隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

悲願Earnest Wish

2011-05-27 08:33:38 | Weblog
悲願Earnest Wish   平成辛卯廿三年皐月二十七日

 大災害の後の3月、犬山城登城者数は、ひどかったが、犬山祭り(4/2,3)より伸びて、去年比1割UP。ところが、外人客は何と7割減だという。
受付が細かくチェックしているが、ひどいですね。でも中国、韓国人の見分けが難しく、連れてきた日本人が代表で入場券を購入してしまうと、カウントにならないから、それを入れたとしてもひどい減りですね。
減ったとしても、ささやかな国際交流を求めて、ボランティア活動している。世界中から結構来てくれています。写真を送り、礼状は欠かせません。 
 パンフレットにあることだけでは、ガイドになりませんから、鎧、兜、火縄銃や家紋など調べて、見せると、参考にと写真も撮ってもらうこともある。
犬山城は何と言っても国宝なんですね。しかも、つい最近まで成瀬家の個人所有であったことから、犬山城の歴史を紐解くことになった。
 調べるうち、南條範夫著「悲願260年」に出会った。
何が悲願か、江戸時代ならではの成瀬家と家臣団のメンツを理解せねばならない。
 南條範夫氏は「李太白の詩から白帝城の名をとって呼ばれているこの城は、晴天の下、緑したたる樹々に覆われた丘陵の上に、銀と紫のたなびく霞の中に、さながら戦場に出で立とうとする若武者のように、颯爽として屹立していた。
北原白秋が、彼一流の絢爛たる文章をもってその美しさを讃え、
―――この城こそは、日本ラインの白い兜である! と述べた文章を読んだ直後であったせいもあろう、その底光りのするような秀抜な魅力にしばらく我を忘れて見とれたことを覚えている。」とこの城の姿を美しく描いている。
 平成20年11月「覚の参究」という題でブログを書いたが、 北原白秋とは縁がありますね。
『北原隆太郎氏は北原白秋の息子である。岐阜に白秋は隆太郎氏と旅をしている。そして、詩を詠んでいる。その詩碑が長良橋東畔のポケットパーク「名水」に芭蕉句碑(
おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな)の横に屹立している。
   篝火の朱はゆる/ 君こそは鵜匠なれ  
濡れしづく腰蓑の /風折烏帽子古風にて
すばやくも手にさばく / 桧の縄のはらはらに
時の間よゆく水のかぎりなき /灯ににほへば
香魚を追う鵜の数の /つぎつぎと目にうつりて
ほうほうと呼ぶこゑの /誰ならず夜を惜しむなり 』

