メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『気 デビッド・ボウイ写真集』(TOKYO FM出版)

2016-06-12 12:21:20 | 
『気 デビッド・ボウイ写真集』(TOKYO FM出版)
鋤田正義/著 1992年初版

帯:
ボウイ神話が、証される

ロックンロールを愛する写真家、鋤田正義。
彼は1972年から今日までボウイとフォト・セッションを重ね、千変万化していく男の姿を撮りつづけた。

デビッド・ボウイ。20年間にわたってスターダムに君臨し、時代をリードしつづけた。、稀有なタイプのヒーロー。
このふたりによってボウイ神話は視覚化され、いま初めて、あなたの前に現れる。

少年は、どのようにして大人になったのか。
あるいは、少年のままだったのか。
変化を恐れない男、デビッド・ボウイの20年間をとらえた写真集、世界に先がけ、日本発売。






ボウイの写真集が観たくなって、私の住んでいる区にはないから、他館から借りてみた。
他館貸し出しは、2週間~1ヵ月ほど待ったりするけど、思ったより早く届いて、
あるだけ予約したから、他館の延長はカウンターでしなきゃならないのと、
伝記ものを読む気持ちにまで、まだ心が整理されていないから、
とりあえずは、短期間で返せそうなものから取りかかって、あとは返そうと思う。

いつか、じっくりと伝記を読んで振り返る日は来るだろうか?



これまでいろんなメディアで見たことのある写真がたくさん載っている。
有名なそれらのショットの別テイクが観れるのは貴重。
大型本で、ボウイの美しさを堪能できる。

どれも背景は1色。モノクロのほうが多い。
ボウイの全身もあるが、上半身、とくに顔に焦点を絞った写真が多いのが特徴的。

両手を顔に当てている写真が多い印象。なにか意味があるのかな?
両目の色の違いもモノクロながらハッキリ分かって、何度観ても魅惑的。

パントマイムや、表現者としてのパフォーマンスを見せているのもあるし、
これは、本人のアイデアなのか、鋤田さんの要求だったのか、なども気になる。

それぞれの年代を象徴するメイク、衣装、素に近いものまで、どう変化していったかも分かる。

アルバムジャケに使われたりした写真が、日本人によって撮られたというのも誇らしい。
2人の間に信頼関係が感じられる。

天才デヴィッド・ボウイの素顔を知る男──鋤田正義が語るリアルなボウイ(前編)


サラリーマンが電車に乗っているような真面目?な写真を両側に開くと、
過激な下着?だけしか身に着けていない、東京でのライヴの熱狂的な1枚(1973)が現れて、ショッキング!
お客さんも含めて、完全にイッちゃってる世界。
これは武道館じゃない。こんな狭めのライヴハウスでも演ったんだ/驚

若い頃もイイけど、「tinmachine」の頃もダンディで大好き。
メイクも衣装もすべて削ぎ落としてもなお、溢れ出る色気。

歳を重ねたら、重ねた最高の美しさがある。

少なくとも、鋤田さんのカメラの前では、クスリやお酒に溺れたり、
方向性を見失って悩んだりした、さまざまな影の部分は一切なく、
まっすぐ正面を見据えて、ポジティヴで、野心的で、かつ朗らかな人柄が出ていて、
観ていて気持ちがいい。




【鋤田正義さんによるあとがき 内容抜粋メモ(1992.3 東京)】
1969、ウッドストックフェスティヴァルの記事を新聞で見て、
いてもたってもいられない気持ちになり、翌年、初めてNYを旅した。

1971。ロンドンへも行き、T.REXを初めて撮影した()。

1972、ロンドンでふと見た『世界を売った男』のポスターがボウイとの初めての出会いだった。

当時僕は「ポートベローホテル」という、有名なロックミュージシャン御用達のホテルに泊まっていた。
そこの従業員は、ロンドンで一番ファッショナブルだったが、今いちばん面白いのはボウイだと聞き、余計気になっていた。

ルー・リードとのライヴを観て大感激し、マネージャーに連絡し、初めてのフォトセッションがもてた。
その時の写真を気に入ってくれて、レインボウシアターでの告知に大々的に使われ、嬉しさで興奮したことを覚えている。

ボウイの撮影は、いつもセットアップせずシンプルにやる。それを20年間変えないでいる。

僕は、密着プリントを見る時がとても好きで、シャッターを切った1枚1枚の全カットが見れ、
撮る者と撮られる者が発する気の流れを感じることができる。
それを少しでも出せればと思い、この写真集のコンセプトとした。

