。

もう一度看板を読み直してみる。看板の最初に「伊豆・駿河の国境、境川にかけられている樋で」
と書いてある。アッそうか「かけられている」のだから樋は川の上にあると表現していたのだ。
なんともお粗末な理解力だったが、まだ何となく釈然としなかった。

写真の川は低いところを流れているので、果たして千貫樋なのかどうか-------



江戸から28里目の伏見の一里塚は寺に挟まれた交差点の左右にあった。
写真左の玉井寺の一里塚は江戸時代から一里塚で、右の宝池寺の一里塚は昭和60年に改修された
とあった。

        

玉井寺の門前には今日行く予定の原の松陰寺の住職、白隠和尚の書いた「三界万霊等」の石碑が
建っていた。以下は受け売りです。
「三界とは生れ変り死に変わりする世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことである。
故に三界万霊とはこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである」とか
「三界とは欲界、色界、無色界をいい、万霊とは欲、色、無色界の精霊の全てをさしている。
それらを供養することが三界萬霊塔である」らしい。



源頼朝と義経が兄弟対面をしたとき座った石が黄瀬川の近くの八幡神社にある。
この辺りは駿河一国33観音廻りで歩いた道で、この対面石もそのとき見ている。

マーこれこそが後の時代になって適当に理由付けしたもので、この石もどこからか適当な石を持って
きて並べたに過ぎないだろう。



安藤広重の描いた東海道と現代の東海道との違いを感じようと浮世絵を描いた場所の写真を写そうと
思っていた。浮世絵は黄瀬川沿いの街道を金比羅詣でに行く旅人を描いたものものなので、私も
同じような景色を探したのだが、しかし現代の街道は黄瀬川は横断するだけで川沿いを歩くようには
なっていなかった。
これから行く場所で浮世絵と似たような場所が果たしてあるだろうか----

        

また面白い看板があった。大きく「日本三大仇討ちの一つ」と書かれている。
曽我兄弟の仇討ちの事かと近づいて読んでみると全然違かった。中に荒木又右衛門や渡辺一馬の
名前があるので伊賀で起きた「鍵屋の辻決闘」のことだろう。
内容は数馬の妻の父平作がここで茶店をしていて、そこに敵の居場所を知っている男がきた。
平作は男に敵の居場所を教えてくれと言って自害をしてしまう。
男はその情に引かされて敵の居場所を教えてやったので数馬は本懐を遂げる事が出来た。
マーそんなことが書いてあった。しかし敵の場所を教えた男は自害した男の父親とも書いてある。
そのへんが良く分からないが浄瑠璃の話なのだから仕方ない。
今ではこの地蔵の事を「平作地蔵」と呼んでいるらしい。

平作地蔵の先に三十一里目の一里塚があった。看板に30里目の伏見の一里塚より計測すると短いが
本来の場所だと宿場内になってしまうので、ここに築いたとあった。
そこで私の持っているGPSの距離を転記しているノートを見てみると、
アレー伏見の一里塚の距離を書いてない。ショック!



一里塚を掃除していた人が声をかけてきた。
「あんたらは歴史が好きだからここを歩いていると思うが、東海道に宿場が幾つあるか知っているか」
と聞いてきた。確か日本橋と京を入れれば53+2で55だと思ったが答えなかった。
「学校では東海道53次と教えているが実際は55ある」と言い出し次々と話をしはじめた。
これはいけないと思い一里塚の前にある「玉砥石(たまといし)」を指して「これは何ですか」と
聞いてみた。すると「これは昔女の人の首飾りなどにする丸い石を磨いた石だ。今は三つしかないが
御用邸が出来る前はこんな石がゴロゴロしていた。だけど御用邸への道を作るのに古墳や何もかも
みんな潰してしまった」と話してくれた。

説明板を読むとこの石は、今から1200年頃前に玉類を磨く砥石で、この辺りは玉造郷と言われて
いたらしい。近くには玉造神社もあり昔の大集落の遺跡も発掘されている。
ただそれを証明する確かな証拠はないと正直に書かれていた。
なるほどそんな貴重な物なのかと手でそっと触ってみた。

狩野川の堤防が右にある細い通りを川廓通りと表示してあった。読みはかわくるわと読むのかな?
最初この通りの名前を見たときは狩野川の堤防沿いにあった赤線街かと思ったが違った。
では川廓とは何か、傍らの案内に「廓とは、城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の
区画を表す、くるわ(曲輪・郭・廓)が由来となった。
川廓通りはその名のとおり東側は狩野川に面し、背後は沼津城(元三枚橋城)の外廓にあたる東海道
として形成されてきました」と記されていた。
城なら城郭と書くように郭と書くべきではないかと調べてみたがどちらでも良いようだった。
しかし川廓通りをみて遊廓を思い浮かべるのは○○の証拠かもしれないな。

        

沼津の本陣跡は商店街の中にこんな標識があった。後ろに写っているのは交差点で例の静岡県の
道標が建っている。ここでもこの道標の指す方向に行くと本陣跡は通らないでしまう。困ったものだ。

静岡県の東海道1-4

2011-02-17 16:41:11 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」1回目-4  2011/2/10

