駅からウォーク 「静岡の東海道」2回目-4 2011/2/15
三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
7:05 7:25 8:55 10:20 11:55 13:00 13:33
1.5k 8.8k 16.0k 22.3k 26.2k 28.7k
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
14:05 15:30 16:00 16:50 17:00 17:25
30.8k 37.7k 39.4k 42.6k 43.6k 46.3k
蒲原宿へ(田子の浦ゆ)
富士川からは富士山がよく見えた。河原の土手が雁堤(かりがねつつみ)なのだろうか。
確かにここから見ても、あの山裾から堤防を造れば、その先に見える町は水害から
逃れられたことが分る。
一方岩淵側はどうだったのだろう。今まで東に流れていた水が西の岩淵側に押し寄せ
る事はなかったのだろうか。少々気になる。
気になるといえば、この富士川は交流電流の分岐点で、ここより東は50Hzで、西は
60Hzになっている。
そして一般的には静岡県の東部と中部の境も富士川とされている。
更に地震の源にもなる富士川糸魚川大構造線も、この富士川を走っている。
この様に文化的や地形的にも違う富士川町と川向こうの富士市が合併してしまった。
電気設備は二重に必要になり、橋を渡らなければ、行き来の出来ない場所では、
駿河湾地震が発生したとき、救援活動がスムーズに出来るか心配になる。
個人的には富士川の西の富士川町、蒲原町、由比町が合併して庵原市となれば自然
だったと思うのだが。
話がそれてしまったが、橋から川底を見ると所々に岩礁が見える。
昔この岩礁を削って川底を下げて、舟が運行できるようにしたという。
舟には人を30人、牛馬を4匹乗せ船頭が5人ついた結構大型な舟だった
とも書いてある。船賃は一人16文と書いてあるが、これが高いの安いのか----
富士川の西岸に着くと一気に登りになり、今日最初で最後の坂を登る。
坂を登りきると間の宿岩淵の本陣があった。
小休本陣常盤邸は、街道沿いの黒い塀に囲まれた由緒ありげな建物で、国の有形
文化財に登録されている。
内部が公開されているので見学する予定だったが、今日は定休日なのか、時間外
なのか何故か門は閉まっていた。
今3時50分。今日は富士川駅をゴールにするか、次の蒲原宿まで行って蒲原駅をゴール
にするか迷っていたが決心がついた。この本陣を見学しないのなら蒲原まで行こうと。
枡形なのか街道がカーブしているところに江戸から37里目の岩淵の一里塚はある。
江戸時代から現存する貴重な一里塚で、左の標識の建っている一里塚の榎は植え替えて
あるが、右の榎は江戸時代からのものとある。
見事に成長した木は一里塚を凌駕して、まるで自分の花壇のようにしてしまっている。
塚の間を走る県道がいかにも窮屈に感じてしまう。
「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 」
ご存知万葉集の山部赤人の歌だが、この歌は田子の浦から富士山を見ての歌だとして
「田子の浦を通って見渡しの良い所に来たら、真っ白な雪を抱いた富士山が見えた」
と解釈されている。
そして詠った場所はというと、「田子の浦ゆ」の「ゆ」が、どこどこを通ってとか、
経由して、という意味だそうなので、田子の浦を通過した場所になる。
ならば赤人は東国から京に向かう途中、鈴川の海岸付近から見た富士山を詠ったのか。
いや違うと思う。東国から来たなら、それまでに何度も富士山の全容は見ていて筈だ。
それなら感激の度合いも減っていて、この様な歌は詠めなかったと思う。
以後は私の独断と偏見になってしまうが、私は以前からこう考えていた。
赤人は京から東国に向かって歩いているとき、岩淵に来て、初めて何の妨げもない
富士山の全容を見た。そして感激して詠ったのが、この歌ではないのだろうかと。
しかしこれでは田子の浦を通っていないので「ゆ」が意味をなさなくなってしまう。
大丈夫!こんなデータもありました。
「むかしの田子の浦は現在とは異なる場所にあって、現在の庵原郡由比町から
蒲原町の海岸あたりが、かつての田子の浦です。
現在の田子の浦は、そこよりもっと東の富士市の海岸になっている」
どうですか、これなら「ゆ」に必然性が出てきます。よって
「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 」
は山部赤人が岩淵で詠んだ歌です。
写真は雲が多く、また最近では民家が建って見づらいですが、江戸時代の街道の
一里塚付近から見た富士山と愛鷹山です。
それ以前の街道はもっと海岸寄りで、山部赤人が見た富士山の景色は、JRの
東海道線や新幹線の辺りから見た感じになるのではと思います。
面白い水準点があった。水準点のマンホールの蓋に水準点・国土地理院と書かれ
日本地図と測量機を覗く人物が描かれている。このマンホールの中に標高の水準に
なる物が入っているのだろう。
そういえば原のお寺の境内の中にも水準点があったが、そんな場所にある水準点の
使い方を一度専門家に聞いてみたい気がする。そう水準点だけでなく三角点も。
アッそうだ、さっき富士川の手前の水神の森近くの住宅街で、狭い車道の脇に
三角点があった。
畑に中、森の中、住宅地の中と、見通せない所にも三角点は一杯あるが、本当に
利用しているのだろうか?
