休日の朝の日課で、海に行った。
ビーチを歩いていると、ウミガメを発見。
ここでは、泳いでいるときに、少し沖のほうで海面から顔を出しているウミガメを見ることはあっても
砂浜にいるのは初めて見た。
近づくと、もう虫の息だった。
海に戻してあげようか、という私に夫は
「もしかしたらここで死にたくて、ここまで来たんだったらどうする?」
私たちは、しばらくそこにいて、ウミガメの命が閉じてゆくのを見守っていた。
私だったら最期のときは、きっと誰かに、たとえそれが見知らぬ人であっても、
そばにいてほしいかもしれないから。
かつて私は、祖母の最期の呼吸を見ていた。
飼っていた犬の、最期の呼吸を見ていた。
車の窓に当たって落ちた小鳥が、最期の呼吸をするのも見守っていた。
そして今日、ウミガメを見守りながら、私は再び、同じことを考えていた。
わたしたちを生かしているものは何だろう?
そもそも、命って何だろうか。
心臓が止まったら、命は消えるけれども、心臓が命ではない。
心臓を動かしめているものがあるはずだ。
玩具を動かす乾電池のような、何か。
もしもそれを「命」と呼ぶならば、それは空気のように一つのものなんじゃないだろうか。
祖母も私も、犬も小鳥もウミガメも、同じ「もの」によって生かされている。
その考えは、年々確信に近くなってゆく。
ウミガメは、その命を閉じた。
私を生かしているものと同じものが、このウミガメから離れていった。
今夜、潮が満ちたら、海がウミガメのなきがらをどこかに運んでくれるだろう。
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ビーチを歩いていると、ウミガメを発見。
ここでは、泳いでいるときに、少し沖のほうで海面から顔を出しているウミガメを見ることはあっても
砂浜にいるのは初めて見た。
近づくと、もう虫の息だった。
海に戻してあげようか、という私に夫は
「もしかしたらここで死にたくて、ここまで来たんだったらどうする?」
私たちは、しばらくそこにいて、ウミガメの命が閉じてゆくのを見守っていた。
私だったら最期のときは、きっと誰かに、たとえそれが見知らぬ人であっても、
そばにいてほしいかもしれないから。
かつて私は、祖母の最期の呼吸を見ていた。
飼っていた犬の、最期の呼吸を見ていた。
車の窓に当たって落ちた小鳥が、最期の呼吸をするのも見守っていた。
そして今日、ウミガメを見守りながら、私は再び、同じことを考えていた。
わたしたちを生かしているものは何だろう?
そもそも、命って何だろうか。
心臓が止まったら、命は消えるけれども、心臓が命ではない。
心臓を動かしめているものがあるはずだ。
玩具を動かす乾電池のような、何か。
もしもそれを「命」と呼ぶならば、それは空気のように一つのものなんじゃないだろうか。
祖母も私も、犬も小鳥もウミガメも、同じ「もの」によって生かされている。
その考えは、年々確信に近くなってゆく。
ウミガメは、その命を閉じた。
私を生かしているものと同じものが、このウミガメから離れていった。
今夜、潮が満ちたら、海がウミガメのなきがらをどこかに運んでくれるだろう。
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