28番妙善寺の境内には溶岩を置石代わりに置いてある。この寺に来る途中の庭にも溶岩があったので、この辺りには富士山の噴火の溶岩が流れてきたのだろう。それとも愛鷹山も噴火して山頂部分が飛ばされたと聞いたこともあるので愛鷹山の溶岩なのかしら?
妙善寺境内
ご朱印を貰いに庫裏に入ると「妙善禅寺」と彫った置物があった。以前にも寺の名前で「禅」の字が付いたり付かなかったりした事があったので
「ここのお寺の名前は妙善寺が正しいのですか、それともここに書いてある妙善禅寺が正しいのですか?」と聞いてみた。
「禅とは禅宗の寺を表す字で臨済宗と曹洞宗の寺と言う事です。これを付けるか付けないかは特に決まりはないが、付けてあれば一目で座禅をやる寺だと分かりいます。マー普通は付けないで妙善寺と言うが、格好をつける時は妙善禅寺と言うのかな」ハイ良く分かりました。
「それにしても早いですね。何所から来たのですか」
「家は焼津ですが、今日は身延線の入山瀬から歩いてきました」
「エー!歩いてきたの、それは大変だ」など久し振りにお寺での話が弾みました。
次の29番の道を尋ねると県道しか無いと言う。この県道は通称「根方街道」と呼ばれていて愛鷹山の麓を東西に延びている道で、まだ箱根が東海道の本道になっていない頃はこの根方街道が東海道であったと言はれている。現在は県道だが道が細い割りには交通量が多く大型同士のすれ違いには困っているらしい。
その道を歩くのは余りゾーとしないが、他に無いなら仕方ない歩くしかないか。
案の定嫌な道だった。車がすれ違う時は私まで避けなければならない事が何度かあったり、スピードを落とさず通り抜ける車に肝を冷やす事もあった。ただ時折ある古い石仏は、この道が古道だった証だろう。
暇な頭は色々な妄想が浮かぶ。この道が箱根以前の東海道なら足柄峠に向かっていたはずだ。それなら愛鷹山の南を迂回せず、北側の富士山の間を歩いた方が距離は短いのに何故そうしなかったのか? 富士山と愛鷹山の間にある十里木地方は頼朝の富士の巻狩りの本陣になったり、またその近くには勢子辻と言う当時の名前も残っている。なのできっと当時も道はあったに違いないのだが。
福聚院入口の石塔
愛鷹山の裾が迫ってきている。29番はそろそろのはずだ。
道端の石塔の中にドラえもんの姿をした石塔が立っていた。なんと風情がないと思ったら、そこが29番福聚院だった。階段を登り境内に入ると、あちこちに石の置物がある。小坊主や漫画チックな物、中国風とあるが、どれも安っぽくいただけない。本堂の中から子供達の声が聞こえてきた。下駄箱には大小の靴が何足も。どうやら簡易な保育所でもやっているいるようだ。それでこんな置物があるのだろう。
福聚院本堂
29番を打ち終わり、また根方街道に戻る。次の30番広大寺は、この街道を東に進み、更に山に入り込んだ所にある。ここからおおよそ10k程先になる。
狭い道路を歩くのに飽きてきたが仕方ない。地名など見ながら気を紛らわすして歩いていこう。地名と言えば沼津市に入って浮島小学校や中学校があったが、その辺りは既に台地の上で浮島とは呼べそうも無い。きっとこの台地付近から田子の浦にかけての地名かと思い後で調べてみたが沼津市には浮島と言う名の地名は無かった。浮島とは小字なのだろうか?
富士市の地図はこの浮島小学校で終わってしまっている。沼津市の地図を出して見てみると浮島小学校は出てなく、沼津市の外れは30番のある柳沢からだった。
浮島と柳沢の間は省略されるくらいだから距離は短いだろうと気を良くして歩く。
だが何故か柳沢が出てこない。
左手の立派な銅像が二体も立った公園があった。岡野公園と名前が書いてある。洋服を着ているので近代の人だろう。散歩していた人に聞いてみると、駿河銀行の創始者とのことだ。そうだ確か駿河銀行の創始者は確か岡野何某と言ったはずだ。それで公園の名前が岡野公園になっているのだ。納得。
岡野公園
それにしても柳沢が出てこない。地図に記載が無くなってからも大分歩いたのに出てこないのはどうしてだ。都市地図でこんなに省略するなんてけしからん、と腹が立ってくる。
通り過ぎた? とんでもない。柳沢の手前には川が流れているが、それは越してない。これだけ注意しながら歩いているのだから見過ごす事は絶対にない。
腹も減ってきたせいもありイライラが増してくる。
そうしてやっと川が出てきました。
----<後で地図を確認すると道中見ていた地図は詳細図で広域地図には載っていた>----
東名と第2東名
川の手前からも山に向かって道は延びている。道の先には新幹線や東名そして第二東名の高架が見える。札所は新幹線と東名の間にある。この道を行っても行けそうな気がする。地図を見てもこの道は30番の方に続いている。少しでも近いほうが良いと早速左折して歩き出す。新幹線の下を潜り札所とは違うお寺の前に出た。何か立札が立っている。
「寺に用の無い方の通り抜けは お断りします」なんだって!ここまで来てそんな!
