ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

久しぶりのお湿り

2017年02月09日 | 日記
○7時起床、起床時室温10℃。夜の目覚め1回。
*6時頃、左脚ふくらはぎに強烈な攣り。痛ッッッ…。
○雨が上がっていたので燃えるごみ出し。今日もやはり左脚が重く痛い。
○今日の天気のように、ぼくの意欲は晴れ間がない。、
*雨のち曇りのち雪のち霙…な、今日のお天気。ハナモモの小さな小さな蕾が震えています。

○エデュアール・セガンってどんな人?(7) 闘う白痴の教師・セガンの誕生
 セガンを「白痴の教師」として雇用したのは、「パリ救済院等総評議会」(略称)という、言わば、パリ中の医療機関・福祉機関の総元締め機構。セガンから、その統括大臣である内務大臣のところに、「白痴の教育に携わりたい、どこでもいいから世話してほしい」という嘆願書のようなものが出されていた(セガン28歳)。当然、「身体検査」があれこれとなされたことは言うまでも無い。その結果、男子不治者救済院と女子不治者救済院の2院に「白痴の教師」との肩書きで、白痴の子どもたちの医療に関わる精神科医の下に配属されることになった。精神科医の医療プログラムの一環としての教育実験を、医師の管理の下で行うというのが任務である。
 セガンは、女子不治者救済院では勤務することがなかったが、男子不治者救済院での教育活動報告書の冒頭で、このように綴っている。「予め定められたプログラムに沿って教育を行うべきだったのでしょうか?いえ、私はそうは思いません。私が築き上げた方法ならば確実に子どもたちは発達するのですから。」
 医療計画に造反し、自ら開発してきた教育内容と方法とで白痴教育を実践するエデュアール・セガンはこうして誕生した。雇用条件の低劣さに反して志は極めて高い青年であった。まさに、「ボロは着てても心は錦~♪」である。もちろん無風であるはずもない。