無心 absorbedness 平成庚寅廿二年長月二十七日
昨日(9月26日)はお昼、揖斐川(淡墨桜の近く)の大興寺で、何と芥川賞作家「玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)先生」が法話をなさるということで、聞きに行ってきた。
先生は、現在福島県にある福聚寺(ふくじゅうじ)の住職である。
ここでの法話は4回目だそうだ。井川大興寺住職との繋がりが縁で毎年法話されているとのこと。
お寺の本堂に、駆け付けた230名が超満員、寿司詰め状態だが、楽しく聞き入った。
題して、「この秋は雨か嵐か知らねども」であった。
誰の句かなと思っていたら、下の句は?と聞かれた。
残念ながら、答えれなかった。
二宮尊徳(金次郎)の歌で、下の句「今日の勤めに田草取るなり」と教えてもらえた。
先の事が不安であるから、今に没頭しよう!私が溶けるように。
三昧(ざんまい)という言葉があるが、調べてみると、元はサンマジ→サンマイ→○○ザンマイとなったという。
先が見えるということが、幸せかどうか分からぬが、占い、霊能力者がはびこってる。
その上、転ばぬ先の杖ならぬ「保険屋さん」が繁盛しているそうだ。駅前のビルを見れば分かるそうだ。
夢、目標、計画を揚げて安心している。小学生に夢を描かせているが、夢を強制されているのではないかと先生はおっしゃった。
先生はイチロー選手の小学校6年の作文をお読みでないのではないかと思いました。私は英語版をこのブログに載せました。すばらしい目標設定で、メジャーで記録を打ち立てただけのことはあるといえる作文です。
先生は幸せは計画してくるものでない。突然がよいとする。
人間は自然の一部で、今風に言えば、共生ですね。自然は「手入れ」をしなくてはならない。
自然の一部の人間も同じで、先生曰く「剃髪は5分がりと違って、2日ともたない。田の草といっしょだ。うるさく感じる。」「切がないのだ。」
子供だったころ、父に「庭掃除はめんどうくさい。また葉っぱは落ちてくるじゃないか。」と言ったことがある。その日の晩、夕飯を戴くときに、父から「お前、夕飯を食べるのか、本当に?」と言われた。「戴きます。」と言ったら、父は「また、腹が減るぞ。」といわれたと先生の父との思い出を話された。 三度の食事も「切がない」が、生きるとはそれほど手間暇がかかるのだと教えられた。
生きるヒントを説いてみえるのだ。
自然との付き合い方で大事なのは「無心」で対応することである。
自分を変える観音力が大事だと難しいことを言われた。
そして、好ましくないこと、または普段と違ったことが、起こったとき、“ゆらぎ“を表す言葉に、「風流」という言葉があると言われた。「風流」は名詞で人柄を意味するらしい。
ひらりとかわす生きるヒントに使うらしい。
風流ならざることこそ風流 という言葉があるという。
大概の事はこれでよい。これで生きると知れば、ぶれずに生きるのが大事だ。
法話はこれだけに留まらず、素戔鳴尊・須佐之男命==嵐、和辻哲郎「風土」、ルースベネディクト「菊と刀」の中の言葉やら、IT社会のもつ弊害、例えば、要介護度、介護力度の数字化、言語脳には日本語がよいなど、飽きさせない工夫され、あっという間に終わった。
後は本を買ってくださいとのこと。
先生より『言中有響』を頂いた。
とても心に響く言葉を頂いた一日でした。
お読み下され、感謝致します。
昨日(9月26日)はお昼、揖斐川(淡墨桜の近く)の大興寺で、何と芥川賞作家「玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)先生」が法話をなさるということで、聞きに行ってきた。
先生は、現在福島県にある福聚寺(ふくじゅうじ)の住職である。
ここでの法話は4回目だそうだ。井川大興寺住職との繋がりが縁で毎年法話されているとのこと。
お寺の本堂に、駆け付けた230名が超満員、寿司詰め状態だが、楽しく聞き入った。
題して、「この秋は雨か嵐か知らねども」であった。
誰の句かなと思っていたら、下の句は?と聞かれた。
残念ながら、答えれなかった。
二宮尊徳(金次郎)の歌で、下の句「今日の勤めに田草取るなり」と教えてもらえた。
先の事が不安であるから、今に没頭しよう!私が溶けるように。
三昧(ざんまい)という言葉があるが、調べてみると、元はサンマジ→サンマイ→○○ザンマイとなったという。
先が見えるということが、幸せかどうか分からぬが、占い、霊能力者がはびこってる。
その上、転ばぬ先の杖ならぬ「保険屋さん」が繁盛しているそうだ。駅前のビルを見れば分かるそうだ。
夢、目標、計画を揚げて安心している。小学生に夢を描かせているが、夢を強制されているのではないかと先生はおっしゃった。
先生はイチロー選手の小学校6年の作文をお読みでないのではないかと思いました。私は英語版をこのブログに載せました。すばらしい目標設定で、メジャーで記録を打ち立てただけのことはあるといえる作文です。
先生は幸せは計画してくるものでない。突然がよいとする。
人間は自然の一部で、今風に言えば、共生ですね。自然は「手入れ」をしなくてはならない。
自然の一部の人間も同じで、先生曰く「剃髪は5分がりと違って、2日ともたない。田の草といっしょだ。うるさく感じる。」「切がないのだ。」
子供だったころ、父に「庭掃除はめんどうくさい。また葉っぱは落ちてくるじゃないか。」と言ったことがある。その日の晩、夕飯を戴くときに、父から「お前、夕飯を食べるのか、本当に?」と言われた。「戴きます。」と言ったら、父は「また、腹が減るぞ。」といわれたと先生の父との思い出を話された。 三度の食事も「切がない」が、生きるとはそれほど手間暇がかかるのだと教えられた。
生きるヒントを説いてみえるのだ。
自然との付き合い方で大事なのは「無心」で対応することである。
自分を変える観音力が大事だと難しいことを言われた。
そして、好ましくないこと、または普段と違ったことが、起こったとき、“ゆらぎ“を表す言葉に、「風流」という言葉があると言われた。「風流」は名詞で人柄を意味するらしい。
ひらりとかわす生きるヒントに使うらしい。
風流ならざることこそ風流 という言葉があるという。
大概の事はこれでよい。これで生きると知れば、ぶれずに生きるのが大事だ。
法話はこれだけに留まらず、素戔鳴尊・須佐之男命==嵐、和辻哲郎「風土」、ルースベネディクト「菊と刀」の中の言葉やら、IT社会のもつ弊害、例えば、要介護度、介護力度の数字化、言語脳には日本語がよいなど、飽きさせない工夫され、あっという間に終わった。
後は本を買ってくださいとのこと。
先生より『言中有響』を頂いた。
とても心に響く言葉を頂いた一日でした。
お読み下され、感謝致します。