でもまてよ通り抜けを断っているという事は通り抜けが出来るのだ。ヨシ注意されたら謝ればいい。と寺の境内に入っていった。見つかりませんように。早く通り過ぎよう。
また立札があった。今度は「ここは犬の散歩道ではありません----」なるほど犬の糞で迷惑しているのでこんな立札をしているのか。理由は分かったが今回は許してもらおうと足早に歩く私でした。
----<後でネットの地図で確認すると道は中断していた>----
広大寺のカヤの木
30番広大寺にやっと付いた。境内には大きなカヤの木が1本スキット立っている。敷地を充分取り葉も清々広げいる。これならまだまだ大きくなりそうだ。
本堂でお参りをして、観音堂は?と見回すが見当たらない。きっと無いのだろうと決め付けご朱印を貰いに行く。
「観音堂はお参りしましたか」と言いながら略図を手渡してくれる。見ると観音堂はまだ先で東名を過ぎ第2東名の袂まで行かなければならないようだ。
「車で---」「歩いて来たのですが」「歩きですか、それは大変だ。この急坂を登って20分ぐらい掛かるかな」と車道と違う道を指して説明してくれた。
東名の高架の下を潜り車道と別れて急な登りの農道に入る。坂は東名の高架の上まで一気に登るきつい坂で、既に20k歩き、腹の減っている身にはかなり堪えた。
やっと東名の高さまで来ると愛鷹SAの看板が見えた。確かこの辺りには「動物飛出し注意」の看板が立っていたはずだ。熊では困るが鹿か猿でも出てこないか等考える余裕もやっと出てきた。
大師堂の横を通り切通しの道になる。ここの切通しの土留めが変わっていて廃棄されたコンクリート柱を使っている。中々いい方法だ。こうすれば資源の再利用が出来る。以前大崩山塊で古タイヤを階段に使っていたが、古タイヤだと経年劣化すると不純物が出る恐れがある。それがコンクリート柱なら安全だ。
切通しの廃柱
高台に出ると前方に森が見えてきた。あれが観音堂だろう。やれやれ、やっと着いた。
妙善寺境内
ご朱印を貰いに庫裏に入ると「妙善禅寺」と彫った置物があった。以前にも寺の名前で「禅」の字が付いたり付かなかったりした事があったので
「ここのお寺の名前は妙善寺が正しいのですか、それともここに書いてある妙善禅寺が正しいのですか?」と聞いてみた。
「禅とは禅宗の寺を表す字で臨済宗と曹洞宗の寺と言う事です。これを付けるか付けないかは特に決まりはないが、付けてあれば一目で座禅をやる寺だと分かりいます。マー普通は付けないで妙善寺と言うが、格好をつける時は妙善禅寺と言うのかな」ハイ良く分かりました。
「それにしても早いですね。何所から来たのですか」
「家は焼津ですが、今日は身延線の入山瀬から歩いてきました」
「エー!歩いてきたの、それは大変だ」など久し振りにお寺での話が弾みました。
次の29番の道を尋ねると県道しか無いと言う。この県道は通称「根方街道」と呼ばれていて愛鷹山の麓を東西に延びている道で、まだ箱根が東海道の本道になっていない頃はこの根方街道が東海道であったと言はれている。現在は県道だが道が細い割りには交通量が多く大型同士のすれ違いには困っているらしい。
その道を歩くのは余りゾーとしないが、他に無いなら仕方ない歩くしかないか。
案の定嫌な道だった。車がすれ違う時は私まで避けなければならない事が何度かあったり、スピードを落とさず通り抜ける車に肝を冷やす事もあった。ただ時折ある古い石仏は、この道が古道だった証だろう。
暇な頭は色々な妄想が浮かぶ。この道が箱根以前の東海道なら足柄峠に向かっていたはずだ。それなら愛鷹山の南を迂回せず、北側の富士山の間を歩いた方が距離は短いのに何故そうしなかったのか? 富士山と愛鷹山の間にある十里木地方は頼朝の富士の巻狩りの本陣になったり、またその近くには勢子辻と言う当時の名前も残っている。なのできっと当時も道はあったに違いないのだが。
福聚院入口の石塔
愛鷹山の裾が迫ってきている。29番はそろそろのはずだ。
道端の石塔の中にドラえもんの姿をした石塔が立っていた。なんと風情がないと思ったら、そこが29番福聚院だった。階段を登り境内に入ると、あちこちに石の置物がある。小坊主や漫画チックな物、中国風とあるが、どれも安っぽくいただけない。本堂の中から子供達の声が聞こえてきた。下駄箱には大小の靴が何足も。どうやら簡易な保育所でもやっているいるようだ。それでこんな置物があるのだろう。
福聚院本堂
29番を打ち終わり、また根方街道に戻る。次の30番広大寺は、この街道を東に進み、更に山に入り込んだ所にある。ここからおおよそ10k程先になる。
狭い道路を歩くのに飽きてきたが仕方ない。地名など見ながら気を紛らわすして歩いていこう。地名と言えば沼津市に入って浮島小学校や中学校があったが、その辺りは既に台地の上で浮島とは呼べそうも無い。きっとこの台地付近から田子の浦にかけての地名かと思い後で調べてみたが沼津市には浮島と言う名の地名は無かった。浮島とは小字なのだろうか?