車道が突然新幹線の軌道で遮断されていた。歩行者は狭いガードを潜って渡れる
ようになっている。旧の東海道はこの道になっているので、JRが気を利かして
ガードを造ってくれたのだろう。
岩淵にはやけに秋葉神社の常夜灯が多い。富士川を渡ったところ、本陣の横、
一里塚といたる所で目にした。岩淵は秋葉信仰が強いのか? となると以前に
大火の経験でもあったのだろうか?
明治天皇の休憩場所の記念碑がある。今までも一里塚より多い感じで、この碑は
建っていたが、ここの碑には「明治天皇御駐輦之址」と記されていた。
この「輦」の字を使った碑は小田原からここまで目にしなかったが、実は金谷宿の
菊川坂の石畳の上にもある。
一度ブログで紹介したこともあるが、未だにそのとき感じた疑問は解けていない。
今回も金谷宿に行ったとき、その疑問を紹介しようと思っている。
道は東名高速の切通しの横に付いていたが、多分この道は新しい道だろう。
新しい物が出来れば古いものは壊され運命なのは仕方ない。
ただ岩淵の一里塚のように今もその原型を保っている物は保存してもらいたい。
道脇に馬頭観音の石仏があった。
蒲原の一里塚に着いた。ここが38里目で岩淵の一里塚の次にあたる。
距離はどうだろう。今度はしっかり書いてあった。GPSの距離は3.3km。
なんだか短い感じだ。案内板を読むと
「最初の一里塚は元禄の大津波で流失してしまい、宿の移転に伴って、
ここに移されました」とあった。なるほど、その影響で距離が短くなったのだろう。
一里塚を少し行ったところが東の木戸跡だった。沼津宿の伝でいけば一里塚は
宿場の中には造らないとあったので、ここの一里塚の距離が短いのは仕方ないな。
安藤広重の蒲原の「夜之雪」は五十三次の中でも傑作といわれている。
しかし温暖な地の駿河では、絵のような雪が降ることはないので、これは広重の
想像で描いたものとも言われているらしい。
マーそれはともかく、少しでも絵に似た場所はと、キョロキョロしながら街道を
歩いたが見当らない。
「蒲原夜之雪記念碑」なる場所にも行ってみたが、浮世絵とは似ても似つかない
場所だった。だいたい街道沿いには、絵にあるような山が接近したところは無い。
それでも下り坂と登り坂の鞍部があった場所は、夜之雪記念碑へと向かう辻だった。
蒲原の宿には黒塀に囲まれた旧本陣跡の平岡家、薄緑色の旧歯科医院の家屋など
古い建物が現存している。街道も旧国1とは別のため車が少なく落着いて歩くことが
でき、町の説明も所々にあるので飽きることがない。
今日の歩行距離は、ここまでで43kを越してしまった。蒲原駅はまだ先だが
何とか明るいうちに着く事ができそうだ。
三島駅 ― 三島本陣 ― 沼津本陣 ― 松陰寺 ― 六王寺神社 ― 毘沙門天 ― 左富士
7:05 7:25 8:55 10:20 11:55 13:00 13:33
1.5k 8.8k 16.0k 22.3k 26.2k 28.7k
― 吉原本陣 ― 富士川 ― 岩淵一里塚 ― 蒲原一里塚 ― 蒲原本陣 ― 蒲原駅
14:05 15:30 16:00 16:50 17:00 17:25
30.8k 37.7k 39.4k 42.6k 43.6k 46.3k
蒲原宿へ(田子の浦ゆ)
富士川からは富士山がよく見えた。河原の土手が雁堤(かりがねつつみ)なのだろうか。
確かにここから見ても、あの山裾から堤防を造れば、その先に見える町は水害から
逃れられたことが分る。
一方岩淵側はどうだったのだろう。今まで東に流れていた水が西の岩淵側に押し寄せ
る事はなかったのだろうか。少々気になる。