この時、犬山城も旅したのであろう。いい言葉を残していますね。 
話を成瀬家に戻すと、

覇業というのは、外部からの反乱よりも内部の紛擾によって崩れることが多い。 家康は、自分の亡き後、秀忠、忠輝、義直、頼宣、頼房の諸兄弟が相和してゆくか否かが、徳川家の運命を決するとして、彼らに良い後見役をつけねばならないと考えた。
 後見役になることとは、直参から陪臣に格下げを意味し、倍の禄高をもらっても、一個の大名として国政に与ることはない。 
白羽の矢が当てられた、家康の御小姓組に属し、長久手、小田原、関ケ原と軍功を現わしてきた成瀬隼人正正成は、無念だが、尾張徳川家の幼君義直の傅役(もりやく)を引き受けた。尾張家の付家老となったわけだが、正成は家康から決して陪臣扱いにはせぬと太刀まで与えられ、―――万一、義直が、将軍家に対して不逞の心を抱き、そちの諌言を用いないような時は、わしに代わってこの太刀で斬れ。と伝えられている。慶長15年1610の時。
 これが、幕末まで続く成瀬家の悲願の元である。
ところが、家康が死に、秀忠、家光の代になり、正成が没すると、その約束は反古同然となっていく。たとえ3万石を領していても、陪臣に過ぎず、江戸城中の格式では将軍の直臣たる1万石の大名にも劣る。1万石でも大名なら、城中菊の間に席を与えられるのだ。成瀬家自ら、家老、勘定・寺社・町の三奉行、番頭以下の家臣団を持ち、実質上、同クラスの大名と全く同じ領主であるにもかかわらず、その行動は厳しく制約されていた。その領地は尾張藩の表高の中に含められ、藩主の代替りごとに、黒印状をもって再給される形式となった。成瀬正親の時、知行は3万5千石となり、尾張家最大の給人となったが、幕末の9代正肥まで、尾張家からの独立が、成瀬家の悲願となった。
 時は経ち、開国か鎖国か、勤皇か佐幕かという混乱期安政4年、8代成瀬正住が亡くなり、男児がいなかったので、丹波篠山(たんばささやま)で6万石を領する青山下野守(あおやましもつけのかみ)忠良(ただよし)の三男正肥(まさみつ)が、養嗣子として後を継いだ。 青山大名の江戸屋敷は今青山通りとなっているところだそうだ。
 巡りあわせというかこの良きご養子様の時(慶応三年1868)、徳川幕府が倒れ、王政復古となり、成瀬家は大名の地位を回復したのである。
ちょうど259年目、独立という悲願達成である。
 成瀬正肥公は、独立後も尾張藩主徳川義勝を助け、勤王の立場で、公武合体政策をもって朝廷と幕府の間を周旋した。
 だが、犬山藩にとってその喜びの日は、長くなかった。
明治2年(1869)版籍奉還、明治4年(1871)廃藩置県で、独立の栄光は、わずか3年しか続かなかったのである。
この間、成瀬正肥公は廃城とされたが、石垣や天守閣だけは死守した。
犬山県の設置により、完全に中央集権国家体制に組み込まれることとなった。
しかも、知事は東京へ移住させられたのである。
成瀬正肥公に対して、その功績を讃え、城の前に大きな石碑が建てられている。
高節凌雲霄kou・setsu・ryou・unn・syou.
りっぱな、雲をしのいで高く、はるかな空のはて の意
Great, High above the cloud, To the end of the faraway sky

ミシミシという床の音に、いろいろな歴史を感じながら、外国の人に説明していく有難さを噛みしめています。お読み下され、感謝いたします。

写真は家臣の鎧、兜で、遺品である。成瀬家の遺品は近くの白帝文庫歴史文化館にあります。

復興と仏教Recovery and Buddhism(2)