小田原駅 ― 小田原本陣跡 ― 畑 宿 ― 元箱根 ― 箱根峠 ― 山中城址 ― 
 7:15         7:40       10:30     12:00    12:55    14:00
            1.5k        14.3k     18.8k    22.0k     25.6k 
 
錦田一里塚 ― 三嶋大社 ― 三島駅
  15:30      16:20      16:45
  32.8k      35.4k      36.5k

                  三嶋大社へ(石畳)

芦ノ湖に向かって一旦下った道は、また上り坂になる。
箱根はカルデラ湖で芦ノ湖の周りは外輪山に囲まれているので、もう一度その外輪山を登り
直さなければならないのだ。
と、ここまで書いて確認のため芦ノ湖を調べてみると------
なんと芦ノ湖はカルデラ湖でなく堰止湖になっていた。そんな馬鹿な学校ではカルデラ湖と
教わったはずだ。

しかしPCで「芦ノ湖 堰止湖」と検索すると、あるはあるは一杯ヒットした。
中でもPCのフリー百科事典のWikipediaによると
カルデラ湖とは、火山の活動によってできた大きな凹地に水が溜まって出来た湖のことで
「芦ノ湖は約3000年前の水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が
発生しその結果誕生した堰止湖である。よくカルデラ湖と解説されるが、それは間違いである」
となっている。そして早川の水源になっているとも書いてある。

しかし納得できない。次に「芦ノ湖 カルデラ湖」と検索すると、こちらも一杯ヒットした。
中に箱根町のHPがあったので開いてみると
「芦ノ湖は箱根火山の中にあるカルデラ湖で-------」とあり続いて
「水蒸気爆発による土石流が、当時仙石原に流れていた川を堰き止めて、その上流に水が溜まり
湖になりました」とある。
初めにはっきりカルデラ湖と書いてあるが、後の記述は堰止湖の説明のようだ。
一体どっちが正しいのか、素人の私に判断できるわけでも無いが、若し早川が芦ノ湖に繋がって
いるなら堰止湖の方が正しいような気がする。
そこで地図を確認すると仙石原から強羅に流れ相模湾に注いでいる早川があった。
となると堰止湖の方が正しいのかな。

        

街道は芦川の石仏群の山道を歩き箱根峠に抜けるようになっている。
石仏群! どんな石仏があるのか楽しみだった。そしてその山道の入口には早速数個の石仏があった。
期待を高め急坂を登っていくと、なんだその上は国道1号線になっていた。
途中石仏は無かったと思うが、上り坂で下を向いて歩いたので見落としてしまったのだろうか?

               

国道に出て自然と足は右側の下り側に。先を見ると芦ノ湖が見える。アレー変だなと
街道地図を見る。地図には「国道に出たら箱根新道と国1を横断し側溝の脇を南に向かう」とある。
危ない、危ない、危うく芦ノ湖に戻ってしまうところだった。

少し行きまた箱根新道と国1を横断してゴルフ場の道にと入る。今日一番分かりにくい場所だ。
これでは街道地図を持っていなければ、この交通量の多い車道を歩かなければならない。

        

静岡県の県境が見えてきた。ここが相模の国と伊豆の国の境になるのだが境界石のような物は
無かった。小田原藩や三島の伊豆代官所で境界石を設置しても良さそうなものだが。

芦ノ湖が見えるのもここが最後になる。本来ならその先に富士山が見えるだろうが今日は残念ながら
顔を出してくれていない。でもこれからが富士山の本場の駿河なのだから、飽きるほど富士山を
見ることが出来るはずだ。それにここからが本来の目的の静岡県の東海道になる。
今まで以上にあちこちを見ながら歩いていこう。

十国峠に行く道を横断して、下り坂になった国道1号の歩道を歩く。
次の街道の入口は反対側の車線になるので国道をまた横断する。
駐車場の先に休憩場とトイレが見える。あそこで一服しよう。

休憩所にはリュックを背負ったご夫婦がいた。挨拶のあと「どちらからこられたのですか?」と
聞かれた。同じ街道を歩いていると相手の行程が気になってくるのだ。
「小田原から来ました」
「エー小田原! それじゃ朝が早かったでしょうね。畑宿を通ってきたのですか」
「小田原駅を7時20分に出ました。畑宿から箱根までは雪が残っていたので下りは滑るので
気をつけてくださいね」
「私達は今日は箱根が終点でバスで帰ります。朝もバスで山中城址まで来て、そこから歩いて
きただけのショートコースですが、これから三島まで下るのですか」
「エー三島が目標ですが、出来たら沼津まで行きたいなと思っています」
「沼津! それじゃ箱根八里より長いじゃないですか」
気持ちよく会話は弾んだ。

ご夫婦と別れ脇道に入る。右側にNTTの箱根高原電話交換所があったが、こんな山の中に
電話をひく家があるのかしらとか、右手のゴルフ場には、こんな寒くて風があり、しかも雪が
降るような場所で冬にゴルフをする物好きがいるのかなど考えながら歩いていた。
オットここはもう静岡県なのだから悪口は止めよう。



