はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:掛川3城巡り(高天神城趾1)

2018-01-31 17:41:24 | ウォーキング
歩行記録                                                           H30-1-20(土)
歩行時間:8時間00分   休憩時間:0時間50分   延時間:8時間50分
出発時刻:7時25分     到着時刻:16時15分
歩  数: 38、253歩(推定距離27.16km)    GPS距離km
行程表
 掛川駅 0:10> 掛川城 2:00> 小笠山 0:05> 小笠山砦 0:05> 小笠神社 1:20> 高天神城趾入口 0:50> 本丸跡
 0:35> 高天神城趾出口 0:45> 県道合流 0:40> 横須賀街道合流 0:25> 大須賀図書館 0:25> 横須賀城趾入口
 0:40> 横須賀城趾出口 0:02> 西田バス停


                            高天神城趾付近の概略図

        
                       旧大東町のMH                           水 仙

  車の通らない下小笠川の右岸を歩いていると掛川市とは絵柄の違うマンホールがある。絵柄は旧大東町時代の絵柄で、中央に
描かれているは、菊川の河口に架かる自転車歩行者専用道路の潮騒橋で、近くには日帰り温泉大東ユートピアがある所です。
絵柄の下には水仙が書かれているが、きっと旧大東町の花だったのでしょう。今もあちこちで見かけます。

  この辺りは寺巡りでも歩いているので道は結構知っている。川口鉄工所が見えたら右に曲がり、次の新しい道に入る。その道の
山側には惚け封じの確か今瀧寺があったなど、普段は頭の片隅に隠れていた記憶が浮かび上がってきます。
これならまだ今瀧寺にお参りする事はないかな、なんて思いたいがとんでもありません。近頃とみに物忘れが増えて日にちや
曜日は勿論の事、近所の家の名前を思い出せない事が時々ある。今日はせめて遠くから惚け封じの寺に一礼しておこう。

 
              高天神城趾の山                              高天神城入口(北口)

  高天神城趾の山が見えてきました。、写真の手前に見えるフェンスは工業団地の売れ残りのようです。
それにしても掛川市は大丈夫ですかね? 売れ残りがあるのに新しい工業団地を造成したりして・・・・・

  この貧弱な山が 「高天神を制する者は、遠州を制す」 と言われた高天神城のある山です。
しかしどう見てもこの山がそんな重要な位置にあったとは思えませんよね。で、高天神城の歴史を私流に復習してみました。

  高天神城が歴史上名前が出てくるのは、16世紀初頭に今川氏の家臣福島氏が城代として駐留した頃だそうです。
この福島氏は今川の家臣ですが中々の有力者で、今川家の世継ぎ騒動で有名な 「花倉の乱」 の主人公・玄広恵探(花倉殿)の
祖父でもあり、後援者でもあったのです。
この相続争いは今川家当主だった氏輝が若くして亡くなると、跡目に名乗り出たのは氏輝の義弟の恵探と弟の義元の二人でした。
氏輝や義元は氏親と正室寿慶尼の間の子供でしたが、恵探は側室の子でした。ただ惠探は義元より年長で、側室だった母親が
高天神城代の福島氏だったことから問題が複雑になりました。
  恵探は祖父を後ろ盾として義元の住む駿府今川館を急襲するもこれに失敗、自身の城・花倉城に逃げ込みました。
義元は母親の寿桂尼や重臣の支持をうけ花倉城に攻め込むと、惠探は城を捨て烏帽子形山を越して瀬戸谷に逃げ込んだしまった。
惠探は祖父のいる遠州高天神城を目指したのだが、義元の追及は厳しく惠探は瀬戸谷の普門寺で自刃してしまう。
花倉の乱が終結すると福島氏も義元に討伐され、高天神城は今川氏親の娘婿の小笠原氏に引き継がれるのでした。

  ここまでが高天神城の前置きですので、遠州を制するほどの話ではありませんでした。
時は移り今川家の当主になった義元が桶狭間で織田信長に討たれると、今川家はその子氏真が当主になるも、急速に勢力が衰退
していく。
今川の力が減少すると甲斐の武田は三河の徳川との間で駿河は武田、遠州は徳川との密約を結び武田軍は駿河に侵攻する。
これを恐れた氏真は、駿府から山路を経て掛川城に逃げ込んでしまった。
一方家康も遠州を手に入れるべく高天神所の小笠原氏を自陣営に誘い込み、掛川城の攻撃を開始する。
この戦いには高天神城の小笠原氏は徳川軍の一員として旧主君の籠る掛川城を攻撃しているのです。
しかし家康の思惑に反して掛川城は中々な落ちず、家康は和睦作戦に移行して掛川城を手に入れるのでした。