気になるといえば、この富士川は交流電流の分岐点で、ここより東は50Hzで、西は
60Hzになっている。
そして一般的には静岡県の東部と中部の境も富士川とされている。
更に地震の源にもなる富士川糸魚川大構造線も、この富士川を走っている。
この様に文化的や地形的にも違う富士川町と川向こうの富士市が合併してしまった。
電気設備は二重に必要になり、橋を渡らなければ、行き来の出来ない場所では、
駿河湾地震が発生したとき、救援活動がスムーズに出来るか心配になる。
個人的には富士川の西の富士川町、蒲原町、由比町が合併して庵原市となれば自然
だったと思うのだが。
話がそれてしまったが、橋から川底を見ると所々に岩礁が見える。
昔この岩礁を削って川底を下げて、舟が運行できるようにしたという。
舟には人を30人、牛馬を4匹乗せ船頭が5人ついた結構大型な舟だった
とも書いてある。船賃は一人16文と書いてあるが、これが高いの安いのか----
富士川の西岸に着くと一気に登りになり、今日最初で最後の坂を登る。
坂を登りきると間の宿岩淵の本陣があった。
小休本陣常盤邸は、街道沿いの黒い塀に囲まれた由緒ありげな建物で、国の有形
文化財に登録されている。
内部が公開されているので見学する予定だったが、今日は定休日なのか、時間外
なのか何故か門は閉まっていた。
今3時50分。今日は富士川駅をゴールにするか、次の蒲原宿まで行って蒲原駅をゴール
にするか迷っていたが決心がついた。この本陣を見学しないのなら蒲原まで行こうと。
枡形なのか街道がカーブしているところに江戸から37里目の岩淵の一里塚はある。
江戸時代から現存する貴重な一里塚で、左の標識の建っている一里塚の榎は植え替えて
あるが、右の榎は江戸時代からのものとある。
見事に成長した木は一里塚を凌駕して、まるで自分の花壇のようにしてしまっている。
塚の間を走る県道がいかにも窮屈に感じてしまう。
「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 」
ご存知万葉集の山部赤人の歌だが、この歌は田子の浦から富士山を見ての歌だとして
「田子の浦を通って見渡しの良い所に来たら、真っ白な雪を抱いた富士山が見えた」
と解釈されている。
そして詠った場所はというと、「田子の浦ゆ」の「ゆ」が、どこどこを通ってとか、
経由して、という意味だそうなので、田子の浦を通過した場所になる。
ならば赤人は東国から京に向かう途中、鈴川の海岸付近から見た富士山を詠ったのか。
いや違うと思う。東国から来たなら、それまでに何度も富士山の全容は見ていて筈だ。
それなら感激の度合いも減っていて、この様な歌は詠めなかったと思う。
以後は私の独断と偏見になってしまうが、私は以前からこう考えていた。
赤人は京から東国に向かって歩いているとき、岩淵に来て、初めて何の妨げもない
富士山の全容を見た。そして感激して詠ったのが、この歌ではないのだろうかと。
しかしこれでは田子の浦を通っていないので「ゆ」が意味をなさなくなってしまう。
大丈夫!こんなデータもありました。
「むかしの田子の浦は現在とは異なる場所にあって、現在の庵原郡由比町から
蒲原町の海岸あたりが、かつての田子の浦です。
現在の田子の浦は、そこよりもっと東の富士市の海岸になっている」
どうですか、これなら「ゆ」に必然性が出てきます。よって
「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける 」
は山部赤人が岩淵で詠んだ歌です。