街道の入口は茨ヶ平といい標識や案内板が立っているのですぐ分かる。
その道に入るとすぐ東屋のある休憩所があった。そこには静岡県で作成した立派な標識が
建っている。標識は右が三島宿で左が箱根宿になっていた。
だが左に延びている箱根宿への道は、今私が歩いてきた道ではない。一体どこに行くのかと
その道に入ってみると。すると道はすぐ行止りになっていた。
そしてそこには井上靖の文学碑が建っていた。この様に歩いてすぐ結果の出る間違いなら
よいが、この道が更に延びていたらどうする積りだろう。
道標は立派さを競うのでなく、分りやすさを競ってほしいものだ。
どだい角度のつかない物で方向を指示するなど無理な話なのだ。
四国の道の標識も腹が立ったが、この静岡県の標識も嫌いだ。

井上靖の文学碑には「北斗闌干」(ほくとらんかん)と彫られていた。意味は
「昔から道行く人の道しるべであった北斗星が燦然と輝く様をあらわす」言葉だという。
街道を行く旅人の道標となるいい言葉なのだがナー。

        

道がいい感じになってきた。何だと思います。これは石畳の左右に生えている篠竹?ハ竹?
良く分からないが太さは人差し指程度で、静岡県では一般的に自生している竹で、道祖神の
ドンドン焼でお札やお飾りと一緒に燃やす竹です。その竹が左右から覆いかぶさって、まるで
トンネルのようになっている感じの良い道です。

        

接待茶屋の跡地の看板の近くに江戸から25番目の一里塚がある。ただ余り手の入れられていない
山中なのに塚が一つしかない。もう一つはどうしたのだろうか、接待茶屋を撤去するとき塚も
一緒に撤去してしまったのだろうか。
この辺りには外にも明治天皇の休憩場所や接待茶屋に関連した徳川吉宗の石碑も建っていた。

        

次に現れた石は「兜岩」だそうです。この石は兜に似ているから兜石。または豊臣秀吉が小田原
征伐の折、兜をかけたから兜石とも云われていると説明があった。
確かに云われてみれば兜にも似ているし、兜を置きやすくもあるな。

        

アレー足元に何か動く物が?? 見ると体調10cm程の黒っぽい生き物がチョロチョロと動いている。
何だろう?鼠かな? と思っていると、その生き物は動きを止めてこちらの様子を窺っているようだ。
カメラを出し写真を写しても動かない。細くて長い尻尾は鼠のようだが体毛の色が茶色と白っぽい
二色になっている。耳も外を向いて比較的大きい。何より普通の鼠と違く見えるのは鼻の色が茶色で
豚のように平になっていることだ。普通の鼠の鼻は尖った顔の先にあるだけだと思っていたが---
しかしこれはやはり鼠だろう。ジックリ観察をしてから足を少し動かすと、その鼠は鼻の先の地面の
中に潜り込んでしまった。きっと巣穴の前でこちらを観察していたのだろう。

鼠がいた場所の少し下の石畳に「〒」のマークを掘りこんだ石があった。
その前からNTTの前身だった電電公社のTTSのマークの標石が所々にあったので、これは電電公社の
その前の逓信省がこの石畳の下に電話線を埋設した印だろうと何気なく考えていた。
次にまたマークがあったら写真を写そうと思っていたが、そのあと〒マークを見つけれなかった。
惜しい事をしたなー。

        

この辺りの石畳の石は平で大きい石が目につく。確か伊豆半島では伊豆石なる物が産出されると
聞いた事がある。ではここは伊豆の国。若しかしてこの石は伊豆石なのかも?

石畳で思い出すのは"全ての道は ローマに通ず"のローマ帝国の石畳がある。
以前その石畳に車輪の轍のあとが写った写真を見た事がある。あちらの石畳は車が走れるように
石を隙間無く並べてあった。それに比べ日本の石畳は道の保全が主のためか石と石との感覚が広い。
これでは荷車などの車輪は石を一つ越すごとにつっかえてしまい動きが取れなかっただろう。

日本はこんな石畳だったから車が発達しなかったのか。それとも車が無かったからこんな石畳に
なったのか。

        

風変わりな石碑があった。説明を読んでみると
「仲間に慕われた酒飲みの雲助の供養のため建てた」とある。更に
「最初は山中の一里塚に建っていたが、何時の日にかこの地に移ってきた。
酒飲みの墓なのでフラフラと一ヶ所に落着かないのでしょう」と落ちまでついていた。

雲助と言うと悪い駕籠かきをイメージしてしまうが、石碑を読むとそうではなかったらしい。
辞書にも「雲助とは、江戸時代に、宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった
人足のこと」となっていた。認識を改めないといけないな。

        

山中城址に到着。
この城は小田原の北条氏が築城した城で、豊臣秀吉の小田原征伐のおり攻撃を受けて半日で落城した
城だと認識している。だからきっと山城のようなチャチな城だと思って城址の中に入ってみたら、
整備されている事もあったが、その大きさに驚いた。しかも案内文をみると4千名もの守備陣がいた
とも書いてある。それが坂の上の城で鉄砲も有って篭城したのにもかかわらず、わずか半日で落城
とは何とも情けない。これはきっと守備陣に北条の結論の出ない小田原評定の事が伝わっていて
戦意を無くした結果ではないだろうか。

        

石畳が国道1号線に合流するところに松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」だって
今日は残念ながら富士山は見えなかった。それでも結構面白い旅だったことは確かだ。
だけどその気持ちの底には残念だった気持ちが隠されている。
天下の芭蕉さんも若干の負惜しみも含めてこの句を詠んだのだろうな。