  武田信玄は駿河平定後、家康の拠点の三河・遠江方面へも手を伸ばし始め、遂には2万5千の大軍を率いて高天神城を包囲する。
だが信玄は城を包囲したものの、城を見ただけで即日撤退してしまった。
このため高天神城は 「信玄も落とせなかった難攻不落の城」 との名声を受けるようになる。
だが、実際はどうだったのでしょうか、信玄は高天神城を見て “難攻不落” とみたか “攻撃する価値もない” と見たのか。
私は後者だったと思う。遠州の片田舎にある山城を見て、信玄はその存在価値を認めず無駄な血を流す事を避けたのだと思う。 

  信玄が家康との三方原の戦い後に病死すると、後を継いだ勝頼は、偉大だった父・信元を越えるべく父が落とせなかった高天神城
攻略に信念を燃やしだした。
信玄が高天神城を包囲してから3年後、勝頼は2万の大軍をもって高天神城に攻めかかる。この時の高天神城は城主小笠原以下千名
程度で守っていた云われる。
当然小笠原は家康に援軍を求めたものの、当時家康も兵が足りない状態で援軍を送れなかった。更に城内で勝頼に内通する者も現れ、
高天神城は持ちこたえられず勝頼に降伏してしまった。これが世に云う 「第一次高天神城の戦い」 です。

  第一次高天神城の戦いに勝利した勝頼は、父信玄の無しえなかった事を成しえた事で自信を持ち、徐々に家臣の意見に耳を
貸さなくなったと言われている。この勝利が勝頼には良かったのか、それとも悪かったのかは神のみぞ知るですね。


                             高天神城想像図                        (現地案内板)

  高天神城を攻略した武田軍は城内を拡張・整備し、写真の想像図左に聳える西の丸を増強して徳川の反撃に備えていた。
更に高天神城を攻略して自信を付けた勝頼は三河への侵略を始め、長篠で織田・徳川の連合軍に戦いを挑んでいった。
この時の勢力は武田軍は1万5千で、織田・徳川軍は3万8千と倍以上だったため、武田の重臣は退却を進言したが勝頼は
聞き入れず総攻撃の命令を発してしまった。
敵地でしかも味方を倍する軍に突進した勝頼には、高天神での勝利の味が忘れられなかったかもしれない。だが所詮は連合軍の
敵ではなく、惨敗した勝頼はすごすごと甲斐に逃げ帰ったのでした。

  一方長篠の戦いで勝利した家康は、高天神城の攻略を目指し、陸からの補給路だった金谷の諏訪原城を攻め落とし、次いで
海の支援路の用宗の持舟城も落城させ、高天神城を孤立させていった。
更に家康は高天神城の周りに6ヶ所もの砦を作り、それらの砦を支援すべく海辺に本格的な横須賀城を築いていく。
準備万端整えた家康は、高天神城の周囲を包囲する兵糧攻めの策をとり、城兵の士気を衰えさす作戦に出た。
一方城内からは甲斐の勝頼に支援要請を出すものの援軍の派遣はなく、場内では餓死者や脱走兵が相次いでいた。
こうした状況にしびれを切らした武田軍は、ついに城から討って出たが徳川軍には敵わず、城代岡部元信以下兵600名余は
首を討ち取られてしまった。これが世に云う「第二次高天神城の戦い」だったのです。

  その後高天神城への援軍を送れず味方を見殺しにしてしまった勝頼は、その非情さから家臣の信頼を失い、敵に寝返る者が
出るようになり、  「人は石垣、人は城」 と団結を誇った武田軍も終焉を向かえるのでした。

 
                 掛川3城の位置                            六砦の位置(一ヶ所不明)

  先に書いた 「高天神を制する者は、遠州を制す」 だが、上の航空写真を見てください。
海岸近くの山中の場所は本当の片田舎だと一目瞭然ですよね。この地を支配しても農地は少なく年貢量も上がらないでしょう。
しかも東海道に出たくても山越えをしなければ出る事ができません。
武田信玄はここに来て、そんな高天神城の無用さを一目で見抜き、何もせずに退却したのです。
そのままなら高天神は遠州の片田舎の山城で終わったが、父親コンプレックスの強い勝頼の存在が高天神をクローズアップして
しまったのです。

