■禅語 石井ゆかり/文 井上博道/写真 ピエ・ブックス
わたしも好きで毎週チェックしている「筋トレ週報」を書いている石井ゆかりさんの著書。
単なる占いと違って、心理学のカウンセリング的なアドバイスも含まれていて、
一体、この人いくつぐらいなんだろう?って思うくらい達観したモノの見方と、
実に繊細な部分まで言い表すことのできる表現力の豊富さ、多様さに毎回感心してしまう。
冒頭に「自分は禅に関してまったくの門外漢だが、自分なりに感じたことを書いてみた」みたいなことが書かれていたけど、
1つ1つの言葉に対して、短い限られたスペースの中で、とても素晴らしい洞察ばかりで、
手元に置いて、日々行き詰った時々に読み返したくなるような1冊になっている。
「挨拶」なんて日常の言葉も禅から来てるって知ってビックリ/驚
=禅宗で、僧が問答を繰り返しやり合うこと。転じて、私たちが毎日交わす会釈、受け答えの意味になった。
個々の禅語に対応しているような写真がこれまた物凄く瑞々しい自然の一瞬の表情を捉えた写真ばかり!
日本の四季の移り変わりを見事に1枚の中に凝縮させて、何気ない風景がこうも美しいものかと見とれてしまう。
この写真の素晴らしいピエ・ブックスの本は、似たようなのが何冊か平棚に並べられていた気がする。
毎日の占いをツイッターにアップしたり、本屋さんで話すイベントをしたりして相当忙しそうなのに、
石井さんて本当に幅広く活動してる人なんだなあ!
以下、本の抜粋メモ。
p.90「好雪 片々不落別処」
私たちはたぶん、雪のひとひらひとひらのように、自分の重みと風の流れに沿って、自然にあるべきところにたどりついているのではないだろうか。
p.102「歳々年々 人不同」
人の体は約6兆個ほどの細胞でできているらしい。この6兆個の細胞は、5、6年ですべて新しいものに入れ替わってしまう、といわれている。つまり、「私」と呼んでいるこの固体としての私は、5年前の私とはまったく違う私だ。赤ん坊のときの自分と今の自分の姿は、似てもにつかないのに、同じく「自分」と認識している。
p.130「春色無高下 花枝自短長」
花の枝が長かろうと短かろうと、春の色の輝かしさには違いがない。この「違いがない」ことの価値には、なかなか気づかない。
p.134「浄裸裸赤灑灑」
心理学者のフロムは、人は自他を「いかにたくさん持っているか(have)」で評価しようとするが、本当に重要なのは「どうあるか(be)」なのだ、と言った。
p.166「施無畏」
夜の闇、いつ来るかわからない災害、知り得ない未来、人の心の変化。私たちは絶えず何かに怯え、恐れている。畏れているときは目をぎゅっとつぶり、耳を閉じていて、外界と自分が断絶してしまう。恐れる人は孤立していて、孤独なのだ。
p.174「浅水無魚 徒労下釣」
何かを教えてもらうときにも、自分の中に既にあるものと結びついたときだけ、確かな「知」となる。自力で悩みぬいている人には、ごくさりげないアドバイスが劇的に効力を発揮する。一方、悩みや苦しみから早く抜け出す方法を探しているだけの人には、どんなすばらしい教えも、笊に水を通すように流れ去ってしまう。
p.222「日日是好日」
「愛すべき人」という言い方がある。この表現は決して、整いきった完全な人を言うのではない。どちらかといえば、欠点だらけだけどどこかかわいげがあって憎めない人、という意味合いだ。
p.230「橋流水不流」
人はしばしば、そんなふうに、問題の根幹とそうではない部分をすり替えて苦悩する。橋は流れて水は流れない、ということを発見するのは、なかなか難しいことなのだ。
p.246「春は花 夏ほととぎす 秋は月 ふゆ雪さえて 冷しかりけり」
災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には死ぬるがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
p.286「看々臘月尽」
これからの人生において、今が一番若いのだ。人はたびたび「あと10年若かったら」と言うが、10年後の自分が10年若返った姿が、今まさに、ここにある。
わたしも好きで毎週チェックしている「筋トレ週報」を書いている石井ゆかりさんの著書。
単なる占いと違って、心理学のカウンセリング的なアドバイスも含まれていて、
一体、この人いくつぐらいなんだろう?って思うくらい達観したモノの見方と、
実に繊細な部分まで言い表すことのできる表現力の豊富さ、多様さに毎回感心してしまう。
冒頭に「自分は禅に関してまったくの門外漢だが、自分なりに感じたことを書いてみた」みたいなことが書かれていたけど、
1つ1つの言葉に対して、短い限られたスペースの中で、とても素晴らしい洞察ばかりで、
手元に置いて、日々行き詰った時々に読み返したくなるような1冊になっている。
「挨拶」なんて日常の言葉も禅から来てるって知ってビックリ/驚
=禅宗で、僧が問答を繰り返しやり合うこと。転じて、私たちが毎日交わす会釈、受け答えの意味になった。
個々の禅語に対応しているような写真がこれまた物凄く瑞々しい自然の一瞬の表情を捉えた写真ばかり!