長い長い石畳だった。箱根の石畳というと小田原から箱根の坂のイメージが強かったが今回歩いて
どちらかといえば三島側の方が長いことを知った。
箱根峠からこの辺りまで10kmはあったが、その2/3の7kmは石畳だったような気がする。
硬い石への着地が続いたせいか足が少々疲れた。
昔の旅人も同じ感想だったろう。それで平地に石畳は作らなかったとも考えられるな。
しかしここの石畳が日坂の石畳でなくてよかった。あの石の尖った先を選びながら歩く石畳では
とっくに嫌になっているか、足首を痛めていただろう。

ところで小田原と箱根の間には間の宿の畑宿があったが、こちら側は無かったのかな?
距離だって若干短い程度に過ぎないのに何故だろう?
若しかして旅人は三島女郎衆を求めて三島宿に泊ったので間の宿は必要なかった。
そんな事は無いか。



松雲寺の入口に明治天皇が腰掛けた石があったので覗いてみた。街道を歩いていると、このように
昔の有名人が座ったとか、隠れたとか、ソーさっきの兜岩のような物が時々ある。しかしその殆どが
眉唾的なものが多いが、ここの腰掛石は何となく信用できる気がした。
それはそから見える景色が素晴らしいと想像できるからだ。今日は生憎富士山は見えないが、あの
パッチワークのような丘の先に雪を被った富士山が見えたら、明治天皇も腰掛けてしばし休憩したく
なったのだろう。

        

錦田の一里塚はペアで保存されていた。ただ松並木は国道1号線の上り線になっていて歩く事は
出来ない。歩道はその横に現代の石畳を敷いて歩くようになっていた。
そして一里塚の先には箱根の最後の坂「愛宕坂」があった。この愛宕坂は今は舗装され車も走って
いるが中々の坂だ。
江戸に向かう旅人はこの坂を登りながら、これから始まる箱根八里への不安を感じ、三島に向かう
旅人は箱根を越えた満足感を感じながらこの坂を下ったことだろう。
私も何とか箱根八里をやることが出来た達成感を感じながら歩いていた。
しかしもう沼津まで歩きは無くなっていたし、すでに4時半を過ぎている。
今日は私も三島宿が終点だ。

三嶋大社が見えてきた。現代は荷馬車は無いが門前を車が行きかっていた。

        


静岡県の東海道1-3

2011-02-16 13:41:23 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」1回目-3  2011/2/10

小田原駅 ― 小田原本陣跡 ― 畑 宿 ― 元箱根 ― 箱根峠 ― 山中城址 ― 
 7:15      7:40     10:30    12:00   12:55    14:00
         1.5k     14.3k    18.8k   22.0k     25.6k 
 
錦田一里塚 ― 三嶋大社 ― 三島駅
 15:30     16:20    16:45
 32.8k     35.4k    36.5k

                  箱根宿へ(七曲り)

畑宿の一里塚で休憩している同じ年頃の男性が登ってきた。
「こんにちは、今日はどこからきたのですか?」と聞かれたので
「小田原駅からきました」と答えた。男性は日本橋から歩き始めていて今回は湯元の下にあった
三枚橋から歩き始めたという。とすると私より随分足が速いことになる。
途中で追い抜いた気配はなかったし、時々後ろを眺めたが誰も見えなかった。
それがここで追い抜かれると言うのは足が速い証拠だ。
どうでも良いことに競争心が湧く悪い癖が出始めてしまった。止めよう、止めよう。先は長いのだから。
いつもより長め休憩をして出発することに。

今度は上から麻袋に杭を何本も入れ、手には木製の小槌を持った女性が来た。
挨拶を交わしたあとで「それは何ですか?」と麻袋を指す。
「この杭を歩く道に50m間隔で建てて、緊急時の場所確認に利用してもらいます」
見せてくれた杭の先には白い札が付いていて数字と箱根町役場と書いてあった。
以前掛川の小笠山の県道を歩いていたら、これと同じ様に数字を書いてある看板があった。
携帯電話が普及して現地から緊急連絡を受けても場所の確認ができなかったので、このような方法を
採用したのだろう。
このあと芦ノ湖に向かう旧道には、この杭がズート続いていた。

石畳が車道に出た。いよいよここから箱根の坂の中でも最大の坂道、箱根の七曲りの始まりだ。
最初の車道のカーブを曲った所に直登の階段がある。中々急な階段だ。
また車道に出て先を見ると先ほど一里塚で先に行った人が歩いている。ひどくゆっくりした歩調だ。
後ろに付く間もなく「お先に」と言って追い抜いた。
アレーなんだよ?この人は。早いのか遅いのか分らないな。
この後この人に会うことはなかった。

下を振返り車道を見ると登りと下りが良く分からない。今右側が登り車線だったのが次に見ると
左が登り車線になっている。疲れから頭が呆けてきたのかな? 
登りと下りが分離しているのかと思ったがそうでもない。
理解できないまま家に帰りPCの地図を確認すると。この区間は県道と箱根新道が重なっていて
それを知らなかった私が混乱してしまったのだった。