2011-05-14 21:02:24 | Weblog
復興と仏教Recovery and Buddhism(2)平成辛卯廿三年皐月十四日

 恐れておったこと<メルトダウン>が起きていたという。仲間内でも、爆発が起こった時に想定内であったのに、もう2か月経ってしまった。放射能汚染の怖さと合わさって、遅々として復興が進んでないようにみえるが、復興構想会議も玄侑先生たちの努力で7原則なる柱が出来たそうだ。
   原則1:失われたおびただしい「いのち」への追悼と鎮魂こそ、私たち生き残った者にとって復興の起点である。この観点から、鎮魂の森やモニュメントを含め、大震災の記録を永遠に残し、広く学術関係者により科学的に分析し、その教訓を次世代に伝承し、国内外に発信する。
   原則2:被災地の広域性・多様性を踏まえつつ、地域・コミュニティ主体の復興を基本とする。
       国は、復興の全体方針と制度設計によってそれを支える。
   原則3:被災した東北の再生のため、潜在力を活かし、技術革新を伴う復旧・復興を目指す。この地に、来たるべき時代をリードする経済社会の可能性を追求する。
   原則4:地域社会の強い絆を守りつつ、災害に強い安全・安心のまち、自然エネルギー活用型地域の建設を進める。
   原則5:被災地域の復興なくして日本経済の再生はない。日本経済の再生なくして被災地域の真の復興はない。この認識に立ち、大震災からの復興と日本再生の同時進行を目指す。
原則 6:原発事故の早期収束を求めつつ、原発被災地への支援と復興にはより一層のきめ細やかな配慮をつくす。
原則 7:今を生きる私たち全てがこの大災害を自らのことと受け止め、国民全体の連帯と分かち合いによって復興を推進するものとする。
 玄侑先生曰く、『 私自身の復興案の基本は、東北ならではの信仰やコミュニティの在り方をいかに保持して再生するか、という視点である。自然への畏敬を保ち、共通の畏れのもとで恵みに感謝する生き方は、行き過ぎた集約化やシステム化とは共存しにくい。その点の配慮をいかにするかが今後の大きな問題だろう。
 安藤忠雄氏の「鎮魂の森」構想に加え、立地上それが難しい場所にあっては「鎮魂の丘」があってもいい。そこは慰霊と祭の場でもあり、またいざという時の避難場所にもなる。荒ぶる自然は戦う相手ではなく、畏れ、宥め、いざとなれば逃げるしかない相手である。退路を確実に確保し、命だけは助かる、という基本線で構えるしかないのだと思う。
 むろん現代の技術を尽くす必要はあるだろうが、大切なのは、これなら安心と、慢心しないことだ。自然への「畏れ」とは、「怯え」を保つこと。欲望化した技術に心を絡め取られないことが必要である。』と。
  先日、この震災で、小・中学生と地域住民の普段からの防災訓練が役に立ち、一人も犠牲者を出さずに済んだ地区を、TVがやっていた。
 今後いくら良い施設が出来たからといって、やはり玄侑先生が言うように「慢心」が怖い。
 この地区は、サイレンが鳴ったら、次の3原則を守ったという。
  ① 想定を信じるな。
  ② 最善を尽くせ。→もう一段高い所へ。実際、3階の建物ではだめで、裏山へ逃げたそうだ。
  ③ 率先避難者たれ。→住民の命を救うというわれ先に逃げる姿勢が大切。
 このように住民を巻き込んでの訓練で助かったのである。
原発はそう思うといかに甘かったかが分かる。
浜岡原発の中部電力は全面停止するが、停止後2~3年で「津波対策」を終えたら再稼働できる確約を海江田経済産業相から得たと、水野社長は強調。でも「耐震審査」のお墨付きを得ていないという。
海江田経済産業相はそこをどうしたのだろう。
助かった地区は想定を信じてなかったので助かったといっているのだ。
菅首相は浜岡以外の原発について「見直す考えはない」と明言している。

落ち着いて、満天の星のもと、ずらりと十一面観世音菩薩様たちが並ぶ、慰霊と祭りが出来るのは、いつの日か。
お読み下され、感謝いたします。
写真は平戸つつじ。

復興と仏教Recovery and Buddhism

2011-05-11 21:36:01 | Weblog
復興と仏教Recovery and Buddhism         平成辛卯廿三年皐月十一日

先日(5/8)午前中は団地の事業で、側溝清掃と防災消火訓練があり、午後からは揖斐川町の大興寺まで足を運んだ。 
京都から臨済宗相国寺派管長で、鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣の住職の有馬頼底老大師が法話をされるということで、法堂に約120人程が集まり、震災被災者のために読経をあげた。
 まず、井川老師は、主催者として先日、福島の玄侑宗久先生に会ってこられたという。菅首相から電話があり、復興会議メンバーに推されたということだが、仏教会で初めての出来事だ。東京から宇都宮を過ぎるとブルーシートがあちこち見られ、西日本とは全く違う風景だ。玄侑先生のお寺に1000基あるお墓の半分が倒れたとのこと。
井川老師は、先の大戦で300万人死んだが、復興出来たから、東北は復興出来る。
今までは、最大目標が金と物だけだった。何を間違えたのだろう。心の底を問うべきだ。東西共有出来るのは「祈り」だ。そして、有馬頼底大老師を紹介された。

