隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

百歳 centenarian

2015-08-22 09:56:56 | Weblog

浜木綿
百歳 centenarian 平成乙未廿七年葉月ニ十ニ日

 今年は、去年よりは暑い日が続いた。週3日は最低の運動日として水泳にプールへ行くことにしている。水泳のコーチが、30名位の我々70歳前後の生徒を前にして、100歳になる女性が背泳ぎで1500mを泳いだというニュースから、「この中から、100歳で1500mを泳げる人が現れないかな?」と数カ月前言われたことがあった。
 
95歳になる旦那さんと90歳の奥さんが、30年近い付き合いになるが、車の運転で心配になり、歩いて泳げるプールへ変更した。彼らは、100歳は達成されると思いますが、残念ながら1500mはとても遠い数字です。やはりその記録を出すには家族の送り迎えとか色々なサポートがあったればこそですね。
 最近、篠田桃紅さんの「103歳になってわかったこと」人生は一人でも面白い  を読んだ。
関市役所のビルの最上階に篠田桃紅美術館があり、抽象表現者としての作品を鑑賞できるが、読んでみて、100歳を到達できるだけの考え方が、すでに培われていたように思える。

103歳になってわかった言葉が、散りばめてあった。
 *振りかぶった死生観がなく、人の領域ではないことに、思いめぐらせても真理に近づくことはできません。それなら私は一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。
 *自由という熟語は、自らに由(よ)ると書くが、私は自らに由って生きていると実感しています。孤独で寂しいという思いはなく、気楽で平和です。
 *百歳を過ぎてどういうことなのか。一つには、体の半分はもうあの世にいますから、客観視している自分と向き合うことなのかもしれません。
 *人は老いて、日常が『無』の境地にもいたり、やがて、ほんとうの「む」を迎える。それが死である、そう感じるようになりました。
 *幸福になれるかは、この程度でちょうどいい、と思えるかどうかにある。
 
三好達治や良き友人ライシャワー夫妻などとの巡り合いが長生きさせていると分かった。
良き人たちの交流を求めて、後に続きたいと思った。
お読み下され、感謝致します。

広島原爆被爆ー記憶と記録

2015-08-14 17:09:31 | Weblog

広島原爆被爆ー記憶と記録Hiroshima A-bomb victim--memories &records 平成乙未廿七年葉月十四日

 今年は、終戦70年という節目と憲法改正という手続きなしの閣議決定で「集団的自衛権」の強行がなされた。
 昨日は、川内原発の再稼働で原発ゼロではなくなった。一番の問題であった「核のごみ」は各原発で最終処分せねばなるまい。30年後今子供たちがやってかなくてはならないことと先送りとなった。
 
 平成25年 近所に住んでおられるSさん90歳は、社会福祉協議会で長年この地域に貢献され、天皇より瑞寶雙光章を授与された。
 そのSさんは、先の太平洋戦争で体験した事実、及びあの時の光景の全てを出来る限り記憶を辿りながら未来への伝言とするため記述されていた。もう20年も前であるが、当時は50年を節目とした時代の要請でもあった。 =平成7年1月=
 
 彼は昭和18年旧制中学卒業され、東京目黒の逓信省無線電信講習所船舶科に入り、名古屋港無線局での実習、工場での実習を終えると、陸軍・海軍に分けられ、軍属となった。東京軍管区司令官名で「昭和20年5月1日13時、広島市皆実町、暁第16710部隊ニ入隊スベシ」の通達書を受け、広島へ。入隊1か月後、見習士官になり、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と葉隠の武士道を徹底的に学び、この聖戦は、死ぬ覚悟と信念は出来ておったという。
 当時広島の各部隊は、24時間体制で比治山の洞窟堀作業を命ぜられ、8月5日午後6時~翌6日午前6時まで穴掘り作業を行い、午前7時過ぎには帰隊、点呼、朝食の後、午前8時から12時まで仮眠就寝の予定だったという。
 
