悲願Earnest Wish 平成辛卯廿三年皐月二十七日
大災害の後の3月、犬山城登城者数は、ひどかったが、犬山祭り(4/2,3)より伸びて、去年比1割UP。ところが、外人客は何と7割減だという。
受付が細かくチェックしているが、ひどいですね。でも中国、韓国人の見分けが難しく、連れてきた日本人が代表で入場券を購入してしまうと、カウントにならないから、それを入れたとしてもひどい減りですね。
減ったとしても、ささやかな国際交流を求めて、ボランティア活動している。世界中から結構来てくれています。写真を送り、礼状は欠かせません。
パンフレットにあることだけでは、ガイドになりませんから、鎧、兜、火縄銃や家紋など調べて、見せると、参考にと写真も撮ってもらうこともある。
犬山城は何と言っても国宝なんですね。しかも、つい最近まで成瀬家の個人所有であったことから、犬山城の歴史を紐解くことになった。
調べるうち、南條範夫著「悲願260年」に出会った。
何が悲願か、江戸時代ならではの成瀬家と家臣団のメンツを理解せねばならない。
南條範夫氏は「李太白の詩から白帝城の名をとって呼ばれているこの城は、晴天の下、緑したたる樹々に覆われた丘陵の上に、銀と紫のたなびく霞の中に、さながら戦場に出で立とうとする若武者のように、颯爽として屹立していた。
北原白秋が、彼一流の絢爛たる文章をもってその美しさを讃え、
―――この城こそは、日本ラインの白い兜である! と述べた文章を読んだ直後であったせいもあろう、その底光りのするような秀抜な魅力にしばらく我を忘れて見とれたことを覚えている。」とこの城の姿を美しく描いている。
平成20年11月「覚の参究」という題でブログを書いたが、 北原白秋とは縁がありますね。
『北原隆太郎氏は北原白秋の息子である。岐阜に白秋は隆太郎氏と旅をしている。そして、詩を詠んでいる。その詩碑が長良橋東畔のポケットパーク「名水」に芭蕉句碑(
おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな)の横に屹立している。
篝火の朱はゆる/ 君こそは鵜匠なれ
濡れしづく腰蓑の /風折烏帽子古風にて
すばやくも手にさばく / 桧の縄のはらはらに
時の間よゆく水のかぎりなき /灯ににほへば
香魚を追う鵜の数の /つぎつぎと目にうつりて
ほうほうと呼ぶこゑの /誰ならず夜を惜しむなり 』
この時、犬山城も旅したのであろう。いい言葉を残していますね。
話を成瀬家に戻すと、
覇業というのは、外部からの反乱よりも内部の紛擾によって崩れることが多い。 家康は、自分の亡き後、秀忠、忠輝、義直、頼宣、頼房の諸兄弟が相和してゆくか否かが、徳川家の運命を決するとして、彼らに良い後見役をつけねばならないと考えた。
後見役になることとは、直参から陪臣に格下げを意味し、倍の禄高をもらっても、一個の大名として国政に与ることはない。
白羽の矢が当てられた、家康の御小姓組に属し、長久手、小田原、関ケ原と軍功を現わしてきた成瀬隼人正正成は、無念だが、尾張徳川家の幼君義直の傅役(もりやく)を引き受けた。尾張家の付家老となったわけだが、正成は家康から決して陪臣扱いにはせぬと太刀まで与えられ、―――万一、義直が、将軍家に対して不逞の心を抱き、そちの諌言を用いないような時は、わしに代わってこの太刀で斬れ。と伝えられている。慶長15年1610の時。
これが、幕末まで続く成瀬家の悲願の元である。
ところが、家康が死に、秀忠、家光の代になり、正成が没すると、その約束は反古同然となっていく。たとえ3万石を領していても、陪臣に過ぎず、江戸城中の格式では将軍の直臣たる1万石の大名にも劣る。1万石でも大名なら、城中菊の間に席を与えられるのだ。成瀬家自ら、家老、勘定・寺社・町の三奉行、番頭以下の家臣団を持ち、実質上、同クラスの大名と全く同じ領主であるにもかかわらず、その行動は厳しく制約されていた。その領地は尾張藩の表高の中に含められ、藩主の代替りごとに、黒印状をもって再給される形式となった。成瀬正親の時、知行は3万5千石となり、尾張家最大の給人となったが、幕末の9代正肥まで、尾張家からの独立が、成瀬家の悲願となった。