いよいよ車道は七曲り最大のカーブの始まりだ。歩道はそのカーブの横に急な階段が作られている。
この坂には橿の木坂の名が付いていたが、そんな優しい雰囲気ではない。
こここそ「女轉し坂」の方が合っている。
しかし今は階段が付いているが江戸時代は当然階段は無かったはずだ。
とすると階段でなくここを直登した? まさかこんな急斜面を直登するわけが無い。
馬がこんな急坂を登ったら馬に乗っているお客は落ちてしまうだろう。
きっと電光形の道があったが車道を作るさい消滅してしまったのだろ。
どこにも書いてなかったがそうに違いない。

ところで私も余りに急な階段の連続で写真を撮る余裕が無かったのか1枚も写真がなかった。



やっと急な階段が終わった。車道を少し行った所に樫の木平と名の付いた見晴台がある。
生憎今日は下は霞んでいて良く見えないが、ここから小田原の町が見えるとある。
見晴台の下には見晴し茶屋があるが、今は通行禁止になっていて入ることが出来なかった。

標高が高くなったせいか吐く息が白い。さすがに体は暑くなってきた。
ここでようやく2枚のジャンパーを脱ぐことが出来た。



石畳の入口に親鸞の石碑があった。
西国に布教に行く親鸞と東国に残る弟子達の別れの場所で、親鸞はその時弟子に笈を渡したという。
それでこの辺りを笈の平らと言うとか。
石碑には「笈親鸞聖人御舊蹟」(ごきゅうせき)と掘られていた。
意味が解らなっかたので調べてみたら 笈=背に背負う箱 舊蹟=旧跡 だった。
それでは笈を弟子にくれてしまった親鸞は、何を背負っていったのだろう。



石畳の旧道と車道の間に甘酒茶屋がある。萱葺の屋根に雪が残りいい感じを醸し出している。



茶屋の辺りから残雪が多くなり石畳の上が滑るようになってきた。それでも登りなので不安は無いが
下りだと注意しなければならないだろう。
今、履いている靴は防水処理がなされているので、この位の雪では何とも無いが、江戸時代の
草鞋の時は冷たかったろうな。足袋を履いていても濡れてくるだろうし、防水はしていたのだろうか
例えば油紙で足を包むとかして。もっとも江戸時代油紙があったかどうか知らないが。
今の時代で良かった。



大きな石に「箱根八里は 馬でも越すが こすに越されぬ 大井川」となっていた。
さーこの辺りまで来れば半分の四里は過ぎただろう。後は下りの四里だ。



県道を越すと道が下りになって前方には芦ノ湖が見えてきた。サー箱根の宿はもう間近だ。

「湯坂道に至る」と表示のある十字路に出た。途中の標識の「箱根路の移り変り」の案内によると

1、碓氷道=箱根で尤も古い峠道
      国府津―関本―明神岳―碓氷道―仙石原―乙女峠―御殿場
2、足柄道=奈良、平安時代に利用された道
      国府津―関本―矢倉沢―足柄峠―竹之下―御殿場
3、湯坂道=鎌倉、室町時代に開かれた道
      国府津―小田原―湯元―湯坂山―芦ノ湯―元箱根―箱根
4、旧東海道=江戸時代に開かれた道
      国府津―小田原―湯元―畑宿―元箱根―箱根

となっていた。そしてここが湯坂道と東海道の交わる場所だったのだろう。
街道とは年々楽な道、楽な道へと変遷していくのが良く分かる案内標識だった。
標識を見ていて興味を引かれたのは足柄道だった。いつか一度歩いてみよう。



箱根町の案内標識に釣られて歩き出すと杉並木から外れてしまった。慌てて街道地図を見ると、
そちらは杉並木の方を示している。
当り前だ。杉並木は街道を行きかう人たちを風から守り強い陽射しを避けるために植えられたのだから。
並木道は車道になっていた。なるほど現代は歩行者の安全を守るため並木の車道を案内していないのだ。





並木がなくなると前方が開けて正面に芦ノ湖が見えてきた。右手には朱塗りの大鳥居もある。
やっと元箱根に着いた。鳥居を潜って右の道を行けば箱根神社に行けるのだが------
昔の旅人はきっとお参りに行ったと思うが、ウーン止めよう。まだ先が長いのだから。



その代りあの石仏を見ていこう。
道を少し戻って石仏の案内板を見てみると身代わり地蔵とあり、
その昔梶原景季が平景時に間違われて襲われたとき、近くにあった地蔵が身代わりになり
景季の命を救ってくれた。と書いてある。
梶原景季とは梶原景時の子供で、最後は清水の梶原山で親子共々討ち死にしている人物だ。
看板に平景時に間違われたと書いてあるが本当かな? 父親の景時が何かと人に恨まれていた
人物なので、その父親に間違われたのではないのだろうか。
でも看板に間違いがあるわけ無いだろうが。
最近良く梶原山には登るので、これも何かの縁だ。珍しく賽銭を入れてお参りをした。



次の杉並木の入口に江戸から24里目の一里塚があった。
でも何故か塚は無く標識だけ。杉並木は車乗り入れは出来ず歩行者専用なのに何故塚が
残っていないのだろう?