 御年78歳、昭和8年生まれの有馬大老師は、有馬記念で有名な有馬家というやんごとなき血筋で、学習院初等科に上がる前には、今上天皇のお遊び相手であったという。
臨済宗相国寺は京都五山(南禅寺を別格として、その下に天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、そして相国寺)の一つとして室町・足利義満の時に定められた。余談ですが、あの水上勉氏は9歳で相国寺の小僧となり、11歳の時剃髪得度し、13歳まで大猶集英という僧名で小僧を務めた。
 有馬大老師は今、京都仏教会理事長として活躍されています。
世界中の仏教の状況を見て歩かれ、中国は80数回行かれたそうだ。中国にも五山があり、何と、大相国寺が開封市にあるという。今は共産党の事務所に変化しているそうですが、
禅宗は本来無一物ということで弾圧を受けず、細々としていたので北京の政府役人と
掛け合い、復興の約束をしてもらい、9年で完成したとのこと。
『仏教の慈悲の心がないと平和はこない。』。
父親は中国戦線で何人中国人を殺したか分からない位で、復員して3か月で亡くなったという。
『無事是貴人』という言葉でお馴染みの臨済護国禅寺(台湾ですね)は、ひどい状態だったので5年で復興。5000人の民衆が五体投地されたという。
<主客の心が、一つになるのはよいが、迎合して無理に合わせるのはよくない。一切のはからいをやめるということと千利休はいう。何もしないそのことが、そのまま貴いのだということなのです。有馬説>
 カンボジアのアンコールワット・トムの石の彫刻(デバダー)は、「東洋のほほえみ」といわれ、フランスの作家アンドレ・マルローがあまりの美しさに我を忘れ、妻クララと共謀してこれを国外に持ち出そうとして捕まっただけ、審美眼のある人なら誰でも、素直に感動するに違いない。 ここは根っこが遺跡を守っているという。
 
戦争はいけない。俺が俺という業があるから、四苦八苦する。それを無くすに六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵)の一つだけで十分だ。実行しようといわれた。

大老師は核兵器廃絶を訴えてみえる。アメリカという国は殺人の道具を人に持つなと強制するくせに自分たちは決して捨てようとはしない。坊さんも、お経を読んで、お葬式をしていればいいという時代ではない。『おかしなことはおかしいと声に出していうことが大事だ。』我々は敗戦という大きな犠牲を払って学んだのだから、守らなければならない。
 
核も原子力も同じ危険な物質に日本は3度も被曝してしまったということだ。
ここで、真から学ばねばならない。
高レベル廃棄物を貯蔵することになってしまった六ヶ所再処理工場において、最終処分場が存在しないまま原子炉が運転し続けるとプールは満杯になるという。そして、2008年5月、六ヶ所再処理工場の直下に長さ15km以上の活断層がある可能性が高いことを東洋大渡辺教授、広島工大中田教授、名古屋大鈴木教授が発表した。<原子炉時限爆弾より>
 原子炉の耐用年数は30年とされているが、老朽化するばかり。孫の代は心配ないように、廃炉にしていかなければならない。
 究極の選択ですね。西洋文明による経済発展か、自然と共生の自活をめざすか。
『人は裸で生まれて、裸で死んでいくもので、もともと何も持っていない。私たち一人一人がその精神を持てば必ず復興できる。』と締められた。

法話の中で、「オバマ大統領はオサマビンラディンの殺害を正義としたが、間違いではないか」と私の聞き違いかもしれませんが、おっしゃってました。
議論のある大きな内容ですが、大老師は深く話されませんでしたので、次回のテーマにして置くことにしました。

「無の道を生きるーー禅の辻説法」 有馬頼底  集英社新書

お読み下され、感謝致します。

原発震災Genpatsu-Shinsai

2011-05-01 16:41:55 | Weblog

原発震災Catastrophic Multiple Disaster of Earthquake and Quake-induced Nuclear Accident Anticipated in the Japanese Island   平成辛卯廿三年皐月一日

 友人のS 君から有難いコメントを頂いた。公開いたします。

思ってもいなかった大震災で驚いております。
今年の干支は辛卯(かのとう、しんぼう)ですが、辛は「樹木が生長の邪魔になる部分を除去する動きを表す。カライ、ツライという意味もあります。」卯は「閉塞を打ち破り善悪不問の激しい動きを表す。」ということで今年の干支は今年を言い当てているように思います。生長の邪魔になるのは総理自身でありますから、これを除去しないと日本に対する憐みが日本バッシングに変ってしまいます。

「渚にて」は主題歌が有名な映画でしたね。核戦争が主題であったことは記憶にありますが、内容は覚えておりません。確かテレビで放映した時に見ました。これを見るぞと思って見ないといい加減な見方になってダメですね。