富士市の地図はこの浮島小学校で終わってしまっている。沼津市の地図を出して見てみると浮島小学校は出てなく、沼津市の外れは30番のある柳沢からだった。
浮島と柳沢の間は省略されるくらいだから距離は短いだろうと気を良くして歩く。
だが何故か柳沢が出てこない。
左手の立派な銅像が二体も立った公園があった。岡野公園と名前が書いてある。洋服を着ているので近代の人だろう。散歩していた人に聞いてみると、駿河銀行の創始者とのことだ。そうだ確か駿河銀行の創始者は確か岡野何某と言ったはずだ。それで公園の名前が岡野公園になっているのだ。納得。
岡野公園
それにしても柳沢が出てこない。地図に記載が無くなってからも大分歩いたのに出てこないのはどうしてだ。都市地図でこんなに省略するなんてけしからん、と腹が立ってくる。
通り過ぎた? とんでもない。柳沢の手前には川が流れているが、それは越してない。これだけ注意しながら歩いているのだから見過ごす事は絶対にない。
腹も減ってきたせいもありイライラが増してくる。
そうしてやっと川が出てきました。
----<後で地図を確認すると道中見ていた地図は詳細図で広域地図には載っていた>----
東名と第2東名
川の手前からも山に向かって道は延びている。道の先には新幹線や東名そして第二東名の高架が見える。札所は新幹線と東名の間にある。この道を行っても行けそうな気がする。地図を見てもこの道は30番の方に続いている。少しでも近いほうが良いと早速左折して歩き出す。新幹線の下を潜り札所とは違うお寺の前に出た。何か立札が立っている。
「寺に用の無い方の通り抜けは お断りします」なんだって!ここまで来てそんな!
でもまてよ通り抜けを断っているという事は通り抜けが出来るのだ。ヨシ注意されたら謝ればいい。と寺の境内に入っていった。見つかりませんように。早く通り過ぎよう。
また立札があった。今度は「ここは犬の散歩道ではありません----」なるほど犬の糞で迷惑しているのでこんな立札をしているのか。理由は分かったが今回は許してもらおうと足早に歩く私でした。
----<後でネットの地図で確認すると道は中断していた>----
広大寺のカヤの木
30番広大寺にやっと付いた。境内には大きなカヤの木が1本スキット立っている。敷地を充分取り葉も清々広げいる。これならまだまだ大きくなりそうだ。
本堂でお参りをして、観音堂は?と見回すが見当たらない。きっと無いのだろうと決め付けご朱印を貰いに行く。
「観音堂はお参りしましたか」と言いながら略図を手渡してくれる。見ると観音堂はまだ先で東名を過ぎ第2東名の袂まで行かなければならないようだ。
「車で---」「歩いて来たのですが」「歩きですか、それは大変だ。この急坂を登って20分ぐらい掛かるかな」と車道と違う道を指して説明してくれた。
東名の高架の下を潜り車道と別れて急な登りの農道に入る。坂は東名の高架の上まで一気に登るきつい坂で、既に20k歩き、腹の減っている身にはかなり堪えた。
やっと東名の高さまで来ると愛鷹SAの看板が見えた。確かこの辺りには「動物飛出し注意」の看板が立っていたはずだ。熊では困るが鹿か猿でも出てこないか等考える余裕もやっと出てきた。
大師堂の横を通り切通しの道になる。ここの切通しの土留めが変わっていて廃棄されたコンクリート柱を使っている。中々いい方法だ。こうすれば資源の再利用が出来る。以前大崩山塊で古タイヤを階段に使っていたが、古タイヤだと経年劣化すると不純物が出る恐れがある。それがコンクリート柱なら安全だ。
切通しの廃柱
高台に出ると前方に森が見えてきた。あれが観音堂だろう。やれやれ、やっと着いた。