やはり車道になった杉並木の道より、歩道の並木の方のが気持ちが良い。
それに今日は平日のせいか、歩いている観光客の姿も見えないので杉並木を独り占めできる。
でも何か変? さっき歩いた車道の杉並木に比べ、ここの杉並木は巾が狭い気がする。
確かさっきの車道は一車線でなく二車線あったような気がするのだが。



箱根の関所が見えてきた。こちらは東側の江戸口御門で出女に注意をした側だ。
ところで現代の通行手形の入場券は必要なのかな?  販売所は見当たらない。
しかし門の中には受付用の箱番があり係員が座っている。お金を払ってまで見たくも無いが
今来た道を杉並木まで戻るのも辛い。恐る恐る係員に「入場券が必要ですか?」と聞いてみる。
「真中の通路を通るだけでしたら無料です」だって。あー良かった。



京口御門を出ると賑やかな通りに出た。標識を見ると小田原町になっていて本陣跡の箱根
ホテルもあった。更に東に進むと今度は三島町に。
まてよ、たしか箱根宿は幕府が小田原と三島から人を移住させて開いた宿場で町の名前も
小田原町と三島町にしたと書いてあったと記憶している。
そのときは当然関所を挟んで東側が小田原町で西側は三島町だと思った。それが今こうして
歩いてみると両町とも関所の西側に作られている。しかも関所の東側は民家も無く淋しい
杉並木だった。
これでは畑宿から歩いてきた旅人で関所の開設時間内に間に合わなかった者はどうなるのか。
箱根神社参拝用の宿にでも泊ったのだろうか?
でも幕府は箱根に宿が無かったから小田原から人を呼んで宿を作ったのではないか??
何ともスッキリしない話しだ。

それにしても何とも疑問が多い男だろう。俺って奴は。

静岡県の東海道

2011-02-15 04:18:30 | ウォーキング
2回目の東海道に行ってきます。

今、朝の4時20分。窓から富士山見えないが所々に星が見えている。
天気予報の降水確率は10%で晴れ。一日大丈夫でしょう。

予定は
三島駅 ― 三島大社 ― 沼津宿 ― 原宿 ― 吉原宿 ―岩淵間の宿 ― 富士川駅
の予定です。

なんとしてでも富士川は越えたいのですが、本音は更に先の蒲原宿の新蒲原駅か蒲原駅まで
行ければとも思っています。
距離は蒲原宿まで40k程度ですが、明るいうちに着きたいのと、途中写真を撮ったり名所を
探したりする時間に結構かかってしまうのでどうなる事やら。

ともかく岩淵までは歩く予定で、これから行ってきます。

静岡の東海道1-2

2011-02-14 10:37:17 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」1回目-2  2011/2/10

小田原駅 ― 小田原本陣跡 ― 畑 宿 ― 元箱根 ― 箱根峠 ― 山中城址 ― 
 7:15      7:40     10:30    12:00   12:55    14:00
         1.5k     14.3k    18.8k   22.0k     25.6k 
 
錦田一里塚 ― 三嶋大社 ― 三島駅
 15:30     16:20    16:45
 32.8k     35.4k    36.5k


            畑宿へ(石畳)



早雲寺の次に正眼寺というお寺があった。境内に入ってみたが何の変哲もないお寺なので写真を1枚
写しただけで出てしまった。それが今調べているとこの寺は曽我兄弟を祀るために建てられた寺で
本堂の裏には曽我堂があり、兄弟の像が納められていると書いてある。
残念だったな。はじめに知っていれば覗いてくるのだったが----



湯元茶屋の一里塚があった。江戸から22番目の一里塚と書いてある。
その一里塚を過ぎると石畳が始った入口には石畳のことを紹介してあり、その中に開通当初の
東海道は竹を道路に敷いていて、それを毎年葺き替えていたが、その苦役が大変で石畳になった
とある。確かに竹を毎年替えるのは大変だっただろう。それに石畳は歩き易さだけでなく道の
保全の為だったとも聞いた事がある。それが竹では道の保全には余り役にはたたなかったろう。



ここの石畳は案外歩きやすかった。今まで歩いた石畳は同じく東海道の金屋の宿から日坂宿の
間にある石畳だけだが、そこの石畳は非常に歩きづらい。
丸い川原石を地面から浮き出た状態で並べてあり、更に石と石の間隔が広いので、足を石の
上に持って行かないと足がぐれたりしてしまいそうだ。
その石畳は平成になってから再現したらしいが再現するに当たり他所の石畳を参考にした
のだろうか。まさか石を並べれば石畳だと簡単に考えていたのか?

ここまで書いていて、ある事を思い出した。金谷の石畳は確か牛馬は通行禁止だったはずだ。
だがここ箱根は「箱根八里は馬でも越すが---」と言われていたのだから当然馬も歩いて
いた事になる。確かに今見る石畳なら表面が平らになっているので牛馬でも歩けそうだ。
しかし金谷の石畳はとても四足では歩けそうもない。前足を石の上に乗せることが出来ても
後ろ足は石の谷間に嵌ってしまい、例え牛馬でも痛い思いをしなければならない。

若しかして金谷の石畳の石は大井川の丸みを帯びた石しか手に入らず、止むおえずあのような
石畳になって牛馬の通行を禁止したのだろうか。
いつか金谷か日坂に行ったら聞いてみよう。