  「高天神を制する者は、遠州を制す」 とは、武田と徳川が2度に渡る戦闘を繰り返したため、この地や城が重要だったとの
認識が世間に出来てしまった。と私は想像するのです。
私に言わせれば 「高天神は勝頼を生かし、勝頼を殺した」 城と言いたい。
更に言うなら高天神城は今川が造り、守り、裏切り、そして滅亡した、最初から最後まで “今川の城” だったとも言いたい。
何故なら今川の家臣福島氏が城を整備し、福島氏が跡目相続で敗れたあと城を継いだ小笠原氏は、今川を裏切り徳川方に寝返った
ものの武田に敗れてしまう。次に武田の城になった高天神に入ったのは、跡目相続で福島氏の孫の花倉殿を破った岡部氏でした。
そして岡部氏の高天神城は徳川に殲滅され落城してしまったのです。
高天神城と言えば武田と徳川だけに焦点が当たるが、裏にはこのように深く今川も絡んでいたのです。

  ダラダラ書いてしまったがまだ疑問に感じる事がある。家康は何故兵糧攻めした高天神城を降伏させずに滅ぼしてしまったのか?
飢えで体力を消耗した城兵は降伏を許されないと知り、絶望すると同時に徳川軍に激しい憎しみを覚えたでしょう。
そんな軍隊は “窮鼠猫を噛む” の例え通り、思わぬ反撃をするものです。
しかし家康は自軍の被害を無視して、城から打って出た武田兵を次々と討ってしまったのです。これは家康の性癖でしょうか?
かって家康は気賀の堀川城でも城兵や住民をなで斬りにして、その首を土手(獄門畷)に並べて曝している。
更に最近行った持舟城にも、討死した将兵の “城山烈士供養塔” が祀られ、当時の惨劇が書かれていた。

  ウイキペディアには
 「織田信長は高天神城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている。信長は勝頼が
高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。」

書状の有無はともかく、勝頼失墜を狙い武田軍を惨殺した家康も信長も深慮遠謀に長けていたのでしょう。

  高天神城は落城するとそのまま廃城となり、再び歴史にその顔を出す事はなかった。(高天神は遠州を制する場所では無かった)


                             高天神城趾案内図

  高天神城想像図を見て城内の散策コースを決めようと思ったが、余りにも想像的で格好は良いが正直何処が何処か分からなかった。
仕方なく少し戻りイラスト風の案内図を見るとこれは良く分かった。
今日は城内を見た後は、またここに戻り横須賀城に向かう予定なので城内を一周したいと思っていた。そこで考え付いたのは赤線の
コースです。これなら城内を余すことなく見学できそうです。

        
                       道が終ってしまった                          階段がある

  案内板のある所は北口なので南口から登城するため舗装路を南口に向かいます。
アレー道なりに行く道は通行止めになり、舗装路は更に先に見える太めの車道に向かっている。
でもこの通行止は車両用と更に前進するが、すぐこの通りの状態に。
でも捨てる神もあれば拾う神もあるのです。こんな階段を見つけ登って行きました。

  
             神はいなかった                              やっと下りれた

  階段の上は竹藪だったが踏み跡らしきものあったので進んでいくと、倒竹が多く一足毎にバキーとかボキーとか大きな音を立てる。
踏み跡か水の流れた跡のなのか分からない凹みは、斜面の裾を円を描くように続き、のまま辿ればまた下に行ってしまいそうだ。
思い切って斜面を登ろうとするが細い真竹が密集していてとても上る状態ではなかった。

  結局凹みを辿って下に降りると、そこは舗装道路が寸断された先の部分だった。全く余計な労力を使ってしまった。

  
             また脇道がある                               車道に戻ってしまった

  山裾に続く舗装路を行くとまた階段があり、その上は平坦になり曲輪のように見えない事もない。おまけに目印のテープまである。
で、結果は又もや空振り。目印のテープと思ったのは何かを縛った紐の残骸だった。どうやら高天神は俺を拒否しているようだ。

  舗装路に戻り出た先は、何の事はなくさっき見えた太めの車道だった。こんな事なら最初から素直に車道を歩けば良かった。

 
              高天神城南口                                 南口駐車場(追手門)

  車道を進むと 「高天神城跡南口➡」 の標識が見えてきた。無駄な時間を使ってしまったが漸く入口に着いた。
先程の北口には駐車場が5カ所程あったが、ここ南口には一つしかな。道も細いので、こっちが搦手門で北口が大手門かな?
入口の表示は 「県立自然公園 高天神城趾」 とあるだけで、搦手門かどうか分からないが多分そうだろう。

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1 コメント

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初めまして! (鷲谷 壮介)
2020-05-09 11:16:19
初めまして、鷲谷と申します。

第一次高天神城の戦いについてのブログ記事を書いた際、はぐれさんの記事を参考にさせていただきました。

縄張り図や、この戦いに勝利したことの、勝頼への影響などが特に参考になりました。

別の記事も読ませていただこうと思っておりますので、よろしくお願いします!

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