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メランコリア

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妻たちの会津戦争@歴史秘話ヒストリア

2013-07-01 10:12:58 | テレビ・動画配信
妻たちの会津戦争 ~反骨の家老 西郷頼母と家族の悲劇~@歴史秘話ヒストリア

 

これを見ると、ちょっと「八重の桜」より先行してしまい、ドラマの登場人物のその後が分かってしまうのが難点
でも、人物の歴史がより深く見えてくるのはたしか。
頼母もこんな数奇な運命を辿っていたなんて本当に驚くとともに、世の中にこれほどの悲劇があるものかと辛くなった。。
頼母役は西田敏行さんが演じてるけど、実際は当時、頼母はもっと若かったんだな/驚
会津の歴史を見ていると胃が痛くなってくるなあ・・・



西郷家は、会津藩の草創期から200年以上、藩の中枢となってきた家柄で、
藩主・松平家とは親戚同士、徳川将軍家にもつながる名門だった/驚

京都守護職を命じられた時は「薪を負て火を救ふ」(薪を背負って火を消しに行くようなものだ)と言って再三止めたが叶わず。
新政府軍との戦争が始まるまでも、何度も講和恭順を願い出たが、周りに無視された。
結局、軍備の差は明らかで城下町は火の海、悲惨な状況になって初めて部下から恭順したほうがいいという意見が出て激怒した


 
城内では女性も共に働いた。負傷兵の看護、兵糧の支度、弾丸の製造にいたるまで。
しかし、戦い末期の籠城者は5000人以上となり、食糧不足は深刻に
そうなる事態を分かっていた妻・千重子は、11歳の長男だけを城に送り出し、自分と娘たちは城に入らないことを決めていたという。
屋敷に残ったのは、頼母の母や妹、娘など一族21人。


 
千重子は、自ら幼い娘を手にかけ、集団自決する。なんという因果か・・・
戦争後も会津は混乱し、焼け跡に骨が散乱していたのを親戚・登世子が見つけて、骨を拾い集めて祀ったという。



明治元年9月22日。会津藩降伏。藩は解体、藩士たちはみな地方へ散り散りとなる。
数奇な運命で頼母は生き残り、北海道へ向かう旧幕府軍に合流して、そこでも戦いに敗れ、幽閉の身になった。



唯一残された長男・吉十郎を無事育てるため、会津を去る。
有志が開いた私塾で歴史や漢学を教えたが、暮らしは貧しく苦しいものだった。
しかも、吉十郎は22歳で病死してしまう。。


 
仙人のごとく伸びきった白髭の写真は、長男を失った後に撮られたもの
詠んだ区は、かたつむりは、その身を殻に隠せて羨ましいものだ、という意。
その後も一人各地を渡り歩き、その年月は20年にも及んだ。


 
頼母は、故郷の会津に戻り居を構える。享年74歳。
その墓は妻や娘らの墓の横にあり、当時には珍しく、妻の名も墓石に刻まれている。
頼母が各地で拾い集めた石の中に、磐梯山に似た形の石があり、大事に持ち歩いていたという。






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