ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

船橋へ、東武物産展

2017年02月08日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温9℃。夜の目覚め1回。
*出がけの玄関口で、「27日は空けておいてね。」と細君。「27日は終日、ぼくが止めるyにいたった経過についての査問会議があるよ。」とぼく。夢の中で、「オレ、何、査問されるんだ?」と自分に問うていた。やな夢だねー。
○ビニールごみ出し。左脚膝がいつもより痛い。張っている感じもある。運動負荷かな?
○9時30分家を出、16時帰宅。鮒b足東武デパートでの福岡物産展へ。
*左膝が痛く、足に力が入りにくい状態。今日は歩行につらさを覚えた。特に階段を降りる時はまったくの初心者マーク。
*「部品」それぞれは機能向上していることは確かだけど、全体の動きはヨワッチイ、そしてアブナっつかしい。トドちゃんに大きく心配をおかけしてしまいました。
*今日も楽しい買い物ができました。
*〆に、ビックカメラすぐ横野やクチャの店にて。今日のお茶の花はこんなのが咲きました。

○エデュアール・セガンってどんな人?(6) 「白痴の教師」は超薄給
 セガンのフランス時代(1850年まで)の職能的な肩書きは「白痴の教師」のみである。しかも、実質1842年、1843年の2年間に過ぎない。
 しかし、日本のセガン研究者の趨勢として、これを史実として認めるようになったのは、つい近年にしか過ぎない。「改革派精神科医セガンが世界に先駆けて白痴教育に成功した」という理解が根底にあるために、1842、1843年におけるセガンの白痴教育は、「サルペトリエール院」続いて「ビセートル院の学校」に、白痴教育をするようにと(してほしいと)招かれた(招聘された)、との定説になっていた。しかも「無給であった」とする。本当か?
 「白痴の教師」、これがセガンの正式の肩書きである。当時の公文書にそう書かれている。当時の彼の著書に示された肩書きもそうだ。しかし、今日でいう自立した社会的職能「教師」とはまったく違い、白痴に教育的働きかけをすれば何かしらの発達があるかどうか、ということをテーマにした精神科医の医療実験の下請けに携わるのが、「白痴の教師」なのである。
 記録に残っている給与は1843年度1年間400フラン。次年度も引き続き雇用されることが決まれば、後200フランが払われることになっていたが、馘首されたために支払われていない。1年間働いて、現在の日本円に直した手取りは40万円にしか過ぎなかった。雇用条件を見る限り、住み込み賄い付きであったから、これで何とか生きていくことができただろうと思