時は経ち、開国か鎖国か、勤皇か佐幕かという混乱期安政4年、8代成瀬正住が亡くなり、男児がいなかったので、丹波篠山(たんばささやま)で6万石を領する青山下野守(あおやましもつけのかみ)忠良(ただよし)の三男正肥(まさみつ)が、養嗣子として後を継いだ。 青山大名の江戸屋敷は今青山通りとなっているところだそうだ。
巡りあわせというかこの良きご養子様の時(慶応三年1868)、徳川幕府が倒れ、王政復古となり、成瀬家は大名の地位を回復したのである。
ちょうど259年目、独立という悲願達成である。
成瀬正肥公は、独立後も尾張藩主徳川義勝を助け、勤王の立場で、公武合体政策をもって朝廷と幕府の間を周旋した。
だが、犬山藩にとってその喜びの日は、長くなかった。
明治2年(1869)版籍奉還、明治4年(1871)廃藩置県で、独立の栄光は、わずか3年しか続かなかったのである。
この間、成瀬正肥公は廃城とされたが、石垣や天守閣だけは死守した。
犬山県の設置により、完全に中央集権国家体制に組み込まれることとなった。
しかも、知事は東京へ移住させられたのである。
成瀬正肥公に対して、その功績を讃え、城の前に大きな石碑が建てられている。
高節凌雲霄kou・setsu・ryou・unn・syou.
りっぱな、雲をしのいで高く、はるかな空のはて の意
Great, High above the cloud, To the end of the faraway sky
ミシミシという床の音に、いろいろな歴史を感じながら、外国の人に説明していく有難さを噛みしめています。お読み下され、感謝いたします。
写真は家臣の鎧、兜で、遺品である。成瀬家の遺品は近くの白帝文庫歴史文化館にあります。
大災害の後の3月、犬山城登城者数は、ひどかったが、犬山祭り(4/2,3)より伸びて、去年比1割UP。ところが、外人客は何と7割減だという。
受付が細かくチェックしているが、ひどいですね。でも中国、韓国人の見分けが難しく、連れてきた日本人が代表で入場券を購入してしまうと、カウントにならないから、それを入れたとしてもひどい減りですね。
減ったとしても、ささやかな国際交流を求めて、ボランティア活動している。世界中から結構来てくれています。写真を送り、礼状は欠かせません。
パンフレットにあることだけでは、ガイドになりませんから、鎧、兜、火縄銃や家紋など調べて、見せると、参考にと写真も撮ってもらうこともある。
犬山城は何と言っても国宝なんですね。しかも、つい最近まで成瀬家の個人所有であったことから、犬山城の歴史を紐解くことになった。
調べるうち、南條範夫著「悲願260年」に出会った。
何が悲願か、江戸時代ならではの成瀬家と家臣団のメンツを理解せねばならない。
南條範夫氏は「李太白の詩から白帝城の名をとって呼ばれているこの城は、晴天の下、緑したたる樹々に覆われた丘陵の上に、銀と紫のたなびく霞の中に、さながら戦場に出で立とうとする若武者のように、颯爽として屹立していた。
北原白秋が、彼一流の絢爛たる文章をもってその美しさを讃え、
―――この城こそは、日本ラインの白い兜である! と述べた文章を読んだ直後であったせいもあろう、その底光りのするような秀抜な魅力にしばらく我を忘れて見とれたことを覚えている。」とこの城の姿を美しく描いている。
平成20年11月「覚の参究」という題でブログを書いたが、 北原白秋とは縁がありますね。
『北原隆太郎氏は北原白秋の息子である。岐阜に白秋は隆太郎氏と旅をしている。そして、詩を詠んでいる。その詩碑が長良橋東畔のポケットパーク「名水」に芭蕉句碑(
おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな)の横に屹立している。
篝火の朱はゆる/ 君こそは鵜匠なれ
濡れしづく腰蓑の /風折烏帽子古風にて
すばやくも手にさばく / 桧の縄のはらはらに
時の間よゆく水のかぎりなき /灯ににほへば
香魚を追う鵜の数の /つぎつぎと目にうつりて
ほうほうと呼ぶこゑの /誰ならず夜を惜しむなり 』
この時、犬山城も旅したのであろう。いい言葉を残していますね。
話を成瀬家に戻すと、
覇業というのは、外部からの反乱よりも内部の紛擾によって崩れることが多い。 家康は、自分の亡き後、秀忠、忠輝、義直、頼宣、頼房の諸兄弟が相和してゆくか否かが、徳川家の運命を決するとして、彼らに良い後見役をつけねばならないと考えた。
後見役になることとは、直参から陪臣に格下げを意味し、倍の禄高をもらっても、一個の大名として国政に与ることはない。
白羽の矢が当てられた、家康の御小姓組に属し、長久手、小田原、関ケ原と軍功を現わしてきた成瀬隼人正正成は、無念だが、尾張徳川家の幼君義直の傅役(もりやく)を引き受けた。尾張家の付家老となったわけだが、正成は家康から決して陪臣扱いにはせぬと太刀まで与えられ、―――万一、義直が、将軍家に対して不逞の心を抱き、そちの諌言を用いないような時は、わしに代わってこの太刀で斬れ。と伝えられている。慶長15年1610の時。
これが、幕末まで続く成瀬家の悲願の元である。
ところが、家康が死に、秀忠、家光の代になり、正成が没すると、その約束は反古同然となっていく。たとえ3万石を領していても、陪臣に過ぎず、江戸城中の格式では将軍の直臣たる1万石の大名にも劣る。1万石でも大名なら、城中菊の間に席を与えられるのだ。成瀬家自ら、家老、勘定・寺社・町の三奉行、番頭以下の家臣団を持ち、実質上、同クラスの大名と全く同じ領主であるにもかかわらず、その行動は厳しく制約されていた。その領地は尾張藩の表高の中に含められ、藩主の代替りごとに、黒印状をもって再給される形式となった。成瀬正親の時、知行は3万5千石となり、尾張家最大の給人となったが、幕末の9代正肥まで、尾張家からの独立が、成瀬家の悲願となった。
時は経ち、開国か鎖国か、勤皇か佐幕かという混乱期安政4年、8代成瀬正住が亡くなり、男児がいなかったので、丹波篠山(たんばささやま)で6万石を領する青山下野守(あおやましもつけのかみ)忠良(ただよし)の三男正肥(まさみつ)が、養嗣子として後を継いだ。 青山大名の江戸屋敷は今青山通りとなっているところだそうだ。
巡りあわせというかこの良きご養子様の時(慶応三年1868)、徳川幕府が倒れ、王政復古となり、成瀬家は大名の地位を回復したのである。
ちょうど259年目、独立という悲願達成である。
成瀬正肥公は、独立後も尾張藩主徳川義勝を助け、勤王の立場で、公武合体政策をもって朝廷と幕府の間を周旋した。
だが、犬山藩にとってその喜びの日は、長くなかった。
明治2年(1869)版籍奉還、明治4年(1871)廃藩置県で、独立の栄光は、わずか3年しか続かなかったのである。
この間、成瀬正肥公は廃城とされたが、石垣や天守閣だけは死守した。
犬山県の設置により、完全に中央集権国家体制に組み込まれることとなった。
しかも、知事は東京へ移住させられたのである。
成瀬正肥公に対して、その功績を讃え、城の前に大きな石碑が建てられている。
高節凌雲霄kou・setsu・ryou・unn・syou.
りっぱな、雲をしのいで高く、はるかな空のはて の意
Great, High above the cloud, To the end of the faraway sky
ミシミシという床の音に、いろいろな歴史を感じながら、外国の人に説明していく有難さを噛みしめています。お読み下され、感謝いたします。
写真は家臣の鎧、兜で、遺品である。成瀬家の遺品は近くの白帝文庫歴史文化館にあります。