 小隊全員就寝、横になった直後であった。物凄い閃光、爆風、熱風により内務班全てのものが飛び散り、一瞬何が起きたのか全く分かりませんでした。天井が落下したのです。私は,軍刀で抉じ開け皆夫々に何とか脱出したのですが、お互いに血塗れ(ちまみれ)で小隊全員受傷。居た所は二階の所から折れ曲がった状態で残っていて助かったことが分かった。その時の状況はあたかもマッチ箱を一気に踏み潰した有様で、乾燥していた真夏の暑さの中、空は一面に土と砂ぼこりが高く舞い上がり、視界は殆どありませんでした。よくみると、私達のいた兵舎は匚字型になっていて、たまたま私達の隊は、最後に継ぎ足した新棟にいたためか、ここだけが折れ曲がって立っていたのです。その他の棟は、全部二階の庇が地面に叩きつけられ一瞬にして全壊していました。また、いつも見馴れていた兵舎横の柳の大木直径約50㎝位のもの4本が一斉に同じ方向に折れ曲がって倒れているのを見て、これは唯事でないと直感しました。 持って出た敷布を裂き、頭に巻きながら「比治山に避難」と連呼し行動。その時の光景は到底筆舌に尽くし難い惨状でありました。体のあちらこちらを焼かれた人、人、人・・・。男女の区別も出来ないほどで、外へ飛び出してきた人々が右往左往し、泣き叫ぶ人、人。近くにある防空用水溜りに飛び込む人、人。兵隊を見つけ「兵隊さん、水、水・・・」と足に纏わりつく、焼けた異臭と共に視界のよく分からなかった中でしたが、将に生き地獄を見る思いでありました。
 何とか比治山に着いたものの山の緑は焼けて一面茶褐色となっていて、その物凄さに驚きながらお互い人員の確認(殆ど無理)お互いに受けた傷の手当て(敷布を裂いて巻くくらい)など、市内から這い上がって来た一般市民の人々も皆あちこち焼け爛れ、膨れ上がった大小の水泡を押さえながら血塗れで、呻(うめ)きながら、蹲(うず)くまっていました。

 その頃、急に雨が降り出し、雷も鳴らずこの真夏のこの時期にと不思議なことでありましたが、夫々が手に受けて喉を潤したのでした。ともかく焼けて熱い、痛いの叫び声の中で・・・
  (これが黒い雨ではなかったでしょうか)
ーーーー火傷には油がいいという事で、元気な兵隊が兵舎から軍靴用の”ほ革油を調達。一斗缶から兵隊も民間人も我先にと塗るーーーーあの時の光景は、異臭もさることながら、あたかも生魚を金網に乗せ火にかけ生焼けのまま魚を引っ繰り返した時、皮が剥け、生身が丸出しとなる・・・。
 そんな所へ、ぶよぶよに膨れあがった水泡の所に流れ出る汁・・・。生涯忘れことが出来ない、決して思い出したくない、二度と口にしたくない光景で、手の皮は先の爪に引っ掛かってだらりと垂れ下がり、露出した所の皮も剥げ、そこからしたたり落ちる汁。こんな光景は、言語を絶するものでありました。午後になって、部隊から乾パンの配給があり、これを一般の人々と分け合って食べた思い出が鮮烈です。夕方になりあたりが暗くなると、山から見下ろす市内は一面火の海で赤々と浮かんできた時は、何故?どうして?と理解に苦しみました。この火はゴォゴォと音をたて一晩中燃え続き消えることはなかった、翌7日、近くの国民学校に集合の指示があり、皆、励まし合いながら徒歩で行動。到着後、初めて頭部裂傷、顔面受傷の仮手当を受け、8日まで待機。学校は各教室から机、椅子が校庭へ。廊下と教室は被爆した市内の各部隊の負傷兵が次々と運び込まれてくる。焼け爛れ水泡から汁が流れている者。露出した所の皮が垂れ下がっている者。教室も廊下も負傷兵で溢れていた、
そこを軍医が足早に廻りながら手当の方法もないのか駄目、々、々と呻く者も含め衛生兵に指示する様は、異臭と共に水泡から蠢(うごめ)く白い小さな蛆(うじ)どもの動き、焼け爛れてはけた所にも白いものが一杯ーーーー決して脳裏から消えることのない状況でありました。また,校庭の一遇では、何体かをまとめ荼毘に付していて、その匂いと煙はいつまでも立ち昇っていました。
 翌10日、発熱し倒れてしまい軍用の小船で他の負傷者とともに巌島、臨時陸軍病院で化膿した部分の手当を受けました。