日本の四季の移り変わりを見事に1枚の中に凝縮させて、何気ない風景がこうも美しいものかと見とれてしまう。
この写真の素晴らしいピエ・ブックスの本は、似たようなのが何冊か平棚に並べられていた気がする。
毎日の占いをツイッターにアップしたり、本屋さんで話すイベントをしたりして相当忙しそうなのに、
石井さんて本当に幅広く活動してる人なんだなあ!
以下、本の抜粋メモ。
p.90「好雪 片々不落別処」
私たちはたぶん、雪のひとひらひとひらのように、自分の重みと風の流れに沿って、自然にあるべきところにたどりついているのではないだろうか。
p.102「歳々年々 人不同」
人の体は約6兆個ほどの細胞でできているらしい。この6兆個の細胞は、5、6年ですべて新しいものに入れ替わってしまう、といわれている。つまり、「私」と呼んでいるこの固体としての私は、5年前の私とはまったく違う私だ。赤ん坊のときの自分と今の自分の姿は、似てもにつかないのに、同じく「自分」と認識している。
p.130「春色無高下 花枝自短長」
花の枝が長かろうと短かろうと、春の色の輝かしさには違いがない。この「違いがない」ことの価値には、なかなか気づかない。
p.134「浄裸裸赤灑灑」
心理学者のフロムは、人は自他を「いかにたくさん持っているか(have)」で評価しようとするが、本当に重要なのは「どうあるか(be)」なのだ、と言った。
p.166「施無畏」
夜の闇、いつ来るかわからない災害、知り得ない未来、人の心の変化。私たちは絶えず何かに怯え、恐れている。畏れているときは目をぎゅっとつぶり、耳を閉じていて、外界と自分が断絶してしまう。恐れる人は孤立していて、孤独なのだ。
p.174「浅水無魚 徒労下釣」
何かを教えてもらうときにも、自分の中に既にあるものと結びついたときだけ、確かな「知」となる。自力で悩みぬいている人には、ごくさりげないアドバイスが劇的に効力を発揮する。一方、悩みや苦しみから早く抜け出す方法を探しているだけの人には、どんなすばらしい教えも、笊に水を通すように流れ去ってしまう。
p.222「日日是好日」
「愛すべき人」という言い方がある。この表現は決して、整いきった完全な人を言うのではない。どちらかといえば、欠点だらけだけどどこかかわいげがあって憎めない人、という意味合いだ。
p.230「橋流水不流」
人はしばしば、そんなふうに、問題の根幹とそうではない部分をすり替えて苦悩する。橋は流れて水は流れない、ということを発見するのは、なかなか難しいことなのだ。
p.246「春は花 夏ほととぎす 秋は月 ふゆ雪さえて 冷しかりけり」
災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には死ぬるがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
p.286「看々臘月尽」
これからの人生において、今が一番若いのだ。人はたびたび「あと10年若かったら」と言うが、10年後の自分が10年若返った姿が、今まさに、ここにある。