写真は雲が多く、また最近では民家が建って見づらいですが、江戸時代の街道の
一里塚付近から見た富士山と愛鷹山です。
それ以前の街道はもっと海岸寄りで、山部赤人が見た富士山の景色は、JRの
東海道線や新幹線の辺りから見た感じになるのではと思います。
面白い水準点があった。水準点のマンホールの蓋に水準点・国土地理院と書かれ
日本地図と測量機を覗く人物が描かれている。このマンホールの中に標高の水準に
なる物が入っているのだろう。
そういえば原のお寺の境内の中にも水準点があったが、そんな場所にある水準点の
使い方を一度専門家に聞いてみたい気がする。そう水準点だけでなく三角点も。
アッそうだ、さっき富士川の手前の水神の森近くの住宅街で、狭い車道の脇に
三角点があった。
畑に中、森の中、住宅地の中と、見通せない所にも三角点は一杯あるが、本当に
利用しているのだろうか?
車道が突然新幹線の軌道で遮断されていた。歩行者は狭いガードを潜って渡れる
ようになっている。旧の東海道はこの道になっているので、JRが気を利かして
ガードを造ってくれたのだろう。
岩淵にはやけに秋葉神社の常夜灯が多い。富士川を渡ったところ、本陣の横、
一里塚といたる所で目にした。岩淵は秋葉信仰が強いのか? となると以前に
大火の経験でもあったのだろうか?
明治天皇の休憩場所の記念碑がある。今までも一里塚より多い感じで、この碑は
建っていたが、ここの碑には「明治天皇御駐輦之址」と記されていた。
この「輦」の字を使った碑は小田原からここまで目にしなかったが、実は金谷宿の
菊川坂の石畳の上にもある。
一度ブログで紹介したこともあるが、未だにそのとき感じた疑問は解けていない。
今回も金谷宿に行ったとき、その疑問を紹介しようと思っている。
道は東名高速の切通しの横に付いていたが、多分この道は新しい道だろう。
新しい物が出来れば古いものは壊され運命なのは仕方ない。
ただ岩淵の一里塚のように今もその原型を保っている物は保存してもらいたい。
道脇に馬頭観音の石仏があった。
蒲原の一里塚に着いた。ここが38里目で岩淵の一里塚の次にあたる。
距離はどうだろう。今度はしっかり書いてあった。GPSの距離は3.3km。
なんだか短い感じだ。案内板を読むと
「最初の一里塚は元禄の大津波で流失してしまい、宿の移転に伴って、
ここに移されました」とあった。なるほど、その影響で距離が短くなったのだろう。
一里塚を少し行ったところが東の木戸跡だった。沼津宿の伝でいけば一里塚は
宿場の中には造らないとあったので、ここの一里塚の距離が短いのは仕方ないな。
安藤広重の蒲原の「夜之雪」は五十三次の中でも傑作といわれている。
しかし温暖な地の駿河では、絵のような雪が降ることはないので、これは広重の
想像で描いたものとも言われているらしい。
マーそれはともかく、少しでも絵に似た場所はと、キョロキョロしながら街道を
歩いたが見当らない。
「蒲原夜之雪記念碑」なる場所にも行ってみたが、浮世絵とは似ても似つかない
場所だった。だいたい街道沿いには、絵にあるような山が接近したところは無い。
それでも下り坂と登り坂の鞍部があった場所は、夜之雪記念碑へと向かう辻だった。
蒲原の宿には黒塀に囲まれた旧本陣跡の平岡家、薄緑色の旧歯科医院の家屋など
古い建物が現存している。街道も旧国1とは別のため車が少なく落着いて歩くことが
でき、町の説明も所々にあるので飽きることがない。
今日の歩行距離は、ここまでで43kを越してしまった。蒲原駅はまだ先だが
何とか明るいうちに着く事ができそうだ。