 8月15日この臨時陸軍病院で終戦の詔勅をラジオを通じて途切れ途切れでありましたが、涙ながら全員が直立の姿勢で聞きました。
 云い様もない悔しさ、空しさが込み上げ戦死した諸先輩のことなど浮かび、とめどなく涙が流れ言葉もありませんでした。
 翌、16日本隊に戻り処理作業に従事。

 将来を担う若者、子供達にも被爆体験を率直に、その実態を語り伝えるとともに、もう二度とあの様な惨事が世界に起こることのない様、願わずにはいられません。
そして、あれはもう過去の事だとして、忘却や風化させてしまう様な事があっては、絶対にいけないと思います。無差別に生きとし生けるもの全てを殺戮し焼き尽くす様な兵器は勿論のこと、人間と人間が殺し合わなければならないような戦争も起こしてはならないのに、今まだ世界各地で紛争が絶えず、殺し合いが頻発していることは、人間は救い様のない愚かな動物でしょうか。いいえ、そんなことは決してないはずです。それぞれの民族は、排他的な考えを捨て、宗教的、思想的な考えも、お互いにその立場を理解し合い、人類の英知を傾け、かけがえのない命と共に、地球が永遠の楽土となることを切に願うものであります。

 貴重な被爆体験記を転記させて頂きました。

お読み下され、感謝致しなす。

五箇山、塩硝の館報告Gokayama, Gunpowder's house Report

2015-08-02 18:36:38 | Weblog
五箇山、塩硝の館報告Gokayama, Gunpowder's house Report平成乙未廿七年葉月二日

  

 火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%を混ぜて作ります。
 戦国時代の日本では、木から作る木炭も、火山で採れる硫黄もありましたが、硝石はありませんでした。
 硝酸カリウムを主成分とする硝石は、中国やインドから戦国時代の日本に輸入されました。しかし、日本中が戦乱の時代のこと。最大火力である鉄砲の運用を輸入硝石だけに頼るのはいかにも心もとないものです。
 煙(塩)硝はどうやって作るかですが、実は、煙(塩)硝作りには二つの方法があって、一つは、長石という鉱物を砕いて硝石を造る方法。
そしてもう一つは、人間のおしっこと蓬を混ぜて、発酵させ、硝石を造る方法とがあります。 
白川郷で行われていたのは、後者の人間のおしっこから造る方法です。そのために、大量の尿が
必要となり、秘密を厳守し、隠密裏に作らなくてはいけなかったために、大家族を一つ屋根の下で住居させる方法が取られたものと思われます。
同じことが、五箇山でも行われていたようで、上平村にある岩瀬家は、当時加賀藩の領地でしたが、床下に大甕が4つもあることがわかります。ここでは、加賀藩の保護によって煙(塩)硝が作られており、禁制の品であったために幕府に見つからぬように、その煙硝をわざわざ白山を越えて運んだという記録があるそうです。
 合掌造りの床下   蓬(よもぎ)
 硝酸カリウムが作られる過程で重要なのが、バクテリアです。硝化バクテリアは窒素を含む有機物(アンモニアなど)を分解し、そのときに発生する酸化エネルギーを利用します。そうやって分解された有機物が硝酸塩で、これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムとなりま す。この硝酸カルシウムを灰汁(炭酸カリウム)を使って煮て、両者のカルシウムとカリウムを交換して、硝酸カリウムを含む水溶液を作ります。これを海水 から塩をつくるように煮詰めて濃縮し、結晶化させて硝石を作り出すわけです。                    <<塩硝土>⇒<侵出>⇒<煮詰>⇒<灰煮塩硝>
 1570年(元亀元年)、戦国時代の頃より、越中五箇山(平村、上平村、利賀村の一帯)では、農民の副業として、従来の古土法(奈良時代、中国より伝来、床下の古い土より硝酸塩を抽出)より大量生産できる培養法を用いた塩硝が生産されていました。現在、五箇山の煙硝の館には、塩硝土の培養に使われた穴跡や塩硝の製造に用いられた道具(桶、鍋、釜、ザル)及び塩硝の標本が当時の製紙、生活用具と共に展示されています。
○ 塩硝製造法(培養法)は、合掌造りの家の床下に穴(1.8~3.6m四方、深さ2m、すり鉢型)を掘り、麻畑土、干し草(ヨモギ、サクという山草など)、蚕糞、人馬の尿などを混ぜて積み、糞尿中のアンモニアを土壌中の硝化細菌(アンモニア酸化菌、亜硝酸酸化菌など)により硝酸イオンに酸化します。
  塩硝土2m すり鉢型に穴を掘って幾層にもなった塩硝土を分かりやすく展示
 