震災後2冊の本を読みました。吉村 昭「三陸海岸大津波」と
広瀬 隆「原子炉時限爆弾-大地震におびえる日本列島」です。

「三陸海岸大津波」は吉村 昭が1970年に書いた本です。明治29年と昭和8年の津波と、昭和35年のチリ地震津波の経験を持った人々に話を聞いて書いております。歴史に残っているだけで、三陸海岸は20回以上の津波に襲われています。元宮古測候所長の二宮三郎氏の調べでは過去380年間に大小43例の津波が三陸沿岸を襲っているそうです。明治29年の津波は6月15日の午後8時頃、昭和8年の津波は3月3日の午前3時頃です。それに比べて今回は午後3時頃という大変逃げやすい時間に襲われているのに、これだけの死者・行方不明者が出たのが変です。吉村が昭和43年の十勝沖地震津波を経験した岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(87歳)の言葉を紹介しています。「津波は、時世が変わってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う。」

「原子炉時限爆弾」は広瀬隆が昨年8月に出した本です。今回の地震による原子炉の爆弾化を予言したような本です。この本は何故地震が起こるのかという地球の動きから書いてあり、地震学、原子力発電についての教科書のようにキチッと書かれた本です。広瀬はロスチャイルド家のことを書いた「赤い盾」で有名ですから、単なる文科系のジャーナリストだと思っていましたが、早稲田の理工学部を出た技術者なのですね。まず原発立地の決め方のいい加減さ、審査の甘さ、というか原子力仲間のなれあいで審査。東芝や日立の人間は材料工学を知らない、電力会社の人間は地震学、プレートテクトニクスを知らない、
ということで危ないということを指摘していました。彼によると日本には原発立地に足る強固な地盤は存在しないそうですが、日本の原発が建っている場所は活断層の近くが多い。彼が最も危ないと言っているのは3つのプレートが交錯した御前崎に建っている中部電力の浜岡。それと2008年の5月24日に、これまで発見されなかった長さ15km以上の活断層が直下にある可能性が高いということを指摘された六ヶ所再処理工場。この本を読むと日本に住むのが恐ろしくなります。イタリアは国民投票で原発の運転をしないことに決めてありましたが、今年の6月に再度国民投票をすることにしていました。今回の福島原発の事故を見て、国民投票をやることを止めにしたそうです。クレバーな国です。

メール有難う御座います。
2冊とも書評付きでご紹介され、とてもタイムリーな問題に考えさせられました。 まだ読んでいないので、失礼になりますが、吉村氏の場合、老人が「死ぬ人はめったにない」と思う。と言っておられたが、明治、昭和三陸大津波を経験した大船渡市三陸町の吉浜地区では、高台に家を移した。だが、漁業を営むには高台の家は不便。このため低地に戻るひとが相次いだ。今回、20メートル以上の高台にある住宅は被害を免れたが、低地に戻った人たちは全滅した。人間、安定してくると忘れるし、便利な方に考えが行ってしまう。 その地区なりが漁場から一気に高台へ行ける方策を取らなかったがために、今回、逃げやすい昼の働いていた時間帯でしたから、よけい悔やまれます。

玄侑先生は吠える。
三春町住人で一次避難所にそのまま居たいという人が31%もいる。仮設住宅は、家賃は無料だが、光熱費などは自前になる。ほかにも勿論毎日の生活費が必要になる。ところが彼らは単に家をなくしただけでなく、それまでの仕事や生活そのものが断絶された。仮設住宅に住んだとしても、その後の暮らしの目処がまったく立たないのである。彼らは非常に深い不安のなかに居り、じつは同じ不安をもつ避難者どうし、これまでどおり一緒に居たいのである。難しい2重、3重の問題なのですね。集約すればするほど纏まらない。仕事に関して、彼は「菜の花、ひまわりのイエロー作戦」で土壌汚染除去の復興を願っている。

大前氏は東北を「食糧供給基地」として、低い土地は公共施設や緑地、ひとは高台に住むという方針を提言していますが、やはり警報が鳴ったら30分以内には高台に行けるような方策を取らないとまた同じですね。
90%が溺死なのです。津波という龍が暴れたということですね。