そんな事を考えながら歩いていると奥湯元の温泉地に着いた。
須雲川の川沿いに何軒もホテルが見えている。江戸時代にも温泉宿があったのだろうか?
助さん格さんは泊まったのだろうか?それとも江戸時代にはこの辺りはまだ温泉が発掘されて
いなかったのだろうか?若し温泉が出ていればこの辺りが間の宿になっていただろうから。



右側に少し風変わりなお寺のような神社のような建物が見えてきた。
箱根大天狗山神社となっている。入口の門には簾が降りていて中が見えないようになっている。
そしてそこには「信者の方はお通りください」と貼紙が貼ってある。
ウーン何だろう?ちょっと覗いてみよう。カメラを手に簾の間から中を覗くと。
オーこれは何だ!巨大で精密な彫が施された灯篭と、その奥には極彩色に彩られた建物が
「アー入らないでください。出てください」右の受付に女性が出てきて手を振っていた。
「済みません」と慌てて門外に出た。でも大丈夫!写真は1枚写し終わっていた。



右側に初花の滝があると書いた石碑があったので、透かすように対岸を見るが滝らしきものは
見当たらない。今年の冬は雨が降らないので滝も水枯れかも知れないな。などと考えながら
歩いていると今度は「いざりの仇討ち」とか「初花堂」と書かれたお寺が出てきた。
初花といえば先ほどの滝も初花。それに途中にあった大きなホテルの名前も初花だった。
興味を覚えて境内に入ってみるとこんな事が書いてあった。
「”比らあたりは 山家ゆえ 紅葉あるのに 雪がある”ご存知歌舞伎狂言で名高い
浄瑠璃の一句で 初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であります ------- 」
以下要約すると 夫婦で仇討ちの旅に出た初花と勝五郎だったが、ここ箱根の山中で
夫の勝五郎は足の病に罹り歩けなくなってしまった。初花は滝に打たれ夫の病気平癒と
仇討成就を願掛けし見事仇討ちを成し遂げた」となっていた。



この「箱根霊験躄仇討」を調べてみると、こんな説も載っていた。
「夫が歩けなくなって初花はやむなく一人で仇討ちに向かったが、あえなく返り討ちに
あってしまった。勝五郎は初花の霊の助けを借り見事仇討ちを成し遂げた」となっていた。
果たして初花は見事本懐を遂げたのか、それとも返り討ちにあってしまったのか-----



初花堂のある鎖雲寺から少し行った所に「女轉シ坂 登り一町餘余」と掘られた石碑が。
何とも恐ろしげな名前の坂だ。四国にも「遍路転がし」と呼ぶ山道もあったが昔の女性は
弱くてすぐ転んだのか、それとも強かったので、その強い女性でも転ぶと強調したかったのか-----
現代では後者だろうな。
だが実際の女轉シ坂は車道になっていて、どこがそうなのか分らなかった。



大きな赤鳥居が出てきた。看板を見ると箱根大天狗山神社となっている。
さっき見た成金山極彩色寺の鳥居だろう。触らぬ神に祟りなし------



やっと畑宿に到着。ここ畑宿は小田原宿と箱根宿の間にある間の宿(あいのしゅく)で
接待茶屋が何軒も立っていたらしい。確かに小田原と箱根の間は16k以上もあり
しかも登りが続くので休憩場所が欲しかったのだろう。
ただ気になることがあった。畑宿に写真のような本陣跡がある事だ。
間の宿を辞典で調べると「宿場と宿場の間にある休憩用の町場で宿泊は禁じられていた」
となっている。
それなのに本陣???? 本音と建前を使い分ける日本人なのだから、もう少し別の
言い方があったのではないだろうか。
本陣前の看板を読んでみると「名主茗荷屋の本屋敷跡です」となっている。
若しかして江戸時代は本陣とは呼んでいなかったが、現代になって勝手に本陣と呼ぶ
ようになったのではないか。と勝手な空想をしていた。



畑宿の外れに23番番目の一里塚があった。塚の看板には
「畑宿の一里塚は東海道中唯一その形態を留めるものです」と書いてある。
なるほど私が今まで見た一里塚では最大の規模だ。しかも街道を挟んで左右にある。
これなら旅人が見落とす事もなく、良い目標になったことだろう。
私もここで軽く食事をして行こう。それにしても今日は寒い。いつもなら脱いで歩いている
防風ジャンパーもダウンのベストも着たままだ。



静岡の東海道1-1

2011-02-13 13:04:36 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」1回目-1  2011/2/10

小田原駅 ― 小田原本陣跡 ― 畑 宿 ― 元箱根 ― 箱根峠 ― 山中城址 ― 
 7:15      7:40     10:30    12:00   12:55    14:00
         1.5k     14.3k    18.8k   22.0k     25.6k 
 
錦田一里塚 ― 三嶋大社 ― 三島駅
 15:30     16:20    16:45
 32.8k     35.4k    36.5k



          小田原宿

ウォーキングに出かけるために初めて新幹線に乗った。
"贅沢は敵だ"を標榜している年金生活者としては、それこそ苦渋の決断だったのだが。
だが鈍行の始発で行くと小田原には7:47着になってしまうが、新幹線を使うと出発時間20分遅くなっても
到着時間は7:03と40分以上早く着いてしまう。冬の寒い中の1時間は貴重だ。
それに今日の予定は気持ちの表面は小田原三島間を想定しているが、気持ちの奥には小田原沼津間が
蠢いている。三島までなら37k、沼津なら43k以上となるので少しでも早い出発が必要になる。
そんな訳で今回の東海道は贅沢な幕開けとなった。