 約5年培養後、土桶(つちおけ)を用いて、培養土(塩硝土)から水で抽出された液(硝酸カルシウム含む)を木灰(炭酸カリウム含む)と混ぜ、平釜に移して煮ると、熱水に溶けやすい硝酸カリウム(溶液)と溶けにくい炭酸カルシウム(沈殿)に分離されます。その後、放冷すると、冷水に溶けにくい硝酸カリウムの純粋な結晶が得られました。この中煮塩硝(なかにえんしょう)をさらに鉄鍋で再結晶し、上質の上煮塩硝(うわにえんしょう、白色柱状結晶)を得ました。直径1mの鉄鍋

○ 黒色火薬の生産
 黒色火薬は、原材料の塩硝(硝石、塩化カリウムとも)、硫黄、木炭を調合してつくられました。このうち塩硝は越中五箇山で生産されていました。硫黄は越中立山地獄谷で採取し、滑川で精製された後、加賀の土清水塩硝蔵まで運ばれました。木炭は土清水(つっちょうず)塩硝蔵内の木灰所という施設で、原木として麻木を用いて生産されていました。
 これらの原材料は、搗蔵(つきくら)内に引き込んだ辰巳用水の水流で回した水車の力で粉砕にした後、調合所にて調合され、その後、水練り、切り出し、乾燥という工程を経て黒色火薬へと加工されていました。
 土清水塩硝蔵跡は、黒色火薬の原材料の貯蔵から火薬への加工、そして製品の貯蔵と搬出までを行う大規模施設であったということができます。平成19年第1次より毎年発掘調査。平22年第4次報告された。金沢市の加賀藩の管轄。
 塩硝(えんしょう、煙硝、硝酸カリウムとも、長さ約4cmの無色の斜方晶形の結晶、五箇山産か? 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈されている。
(解説) 塩硝(えんしょう、焔硝、煙硝とも)は、硝酸カリウム(天然鉱物は硝石)のことで、黒色火薬(硝酸カリウム、木炭粉末、硫黄の混合物、煙火薬とも)において、酸化剤の働きをする、最も重要な成分です。
 五箇山では、江戸時代、最盛期の1865年(慶応元年)ころ、年間39トンもの塩硝が生産され、加賀藩に買い上げられています。当時、その質、量は、共に日本一の座にあったと言われています。
天井はすのこ状 硫黄、灰汁煮塩硝、木炭、黒色火薬

火縄銃 製造用具
  生活道具  養蚕棚  祝宴

 コキリコの楽器
 「田中屋半十郎の書物」にも白川郷の煙硝を大坂方へ運搬することが書かれています。これによれば、文化年間1800年代まで煙硝製造がなされていたことが確認できます。

煙硝を製造することで、年貢が一部減免されていたという記録もありますから、山間部の仕事として盛んに煙硝作りがなされていたことでしょうね。禁制品ということで、秘密を強調したいけれど、ここの集落の持つ辺鄙な山間の地理的条件や流刑地だという考えからだけでは気の毒に
思います。

明治時代に入り、チリ硝石やドイツ火薬が大量に輸入されるようになると、1870年(明治3年)には買い上げが停止され、五箇山の塩硝は、約300年の歴史を残して急速に衰退しました。
お読み下され、感謝致します。