彼は変化する。

特にアルバムのコンセプト作りで、クリエイターとしてノッている時の彼が、
セッションの時に発してくるエネルギーは、はかり知れないパワーがある。
彼のエネルギーやパワーのベーシックな部分は、ずっと変わっていないと言うこともできる。

デニス・ストックという写真家によるジェームス・ディーンの写真集がある。
アイドルを超えて、彼の人間そのものを追っていくその写真集は、
ジェームス・ディーンに熱狂していた僕にとってかけがえのない1冊で、
ずっとボウイを撮りながら、いつも頭の隅のどこかに、その写真集のことがありました。

映画『ディーン、君がいた瞬間(とき)』




【構成・北沢杏里さんによるあとがき 内容抜粋メモ】(ボウイの経歴が4ページにまとめられている
1957、画家を志し、美術科に入学。
兄からプレゼントされたジャック・ケルアックの『路上』に深く感銘を受けて、12歳でテナーサックスを入手。
アイドルと崇めていたサックスプレイヤー、ロニー・ロスに指導を受ける。

1963、ハイスクールを中退し、広告代理店に勤めるが、創造性のなさと、資本主義にウンザリして半年後に退社。

1966、『デビッド・ボウイ』でアルバムデビュー。
この頃からチベット宗教、アングラに関心を寄せ始める。

1972、インタビューでバイセクシュアルと発言。
1983、この発言の真意を否定し、こう語る。

「自分の人生の最大の過ちは、バイセクシュアルと言ったことだ。
 しかし当時は、そう発言することが一番反抗的な行為だった」


1972、ロックのステージに演劇性を持ち込むことを試みる。
マスコミは一斉に「イギリスに初めて誕生したエンターテナー」と絶賛。
しかし、後に「呪われるべきヒットラー」と形容する。

ジギーを演じることに苦痛を感じはじめ、こう言い残して、ステージから消える。
「あなたとジギーが幸せでありますように。ジギーは僕からの贈り物です」

1973に現れたのは、アラジン・セイン。
ワールドツアーで来日し、山本寛斎に衣装デザインを依頼。
「日本の伝統舞台に使われる衣装スタイルを下敷きにした新しいコスチュームを」という要望だった。

かねてから日本文化に興味があったボウイは、後にこう語る。

「ジギー、アラジンのショーは、アメリカ的SFの世界に交わった、日本的劇場芸術のようなもの。
 言葉が通じない日本では肉体の動きに全神経を集中し、何もかも動的に見えるようにした。
 日本人は劇場性ということに敏感で、イギリス、アメリカよりもはるかに目覚めていると思う

『ステイション・トゥ・ステイション』
ふんだんに照明を用いたステージは、20世紀のプレヒト演劇を思わせる芸術性に富んだものだった。

1983、ボクシングで鍛えた筋肉質の肉体、健康的でストレートな振る舞い、楽天的で、温かなスマイル。
マスコミは賞賛をもって新たな形容詞を贈った。「デビッド・ボウイ、ストレート」

『レッツダンス』
ビートルズの『サージェント~』以来の最高速度の売れ行きで、マルチ・プラチナ・アルバムに輝いた。
1991、ボウイはこう回想している。

「至る所で注目されていることがはじめは楽しかった。ついに自分の正当性が認められたって。
 檻から抜け出しただけだと気づきもしなかった。やがて諦めにも似た気持ちが湧き上がる。
 “ちくしょう、これまでの栄光の日々は終わった。これを手に入れたのはいいけれど、別のものを失うことになるだろう。”
 そんな気分だった。アーティストとしてまた曲が書けるようになるまで、僕は長い間悩んだんだよ」

ボウイは、70年代から、いちはやくプロモーションビデオに興味を示し、自作自演してきた。
1984、20分間の『ブルー・ジーン』を制作。

1986、映画『ラビリンス』などに出演(この時、私は初めて観てヤラれたんだ
反核アニメ『風が吹くとき』などのテーマソングも書いた。

ルーやイギーのプロデューサー、パンクの生みの親にもなった(そうなの!?

tinmachineのモットーはデモクラシー。
けっしてスター、ボウイのお抱えバンドではないことを数々のインタビューで主張。

1992。

「自分が人からどう理解されているかということに、どんどん関心がなくなっている。
 それより大切なのは、自分がどう感じるかということだ。
 誤解や混乱を乗り切る唯一の方法は、自分の仕事をやり続けること以外ない」

「僕がやろうとしていることは、ロックンロールと連れ立って進んでいこうということ。
 それほど好きなんだ。僕はロックンロールからとても離れられやしない」







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