矢張り新幹線は快適だったが、その窓の外に見える空は今にも雨が落ちてきそうにどんよりしていた。
勿論富士山は見えていない。
天気予報は15時までは10%の降水確率で晴れとなっていたのだがどうやら外れのようだ。
実はこの東海道の1回目は昨日出発する予定だったが、朝起きると雨が降っていたので中止にしていた。
今日は曇っていても良いが雨だけは降らないで欲しい。せめてそれ位は予報が当ってくれる事を願う。

   

小田原駅の東口に降りる。駅から駅前道路に行こうと歩行者が歩いている所に行く。だがそこには
「広場横断禁止」の立札が。しかしそんな立札は何のこと老若男女問わず誰もが平然と歩いてくる。
私もと思ったが、そこはグットこらえて地下道を歩く事に。地下の適当な出口を上がってみると、又もや
横断歩道が無い。もう一度地下道を潜る気も起きず有視界歩行で渡ってしまった。
こんな事なら最初から皆と同じように立札を無視すればよかった。なんて思ってしまった。



先ず最初の東海道の入口は小田原本陣より東側にある新宿交差点に向かう。その交差点を渡り
その先を西に右折すると早速標識があった。「小田原宿 脇本陣古清水旅館」となっている。
本陣でなく脇本陣だが最初に出合った建造物だと写真をパチリ1枚。



肩から吊るした街道地図には、この付近に本陣跡が何軒か表示されている。
これから先の宿場間の測定場所は、この本陣跡にしようと思っているので、本陣跡の場所だけは
確認しないと、と思っていた。だが注意して歩いていたが、そのような看板は見当たらなかった。
ただ「明治天皇聖?」の石碑が建っていたので写しておいたのだが、家に帰って調べてみると、
ここが清水本陣跡だったらしい。あのとき石碑の奥に入っておけばと後悔したが既に遅い。



右の前方にお城のような建物が見えてきた。これが小田原名菓のういろう(外郎)の建物だ。
ういろうとは米粉をこねて蒸したお菓子だが、私のイメージではういろうは名古屋のイメージ
だけで、小田原にもういろうがある事は最近になって知ったばかりだ。

今回調べてみると外郎(がいろう)とは中国の元の時代、日本に帰化した渡来人の元での役職の
名前で日本に来てから、その役職名を苗字にし読みをういろうにしたそうだ。
その外郎家の子孫が1500年頃から小田原で菓子を作り、その名前をういろうとして販売し始めた。
一方名古屋名物の青柳ういろうは明治時代の創業で明らかに遅い。
更に尾張名古屋でういろうが作られ始めたのは1650年頃らしい。
今では名古屋のういろうの方が有名になっているが、本家本元は小田原だったのだ。



外郎の前には古めかしい建物の済西堂薬局があり、その手前にはなりわい交流館もあった。
先ほどの脇本陣跡の看板に小田原は終戦の日に空襲にあい400件ほどが焼失したあったが、この辺りは
焼けなかったのだろうか。古く黒光りをした太い軒のある家が目に付く。



外にも小田原の町を歩いていて気付いたのは、地名の謂れを書いた石碑があちこちに建っている事だ。
本当ならこれを読んでいけば小田原の町の様子が良く分かるのだが、そうもいかない。
何しろ今日中に箱根八里を越えて三島まで行かなければならない。いやあわよくば沼津まで行きたいと
思っているのだから。



新幹線のガードの手前で国道1号線と別れ旧道に入る。何の標識も無いが街道地図を見ながら
歩いているので迷う事はない。
少々値段は高かったがこの調子では旧道を探しながら歩く事はなさそうだ。
この辺りのも感じの良い民家が所々に残っている。小田原は自分が思っていたよりズート感じが
良い町なので再度町中を歩いてみたい気もする。何かチャンスないかな。



風祭駅の近くに江戸から21里目の一里塚があるはずなのだが見当たらなかった。
一里塚の写真は全て写していこうと思っていたのに、最初から失敗だ。
それでもここは静岡県ではないのでヨシとするか。その代り静岡県に入ったら徹底的に
探して写真を写していこう。

紹太寺という寺の看板に春日の局の菩提寺だと書いてある。
だが寺は街道より奥まった所なのでウーンどうしよう----   やっぱりヤメタ。通過だ。



三枚橋交差点で国道と別れ早川の橋を渡って旧道に入る。
郵便局や学校の名前が湯元と付いているので、どうやら箱根町に入ったようだ。
道の勾配も強くなってきた感じもすし、側溝の網の蓋から湯気も上がっている。
ようやく温泉街の雰囲気が漂ってきた。



右側に公衆トイレがあり、その先に早雲寺の名前が見える。早雲寺とは言わずと知れた北条早雲の
菩提寺なのだからここはお参りしなければ。
北条早雲は相州小田原城の城主で有名だが駿河にも深い縁がある。
元々が伊勢の牢人で妹(姉)の縁で駿河の今川家に出仕してから頭角を現している。
駿河一国33観音廻りでも彼の足跡の場所を何ヶ所か歩いているのでお参りをしていこう。