安藤忠雄氏の「鎮魂の森」は期待したい。
「がれきの山に土を載せて町をつくるわけにはいかない。(行方不明の)子どもがいるかも分からないところに町はできない。そこは森にしたらいい」と述べ、東北地方で壊滅的な被害を受けた地域に「鎮魂の森」をつくることを提唱している。 

結局、高台移住は究極の手段であるが、仕事と住まいは離れざるを得ない。そうでない人もそれから、大前氏のいう低い土地にいた場合でも、津波が来たら高台へ逃げなくてはならない。先日、TVで、避難塔を提案していた。それは、円柱形で、スパイラル階段などで15m以上のぼり、500人が避難する塔を地区、地区に建てて、警報が鳴ったら、まず避難塔をめざす。自分の住む高台へ行ける人は塔には行かずに非難するという案である。
避難塔が倒されたらどうしようもないが、もっと、どんどんいい知恵を出して、百年に渡る仁政を望みます。
「原子炉時限爆弾」は今、増刷中らしく2週間待ちです。
でも、ベースとなる資料すなわち、英会話仲間のH氏が、「平成17年2月23日予算委員会公聴会において、甘利明予算委員長が神戸大学都市安全研究センターの石橋克彦公述人に意見をもとめた議事録」を探してきた。
目次を列挙します。
*地震の活動期に入った日本
*起こりうる原発震災(石橋氏の造語)
*いつ起こるか分からない大地震
*都市型災害、山地災害、大津波・・・
*長周期振動の被害
*最悪の被害としての原発震災
 <浜岡のメルトダウンした時の放射能拡散分布図(東京直撃です)>
*地震と共存する文明を。
 <私たちの暮らし方の根本的な変革が必要。自然の摂理に逆らわない文明というものを作っていかなければならない。>
このように6年も前に警告を国会議員は聞いてきているのです。
10頁に渡る報告でしたから、みな寝ていたとしかいいようがない。
それとも、安心神話に酔っていたのでしょう。
叡智を結集して対策を考えるべきである。
軽々と「何年は入れない」などと、呟いている場合ではない。(玄侑先生より)

ここで、浜岡原発であるが、あくまで中部電力は3号機の非常用発電機をその3号機建屋の2階に設置して再起動するという。中電は福島第一原発の事故で建屋の屋根が爆発で吹っ飛んでいることを知らないと見える。非常用発電機もろとも吹っ飛ぶ恐れがあるというのに。
石橋克彦氏は「原発はすべて運転をやめよ。浜岡は3号機の運転再開をやめ、4,5号機も今すぐに運転を停止すべきだ。」(中日新聞4月29日)と警鐘を鳴らしている。
30年以内に東海地震は90%起こるという学者もいるくらいだから、夏の電力不足に対応しなければの一点張りで再起動は困りますね。
お読み下され、感謝致します。

写真はつつじ。

PS. 「急げど慌てず」で玄侑宗久先生は、先人の行ったことをよく調べて事をおこさねばと言ってみえる。
『チェルノブイリの事故以後、20年も放置された土地であればこそ「ナロジチ菜の花プロジェクト」は有効だった。すでにセシウム137は地表から20センチほど沈み、ストロンチウム90は40センチも沈んでいたからである。しかし今の福島県内の放射性物質は、まだ表土から1~2センチの所にあるらしい。表土を剥ぎ、あるいは生えてきた雑草を抜くと、ほとんど取り除かれるというのである。

 郡山市では27日、学校の校庭の表土を削り取った。それ自体は英断だと原子核物理学者も言う。しかし問題は削り取った土や抜いた雑草をどこに処分するか、である。校庭や畑の一角に置くのはシートが被[かぶ]せてあっても絶対避けるべきだと忠告された。集積された放射性物質は密度が増して線量も格段に増え、近づいた人間の被[ひ]曝[ばく]率もぐっと高まるらしい。

 政府が基準を作るまでの期間でも、どこか遠くの荒れ地にそれと分かるように置き、ビニールシートで雨による流出を防ぐべきだと、注意を受けた。急がなくてはならないが、拙速ではかえって危険だ。どうやらヒマワリ以前に、急げど慌てずすべきことがありそうだ。』
事が事だけに、政府の指示待ちでは心配という心根を分かってもらいたいですね。(5月4日追記)