五箇山、塩硝の館報告Gokayama, Gunpowder's house Report平成乙未廿七年葉月二日
火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%を混ぜて作ります。
戦国時代の日本では、木から作る木炭も、火山で採れる硫黄もありましたが、硝石はありませんでした。
硝酸カリウムを主成分とする硝石は、中国やインドから戦国時代の日本に輸入されました。しかし、日本中が戦乱の時代のこと。最大火力である鉄砲の運用を輸入硝石だけに頼るのはいかにも心もとないものです。
煙(塩)硝はどうやって作るかですが、実は、煙(塩)硝作りには二つの方法があって、一つは、長石という鉱物を砕いて硝石を造る方法。
そしてもう一つは、人間のおしっこと蓬を混ぜて、発酵させ、硝石を造る方法とがあります。
白川郷で行われていたのは、後者の人間のおしっこから造る方法です。そのために、大量の尿が
必要となり、秘密を厳守し、隠密裏に作らなくてはいけなかったために、大家族を一つ屋根の下で住居させる方法が取られたものと思われます。
同じことが、五箇山でも行われていたようで、上平村にある岩瀬家は、当時加賀藩の領地でしたが、床下に大甕が4つもあることがわかります。ここでは、加賀藩の保護によって煙(塩)硝が作られており、禁制の品であったために幕府に見つからぬように、その煙硝をわざわざ白山を越えて運んだという記録があるそうです。
合掌造りの床下
蓬(よもぎ)
硝酸カリウムが作られる過程で重要なのが、バクテリアです。硝化バクテリアは窒素を含む有機物(アンモニアなど)を分解し、そのときに発生する酸化エネルギーを利用します。そうやって分解された有機物が硝酸塩で、これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムとなりま す。この硝酸カルシウムを灰汁(炭酸カリウム)を使って煮て、両者のカルシウムとカリウムを交換して、硝酸カリウムを含む水溶液を作ります。これを海水 から塩をつくるように煮詰めて濃縮し、結晶化させて硝石を作り出すわけです。 <<塩硝土>⇒<侵出>⇒<煮詰>⇒<灰煮塩硝>
1570年(元亀元年)、戦国時代の頃より、越中五箇山(平村、上平村、利賀村の一帯)では、農民の副業として、従来の古土法(奈良時代、中国より伝来、床下の古い土より硝酸塩を抽出)より大量生産できる培養法を用いた塩硝が生産されていました。現在、五箇山の煙硝の館には、塩硝土の培養に使われた穴跡や塩硝の製造に用いられた道具(桶、鍋、釜、ザル)及び塩硝の標本が当時の製紙、生活用具と共に展示されています。
○ 塩硝製造法(培養法)は、合掌造りの家の床下に穴(1.8~3.6m四方、深さ2m、すり鉢型)を掘り、麻畑土、干し草(ヨモギ、サクという山草など)、蚕糞、人馬の尿などを混ぜて積み、糞尿中のアンモニアを土壌中の硝化細菌(アンモニア酸化菌、亜硝酸酸化菌など)により硝酸イオンに酸化します。
塩硝土2m すり鉢型に穴を掘って幾層にもなった塩硝土を分かりやすく展示
約5年培養後、土桶(つちおけ)を用いて、培養土(塩硝土)から水で抽出された液(硝酸カルシウム含む)を木灰(炭酸カリウム含む)と混ぜ、平釜に移して煮ると、熱水に溶けやすい硝酸カリウム(溶液)と溶けにくい炭酸カルシウム(沈殿)に分離されます。その後、放冷すると、冷水に溶けにくい硝酸カリウムの純粋な結晶が得られました。この中煮塩硝(なかにえんしょう)をさらに鉄鍋で再結晶し、上質の上煮塩硝(うわにえんしょう、白色柱状結晶)を得ました。
直径1mの鉄鍋
○ 黒色火薬の生産
黒色火薬は、原材料の塩硝(硝石、塩化カリウムとも)、硫黄、木炭を調合してつくられました。このうち塩硝は越中五箇山で生産されていました。硫黄は越中立山地獄谷で採取し、滑川で精製された後、加賀の土清水塩硝蔵まで運ばれました。木炭は土清水(つっちょうず)塩硝蔵内の木灰所という施設で、原木として麻木を用いて生産されていました。
これらの原材料は、搗蔵(つきくら)内に引き込んだ辰巳用水の水流で回した水車の力で粉砕にした後、調合所にて調合され、その後、水練り、切り出し、乾燥という工程を経て黒色火薬へと加工されていました。
土清水塩硝蔵跡は、黒色火薬の原材料の貯蔵から火薬への加工、そして製品の貯蔵と搬出までを行う大規模施設であったということができます。平成19年第1次より毎年発掘調査。平22年第4次報告された。金沢市の加賀藩の管轄。
塩硝(えんしょう、煙硝、硝酸カリウムとも、長さ約4cmの無色の斜方晶形の結晶、五箇山産か? 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈されている。
(解説) 塩硝(えんしょう、焔硝、煙硝とも)は、硝酸カリウム(天然鉱物は硝石)のことで、黒色火薬(硝酸カリウム、木炭粉末、硫黄の混合物、煙火薬とも)において、酸化剤の働きをする、最も重要な成分です。
五箇山では、江戸時代、最盛期の1865年(慶応元年)ころ、年間39トンもの塩硝が生産され、加賀藩に買い上げられています。当時、その質、量は、共に日本一の座にあったと言われています。
天井はすのこ状
硫黄、灰汁煮塩硝、木炭、黒色火薬
火縄銃
製造用具
生活道具
養蚕棚
祝宴
コキリコの楽器
「田中屋半十郎の書物」にも白川郷の煙硝を大坂方へ運搬することが書かれています。これによれば、文化年間1800年代まで煙硝製造がなされていたことが確認できます。
煙硝を製造することで、年貢が一部減免されていたという記録もありますから、山間部の仕事として盛んに煙硝作りがなされていたことでしょうね。禁制品ということで、秘密を強調したいけれど、ここの集落の持つ辺鄙な山間の地理的条件や流刑地だという考えからだけでは気の毒に
思います。
明治時代に入り、チリ硝石やドイツ火薬が大量に輸入されるようになると、1870年(明治3年)には買い上げが停止され、五箇山の塩硝は、約300年の歴史を残して急速に衰退しました。
お読み下され、感謝致します。